Articles Archive for 10 月 2008
TV番組 マスメディア »
今日の「田舎に泊まろう」はよかったな。
宿泊人はダンカンだ。
場所は本州、北の最果ての地、青森の漁村である。
いつもながら車も人も居ない道路を一人歩いていくダンカン。
街の子供達は、遠目で彼をみてはしゃいでいる。
その中で一人だけ、ダンカンに付いて来る子供がいた。遼君だ。
勿論、ダンカンの使命はお泊り場所を探す事。
遼君は、ダンカンの代わりに、友達の家に交渉するが、上手くいかない。
だって、遼君はまだ小学2年なのだ。
そして、遼君は自分の家にダンカンを連れて行く。
魚問屋を営む遼君の家はこの土地では有数の立派な造りだった。
お母さんに、ダンカンの宿泊を頼む遼君だが、お父さん不在のため即決にはいたらない。
その後、お父さんが帰宅。
「汚いところですが、よかったらどうぞ」とお父さんも了解。
喜ぶ遼君と弟。ダンカンに飛びつく。
その夜は、遼君兄弟と一緒に風呂に入り、はしゃぐダンカン。
晩飯は、親戚も集まって大宴会に。海の幸に舌鼓を打つダンカンでした。
しかし、ここで問題が。
遼君がまだ宿題をやっていなかった事が発覚。ヤバイって顔をする遼君。
次の日の朝5:30に起きて、ダンカンも手伝って宿題をやる事になる。
そして次の朝、遼君は、宿題を済ませて、学校に。
ただ、このままダンカンとの別れが名残惜しい遼君。
ダンカンは後で遼君の通っている小学校に挨拶に行くと約束。
そして、魚屋の生簀を掃除した後、遼君の学校に寄るダンカン。
教室の扉をあけて入っていくダンカン、みんな大騒ぎになる。
しかし、遼君だけは、ダンカンの顔を見られない。
思わず机に顔を伏せてしまう遼君だった。
「遼君が笑顔にならなきゃ帰れないよ。」とダンカン。
しかし、ダンカンも長居は出来ない。
校庭に出るダンカンを見送る生徒達。その中で必死に涙をこらえながら「さようなら」と叫ぶ遼君。
感動の名場面だった。
恋人や家族が亡くなるような映画やドラマは今まで散々見てきた。
でも、どんな映画やドラマでも、これほど人間の心情の機微が、表現された作品は今まで見た事がない。
どんな名優も恐らく、今日のダンカンと遼君にはかなわないだろう。
たった一晩泊まった、行きずりの見ず知らずの人との別れがこんなに感動させるとは。
今日の「田舎に泊まろう」は歴史に残る番組だった。と僕は思う。
まさむね
芸能 »
「憲法九条を世界遺産に」(集英社新書 太田光、中沢新一)の中に太田光が桜に関する小文を書いている。
今、手元にその本が無いので、記憶で書かせてもらうと、この小文の中に彼の妻が、花見で桜を見た後に気分が悪くなって、精神の安定を失ってしまった時の事を書いている。
彼女は、その時、花屋から薔薇の花を買ってきて、部屋の中に飾り、自分の精神を落ち着かせたというのだ。
太田光がその出来事を分析して言う。
桜は、見る人に狂気と毒を想起させる。しかし、自らがそういった狂気と毒を内包していることを隠している。
一方、薔薇は自らの危険性を棘という形で表現している。彼の妻はその薔薇の正直さに安心して、精神が落ち着いたのではないかと。
さらに、彼は、その桜のあり方を、憲法九条に、日本のあり方に、そして、自分自身に重ね合わせる。
自分の中のもう一人の自分の狂気と毒を常に意識し続ける太田光は、全ての物事を、自分の根っからのテーマに直結させて考える。
いや、彼は自分の意志で考えているというよりも、何物かによって考えさせられているといった方が正確なのかもしれない。
そういう時の彼は、正直者だ。
そして正直であると言うことは、表現者にとって最も大事なことだと僕は思う。
さて、桜というイメージに関して、僕も前々からいろんな事を考えている。
古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であること。
源氏物語では桜は凶兆の花であること。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であったこと。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であったこと。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であったこと。
そして、近代国学の祖・本居宣長において、桜は、大和心の、そしてその後の勤皇家によって、武士道の象徴となっていく。
敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花(本居宣長)
しかし、実は、リアルな死や闘いは。桜で象徴されるような可憐なものとは程遠い。
武士道は、死ぬためのイデオロギーではなく、本来は何としても生き延びるための醜い程、姑息なノウハウだったのではないか。
しかし、明治以降、桜はさらに国家主義と結びついて純化していくのだ。
ちなみに、明治国家主義を支えた様々なシステムには、桜が紋所として徴されている。
陸軍、海軍、学習院、靖国神社、そして大相撲...(あんまり関係ないが、狩野英孝の生家の桜田神社も。)
この桜の欺瞞性に対して、太田光、そして、彼の妻は激しく反応した。
やっぱりあの夫婦の感性は天才的だ。
まさむね
社会問題 »
現代の若者世代(30代以下)は、高齢者世代に対してどういった思いを抱いているのだろうか。
具体的に言えば、例えば、後期高齢者医療制度に関して、それを若者がどのように支持し、あるいは、反発しているのかというような調査をしてもらえば、若い世代の考えがわかるのだが、寡聞にしてそのような調査が今まであったかどうかを、僕は知らない。
この制度に関するニュースの時に、カメラはいつも巣鴨に出動するのだが、僕は、渋谷や秋葉原での、人々の反応を見たかったのだ。実は。
勿論、社会保障制度に関して、一番、繊細にケアしなければならないのは、その制度が世代間対立を助長させないようにする事だという厚労省的注意事項は理解できる。
が、逆に、それゆえに、後期高齢者医療制度に関して若者がどう思っているのかを知りたいのだ。
例えば、この制度の天引きや、線引き(75歳で別保険に加入するという)に関して、高齢者達は一斉に反発したが、若い世代にとってみれば、いずれ払わなきゃいけないものが自動的に天引きされる事に関して、何で反発が起きるのかわからないだろう。
また、線引きに関して言えば、世のシステムの多くは、年齢での区切りをつけている。
就学、結婚、投票、飲酒、年金支払、年金受取...みんなそうだ。それは社会のルールとして別に不合理なものではない。
なのに、高齢者は、何故、この医療制度に対してだけ、大騒ぎするのか、若者には、理解出来ないのではないだろうか。
そのあたりの事を僕は確かめたいのだ。ただ、メディアは僕の疑問を華麗にスルーする。
一方、この制度に対する反発に関して言えば、これはあくまで僕の想像なのだが、高齢者は、制度の変更内容に関して怒ったのではないと思う。制度を勝手に変えられた事に怒ったのだ。
「この年になったのだから、もう何も考えなくても、自分達は逃げ切れる。」と思っていたら、現制度をいじくられた。その事に関する不安感、拒絶感が強いだけだと思う。
だから、本当だったら、自民党がすべきだったのは、制度を説明する事ではなく、ましてや、制度をジタバタ変更する事ではなく、ただ、ジッと待つ事だったように思う。
民主党はこの制度の廃止をマニュフェストに掲げているが、恐らく高齢者達は、制度をまた戻される方が不安だろう。民主党の政策はタイミングを完全に失したと僕は思う。
話を戻す。
現代の若者世代は、高齢者世代に対してどういった思いを抱いているのだろうか。
「戦後、物の無い時代から頑張って、今の日本を創ってくれた事に心から感謝している」って思っているのだろうか。
あるいは、「こんな住み難い日本にしやがって。800兆円も借金残しやがって。問題だらけじゃないか。」って思っているのだろうか。
本当の事を知りたい、そんな僕って邪悪かなぁ?
まさむね
芸能 »
「爆笑問題のニッポンの教養」はそのタイトルに違わない、まさしく、真正面からの教養番組だと僕は思う。
逆に、最近、雑学とか常識とかを扱うクイズ番組が結構あるけど、こういう番組は決して教養番組ではない。
クイズ番組で優勝したとしても、それは、教養のある人ではなく、知識のある人に過ぎないのだ。
では、教養とは何か。
それは、個人の人格とは切り離せない。
その人が宿命として持っているテーマ(問題意識)と関連付いた知識、思考、思想の事、それを教養と僕は呼びたい。
ただ、多くの人は、自分のテーマなんて意識しないし、忘れてしまっている。
恐らく、ほんの一握りの人だけが、幸か不幸か、自分のテーマに気づく事が出来るのだ。
僕は、太田光こそ、特権的にこのテーマを自覚出来ている人だと思っている。
だから、彼が「爆笑問題のニッポンの教養」において、発する言葉には教養が溢れている。
それでは、太田光のテーマとは何なのか。
恐らく、自分の中のもう一人の自分、と、そのもう一人の自分の怪物性をどうしたらいいかってことだ。
例えば、「爆笑問題のニッポンの教養」で、政治学者の姜尚中氏、日本思想史研究家の子安宣邦氏等との言葉のやりとりの中、太田光は身振り手振りでその事を説明している。
特に秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大を説明する際に、こういう言い方をしていた。(正確ではないんだけど、だいたいこんな感じで言ってたと記憶している。)
人間というものは、どんな人間でも、演出する自分と演出される自分から成っている。
自分(太田光)の例で言うならば、芸人としての自分と、その自分をちょっと離れたところで演出する自分がいる。
でも、加藤智大の場合、いつの間にか、演出する自分自身が怪物になってしまっていた。
それなのに、誰もその事を止められなかった。そこに問題があったと...
恐らく、太田光は、自分の中の2人の間のバランスにいつも繊細にならざるを得ないほど、危うい人格だって事を自覚しているのだ。
例えば、ネットにおける悪意に満ちた書き込みを嫌悪する彼は、その書き込みに、2人の自分が一致してしまったときの人間のグロテスクさを見ているのではないか。
また、彼の芸人としての過剰なまでのおどけた仕草は、2人の自分との距離を安全に保つためのポーズのようにも見える。
実は、太田光について考えるとき、そして同時に彼のテーマである2人の自分について考えるとき、いつも頭の中で流れる歌がある。
それは「森のくまさん」である。
ある日森の中 くまさんに 出会った
花咲く森の道 くまさんに 出会った
くまさんの 言うことにゃ お嬢さん お逃げなさい
スタコラ サッササノサ スタコラ サッササノサ
ところが くまさんが あとから 付いてくる
トコトコ トコトコと トコトコ トコトコと
お嬢さん お待ちなさい ちょっと 落とし物
白い貝がらの 小さな イヤリング
あら くまさん ありがとう お礼に 歌いましょう
ラララ ララララ ラララ ララララ
僕はこう思う。
この森のくまさんは、普段はとても優しい「くまさん」なのだが、ある瞬間、凶暴な怪物になる存在であるという事を自覚している。
しかし、そのタイミングがいつ訪れるのか彼自身にもわからない。
だから、くまさんはお嬢さんに向かって、とりあえず「お逃げなさい」と言うのだ。
そして、このくまさんは僕の中では太田光とぴったりと重なる。
だから彼は常にビクビクしながら生きているのだ。
そして、時に過度に攻撃的になったりするのだ。
あるいは、おどけた演技をしながら生きているのだ。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技 »
能に関する対談本(「能・狂言なんでも質問箱」)で興味深い一節があった。
「道成寺」における、落ちてくる鐘に入る場面の稽古に関して...
葛西(聞き手):現代の言葉で言うリハーサル、何回か出来るんですか。
出雲(シテ方喜多流):1回ぐらいです。だけど、鐘には入りません。
葛西:入らないで。どうやって稽古するんですか。
出雲:申合せっていうのが二三日前にあるんですが、そこで鐘に向かっていって、さっきみたいにやるんです。しかし、申合せで、本来の位置を少しずらして、同じタイミングで、こっちはドン、ドンとやって、ピョンと飛び上がるときに、向こうで鐘をドーンと落とす。
葛西:つまり別々に稽古して、本番一回きりなんですか。
出雲:はい。
山崎(シテ方喜多流):本番で初めて入るんですからね。
ここで面白いのは、能の稽古というのは、歌舞伎や他の演劇のようにいわゆるゲネプロ(本番と同じ通し稽古)はしないという事だ。
恐らく、本番において初めて合わせる事によって、その時に生れる緊張感を大事にするがゆえの伝統なんだと思う。
とここで思い出すのは、これってプロレスと同じではないかということ。
プロレスにおいては、打合せはあるが、それはあくまで段取りである。
一方、試合が名勝負になるか、駄作になるかは、現場の空気によって決まる。それはレスラーと観客の感性が作るものである。
馬場、猪木、長州、天龍、大仁田、武藤、三沢等、歴代の名レスラーはいずれも感性に優れている。
今後、日本のプロレス界が復活するためには、過去の名レスラーと同等の感性を持ったレスラーの誕生と、その感性と感応出来るようなファンの復活を待つしかないだろう。
一方、明日の”能”を考えると、プロレスと同様の問題があるような気がする。
演者の技能と感性のレベルを保つためには、彼らの修行が大事であると同時に、それを見る観客の目を維持していかなくてはならないと思うのだが、そのための種蒔きはしているのだろうか。僕にはよくわからない。
いずれにしても、伝統を守るということは、並大抵の事ではない。
まさむね




