Articles Archive for 12 1 月 2009
歴史・家紋 »
天皇家が菊紋を使用し始めたのは、後鳥羽上皇の頃からだといわれている。
後鳥羽天皇(後の上皇)は、平氏が持ち去ったため、三種の神器が無い状態で即位せざるを得なかった。
後に、神器のうち、勾玉と鏡は戻ったが、本物の剣は壇ノ浦に沈み、戻ることは無かったのである。
しかし、剣の無い天皇は、刀を打つ事を好み、自分専用の鍛冶場を庭に創らせたという。
さらに、力で幕府を倒そうと承久の変を起こしたが、失敗し、隠岐に流され、その地で崩御。
おそらく、天皇の刀へのこだわりは、剣無しで即位した自分の正当性に対するコンプレックスへの補償行為だったのではないだろうか。
そして、天皇は、自分の刀に優美な菊の紋章を入れた。
台頭する武家文化に対抗べく王朝文化の最後の維持をこの紋章に込めたのである。
その後、この菊紋は天皇を象徴する紋となる。
江戸の時代こそ、一般庶民にも広まったこの紋であるが、明治になると国家主義とも結びつき、権威を持った。
比較的多い地域は東京都(24位)、宮崎県(25位)、愛知県(27位)、北海道(28位)。茨城県、福井県、滋賀県、京都府、兵庫県、広島県、福岡県で29位。
さて、菊紋を用いた有名人であるが、以下の通りである。
楠木正成。1294年 - 1336年7月4日、南北朝時代の河内の武将。
河内国石川郡出身。伊予橘氏の橘遠保の末裔。建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍するが湊川の戦で敗れ自害。明治以降大楠公と称される。後醍醐天皇から下賜された菊紋を菊水紋として使用。画像は楠木家の菩提寺・楠妣庵観音寺の菊水紋。
由井正雪。1605年 - 1651年9月10日、軍学者。
静岡県清水区由比町の紺屋の子として生まれるが、江戸へ奉公に出て楠木正成の子孫の軍学者・楠木正辰の婿養子となる。神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。「慶安の変(由井正雪の乱)」を起こし駿府にて自害。菊水紋は養子先の楠木家の家紋。
得能良介。1825年12月18日 - 1883年12月27日、武士、官僚。
鹿児島の城下新屋敷にて薩摩藩士・得能直助の長男として出生。維新後、大久保利通の推挙によって大蔵大丞兼民部大丞に任じられる。その後、司法大丞、印刷局長、初代大蔵技監等を歴任。家紋は丸に三つ割菊に三の字紋。画像は青山霊園にて撮影。
外島機兵衛。1826年7月5日 - 1868年3月30日、会津藩士。
会津藩士・堀藤左衛門の次男として生まれ、外島家の養子となった。京都守護職に就任した藩主松平容保に従って上洛。鳥羽・伏見の戦いでは兵糧などの調達にあたる。容保に対しては新政府への恭順を説いた。家紋は菊水紋。画像は青山霊園にて撮影。
那珂通高。1827年 - 1879年5月1日、折衷学派儒学者。
盛岡藩藩医江帾道俊の次男。読みは、なかみちたか。戊辰戦争後は奥羽越列藩同盟参加藩の幹部として責任を問われるが、維新後は大蔵省・文部省に出仕して「古事類苑」「小学読本」編纂に携わる。家紋は十六菊に一の字紋。青山霊園にて撮影。
西郷隆盛。1828年1月23日 - 1877年9月24日、藩士、政治家。
薩摩藩の下級藩士・西郷吉兵衛隆盛の長子。薩長同盟の成立や王政復古に成功し戊辰戦争を巧みに主導した。大久保利通や長州藩の木戸孝允と並び維新の三傑と称される。家紋は天皇より下賜された抱き菊の葉に菊紋。元の家紋は鷹の羽とも言われる。
木戸孝允。1833年8月11日 - 1877年5月26日、武士・政治家。
長門国萩呉服町萩藩医 和田昌景の長男として出生。桂家の末期養子となる。尊王攘夷派の中心人物。西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑として並び称せられる。桂小五郎時代は丸に三つ星紋。画像は多磨霊園にある類縁・木戸幸一の墓所にて撮影。
松方正義。1835年3月23日 - 1924年7月2日、薩摩藩士、政治家。
薩摩藩出身。松方正恭の四男として出生。第4代、6代内閣総理大臣。日露戦争に関しては積極的に開戦を主張。日本銀行券発行を行ったが深刻なデフレを招き松方デフレと呼ばれた。家紋は抱き菊の葉に抱き茗荷紋。画像は青山霊園にて撮影。
永山武四郎。1837年5月28日 - 1904年5月27日、陸軍軍人。
鹿児島藩士・永山盛広の四男として出生。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。
西郷従道。1843年6月1日 - 1902年7月18日、海軍軍人。
薩摩藩鹿児島城下加治屋町出身。読みは、さいごうつぐみち。西郷隆盛の弟だが西南戦争の際、隆盛には加担しなかった。伊藤博文内閣の海軍大臣、内務大臣などを歴任。最終階級は元帥海軍大将。家紋は三つ寄り菊葉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
高島鞆之助。1844年12月18日 - 1916年1月11日、陸軍軍人。
薩摩藩士高島喜兵衛の四男。読みは、たかしまとものすけ。戊辰戦争、西南戦争に従軍。第1次松方内閣の陸軍大臣。最終階級は陸軍中将。大阪偕行社附属小学校(現在の追手門学院小学校)を創設した。家紋は抱き鬼柏に剣菊紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
日高壮之丞。1848年4月26日 - 1932年7月24日、海軍軍人。
鹿児島県出身。薩摩藩士・宮内清之進の次男。日高籐左衛門の養子となり家督を相続。NHKドラマ「坂の上の雲」では中尾彬が演じた。最終階級は海軍大将。幾多の軍功によって男爵位を受勲。家紋は割り杏葉菊に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。
益田孝。1848年11月12日 - 1938年12月28日、実業家。
佐渡国出身。明治維新後、世界初の総合商社・三井物産の設立に関わる。草創期の日本経済を動かし三井財閥を支えた。更に日本経済新聞の前身・中外物価新報を創刊。茶人としても著名。家紋は三つ割り菊紋。画像は総持寺にて撮影。
東郷正路。1852年4月19日 - 1906年1月4日、海軍軍人。
福井藩士・東郷晴霞の息子として生まれる。日清戦争時は「鳥海」艦長、「西京丸」艦長を、日露戦争では第6戦隊司令官として出征し、黄海海戦、日本海海戦に参戦し、後に海軍中将となった。家紋は抱き菊の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
青山幸宜。1854年12月9日 - 1930年2月5日、郡上藩青山家11代。
第6代藩主・青山幸哉の長男として生まれる。版籍奉還で郡上藩知事に任じられ、廃藩置県で免職された。その後は実業家、貴族院議員となって活躍した。市川米庵に書を学び、多くの名筆を残した。家紋は青山紋。菩提寺である梅窓院の墓所にて撮影。
大橋新太郎。1863年9月11日 - 1944年5月5日、出版業者。
越後国長岡出身。博文館創業者大橋佐平の三男。父没後、博文館館主となり、博文館印刷所(現在の共同印刷)、日本書籍株式会社を設立。衆議院議員・貴族院議員もつとめる。家紋は杏葉菊菱紋。画像は護国寺の墓所にて撮影。
夏目漱石。1867年2月9日 - 1916年12月9日、小説家。
江戸の牛込馬場下で数代前から続く町方名主、夏目小兵衛直克の末子として出生。千円札の図柄としても著名。代表作は『坊ちゃん』『我輩は猫である』『こころ』など。家紋は井桁に菊紋とも言われるが雑司が谷霊園には菊菱紋(画像)がある。
尾上梅幸(6代)。1870年11月8日 - 1934年11月8日、役者。
尾張国名古屋出身。父は尾上朝次郎本名は寺島榮之助。屋号は音羽屋。昭和初期を代表する名女形役者。十五代目市村羽左衛門の名相方とうたわれ墓も隣にある。役者としての家紋は重ね扇に抱き柏だが、雑司が谷墓地の墓所の家紋は杏葉菊紋。
伏見宮博恭王。1875年10月16日 - 1946年8月16日、海軍軍人。
伏見宮貞愛親王王子。議定官、軍令部総長、元帥海軍大将。日露戦争では連合艦隊旗艦三笠分隊長として黄海海戦に参加。艦長や艦隊司令長官を務めるなど皇族出身の軍人の中では実戦経験が豊富。家紋は伏見宮裏菊紋。画像は青山霊園にて撮影。
野口雨情。1882年5月29日 - 1945年1月27日、童謡・民謡作詞家。
茨城の廻船問屋を営む名家に生れる。実際、野口家は、正成の弟、楠木正季が先祖と伝えられているという。代表作は、『シャボン玉』『こがね虫』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など多数。家紋は菊水紋。画像は小平霊園所に撮影。
小松輝久。1888年8月12日 - 1970年11月5日、華族、海軍軍人。
北白川宮家出身。長兄・恒久王は特に竹田宮家を創設し、自身は臣籍降下し小松侯爵家を創設する。終戦間際まで帝国海軍の軍務に服し、最終階級は海軍中将。戦後は平安神宮宮司を務める。家紋は三つ割菊紋。画像は護国寺にて撮影。
恩地孝四郎。1891年7月2日 - 1955年6月3日、写真家、詩人。
宮内省式部職・恩地轍の四男として東京に生まれる。前衛的な表現方法を好んで用いた芸術家としてあらゆるジャンルで活躍。代表作は自身の詩や版画との組み合わせた写真集『飛行官能』『博物誌』。家紋は楠木氏家臣からの流れで菊水紋。
甲斐庄楠音。1894年12月23日 - 1978年6月16日、日本画家。
甲斐庄氏は楠木正成末裔を自称した旗本の一族。読みは、かいのしょうただおと。大正末期の暗い風潮を象徴するデカダンス画家の代表。代表作『青衣の女』『横櫛』等。溝口映画の風俗考証を行う。家紋は菊水紋。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。
笹川良一。1899年5月4日 - 1995年7月18日、政治運動家。
大阪府三島郡豊川村に造り酒屋の長男として出生。衆議院議員、財団法人日本船舶振興会会長、福岡工業大学理事長を務めた。戦後は政財界の黒幕として「日本の首領(ドン)」と呼ばれた。家紋は半菊に一の字紋。顔画像は高見山の引退興行での紋付姿。
中村泰三郎。1912年1月24日 - 2003年5月13日、抜刀家。
山形県上山市出身。実践剣術・戸山流抜刀術を修練し中村流抜刀道を創始。国際居合抜刀道連盟(国際抜刀道連盟の前身)を組織。国際武道院より抜刀道十段を授与される。橋本龍太郎に山岡鉄舟愛刀「左文字」の写しを献上した。家紋は丸に菊水紋。
石井ふく子。1926年9月1日 - 、テレビプロデューサー。
東京都出身。父(養父)は劇団新派の俳優・伊志井寛。TBSのプロデューサーとして「肝っ玉かあさん」「ありがとう」「女と味噌汁」「おんなの家」「渡る世間は鬼ばかり」等を手がける。家紋は菊杏葉紋。谷中・瑞輪寺の伊志井寛の墓にて撮影。
綿貫民輔。1927年4月30日 - 、実業家、政治家。
富山県南砺市出身。父・南佐民は兵庫県淡路島の出身で楠木正成の系譜だが、井波八幡宮の宮司を務める綿貫家の婿養子に入る。自民党の重鎮であったが郵政民営化を巡る党内抗争の結果、離党し国民新党を結成。菊水紋は南家の家紋。
まさむね
歴史・家紋 »
群れをなして空を飛ぶ雁の家紋が雁金だ。
鳥に対する人間の願望が家紋として表出したのだと思う。
現代人の発想だと、鳥は自由の象徴ということになるのだが、昔はそうではなかった。
彼岸にいるであろう先祖との使者としての雁、仲良く群れをなす絆の強さの象徴としての雁。
そんなことを考えて家紋として採用したのであろう。
雁金紋で有名なのは、戦国武将の柴田勝家の「二つ雁金」だ。
この家紋の図案は、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前北ノ庄にてお市とともに自害した武将・勝家の悲劇を物語っているようにも見えるから不思議だ。
現在の県別分布では、雁金紋の発祥地・長野県と、何故か鹿児島県で比較的多い。
そういえば、梶紋も元々は長野県発祥の紋であるが、鹿児島県にも多い。
長野と鹿児島の間には何か独特の繋がりがあるのであろうか。
さて、雁金紋を持つ有名人は以下だ。
柴田勝家。1522年 - 1583年6月14日、武将・大名。
尾張国愛知郡上社村で土豪階層の家に生まれる。織田信長の家臣として近江、摂津など各地を転戦。長篠の戦いにも参加。信長死後、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ越前北ノ庄にてお市と共に自害。家紋は二つ雁金。画像は勝家の孫・柴田勝重の墓所にて撮影。
平岩親吉。1542年 - 1612年2月1日、武将・大名。
三河国額田郡坂崎村で生まれる。家康の小姓として仕える。小田原征伐に戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。関ヶ原の戦い後甲府6万3,000石を、その後、犬山藩主として12万3,000石を領した。家紋は丸に結び雁金。
肝付直五郎。1835年12月3日 - 1870年8月16日、薩摩藩士。
生家は肝付家。後の小松帯刀。大河ドラマ「篤姫」では瑛太が演じる。この「尻合わせ四つ結び雁金」が家紋。また、別に鶴の丸紋も使用。ちなみに、小松家の養子入ってからの使用家紋は、「抱き鬼梶の葉」(抱き鬼菊の葉とも)。
花房義質。1842年2月10日 - 1917年7月9日、外交官。
岡山藩士で実業家、政治家・花房端連の長男。壬午事変では暴徒に包囲された公使館を脱出して命からがら帰国。事件の損害補償とともに漢城への日本軍駐留を認めさせる。宮内次官、日本赤十字社社長等を歴任。画像は池上本門寺にて撮影。
犬養毅。1855年6月4日- 1932年5月15日、政治家。
備中国賀陽郡庭瀬村で大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男。若槻禮次郎内閣が崩壊したため反対党(立憲改進党)の総裁として第29代内閣総理大臣に就任。五一五事件で凶弾に倒れる。家紋は嘴合わせ三つ雁金。画像は青山霊園にて撮影。
高田実。1871年5月8日 - 1916年5月24日、新派俳優。
東京生まれ。川上音二郎一座の「日清戦争」で李鴻章に扮したのが出世役。大阪で成美団を結成。評論「自然主義新演劇を唱ふ」を発表、関西新派の中心俳優として活躍し「新演劇の団十郎」と呼ばれた。家紋は丸に結び雁金紋。画像は金嶺院にて撮影。
寺田寅彦。1878年11月28日 - 1935年12月31日、随筆家。
高知県出身。土佐藩士族・寺田利正の息子。安岡章太郎、別役実とは親戚。夏目漱石の『吾輩は猫である』の水島寒月、『三四郎』の野々宮宗八のモデル。「天災は忘れた頃にやってくる」は寅彦の言葉。家紋は二つ雁金紋。寺田寅彦記念館にて確認。
芦田均。1879年10月1日 - 1941年8月22日、政治家。
芦田家は京都府福知山市の豪農。敗戦直後の日本政治の中心の1人で鳩山一郎を中心とする日本自由党の結成において指導的役割を果たし第47代内閣総理大臣となるが昭和電工事件により総辞職、逮捕される。家紋は桜輪に結び雁金。画像は総持寺にて撮影。
竹田敏彦。1891年7月15日 - 1961年11月15日、小説家。
香川県仲多度郡多度津町生まれ。本名は敏太郎。「大阪毎日新聞」記者をへて新国劇に入り文芸部長を務める。のち小説家として多くを書いた。代表作は「薔薇夫人」「母は強し」。家紋は亀甲に頭合わせ三つ雁金紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
鳩山由紀夫。1947年2月11日 - 、政治家。
東京都小石川出身。父・鳩山一夫は初代自民党総裁、第52・53・54代内閣総理大臣。弟・邦夫は元総務相、文相。自身は民主党代表(第2・7代)、内閣総理大臣(第93代)を歴任。家紋は尻合わせ三つ結び雁金紋。画像は谷中霊園の鳩山家の墓所にて撮影。
陣内栄。大正年間8月1日 - 8月、「サマーウォーズ」登場人物。
戦国時代から続く陣内家の16代目当主。元教師で、教え子には政治家、官僚、地方の実力者なども多く、政財界に幅広い人脈を持つ。一族はもとより、国を動かせるだけの影響力をもっている。吹き替えは富司純子。家紋は右向き結び雁金紋と変り六文銭紋。
参照サイト:家紋の話あれこれ
まさむね
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亀甲紋は、北方を守護する玄武(亀)を表象する紋である。
出雲神社、香取神宮の神紋として知られている。
おそらく、元々、出雲大社は大陸(半島)、香取神宮は蝦夷(東北地方)に対する守りという意味があったのであろう。
ただ、この形状自体が美しいデザインのため、企業のマークとしても使用されている。
例えば、醤油でお馴染みのキッコーマンのマーク。
昭和のはじめに創業者の茂木佐平次が、香取神宮の氏子だったことから亀甲紋をマークに、採用したとのことである。
また、商標、後には会社名としても採用した。
また、ビデオレンタルのゲオ。
こちらのマーク、隅立ての3つの正方形のように見えるが、実は、創業者の遠藤結城氏の家紋であった三つ盛り亀甲のイメージをそのマークに込めたとのことである。
全国では20位。特に多い地域は、秋田県(15位)、徳島県(16位)、北海道(17位)、青森県(17位)、愛知県(17位)、佐賀県(17位)、山形県(18位)、島根県(18位)、香川県(18位)、千葉県(19位)といったところか。
さて、この紋を持つ有名人は以下の通り。
浅井長政。1545年 - 1573年9月26日、戦国大名。
浅井久政の嫡男として六角氏の居城・南近江観音寺城下に出生。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させる。織田信長と同盟を結ぶなどして浅井氏の全盛期を築いたが後に信長と決裂。姉川合戦に敗れ追い詰められ自害し滅亡。家紋は三盛亀甲花菱。
直江兼続。1560年 - 1620年1月23日、戦国時代武将。
戦国から安土桃山時代にかけて上杉家の生存を賭けた戦いと外交に尽力。大河ドラマ「天地人」の主人公。三つ盛り亀甲の中の文様は細い葉説と剣花菱説がある。2009年節分の成田山での豆まきの際、兼続役の妻夫木聡も三つ盛り亀甲の紋付だった。
安松金右衛門。1611年 - 1686年10月24日、武蔵川越藩士、郡代。
本国は河内国、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し,名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。
竹本義太夫。1651年 - 1714年10月18日、浄瑠璃太夫。
摂津国(大坂)に生まれる。農家の出身。大坂道頓堀に竹本座を開設し、近松門左衛門・作の『世継曽我』を上演。近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。浄瑠璃の義太夫節の創始者である。家紋は竹亀甲に九枚笹。画像は回向院にて撮影。
川路聖謨。1801年6月6日 - 1868年4月7日、旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ12歳で小普請組の川路家の養子となる。公海岸防禦御用掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。
周布政之助。1823年5月3日 - 1864年10月26日、武士・長州藩士。
長州藩士(大組219石)・周布吉左衛門の五男として生まれる。財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力。禁門の変や第一次長州征伐に際して事態の収拾に奔走。家紋は亀甲に久の字紋。青山霊園の墓所にて撮影。
税所篤。1827年12月22日- 1910年6月21日、武士、官僚。
薩摩藩士・税所篤倫の二男。若くして国学者・平田篤胤の門下となる。勘定所郡方に任じられ戊辰戦争では新政府軍の軍事費などの財政処理を務めた。関西の各県令・知事、霧島神社宮司を歴任。家紋は丸に亀甲に唐花紋。画像は青山霊園にて撮影。
米倉一平。1831年 - 1904年6月1日、実業家。
豊後国出身。読みは、よねくらいっぺい。鳥羽・伏見の戦いで功をたてる。第五国立銀行取締役となり米穀市場を開き蠣殻町米商会所をおこし頭取となる。後に米穀取引所理事長などをつとめた。家紋は亀甲に唐花紋。画像は谷中霊園にて撮影。
岡内重俊。1842年5月11日 - 1915年9月20日、司法官。
土佐国土佐郡に藩士岡内清胤の長男として出生。海援隊(画像)に入り秘書役として活躍。欧米視察に随行。帰国後、岩倉具視、伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。
千家尊福。1845年9月7日 - 1918年1月3日、宗教家、政治家。
出雲大社宮司である出雲国造家に生まれ教派神道出雲大社教を創始。貴族院議員、埼玉・静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任。「年の始めの 例(ためし)とてで」始まる「一月一日」の作詞者。家紋は亀甲に剣花菱紋。青山霊園にて撮影。
原口兼済。1847年4月2日 - 1919年6月18日、陸軍軍人。
森藩士・林寛吾の四男として生まれ同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。
寺内正毅。1852年2月24日 - 1919年11月3日、陸軍軍人、政治家。
周防国山口出身。長州藩士宇多田正輔の三男。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は亀甲に三つ柏紋。
下瀬雅允。1859年7月11日 - 1911年9月6日、発明家、工学博士。
広島藩士鉄砲役、下瀬徳之助の長男として広島市鉄砲町に生まれる。日露戦争における大戦果の一因とされた下瀬火薬を発明した。実験事故で指を失ってもなお研究を続けたという。家紋は一重亀甲に右二つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
宮武外骨。1867年2月22日 - 1955年7月28日、ジャーナリスト。
讃岐国阿野郡小野村に庄屋宮武家の四男として生まれた。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
山田美妙。1868年8月25日 - 1910年10月24日、小説家・評論家。
神田柳町に旧南部藩士山田吉雄の長男として出生。本名は山田武太郎。言文一致体および新体詩運動の先駆者。石橋思案、尾崎紅葉らとともに硯友社を結成し雑誌『我楽多文庫』を編集・刊行。家紋は丸に三つ割亀甲に花菱紋。画像は染井霊園にて撮影。
岩元禎。1869年6月12日 - 1941年7月14日、哲学者。
鹿児島県出身。夏目漱石の『三四郎』の広田先生のモデル。極めて採点が厳しい名物教授として知られ安倍能成等も岩元の採点により落第したという。また、志賀直哉にドイツ語を教えた。主著は『哲学概論』。家紋は亀甲に花菱。画像は総持寺にて撮影。
馬場孤蝶。1869年12月10日 - 1940年6月22日、作家、翻訳家。
高知市出身。本名は勝弥。島崎藤村や北村透谷、上田敏らと雑誌「文学界」を創刊。本邦初訳のトルストイ『戦争と平和』を刊行。作品は『片羽のおしどり』 『明治の東京』 『社会的近代文芸』 等。家紋は、違い一重反り亀甲。画像は谷中霊園にて撮影。
畑英太郎。1872年8月28日 - 1930年5月31日、陸軍軍人。
福島県出身。会津藩士・警察官、畑能賢の長男として生れる。軍事課長、航空局次長、軍務局長、陸軍次官、兼軍事調査委員長、第1師団長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は亀甲に根笹紋。画像は多磨霊園にて撮影。
蒲原有明。1875年3月15日 - 1952年2月3日、詩人。
東京麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され北原白秋、三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺にて撮影。
平福百穂。1877年12月28日 - 1933年10月30日、日本画家。
秋田県角館出身。本名は貞蔵。日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指し自然主義と古典が融合した作品を生み出す。代表作は『朝露』『豫譲』等。家紋は陰亀甲に隅立て陰四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。
冠松次郎。1883年2月4日 - 1970年7月28日、登山家。
東京生まれ。日本アルプスや奥秩父の渓谷の多くを遡行し、また優れた記録や紀行文を残してその魅力を広く紹介し登山の中に沢登りという日本独自の分野を開いた。黒部の父とも呼ばれる。代表作は『黒部渓谷』『剣岳』等。家紋は三つ盛亀甲紋。
山本宣治。1889年5月28日 - 1929年3月5日、政治家。
京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。
丸山敏雄。1892年5月5日 - 1951年12月14日、宗教家、教育家。
福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。
中川一政。1893年2月14日 - 1991年2月5日、洋画家、美術家。
東京本郷に生まれ、岸田劉生に見出されて画家を志す。多彩な作品を制作し、全てが独学であり自ら「在野派」と称した。妻は千田是也の姉の暢子。次男・は映画監督中川晴之助。孫に女優の中川安奈。家紋は亀甲に花菱紋。雑司が谷霊園にて撮影。
甲賀三郎。1893年10月5日 - 1945年2月14日、推理作家。
滋賀県蒲生郡日野町に生まれる。生家は、甲賀郡水口藩の藩士であった井崎家。本名は、春田能為。先駆者として、江戸川乱歩と並び本格派の探偵小説に取り組んだ。代表作は「琥珀のパイプ」「支倉事件」など。家紋は一重亀甲に立ち沢瀉紋。
玉川勝太郎(2代)。1896年5月1日 - 1969年8月13日、浪曲師。
東京牛込区の生まれ。本名は石渡金久。17歳で初代に入門。師匠譲りの関東節任侠物を磨き上げ、『清水次郎長伝』『国定忠治』などを十八番にした。弟子には玉川良一、玉川ゆたか等がいる。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は寛永寺第二霊園にて撮影。
小林多喜二。1903年10月13日 - 1933年2月20日、作家・小説家。
秋田県北秋田郡下川沿村生まれ。4歳の時に北海道・小樽に移住。伯父からの学資を受け小樽高等商業学校へ進学。『蟹工船』を発表し一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。非合法の日本共産党に入党。治安維持法違反容疑で逮捕され獄死。
塚本憲甫。1904年9月16日 - 1974年6月7日、医学者。
東京府生まれ。ノンフィクションライターの塚本哲也は長女ルリ子の夫。放射線医学総合研究所の二代目所長、国立がんセンター病院長を歴任するが、自身が癌に罹り在職のまま死去した。家紋は一重亀甲に違い閉じ檜扇。画像は多磨霊園にて撮影。
立原道造。1914年7月30日 - 1939年3月29日、詩人、建築家。
日本橋区橘町出身。家系は桓武平氏の一家系 常陸平氏 大掾氏の一門 鹿島氏の庶流 立原氏。代表詩集『ゆふすげびとの歌』『萱草に寄す』『曉と夕の詩』。家紋は三つ盛り亀甲紋。上の紋は花菱、下の二つは角字(平と東)。画像は多宝院の墓所にて撮影。
手塚治虫。1928年11月3日 - 1989年2月9日、漫画家。
大阪府に出生、5歳から兵庫県宝塚市に育つ。代表作は、『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『ブッダ』『マグマ大使』『どろろ』『ブラック・ジャック』等、多数。ストーリー漫画の父と言われている。家紋は三つ盛亀甲紋。画像は巣鴨・摠禅寺にて撮影。
有吉佐和子。1931年1月20日 - 1984年8月30日、小説家。
曽祖父は長州藩士の有吉熊次郎。カトリック教徒で洗礼名はマリア=マグダレナ。『地唄』が文學界新人賞候補、ついで芥川賞候補となり一躍文壇デビュー。代表作は『紀ノ川』『華岡青洲の妻』。家紋は亀甲に並び矢。画像は小平霊園の墓所にて撮影。
梅宮辰夫。1938年3月11日 - 、俳優。
満州・ハルビン市出身。茨城県水戸市で育つ。本名は梅宮辰雄。タレント・モデルの梅宮アンナは娘。代表出演作は『人生劇場 飛車角』『仁義なき戦い』。テレビドラマ、CMでも活躍。家紋は丸に三つ盛り亀甲紋。画像は小平霊園の梅宮家の墓所にて撮影。
落合博満。1953年12月9日 - 、プロ野球選手、監督。
秋田県南秋田郡若美町出身。現役時代はロッテ、中日、巨人、日本ハムなどで活躍。3度の三冠王に輝く。2004年から中日ドラゴンズ監督。3度のリーグ優勝に輝く。家紋は息子・福嗣の自伝「フクシ伝説」の表紙の紋付より亀甲と判断。中は梅鉢か。
夏目雅子。1957年12月17日 - 1985年9月11日、女優。
六本木の輸入雑貨商・亀甲屋の子として出生。旧姓は小幡。代表出演作はドラマ『西遊記』、映画『瀬戸内少年野球団』など。27歳の若さで突然亡くなり多くのファンからその死を惜しまれた。多磨霊園の小幡家の墓所(田中好子も埋葬)にて撮影。
青木達之。1966年8月15日 - 1999年5月2日、ドラマー、作曲家。
日本を代表するスカバンド、「東京スカパラダイスオーケストラ」の結成当時からのドラマーとして活躍。小泉今日子などにも曲を提供。列車事故により急逝。亀甲紋であることが確認できる。画像は多磨霊園の青木家の墓所にて撮影。
羽生善治。1970年9月27日 - 、将棋棋士。
埼玉県所沢市若松町生まれ、東京都八王子市育ち。全7タイトル戦のうち6つで永世称号の資格を保持。通算タイトル獲得数は、大山康晴に次ぎ歴代2位。数々の実績から、将棋史上最強格の棋士の一人に挙げられる。紋付姿の写真より、家紋は亀甲に梅紋と判断。
丹下左膳。江戸時代、剣士。
林不忘の新聞連載小説、およびその作品内の主人公。隻眼隻腕の異様な姿の剣士。手塚治虫も同名の作品を漫画化している。映画では団徳麿、嵐寛寿郎(当時は嵐長三郎)、大河内傳次郎、阪東妻三郎等が主役を演じている。家紋は一重亀甲に二引両紋。
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歴史・家紋 »
家紋の中で一番、優美なのがこの蝶紋である。
一般的には、この紋は、あの平家の代表紋と言われている。
確かに、公家で平家流の平松家、西洞院はこの紋を使用しているが、実際、武家の桓武平氏では、この紋はそれほど普及しているわけではない。
ただし、織田信長のように、後から平氏を自称した諸家では、この紋を定紋としたようである。
ところで、よく見ると、蝶の目はどこか物悲しい。
壇ノ浦で滅んだ平家を哀れんでいるかのようでもある。
全国分布だが、県別家紋数では、まんべんなく20位~30位くらいの位置をキープしている。
敢えて言えば、三重県(18位)、鹿児島県(18位)、岐阜県(19位)、群馬県(20位)、石川県(20位)などが20位以内に入っている。
逆に宮崎県、徳島県ではベスト30にも入っていない。
さて、この紋を使用している有名人だが以下が確認できている。
織田信長。1534年5月12日 - 1582年6月2日、戦国武将。
古渡城主・織田信秀の次男または三男として出生。日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて世に多大な影響を残した武将、大名(戦国大名)。重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い自刃に追い込まれた。画像は織田蝶紋。
長谷川等伯。1539年 - 1610年3月19日、絵師。
能登国七尾出身。当時の主流・狩野派に対して強烈なライバル意識を持ち独自の画風を確立。晩年には事故により利き腕である右手の自由を失うなど私生活は不幸であった。代表作『旧祥雲寺障壁画』『松林図屏風』『花鳥図屏風』。家紋は丸に揚羽蝶紋。
佐野房綱。1558年- 1601年7月31日、武将。
佐野宗綱の弟。佐野氏は秀郷流の系統。藤姓足利氏の庶流。豊臣秀吉に仕え、小田原征伐のとき、功績により、佐野氏の領地である唐沢山城と3万9000石の所領を安堵される。戦国時代においては、剣術の達人の一人であったと言われている。
大谷吉継。1559年 - 1600年10月21日、武将・大名。
近江国(滋賀県)で生まれ、秀吉の小姓となる。九州征伐で功を上げ、5万石を与えられ、敦賀城主となった。賤ヶ岳の戦いの際に長浜城主柴田勝豊を調略して内応させる。関が原の戦いでは西軍に与し、破れる。家紋は向かい蝶。
池田輝政。1565年1月31日 - 1613年3月16日、武将・大名。
織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲に生まれた。家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。関ヶ原の戦いでは徳川方に与する。また、姫路城を形に改築。家紋は揚羽蝶(左画像は姫路城の瓦の揚羽蝶)、備前蝶。
荷田春満。1669年2月3日- 1736年8月8日、国学者・歌人。
京都の神官の子。賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤と共に国学の四大人の一人。賀茂真淵は弟子。主著は『春葉集』『創学校啓』『伊勢物語童子問』。赤穂義士に吉良上野介義央在宅確実の茶会の日を教えたという。画像は養子・在満の墓所にて撮影。
伊勢貞丈。1718年1月29日 - 1784年7月15日、有職故実研究家。
伊勢氏は元々室町幕府政所執事の家柄。伊勢平氏・平維衡の後裔と言われる名門で江戸時代には徳川氏に仕え中世以来の武家を中心とした制度・礼式を伝える家として残る。「貞丈雑記」「安斎雑考」「軍用記」等を残す。家紋は向かい蝶紋。
大塩平八郎。1793年3月4日 - 1837年5月1日、大坂町奉行所与力。
大坂天満の生まれだとされているが、阿波国の生まれだとする説も存在する。大塩家は代々与力として禄を受けていた。天保の大飢饉の際、人民救済のために大塩平八郎の乱を起す。その乱の際、元々の大塩家の家紋の蝶の丸ではなく桐紋を旗印にした。
芳村伊三郎。1800年 - 1847年7月27日、長唄の師匠。
上総出身。芳村伊千五郎が4代目伊三郎を襲名。歌舞伎の世話物の名作「与話情浮名横櫛」(別名お富与三郎)のモデル。春日八郎のヒット曲『お富さん』はこの演目からセリフを取り入れている。家紋は三つ盛り揚羽蝶。画像は品川・天妙国寺にて撮影。
芹沢鴨。1827年 - 1863年10月28日、幕末の水戸藩浪士。
中世に興起した常陸国芹沢村の豪族、芹沢氏から発祥した水戸藩上席郷士、芹沢家の当主貞幹の三男として生まれた。江戸で結成された浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加。新選組(壬生浪士)の初代筆頭局長。暗殺される。
川崎八右衛門。1834年12月 - 1907年1月13日、実業家。
茨城県東茨城郡茨城町出身。川崎家は水戸藩第二藩主光圀の時代にとりたてられる。幕末に水戸藩の鋳銭事業に着手、家業である廻船事業をはじめ事業を拡大し東京川崎財閥の前身・川崎組、川崎銀行の創始者となる。画像は谷中霊園にて撮影。
山城屋和助。1836年 - 1872年12月29日、陸軍省御用商人。
周防国玖珂郡に、医師野村信高右の四男として生まれる。本名は野村三千三。奇兵隊に入隊。山縣有朋の部下として戊辰戦争に参戦。兵部省御用商人となる。長州人脈を活かし、軍需品納入の商売は繁盛。野村家の家紋は浮線蝶紋。
池田章政。1836年6月16日 - 1903年6月5日、藩主。
肥後国人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。幕末の動乱期の中では尊皇攘夷派として行動し藩内における信望もあった。明治維新後は侯爵に叙任、従一位・勲一等・麝香間祗候。家紋は池田向い蝶紋。画像は谷中霊園の長男・池田政保の墓で撮影。
チャリヘス。1838年 - 1897年、料理人。
スイスのチューリッヒに生まれ、フランスのパリでコックの修業を積み、上海を経て1869年頃に来日。築地精養軒の料理顧問となる。日本におけるフランスパンの開祖として今に語り伝えられる。家紋は揚羽蝶紋。画像は青山霊園内の外人墓地にて撮影。
武井守正。1842年5月5日 - 1926年12月4日、政治家、実業家。
父は姫路藩士・武井領八。幕末には勤王派として国事に奔走し捕らえらるが維新後出獄し新政府に出仕。鳥取県知事、石川県知事、貴族院勅選議員を歴任。実業界に転じ帝国海上保険などを創立。家紋は花形蝶紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。
吉田清成。1845年3月21日 - 1891年8月3日、武士、官僚。
薩摩藩の留学生として英米に留学。帰国後、大蔵省に出仕して租税権頭・大蔵少輔を歴任。外務大輔に任命され、井上馨外務卿の元で条約改正にあたる。元老院議官、枢密顧問官となる。「吉田清成文書」は有名。家紋は丸に浮線蝶紋。青山霊園にて撮影。
柳川一蝶斎(3代目)。1847年11月 - 1909年2月17日、手品師。
江戸神田の御用金物屋・青木常次郎の子。本名は青木治三郎。太神楽・曲芸の一座と共に欧州巡業に出る。獅子の曲、独楽の曲など日本手品を得意とし、とりわけ和紙の切れを扇であおいで蝶の飛ぶさまに見せる芸は見事であった。家紋は備前蝶紋。
平田東助。1849年3月26日- 1925年4月14日、官僚・政治家。
山形県米沢出身。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。大逆事件が発生した際は内相として犯人検挙を指揮。山縣有朋の側近として貴族院および宮中における山縣閥重鎮として元老に次ぐ影響力を保ち続ける。護国寺の墓所も山縣有朋の近くにある。
グラバー・ツル。1851年 - 1899年3月23日、女性。
旧士族・談川安兵衛の養女。幕末に長崎を拠点として活躍した英国商人トーマス・ブレーク・グラバーの妻。倉場富三郎の母親。プッチーニのオペラ、『蝶々夫人』の蝶々さんのモデルとされる。家紋は蝶紋と言われている。
小村寿太郎。1855年10月26日 - 1911年11月26日、外務大臣。
日向国飫肥藩に下級武士の子として生まれる。大学南校(東京大学の前身)入学。ハーバード大学へ留学。第1次桂内閣の外務大臣に就任。日英同盟を積極的に主張。日露戦争における戦時外交を担当し、ポーツマス条約の全権委任大使となる。
城泉太郎。1856年8月17日 - 1936年1月8日、教育者。
越後長岡藩士・河井資信の長男として生まれる。河井継之助は親戚筋。徳島慶應義塾の二代目校長となる。後に英学の教師をし、自由民権運動に携わる。『通俗進化論』、翻訳書『経世危言』を刊行。家紋は丸に揚羽蝶紋。墓所のある禅林寺にて撮影。
尾崎行雄。1858年12月24日 - 1954年10月6日、政治家。
相模国津久井県出身。議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」と呼ばれる。家紋は鬼蔦と五つ蝶紋。青山霊園の義父の尾崎三良の墓所にて撮影。
矢部辰三郎。1863年 - 1924年3月29日、海軍軍医。
岡山出身。軍医校監事、海軍大軍医、海大教官、海軍軍医少監、軍医校教官、軍医校教頭、海軍軍医総監、佐世保病院長、佐鎮軍医長、軍医校長、海軍軍医総監等を歴任。最終階級は海軍軍医中将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。
山路愛山。1865年1月23日 - 1917年3月15日、評論家、歴史家。
幕臣・山路一郎の子として江戸淺草の天文屋敷に出生。徳富蘇峰の知遇をえ國民新聞記者として政治および史論に筆をとる。日露戦争勃発と同時に『日露戦争實記』を発刊し「草木皆兵」を論じ愛国心を鼓舞した。家紋は揚羽蝶紋。青山霊園にて撮影。
神戸寅次郎。1865年1月24日 - 1939年5月17日、法学者。
静岡県出身。法学科第一期生として慶應に入学。慶應義塾大学新設にあたり法学部教授兼法学部長に就任し慶應義塾学事顧問を務めた。専門は民法。慶應義塾大学法学部の育ての親。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は多磨霊園にて撮影。
平沼騏一郎。1867年10月25日 - 1952年8月22日、政治家。
岡山県津山市出身。日本の官僚で第35代内閣総理大臣。法曹界で権力を持ち、右翼勢力の拡大に尽力した。戦後、A級戦犯で訴追され終身刑の判決を受けた。立ち上がれ日本の平沼赳夫は平沼騏一郎の兄・平沼淑郎の曾孫。画像は多磨霊園にて撮影。
岡本綺堂。1872年11月15日 - 1939年3月1日、小説家、劇作家。
イギリス公使館に勤めていた元徳川家御家人、敬之助の長男として東京高輪に生まれ1歳から麹町に育つ。24年間、東京日日新聞の記者として過ごす。日本最初の岡っ引捕り物小説「半七捕物帳」の執筆を開始、代表作となる。画像は青山霊園にて撮影。
塩田広重。1873年10月14日 - 1965年5月11日、外科学者。
京都府生まれ。東京帝国大学教授、後に日本医科大学教授および同学長を兼任した。胃腸手術の権威として知られる。狙撃された濱口雄幸の治療をしたことでも有名。また老人学の草分けでもある。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
曽我廼家五九郎。1876年4月12日 - 1940年7月7日、喜劇俳優。
徳島県麻植郡鴨島村出身。本名は武智故平。壮士芝居を経て、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗る映画『ノンキナトウサン』シリーズが大当たり。トウサン役は五九郎の当たり役となる。家紋は揚羽蝶紋。
今村均。1886年6月28日 - 1968年10月4日、陸軍軍人。
宮城県仙台区出身。父は裁判官の今村虎尾。最終階級は陸軍大将。占領地での軍政・指導能力は高く名将という評価を受ける。水木しげるは「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と評した。家紋は浮線蝶紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。
光用穆。1887年3月10日 - 1943年10月12日、小説家、翻訳家。
新潟県高田市出身。読みは、みつもちきよし。早稲田大学文学部を出た後、中央新聞に入社し短編小説を数編、書く。葛西善蔵、相馬御風、広津和郎らとともに同人誌「奇蹟」に関わる。H・G・ウェルズの『宇宙戦争』を翻訳した。家紋は揚羽蝶紋。
南雲忠一。1887年3月25日 - 1944年7月8日、海軍軍人。
米沢市信夫町に旧米沢藩士南雲周蔵の次男。真珠湾にあるアメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の母港を奇襲攻撃、開戦劈頭の勝利を飾る。ミッドウェー海戦では大敗を喫する。最終階級は海軍大将。家紋は丸に揚羽蝶紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。
一龍斎貞丈(4代目)。1889年 - 1931年12月23日、講釈師。
本名は、安原大二郎。亭号を昇龍斎として、昇龍斎貞丈と名乗った。5代目・一龍斎貞丈の師匠にあたる。講釈は、日本の伝統芸能のひとつで、高座におかれた釈台と呼ばれる小さな机の前に座り、軍記物や政談を読み上げる。家紋は丸に揚羽蝶紋。
池田義信。1892年3月10日 - 1973年9月1日、映画監督。
長野市宇木出身。本名は義臣。栗島すみ子の夫。松竹蒲田撮影所にはいり、11年の「生(な)さぬ仲」で初監督をする。代表作は「船頭小唄」「いろはにほへど」「不如帰」「真珠夫人」。家紋は丸に揚羽蝶。画像は池上本門寺にて撮影。
池田亀鑑。1896年12月9日 - 1956年12月19日、国文学者。
鳥取県日野郡福成村出身。「源氏物語」研究の権威で文献学の知見を日本古典文学研究に導入。「源氏物語大成」全8巻を刊行、異本を比較して古典の原型を明らかにする文献批判学研究を行う。紫式部学会の創設する。画像は多磨霊園にて撮影。
安藤鶴夫。1908年11月16日 - 1969年9月9日、小説家、評論家。
東京市浅草区向柳原町に、義太夫の八代目竹本都太夫の長男として出生。古典落語至上主義、新作落語排斥の急先鋒。芸人の好き嫌いが激しかった。『巷談本牧亭』で直木賞受賞。小林信彦、高田文夫等に影響を残す。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
トニー 谷。1917年10月14日 - 1987年7月16日、コメディアン。
東京市京橋区銀座に生まれ、小伝馬町に育つ。本名は大谷正太郎。戦後日本の特殊状況を鋭く批評するキャラクターを構築したゲテモノ芸人。リズムに乗りソロバンをかき鳴らす珍芸が売。妙な英単語を混ぜたしゃべりは「トニングリッシュ」と称された。
宮尾登美子。1926年4月13日 - 、小説家。
高知県高知市生まれ。『連』で婦人公論女流新人賞を受賞。『櫂』が太宰治賞を受賞。作品のテーマは一貫して女性である。代表作は『櫂』『鬼龍院花子の生涯』『宮尾本 平家物語』『天璋院篤姫』『義経』など。家紋の揚羽蝶紋は宮尾家の家紋。
萬屋錦之介。1932年11月20日 - 1997年3月10日、俳優。
初名・中村錦之助。吉右衛門劇団立女形を父に持つ歌舞伎役者の御曹司。本名は小川錦一。昭和時代劇を代表する大スター。代表出演映画『宮本武蔵』『風雲児 織田信長』。代表出演テレビドラマは『子連れ狼』『破れ奉行』等。画像は鎌倉霊園にて撮影。
張本勲。1940年6月19日 - 、元プロ野球選手、野球解説者。
プロ野球時代には、「安打製造機」の異名を取り、日本プロ野球で3000安打を記録している唯一の選手。引退後は、プロ野球解説者、タレントとしても活躍している。画像は夫人の墓(張本家の墓)にて撮影。家紋の蝶は張から使用か?
二代目・中村吉右衛門。1944年5月22日 -、歌舞伎役者、俳優。
藤間久信→波野久信→波野辰次郎と改名。歌舞伎では『勧進帳』『義経千本桜』の武蔵坊弁慶が当たり役。また、テレビドラマでは池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵役で有名。画像の揚羽蝶は青山霊園・初代の墓所にて撮影。
藤原紀香。1971年6月28日 - 、女優。
1992年神戸親和女子大学在学中に、第24回ミス日本グランプリを受賞。女優としては『スタアの恋』『ハッピーマニア』『金曜日の恋人たちへ』等が代表出演作。その他、国際活動や人道支援への協力でも知られている。家紋は揚羽蝶紋。
中村獅童(2代目)。1972年9月14日 -、歌舞伎役者、俳優。
歌舞伎の名門・小川家(旧播磨屋、現・萬屋)に生まれる。本名は小川幹弘。代表出演映画「ピンポン」「いま、会いにゆきます」「男たちの大和/YAMATO」「レッドクリフ」など。萬屋錦之介、中村嘉葎達の萬屋の役者も、同様に桐蝶紋。
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木瓜(もっこう)紋は不思議な紋である。
この紋の起源がよくわからないのだ。
代表的なものを上げてみると以下のようなものである。
1)キュウリの切断面を図案化したもの
2)鳥の巣を象ったもの
3)神社の御簾の帽額(モコウ)に使われた文様
4)女陰
いずれにしても、子孫繁栄や縁起のよいものにあやかろうという精神がこの紋の普及を促進したのであろう。
また、都道府県別でこの木瓜の割合が一番多いのは以下の県である。
(都道府県別姓氏家紋大辞典 千鹿野茂著より)
北海道、青森県、岩手県、栃木県、埼玉県、新潟県、富山県、和歌山県。
この中でも特に、富山では、他県に比べて著しい普及率(28%)を示している。
この地域は、戦国時代に朝倉氏が勢力を持っていて、この紋を広く門徒に使わせたためと言われている。
また、2位の地域は、秋田県、宮城県、福島県、石川県、福井県、鳥取県、島根県など。四国と南九州では比較的少ない。
有名人では以下の人々が使っている。
滝川一益。1525年 - 1586年10月21日、戦国時代の武将。
近江国甲賀の土豪・滝川資清の次男として出生。織田信長の家臣として伊勢長島攻め、長篠の戦い、石山合戦で功を上げる。上野と信濃の一部を与えられ関東管領を名乗ったという。領地よりも茶器を所望したと言われている。家紋は丸に立木瓜。
朝倉義景。1533年10月12日- 1573年9月16日、戦国大名。
越前の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景の長男として生まれる。信長と敵対したが、一乗谷城の戦いで敗れ自刃した。その際、往時は1万人余もの人口にて繁栄を誇った一乗谷の市街地は、灰燼に帰した。家紋は三つ盛木瓜。
塙保己一。1746年6月23日 - 1821年10月7日、国学者。
武州児玉郡保木野村出身。塙は師の雨富須賀一の本姓を用いたもので出自は荻野氏。『群書類従』『続群書類従』を編纂した。『史料』編纂の事業は現在も東京大学史料編纂所に引き継がれている。家紋は丸に木瓜。画像は四谷・愛染院にて撮影。
二宮尊徳。1787年9月4日 - 1856年11月17日、農政家・思想家。
相模国足柄上郡栢山村に百姓利右衛門の長男。日本の江戸時代後期に報徳思想を唱えて農村復興政策を指導。子供の頃草鞋を編んで金を稼ぎ寝る間も惜しんで読書をしたという。銅像が全国の小学校等に建てられた。画像は文京区・吉祥寺。
塩谷宕陰。1809年5月30日 - 1867年9月25日、儒学者。
江戸愛宕山下出身。昌平黌に入門。浜松藩(静岡県)藩主水野忠邦に仕える。水野忠邦が老中として天保改革を進めるに当たってその顧問となる。ペリー来航に際し「防禦策」などを草し建言した。家紋は丸に四方木瓜紋。画像は谷中霊園にて撮影。
堀田正睦。1810年8月30日 - 1864年4月26日、大名・老中首座。
佐倉藩第3代藩主堀田正時の次男として生まれる。幕府では寺社奉行や大坂城代などを務め老中となる。開国派として日米修好通商条約締結のために奔走。桜田門外の変後に謹慎処分となる。家紋は堀田木瓜。画像は品川・東海寺の堀田家の墓所にて撮影。
三輪田米山。1821年2月12日- 1908年11月3日、書家。
伊予国久米郡の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。また、明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった。義理の妹・三輪田眞佐子は三輪田女学校(現三輪田学園中学校・高等学校)の創立者。家紋は井桁に木瓜紋。青山霊園にて撮影。
伊東甲子太郎。1835年 - 1867年12月13日、武士。
常陸志筑藩士・鈴木専右衛門忠明の長男として出生。北辰一刀流剣術伊東道場に入門。見込まれて婿養子となり伊東大蔵と称した。藤堂平助の仲介で新選組に加盟。文学師範、のち御陵衛士盟主。油小路事件で暗殺される。家紋は庵木瓜紋。
徳大寺実則。1840年1月10日 - 1919年6月4日、公卿・官僚。
尊皇攘夷派の公卿として活躍。明治以降は天皇の側近(内大臣兼侍従長)として天皇が崩御するまで補佐。内閣総理大臣・西園寺公望は実弟。徳大寺家は清華家の家格を有する公家で笛を家業とした。家紋は木瓜花菱浮線綾。画像は多磨霊園にて撮影。
沖田総司。1842年夏の日 - 1868年7月19日、武士。
父は陸奥白河藩士の沖田勝次郎で長男。新選組隊士。副長助勤、一番隊組長、撃剣師範。本姓は藤原氏。池田屋事件で討幕派数人を切り伏せ活躍したものの直後に肺結核により喀血して倒れる。家紋は丸に横木瓜紋。画像は港区・専称寺にて撮影。
伊東祐亨。1843年6月9日 - 1914年1月16日、海軍軍人。
薩摩藩士伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身。戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍。維新後は海軍の発展に貢献。最高階級は海軍大将。軍人としての生涯を全う。家紋は庵木瓜紋。
田中光顕。1843年11月16日 - 1939年3月28日、官僚、政治家。
土佐藩の家老深尾家々臣・浜田金治の長男として土佐国高岡郡佐川村に出生。土佐勤皇党に参加。高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。戊辰戦争で活躍。維新後は宮内大臣に就任。画像は護国寺にて撮影。
原口兼済。1847年4月2日 - 1919年6月18日、陸軍軍人、政治家。
森藩士・林寛吾の四男として生まれ同藩士・原口等の養子となる。西南戦争、日清戦争に出征。日露戦争では第13師団長として樺太作戦を遂行し樺太全土を占領。貴族院議員も務める。最終階級は陸軍中将。家紋は亀甲に木瓜紋。画像は青山霊園。
山脇正勝。1849年 - 1905年5月6日、新選組隊士。
桑名藩士山脇十左衛門の子。変名、大河内太郎。鳥羽伏見の戦いに敗走し函館で土方歳三配下の新選組に入隊。箱館戦争に参戦。維新後は三菱入社。長崎造船所初代所長を務める。バーバラ寺岡は子孫。家紋は横木瓜紋。画像は染井霊園にて撮影。
真鍋斌。1851年3月7日 - 1918年12月14日、陸軍軍人、政治家。
長州藩中士・真鍋安信の長男として出生。陸軍少将まで昇進したが馬蹄銀事件のために休職。後に男爵を叙爵し華族となり貴族院議員、陸軍参政官を務める。最終階級は陸軍中将。家紋は三つ組み合い木瓜紋。青山霊園にて撮影。
中上川彦次郎。1854年10月4日 - 1901年10月7日、実業家。
中津藩士・中上川才蔵の長男。福澤諭吉の甥(母・婉が諭吉の姉)にあたる。三女はタレント・参議院議員の藤原あき。三井財閥の工業化と不良債権処理を推進し「三井中興の祖」として高く評価されている。家紋は割り菱に鐶木瓜紋。青山霊園にて撮影。
片山潜。1859年12月26日 - 1933年11月5日、社会運動家。
美作国粂郡羽出木村の庄屋藪木家の次男。『労働世界』を創刊し主筆を務め日本で最初の労働組合・労働組合期成会の設立に大きな役割を果たす。また、幸徳秋水らと共に日本で最初の社会主義政党・社会民主党の結成に加わった。青山霊園にて撮影。
服部金太郎。1860年10月9日 - 1934年3月1日、実業家。
江戸の京橋采女町の貧困な夜店商人の家に出生。独立して服部時計店を開業し、銀座4丁目に進出。外国製品に比肩しうる精巧品の製造に成功し、セイコー(SEIKO)に育てた。家紋は丸に横木瓜紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
豊田佐吉。1867年3月19日 - 1930年10月30日、実業家、発明家。
遠江国山口村の貧しい農家に生まれた。父は大工だった。「豊田式木製人力織機」、「豊田式汽力織機」などを次々と発明。後に、豊田商会を設立し、今日、日本の代表企業・トヨタグループの礎を築く。家紋は丸に横木瓜。
伊東忠太。1867年11月21日 - 1954年4月7日、建築家、建築史家。
山形県米沢出身。叔父(父の弟)に官僚・政治家の平田東助がいる。元々画家(漫画家)を志望し妖怪等を描いた漫画も多く残している。主な作品に「祇園閣」「築地本願寺」「新勝寺太子堂」等。家紋は庵木瓜紋(伊東氏の代表紋)。画像は総持寺にて撮影。
増田義一。1869年10月21日 - 1949年4月27日、出版人、政治家。
越後(新潟県)出身。読売新聞記者をへて、実業之日本社を創立、社長となる。「実業之日本」「婦人世界」など多くの雑誌を刊行。日本雑誌協会会長も務める。政治家としては衆議院副議長となる。家紋は丸に横木瓜紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。
伊原敏郎。1870年5月24日 - 1941年7月26日、演劇評論家。
松江生まれ。青々園の名で劇評を書き坪内逍遥と親しくなる。三木竹二と『歌舞伎』を創刊。さらに『日本演劇史』『近世日本演劇史』『明治演劇史』三部作で朝日文化賞を受賞。また新聞小説や戯曲『出雲の阿国』を書いた。家紋は丸に地抜き横木瓜紋。
上野英三郎。1872年1月19日 - 1925年5月21日、農業土木学者。
三重県出身の農業土木・農業工学の創始者。忠犬ハチ公の飼い主。大学で講演中に脳溢血で倒れ急逝。愛犬ハチは帰らぬ上野を長期間待ち続け、「忠犬ハチ公」として秋田犬の名を世間に知らしめることとなった。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
田山花袋。1872年1月22日 - 1930年5 月13日、小説家。
群馬県館林市出身。中年作家の女弟子への複雑な感情を描いた『蒲団』を発表。女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぎ、涙するという描写は、読者、さらに文壇に衝撃を与えた。家紋は丸に横木瓜。多磨霊園にて撮影。
樋口一葉。1872年5月2日 - 1896年11月23日、小説家。
元々父親である則義は甲斐国山梨郡中萩原村の百姓であった。7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。代表作は、「たけくらべ」「にごりえ」。五千円札の肖像となっている。現在の墓所は、杉並区和泉の西本願寺和田掘廟所。
百武三郎。1872年6月3日 - 1963年10月30日、海軍軍人。
佐賀藩士、百武庭蔵の三男として生まれる。二人の弟、百武源吾は海軍大将、百武晴吉は陸軍中将。本人の最終階級は陸軍大将。海軍史上唯一組の海軍大将兄弟。家紋は丸に木瓜紋。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。
平田禿木。1873年2月10日 - 1943年3月13日、英文学者、随筆家。
東京生まれ。本名・喜一郎。島崎藤村らの『文學界』同人として活躍。のち英文学者として多くの翻訳を刊行、『禿木随筆』などがある。またアーネスト・フェノロサの能楽研究に助力した。のち『平田禿木選集』全5巻が刊行された。画像は回向院にて撮影。
芳沢謙吉。1874年1月24日 - 1965年1月5日、外交官、政治家。
新潟県高田出身。中国公使となり、,ソ連のカラハン大使との間で日ソ基本条約を締結。仏大使と国際連盟日本代表を兼務。犬養内閣では外相を務める。戦後初代の駐中華民国(台湾)大使となる。家紋は四方木瓜紋。画像は青山霊園にて撮影。
大角岑生。1876年5月1日 - 1941年2月5日、海軍軍人。
愛知県三宅村出身。読みは、おおすみみねお。日露戦争の第3次旅順口閉塞作戦では出撃した「釜山丸」はエンジンが故障し、船団から脱落する。犬養、斎藤、岡田の各内閣で海軍大臣を務めた。最終階級は海軍大将。画像は青山霊園にて撮影。
緑嶌友之助。1878年1月12日 - 1952年12月16日、元大相撲力士。
石川県上新川郡出身。本名は、高木友之助。現役時代は小結が最高位だが、引退後、立浪弥右衛門を襲名し「立浪三羽烏」と呼ばれた双葉山、羽黒山、名寄岩等の名力士を育て一代で部屋を角界屈指の名門にまで引き上げた。画像は谷中霊園にて撮影。
山野政太郎。1878年3月3日 - 1969年5月29日、実業家。
富山県出身。 西洋楽器店を創業。松本ピアノから営業権を譲り受け「山野楽器店」と改称し初代社長に就任。ピアノ、オルガン、レコードの販売に成功。東京蓄音器商組合長、全国蓄音器商組合連合会会長などを歴任。画像は多磨霊園。
梅ヶ谷藤太郎。1878年3月11日 - 1927年9月2日、第20代横綱。
石川県上新川郡(現在の富山県富山市)に生まれる。常陸山谷右エ門と同時に横綱に昇進。「梅・常陸時代」と呼ばれる黄金時代を築く。168勝27敗47分2預116休、勝率.862。優勝相当成績3回。家紋の木瓜は、本門寺の墓所にて撮影。
下中弥三郎。1878年6月12日 - 1961年2月21日、実業家。
兵庫県多紀郡今田村出身。アナキズムや農本主義の影響を受け「教育改造の四綱領」を発表。平凡社を創設。『大百科事典』を出版して一躍「事典」出版社として著名になる。世界平和アピール七人委員会を結成し世界連邦運動を推進。画像は多磨霊園。
長塚節。1879年4月3日 - 1915年2月8日、歌人、小説家、歌人。
茨城県岡田郡国生村の豪農の家に出生。アララギの創刊に携わり万葉の短歌の研究と作歌に励む。長編『土』を東京朝日新聞に連載し代表作となる。また農民小説のさきがけともなった。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は横木瓜紋。
佐野利器。1880年4月1日 - 1956年12月5日、建築家。
山形県西置賜郡荒砥村出身。生家(山口家)が没落し佐野家の養子となる。鉄骨煉瓦造の丸善書店の構造設計を行う。関東大震災後の復興事業・土地区画整理事業を推進。清水組副社長も務めた。家紋は剣木瓜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
岩波茂雄。1881年8月27日 - 1946年4月25日、出版人。
長野県諏訪郡中洲村の農家に出生。古書店から出発し夏目漱石の知遇を得て「こゝろ」を出版。岩波書店を創業する。後に『思想』『科学』『文化』などの雑誌や、岩波文庫を創刊。貴族院多額納税者議員に互選、任命される。家紋は丸に剣木瓜紋。
丸山鶴吉。1883年9月27日 - 1956年6月3日、官僚。
丸山茂助の四男として広島県沼隈郡松永村に出生。警視庁特高課長、保安課長、静岡県内務部長、宮城県知事、朝鮮総督府警務局長、大政翼賛会事務総長、武蔵野美術学校校長、警視総監を歴任。家紋は丸に横木瓜紋。青山霊園の墓所にて撮影。
植芝盛平。1883年12月14日 - 1969年4月26日、武道家。
和歌山県田辺市の農家に生まれる。宗教団体大本に入信し「植芝塾」道場を開設。出口王仁三郎の命名により、自ら創始した武術を合気武道と呼称した。合気道関係者は開祖、特に古い高弟は大先生、翁先生と呼ぶことが多い。家紋は丸に横木瓜紋。
竹久夢二。1884年9月16日 - 1934年9月1日、画家・詩人。
岡山県邑久郡本庄村に代々酒造業を営む家に次男として出生。本名は竹久茂次郎。数多くの美人画を得意とした大正浪漫を代表する画家。作品は「夢二式美人」と呼ばれた。詩『宵待草』には曲が付けられて全国的な愛唱曲となった。家紋は丸に木瓜紋。
正力松太郎。1885年4月11日 - 1969年10月9日、実業家、政治家。
富山県射水郡枇杷首村に土建請負業を営む正力庄次郎の次男。読売新聞社の経営者として同新聞の部数拡大に成功。また、長らく巨人軍のオーナーを務め、その業績を称え、正力松太郎賞が設立される。家紋は横木瓜紋。画像は鎌倉・円覚寺にて撮影。
川端龍子。1885年6月6日 - 1966年4月10日、日本画家、俳人。
和歌山県和歌山市に出生。本名は昇太郎。弟(異母弟)は「ホトトギス」の俳人川端茅舍。横山大観率いる日本美術院同人となる。代表作は『火生』『千住大橋』『山葡萄』等。喜寿を記念して長年住んだ大田区に龍子記念館を設立した。家紋は横木瓜紋。
平塚雷鳥。1886年2月10日 - 1971年5月24日、思想家・作家。
東京府出身。父親は紀州藩士で明治政府の高級官吏・平塚定二郎。関ヶ原の合戦で戦死した西軍の武将平塚為広の末裔。女性解放運動・婦人運動の指導者。日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を創刊。画像は春秋苑にて撮影。
木村謹治。1889年1月2日 - 1948年1月13日、独文学、語学者。
秋田県南秋田郡大川村出身。東京帝国大学独文科教授となり、その際、同僚の相良守峯とともに編纂した独和辞典は「キムラ・サガラ」と呼ばれて長く使われた。またゲーテ研究に力を注いだ。家紋は横木瓜紋。画像は多磨霊園にて撮影。
福士幸次郎。1889年11月5日 - 1946年10月11日、詩人、評論家。
青森県弘前市出身。第一詩集『太陽の子』を上梓、口語自由詩の先駆となる。のち評論で『日本音数律論』、民俗学の『原日本考』などを著す。1932年に日本ファシズム連盟を結成した。画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に横木瓜紋。
西ノ海嘉治郎。1890年11月2日 - …




