Articles Archive for 1 12 月 2008
テレビドラマ, 社会問題 »
「29歳のクリスマス」(以下「29X」と略す)の再放送を見ていると、今年の春に放映された「ラストフレンズ」(以下「LF」と略す)とどうしても比較してしまう。
男女(3人以上)が一つ屋根の下に暮らす青春群像ドラマである点、木曜日22:00~といういわゆる大人のドラマ枠での放送という共通点はあるものの、2つのドラマには、どうしようもない時間の隔たりがあるような気がする。
その隔たりは14年間。
その間、平成の大不況、金融ビックバン、構造改革等いろいろな事があった。
多くの人の生活実感として、時代は閉塞感を増している。あらゆる意味で、将来に対する希望がなくなってきているのだ。
おそらく、それらの社会状況の変化がこの2つのドラマの間に横たわっているのではないか。
2つのドラマを比べてみると、登場人物の元気さがまるで違う。
「29X」における典子(山口智子)、彩(松下由樹)、賢(柳葉敏郎)はお互い同士、思いやるが、それは、互いに世話を焼きあうという積極的な振る舞いで表現する。
だから、すぐに喧嘩になる。自分の価値観を相手に押し付けようとして、そして反省して、の繰り返しなのだ。
一方、「LF」における岸本瑠可(上野樹里)、藍田美知留(長澤まさみ)、水島タケル(瑛太)がお互いを思う気持ちは「29X」には劣らない。
ただ、彼女らは極めて大人しいのだ。
ある意味、老成しているといっていいかもしれない。
そして、「LF」の3人は、お互いの領域に踏み込む事はしない。あくまでも、相手にとって、好ましいキャラになろうとする。
それが現代の優しさの倫理なのであろう。
最終的に、3人は、お互いのトラウマを癒しあう関係になるのだ。
これは、いわゆる時代の閉塞感という事と大いに関係があると思う。バブルと地続きの90年代前半、「29X」の時代、彼女達はまだ、努力すれば社会的に上昇出来るという価値観の中にいる。
しかし、一方、「LF」では、そういった社会に対する、あるいは、努力に対する信頼感が感じられない。だからこそ、彼女達は手に職をつけて生きていこうとするのだ。
また、「29X」の登場人物達はいつも、目の前の世界に対して戦いを挑んでいるのに対して、「LF」では、いつまでも過去のトラウマ、自分の宿命との戦いがメインとなっている。
例えば、「29X」では、典子は、仕事上の挫折や恋愛等の外の世界と戦うが、「LF」の瑠可は、性同一性障害に悩み抜く。
彼女の戦う相手は、自分の中にあるのだ。
ACとか性的虐待とか、性同一性障害などという極めて限定的だと思われていた症例が、社会の前面に出てきて、人々にリアリティのある言葉として認知されてきた現代、とそれ以前の時代。
大げさに言えば、「29X」と「LF」の間には、そういった時代の段差を感じさせるのである。
また、2つのドラマに横たわる幸福観の違いにも目を惹かれる。
「29X」では、幸福=結婚という価値が素朴にも信じられている。
典子が彩に叫ぶ。「どうして私だけ幸せになっちゃいけないの?!」
ここで言う幸せとは、恋愛=結婚のラインに乗る事なのだ。
ところが、「LF」では、結婚は全く大きなテーマではない。
シェアハウスでにおいて、脇役として存在していた滝川エリ(水川あさみ)と小倉友彦(山崎樹範)が結婚はするのだが、それはあくまでもサブの扱い。
そういう生き方もありますよ的な扱いにすぎないのだ。
こんなに異なった世界の2つのドラマではあるが、面白い事に、最後の結末が奇妙な一致を見せる。
両方とも、みんなで育児をすることによって、新しい関係を築こうとするのだ。
もちろん、「29X」ではそうなる過程で、さんざん罵倒、葛藤、喧嘩があるのに対して、「LF」では微笑み一つで物事が進んでいく。
確かにその違いはある。
ただ、2つのドラマの最後に提示される新しい生き方が近いという事に、もしかしたら、時代が変っているように見えるのは表面的なことで、実は女の情(子供に対する愛情)というものは根本的には変らないという事を見るべきなのかもしれない。
また、ちょうど本日、今年の流行語大賞を獲得した「アラフォー」というもう一つのドラマでも、最後に、森村奈央(大塚寧々)の子供を、 緒方聡子(天海祐希)と竹内瑞恵(松下由樹)が可愛がるというシーンが出てくるが、それも「29X」と「LF」と同様に、子供をみんなで育むことこそ時代の閉塞感を打破することに繋がるということなのであろうか。
まさむね
書評 »
私は青春とは、無垢なまでにものごとの意味を問う事だと思います。
それが自分にとって役に立つものであろうとなかろうと、社会にとって益のあるものであろうとかなろうと、「知りたい」という、自分の内側から湧いてくる渇望のようなものに素直にしたがうことではないかと思うのです。
-「悩む力」(集英社新書)姜尚中 P87-
この本は、いわゆる力本(「老人力」とか、「鈍感力」とかの)の一つにカテゴライズされるかもしれないが、真正面からの、正々堂々とした青春論である。40万部を越えるベストセラーとなったのもうなずける。
とにかくわかりやすいのだ。そして、姜尚中の魅力は低音だけではないことを教えてくれる。
思えば、僕もいわゆる青春時代に、「おおいに悩め」「解決するよりも、問題を見つける事が大事だ」「考え抜けば何かが見つかる」と教授・先生達に言われたものだ。
悩む事が青春と特権だと言わんばかりの言動という意味では、その当時(70年代~80年代初頭)の教授・先生が学生にのたまわった言葉と、この「悩む力」とは全く同一地平にある。
ということは、もしかしたら、最近の教授・先生達はこういった言葉を学生に伝えなくなったのか。だから、逆にこの本が受け入れられたのだろうか。
しかし、本当に悩む事はいいことなのであろうか。ていうか、あの教授・先生達は幸せになったのだろうか。
姜尚中氏はこう続ける。
誰の人生の中にもあるはずの「青春」というものを知らずに終わる。あるいは青春という大切なものを、毎日一枚ずつ脱ぎ捨てていく。それは不幸なことではないでしょうか。
そのようにして生きていって十年後に自分の人生を振り返ったら、そこには空漠としたものしか残っていないと思います。
-「悩む力」(集英社新書)姜尚中 P91-
悩むということは、自分の意志で行う行為ではない。
それは、著者が言うように、自分の内側から湧き出てくるものである。
だとしたら、悩まないで老成出来た人は、それはそういう星のもとに生れた幸福な人とも言えるのではないか。
また、「人は悩まなければ幸せにならない」という、実は根拠のない人間観は、他人を悩みの世界に突き落とす事によって、己の存在価値を高めようとする教授・先生達の無意識的なセールストークだったのでは、と疑う視線もあると思う。
というか、今の時代、そのような、意地悪な視線こそ、皮肉にも説得力を持ってしまうのではないだろうか。
一方で、この本のマーケッティングに関して、気になることがある。それは、この本は一体、どういった層に読まれているのかということだ。
上記の記述でも明らかなように、この本は一見、若年層に向けて書かれているのだが、もしかしたら、ターゲットユーザー(読者層)は中高年を狙ったものではなかったのではないだろうか。
そして、またお決まりの「今の若者は...云々」というセリフのための、新しいネタ本として、この本が読者の手に取られたのではないだろうか。
何故って、こんな事を言っている僕が中高年だからこそ、この本を思わず手にとってしまう気持ちがわからなくもないからだ。
まさむね



