Articles Archive for 14 1 月 2009
歴史・家紋 »
桔梗紋は反骨と悲劇の紋である。
元々は、清和源氏流土岐氏の使用紋であった。
一族の明智光秀は、主君の織田信長を襲撃した本能寺の変の後、豊臣秀吉との山崎の合戦に破れ、最期は土民の竹槍にさされて死んだ。
水色の桔梗紋は、明智の印として、栄光の目印から一気に、反逆の、そして悲劇のイメージを帯びるようになった。
時が経ち、その水色の桔梗紋をシンボルマークとして、急成長するも、最終的に倒産してしまった会社が現れる。
英会話のNOVAである。
NOVAは英会話産業というニッチな市場を、「駅前留学」というコンセプトで開拓。時代の寵児ともてはやされた。
しかし、その急成長の影で会員との間で様々なトラブルが発生していたのだ。
それが元で悪評判が広まり、一方で社内の不正も発覚。急速に収益が悪化、一気に倒産してしまった。
その後、名古屋市の学習塾経営会社、ジー・コミュニケーションが事業引継を行うのだが、NOVAから桔梗のマークは消えた。
桔梗紋の全国分布では、鹿児島が3位、和歌山が6位、本家の岐阜では7位である。
桔梗紋の有名人は以下。
土岐光衡。1159年 - 1206年5月4日、武将。
美濃源氏嫡流。実質的な土岐氏の祖。治承・寿永の乱で討死した源光長の子であるが、伯父光基の養子となり土岐氏の嫡惣を継承した。平家滅亡後は鎌倉幕府の御家人となった。水色桔梗紋はこの光衡の代から使用しはじめたと言われている。
太田道灌。1432年 - 1486年8月25日、武将。武蔵国守護代。
家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。扇谷上杉家家宰として活躍。江戸城を築城。最期は暗殺死。家紋は丸に細桔梗。画像は、道灌ゆかりの谷中・本行寺の賽銭箱。
明智光秀。1528年 - 1582年7月2日、武将。
明智氏の本姓は源氏。美濃源氏の流れを汲む土岐氏の支流。家系は清和源氏の一家系で摂津源氏の傍流。信長の家臣として功を重ね、織田大名の総合指揮権を与えられた。本能寺の変で信長を倒すが山崎の合戦で秀吉に破れ最期は土民の竹槍に突かれて死す。
山県昌景。1529年 - 1575年6月29日、武将。
飯富虎昌の弟。旧名は飯富源四郎。武田信玄の近習として仕える。三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康本陣に突進し武田軍の背後を狙ったはずの家康軍を返り討ちにした。長篠の戦いでは撤退を進言したが容れられず体中に銃弾を浴びて戦死。
加藤清正。1562年 - 1611年、武将・大名。
尾張国愛知郡中村に鍛冶屋の子として出生。豊臣秀吉に仕え各地を転戦し、秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は池上本門寺の供養塔で撮影。
山県大弐。1725年 - 1767年9月14日、儒学者、思想家。
甲斐国篠原村に生まれる。野沢氏の出自。名は昌貞。字は子恒。甲斐国山梨郡下河辺山王神社の宮司となり、尊皇攘夷の思想を説く。明和事件で処刑された。主著は『柳子新論』。家紋は桔梗紋であるが新宿・全勝寺の墓所には奥方斎藤家の撫子紋がある。
調所広郷。1776年3月24日 - 1849年1月13日、薩摩藩の家老。
城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、調所清悦の養子となる。本姓は藤原氏を。薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を強引な行政改革、農政改革、財政改革等で乗り切る。家紋は丸に桔梗紋。青山霊園の調所家の墓所にて撮影。
斎藤弥九郎。1798年2月28日 - 1871年11月14日、剣術家。
越中国射水郡仏生寺村の生まれ。斎藤家は加賀国守護冨樫氏の末裔と伝えられる。幕末江戸三大道場の一つ神道無念流の「練兵館」創立者。門下生には桂小五郎、高杉晋作・品川弥二郎・井上馨・伊藤博文らがいる。家紋は隅立て菱角に細桔梗紋。
大村益次郎。1824年5月30日 - 1869年12月7日、医師、兵学者。
周防国吉敷郡鋳銭司村字大村に村医の村田孝益の息子として生れる。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となる。事実上の日本陸軍の創始者。靖国神社の境内に銅像が建つ。NHK大河ドラマ「花神」(原作:司馬遼太郎)の主人公。
田辺太一。1831年10月21日 - 1915年9月16日、幕臣・外交官。
儒学者で幕臣の田辺誨輔(石庵)の次男として生まれる。幕臣時代はパリ万国博覧会に出展した幕府の派遣使節、維新後は、岩倉遣欧使節に一等書記官として随行。外務官僚ととして活躍。家紋は丸に桔梗紋。青山霊園の墓所にて撮影。
坂本龍馬。1836年1月3日 - 1867年12月10日、政治家・実業家。
清和源氏の一支族美濃源氏土岐氏の庶家、明智左馬助秀満の末裔を称する。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力する。龍馬の桔梗紋は、「組合角に桔梗紋」。
山岡鉄舟。1836年7月23日 - 1888年7月19日、武士・幕臣。
江戸本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の四男として出生。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち西郷と会談。その行動力は西郷をして賞賛させた。維新後は明治天皇の教育係も務める。家紋は丸に桔梗紋。画像は谷中・全生庵にて撮影。
上野彦馬。1838年10月15日 - 1904年5月22日、写真家。
長崎の蘭学者・上野俊之丞の次男。読みは、うえのひこま。我が国における最初期の写真家で、坂本龍馬の肖像を撮影したことで有名。日本最初の戦場カメラマン。『龍馬伝』 ではテリー伊藤が演じた。家紋は桔梗の二引。画像は長崎の上野家墓地。
桐野利秋。1838年12月 - 1877年9月24日、薩摩藩士。
鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門の第三子として出生。小松帯刀ら藩の重臣から重用され薩長両藩親和のために奔走。明治六年の政変で西郷隆盛が下野するや辞表を提出し西南戦争に参戦、戦死。家紋は抱き茗荷に桔梗。
月岡芳年。1839年4月30日 - 1892年6月9日、浮世絵師。
武蔵国豊島郡新橋南大阪町出身。姓は吉岡、後に月岡。歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がける。また衝撃的な無惨絵の描き手としても知られる。家紋は丸に桔梗紋と丸に竹笹紋。画像は新宿・専福寺にて撮影。
長岡安平。1842年 - 1925年、造園家、作庭家。
肥前大村の藩士として大村城下に出生。郷土の先輩である楠本正隆に従って上京。楠本が東京府知事に就任後、東京府立公園や街路並木の改良新設を行い「飛鳥山公園」「浅草公園」「向島百花園」の改修に関わる。家紋は清明桔梗紋。青山霊園にて撮影。
瓜生寅。1842年1月15日 - 1913年2月23日、官僚、実業家。
父は福井藩士。遠祖の瓜生姓を名乗る。幕府の英語学校教授となる。兵庫日本米穀輸出会社顧問を経て、外国船積立業瓜生商会を設立。著作は、貨幣、地質学、測量、地理、家政学など多方面にわたる。 家紋は桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。
矢野二郎。1845年1月15日 - 1906年6月17日、武士、教育者。
江戸出身。本姓は富永。外国方訳官となる。維新後、外務省にはいり駐米代理公使となる。のち森有礼創設の商法講習所所長、改称後の高等商業(現一橋大)の校長をつとめ、商業教育の基礎をきずいた。家紋は丸に細桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。
川上操六。1848年12月6日 - 1899年5月11日、陸軍軍人、華族。
薩摩藩士・川上伝左衛門親徳の三男。陸軍の重鎮として軍の近代化を推し進める。桂太郎、児玉源太郎とともに明治陸軍の三羽烏とされる。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
長谷川好道。1850年10月1日 - 1924年1月27日、陸軍軍人。
長州藩支藩岩国藩士・長谷川藤次郎の子として生まれる。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍し武功を上げる。朝鮮総督時代には三・一独立運動を弾圧し3年で斎藤実に交替する。最終階級は陸軍大将。家紋は桔梗紋。青山霊園の墓所にて撮影。
松室致。1852年1月22日 - 1931年2月16日、政治家、教育者。
小倉藩藩士の長男。読みは、まつむろいたす。桂内閣で司法大臣となり司法界の粛清を行う。後に貴族院議員、枢密顧問官を歴任。治安維持法への死刑・無期懲役追加に反対した。法政大学の学長を長く務めた。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園にて。
元田肇。1858年2月28日 - 1938年10月1日、政治家。
豊後国国東郡来浦に医師・猪俣栄造の子として出生。杵築藩の藩儒・元田直の養子となる。第25代衆議院議長、逓信大臣、鉄道大臣を歴任。74歳にして政党出身者ではじめて枢密顧問官に親任される。家紋は丸に桔梗紋。画像は青山霊園にて撮影。
坂本嘉治馬。1866年4月25日 - 1938年8月23日、実業家。
土佐国(高知県)で生まれる。明治、大正期を代表する出版社、冨山房を神田神保町に設立した。吉田東伍の「大日本地名辞書」、上田萬年、松井簡治「大日本国語辞典」を刊行。家紋は丸に桔梗紋。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。
川上眉山。1869年4月16日- 1908年6月15日、小説家。
大阪生まれ。本名・亮。別号、煙波山人。帝国大学文科大学在学中から創作をし、「墨染桜」で注目される。「書記官」、随筆「ふところ日記」などが代表作。39歳という若さで自殺。家紋は丸に桔梗。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。
東儀鉄笛。1869年7月24日 - 1925年2月14日、雅楽家・作曲家。
1300年続く雅楽の家柄に生まれ宮内庁雅楽寮に勤める。同じ姓でも、江戸幕府に仕えた楽師の末裔・雅楽演奏家・東儀秀樹とは別家系。早稲田大学校歌「都の西北」の作曲者。家紋は丸に剣桔梗紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
柳田国男。1875年7月31日 - 1962年8月8日、民俗学者。
兵庫県神東郡出身。儒者・松岡操の六男。柳田家の養嗣子となる。養父・直平は大審院判事。農商務省のエリート官僚という立場で日本民俗学を確立。代表作は『遠野物語』『山の人生』等。家紋は大の字桔梗。画像は春秋苑にて撮影。
金光庸夫。1877年3月13日 - 1955年3月5日、実業家、政治家。
大分県生まれ。大正生命保険(現・PGFL)創設。阿部内閣で拓務大臣として初入閣。第2次近衛内閣で厚生大臣となる。大政翼賛会顧問、同調査会長、翼賛政治会政務調査会長、大日本政治会総務会長などを務める。家紋は丸に桔梗紋。画像は多磨霊園にて撮影。
上田貞次郎。1879年5月12日 - 1940年5月8日、経済学者。
東京都麻布出身。読みは、うえだていじろう。祖父の代まで町人であったが父の代から士族となる。東京商科大学(現一橋大学)学長。東亜経済研究所(現・一橋大学経済研究所)を設立し初代所長に就任。家紋は桔梗紋。画像は多磨霊園にて。
正宗白鳥。1879年3月3日 - 1962年10月28日、劇作家、小説家。
岡山県和気郡穂浪村に生まれる。江戸時代の正宗家は代々網元であり、高祖父の雅明の代までは材木商も営んだ財産家であった。本名は正宗忠夫。自然主義文学に新分野を開き注目された。代表作は『何処へ』『人間嫌ひ』『銀座風景』等。家紋は桔梗紋。
嶋田繁太郎。1883年9月24日 - 1976年6月7日、海軍軍人。
旧幕臣・神官、嶋田命周の長男として生まれる。1915年海軍大学校13期卒。東條内閣にて海軍大臣となり、対米開戦を容認した。最終階級は海軍大将。終戦後にA級戦犯に指名されるが仮釈放後赦免される。画像は、巣鴨・盛雲寺にて撮影。
砂田重政。1884年9月15日 - 1957年12月27日、政治家。
愛媛県生まれ。1920年に立憲国民党から衆議院議員に初当選。第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組む。家紋は桔梗紋と蛇の目紋。画像は小平霊園にて撮影。
飛田穂洲。1886年12月1日 - 1965年1月26日、学生野球指導者。
茨城県東茨城郡大場村出身。本名は飛田忠順。日本の学生野球の発展に多大な貢献をし、学生野球の父と呼ばれる。報知新聞の記者を経て、東京六大学野球連盟理事・公式記録員、早稲田大学野球部顧問として学生野球の普及・発展に尽力した。
子母澤寛。1892年2月1日 - 1968年7月19日、小説家。
北海道厚田郡厚田村出身。本名は梅谷松太郎。祖父十次郎は江戸の御家人で箱館戦争に敗れてそのまま北海道に定住。代表作の『勝海舟』は大河ドラマ『勝海舟』原作となる。随筆に『座頭市』の原作『ふところ手帖』がある。画像は春秋苑にて撮影。
桂文楽(8代目)。1892年11月3日 - 1971年12月12日、落語家。
青森県五所川原町出身。本名は並河益義。並河家は常陸宍戸藩主松平家の家来筋。自宅の住居表示以前の町名から「黒門町」と呼ばれた。戦後最高の落語名人のひとりといわれた。得意ネタは「穴どろ 」「心眼 」「酢豆腐 」等。家紋は三ツ割桔梗。
野呂栄太郎。1900年4月30日 - 1934年2月19日、経済学者。
北海道長沼町出身。戦前の日本共産党の理論的指導者であると共に党幹部として実践活動にも関わった。スパイの手引きで検挙され、品川警察署での拷問により病状が悪化し、絶命。主著は『日本資本主義発達史』。画像は青山・長谷寺にて撮影。
音丸。1906年12月8日 - 1976年1月18日、歌手。
本名は永井満津子。東京市麻布箪笥町生まれ。当時前座を勤めていた美空ひばりがバス事故にあった際の座長もつとめていた。代表作は「船頭可愛や」「下田夜曲」「博多夜船」等。家紋は丸に桔梗紋。墓は東京都品川区にある天妙国寺。
田中澄江。1908年4月11日 - 2000年3月1日、脚本家、作家。
東京府北豊島郡生まれ。夫は劇作家の田中千禾夫。ブルーリボン賞脚本賞を受賞。東京都名誉都民。中野区教育委員も務めた。代表脚本作は『我が家は樂し』『少年期』『めし』など。山を愛していて「花の百名山」を選んだ。家紋は丸に桔梗紋。
森繁久弥。1913年5月4日 - 2009年11月10日、俳優。
大阪府枚方市出身。家紋は桔梗紋。父は実業家の菅沼達吉。菅沼家は江戸時代には江戸の大目付だった名門。7歳の時に母方の祖父の姓を継いで森繁姓となる。代表出演作はミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」、映画「夫婦善哉」等。
加藤治子。1922年11月24日 - 、女優。
東京都赤坂区に呉服問屋の娘として出生。本名は滝浪治子。新演劇研究会に入団。後に高橋昌也、岸田今日子らと劇団雲の創立に参加。代表出演作『花つみ日記』『恭々しき娼婦』『阿修羅のごとく』等。画像は元夫の加藤道夫(死別)の墓所にて撮影。
岡村昭彦。1929年1月1日 - 1985年3月24日、ジャーナリスト。
大日本帝国海軍参謀の岡村於菟彦の長男として東京に生まれる。三池闘争、部落解放同盟に参加しオルグ活動を行う。ジャーナリストとしてはベトナム戦争の報道写真、ビアフラ内戦の取材などで知られる。家紋は丸に桔梗紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。
山川方夫。1930年2月25日 - 1965年2月20日、作家。
東京市下谷区上野桜木町に、日本画家山川秀峰の長男として出生。本名は山川嘉巳。第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳を発掘。代表作は『演技の果て』『海の告発』。突然の交通事故で死亡。家紋は蛇の目に桔梗紋。
熊井啓。1930年6月1日 - 2007年5月23日、映画監督。
長野県南安曇郡豊科町に、地主の父、元教師の母の息子として生まれる。『帝銀事件 死刑囚』で監督デビュー。『忍ぶ川』でキネマ旬報ベストワン及び監督賞、芸術選奨などを受賞。代表作『黒部の太陽』『サンダカン八番娼館 …
歴史・家紋 »
梅紋は菅原道真の象徴である。
平安時代、右大臣にまで上り詰めた道真は、藤原時平の讒言のせいで大宰府に左遷され、そこで亡くなった。
「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
かの地で詠んだ有名なこの歌の力で、梅が京都から飛んできたという。
しかし、道真の死後、都では落雷や相次ぐ不幸が重なり、それが道真の怨霊による祟りということになった。
そこで、道真は北野天満宮に「天神様」として奉られ、商売繁盛の神様、学問の神様として現在まで篤い信仰の対象となっている。
したがって、梅紋あるいは、梅鉢紋は、天神信仰と関係があるか、菅原氏の流れを汲む氏族が後に家紋として採用した。
有名なのは加賀の前田の梅鉢紋。元々は利仁流藤原氏の一族とされていたが、後に菅原氏の子孫と自称。
天神信仰が盛んだった加賀地方を治めるために、梅鉢紋を利用したとの見方もある。
優雅なデザインの底に怨霊の魂が眠っている奥深い紋である。
全国では7位。多い地域では、山口県と鹿児島県が3位。広島県、佐賀県、熊本県が4位。
逆に、江戸時代に前田氏が統治した石川県、富山県では少ない。庶民が藩主の紋をはばかったためとのこと。
芸術家が多いのが目立つ。武将としてもどちらかと言えば文化の香りが高い人々が名を連ねている。これは菅原道真とのつながりを意識した振る舞いがあるのか??
梅紋・梅鉢紋の有名人は以下。
金森長近。1524年 - 1608年9月20日、武将。
美濃源氏土岐氏の支流。近江国野洲郡金森に居住。豊臣秀吉に仕え飛騨一国を与えられた。関が原では東軍に値し初代高山藩主となる。茶の湯の才にも秀でており秀吉から利休の嫡男である千道安を匿った。家紋は裏梅紋。
前田利家。1539年1月15日 - 1599年4月27日、武将、大名。
尾張国海東郡荒子村の荒子城主前田利昌の四男として生まれる。小姓として織田信長に仕え「槍の又左」の異名をもって怖れられた。信長の死後、秀吉に臣従。豊臣政権の五大老の一人となる。家紋は梅鉢。画像は、文京区吉祥寺の前田家の墓所にて撮影。
筒井順慶。1549年3月31日 - 1584年9月15日、戦国時代の大名。
大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた。松永久秀によって居城・筒井城を追われるが、三好三人衆と手を結んで筒井城を奪還。大和国で松永久秀と抗争の上、平定。茶湯、謡曲、歌道など文化面に秀でた教養人であった。家紋は梅鉢。
紀伊国屋文左衛門。1669年 - 1734年5月26日、商人。
紀州湯浅の出身。みかん、材木などの商いで財を成す。幕府から十文銭の鋳造を請け負ったが、質が悪く1年で通用が停止されてしまったという。画像は深川・成等院墓所の親族の墓を撮影。家紋は丸に梅紋。ただし、本人の墓は保存が悪く家紋は未確認。
平賀源内。1728年- 1780年1月24日、蘭学者、発明家、画家。
讃岐国寒川郡志度浦に生まれる。父は白石茂左衛門。天才、異才と称される。鎖国を行っていた当時の日本で蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。エレキテルを復元したり日本最初の宣伝コピー「本日土用丑の日」を考えた。
中山みき。1798年6月2日 - 1887年2月18日、宗教家。
大和国山辺郡三昧田村の前川半七の家に生まれる。中山善兵衞に嫁ぐ。親神・天理王命が乗移り天理教を開く。天理教教会本部では、「教祖」と書いて「おやさま」と呼称させている。家紋は丸に梅鉢。現在の天理教のマークとなっている。
伊沢蘭軒。1777年12月10日 - 1829年4月20日、医師、教育者。
備後福山藩医の子として生まれる。頼山陽、大田南畝等とも親交を持ったという。清川玄道、森立之、岡西玄亭、山田椿庭、渋江抽斎等、多くの弟子を育てた。その生涯は森鴎外の史伝『伊沢蘭軒』に詳しい。家紋は梅鉢。画像は麻布長谷寺の墓所にて撮影。
梅田雲浜。1815年7月13日 - 1859年10月9日、儒学者。
小浜藩藩士・矢部義比の次男として生まれる。アメリカのペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて幕政を激しく批判したが安政の大獄で摘発、逮捕される。拷問においても何一つ口を割らず、獄中で病死した。家紋は梅鉢。
前田案山子。1828年4月7日 - 1904年7月20日、政治家、文人。
細川藩に指南として仕えていたが明治維新に際し農民と共に生きる決意で案山子と改名。自由民権運動の闘士となり干拓農地の免訴運動などに奔走。次女の卓は夏目漱石の「草枕」の那美さんとして登場。家紋は梅鉢紋。画像は平林寺にて撮影。
篠原泰之進。1828年12月22日 - 1911年6月13日、志士。
筑後国生葉郡高見村の豪農・石工業者・篠原元助の長男として出生。新選組に加盟するが、御陵衛士結成に伴い、離脱。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の一員として戦う。維新後は秦林親と改名。家紋は丸に梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。
副島種臣。1828年10月17日 - 1905年1月31日、官僚、政治家。
父は佐賀藩の藩校・弘道館の教授、国学者・枝吉南濠。弘道館で学び尊王攘夷思想に目覚める。江藤新平や大木喬任と交わり大隈重信らと脱藩、奔走する。第1次松方内閣では内務大臣を務める。家紋は星梅鉢。画像は青山霊園にて撮影。
福羽美静。1831年8月24日 - 1907年8月14日、国学者、歌人。
津和野藩士・福羽美質の長男。読みは、ふくばびせい。幕末は尊皇攘夷の志士として御所に召され孝明天皇に近侍。八月十八日の政変に際しては七卿と共に西下。維新後は明治天皇の大学御用掛、宮内省歌道文学御用掛となる。家紋は外雪輪に梅紋。
榎本武揚。1836年10月5日 - 1908年10月26日、幕臣、政治家。
父・箱田良助(備後福山藩士)が榎本家の株を買い幕臣となる。新政府軍が江戸城を無血開城すると幕府軍艦を率いて蝦夷地に逃走。五稜郭に拠り蝦夷島政府を設立。維新後、新政府に登用され外務大輔、海軍卿等を歴任する。画像は文京区・吉祥寺にて撮影。
中牟田倉之助。1837年3月30日 - 1916年3月30日、海軍軍人。
金丸孫七郎の次男だったが、中牟田家の養子となる。佐賀藩主・鍋島直正の推薦で長崎海軍伝習所へ入所。西南戦争でも勲功があったため海軍中将に昇進。海軍大学校長や枢密顧問官も務める。家紋は子持輪に梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。
清岡公張。1841年7月10日 - 1901年2月25日、政治家。
安芸郡田野浦出身の郷士。読みは、きよおかともはる。禁門の変では長州藩と共に参戦するが敗北。維新後は、福島県権知事、白河権知事、二本松県権令などを歴任。元老院議官、貴族院議員として活躍。家紋は梅鉢。画像は護国寺にて撮影。
清水郁太郎。1857年11月29日 - 1885年2月26日、医学者。
安芸国吉津村出身。藩校誠之館に入学。初代の東京大学医学部産婦人科学教授。産婦人科にあって臨床診療中心のドイツ産婦人科学を導入。穿頭術、卵巣嚢腫に対する手術も敢行した。家紋は丸に梅鉢紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。
杉浦重剛。1855年4月19日 - 1924年2月13日、教育者・思想家。
近江国膳所藩の儒者・杉浦重文の次男。読みは、すぎうらじゅうごう。若き日の昭和天皇、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の3兄弟に倫理を進講。後に人格高邁の国士と評され理学宗の世界観を確立。家紋は丸に剣片喰紋と向う梅紋。画像は伝通院にて撮影。
團琢磨。1858年9月7日 - 1932年3月5日、工学者、実業家。
筑前国福岡荒戸町出身。福岡藩士馬廻役神尾宅之丞の四男。幼名は駒吉。三井三池炭鉱の経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であったが、血盟団事件で狙撃、暗殺される。作曲家の團伊玖磨は孫(長男の息子)にあたる。画像は護国寺にて撮影。
岡田和一郎。1864年2月10日 - 1938年5月30日、医師、医学者。
伊予国新居郡本町に生まれる。帝国大学耳鼻咽喉科学における初代の正教授。耳鼻咽喉学の祖と称えられる。主著は『耳科学纂録』『社会政策と地方衛生機関の大改革』『耳・鼻・咽喉 』。家紋は丸に星梅鉢紋。画像は染井霊園にて撮影。
水島銕也。1864年6月29日 - 1928年11月2日、教育者。
豊前国中津藩出身。読みは、みずしまてつや。神戸高等商業学校(神戸大学の前身)の創立者、初代校長。生誕地跡である大分県中津市金谷本町には「水島公園」と記念碑が建てられている。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。
長岡半太郎。1865年8月15日 - 1950年12月11日、物理学者。
長崎県大村市で大村藩藩士長岡治三郎の一人息子。土星型原子モデル提唱などの学問的業績を残した。初代大阪帝国大学総長や日本学士院院長などの要職も歴任。家紋は珍しい「隅切り角に四つ梅鉢」紋。画像は青山霊園にて撮影。
小橋一太。1870年10月25日 - 1939年10月2日、政治家。
熊本県出身。読みは、こばしいちた。立憲民政党の結成に関わる。浜口内閣の文部大臣であったが越後鉄道にまつわる汚職事件(越後鉄道疑獄)に連座し文相辞任した(裁判では無罪)。後に東京市市長となる。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。
土井晩翠。1871年12月5日 - 1952年10月19日、詩人、英文学者。
仙台の北鍛治町に、質屋の土井林七の長男として生まれた。本名は林吉。男性的な漢詩調詩風、第一詩集『天地有情』で島崎藤村と併称された。代表作は『荒城の月』『星落秋風五丈原』等。日本心霊科学協会の設立に顧問として関わる。家紋は梅鉢紋。
幣原喜重郎。1872年9月13日 - 1951年3月10日、政治家。
大阪府門真一番村の豪農の家に出生。読みは、しではらきじゅうろう。加藤高明内閣を始め4回も外務大臣になる。自由主義体制における国際協調路線は幣原外交と称された。後に第44代内閣総理大臣となる。家紋は鞠挟みに梅鉢紋。画像は染井霊園にて撮影。
久保猪之吉。1874年12月26日 - 1939年11月12日、医師、俳人。
福島県本宮町生まれ。日本の耳鼻咽喉科学の先駆者で、1928年にはコペンハーゲンで開催された第1回万国耳鼻咽喉科学会に日本代表として出席。ホトトギス派の高浜虚子に師事し句集に「春潮集」がある。家紋は星梅鉢紋。画像は青山霊園にて撮影。
蒲原有明。1875年3月15日 - 1952年2月3日、詩人。
東京麹町隼町に蒲原忠蔵の息子として出生。本名、隼雄。象徴派詩人として薄田泣菫と併称された。『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。北原白秋、三木露風らに影響を与えた。家紋は亀甲に梅鉢紋。画像は麻布・賢崇寺にて撮影。
下村宏。1875年5月11日 - 1957年12月9日、官僚、教育家。
和歌山県出身。息子に劇団東演を主宰した演出家下村正夫がいる。玉音放送の際の内閣情報局総裁でありポツダム宣言受諾の実現に尽力した。朝日新聞社副社長、日本放送協会会長、拓殖大学第6代学長を務める。家紋は梅鉢紋。青山霊園の墓所にて撮影。
谷寿夫。1882年12月23日 - 1947年4月26日、陸軍軍人。
岡山県の農民出身。読みは、たにひさお。南京攻略戦に参加。戦後、蒋介石による南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされ、死刑判決、銃殺刑に処せられた。最終階級は陸軍中将。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。
鳴海要吉。1883年7月9日 - 1959年12月17日、歌人。
青森県南津軽郡黒石町に生れ。島崎藤村の影響で歌を始める。田山花袋が「早稲田文学」発表した短編『トコヨゴヨミ』のモデルとなっている。代表作は『乳涙集』『TUTI NI KAERE』『土にかへれ』家紋は丸に梅鉢紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
前田夕暮。1883年7月27日 - 1951年4月20日、歌人。
神奈川県大住郡南矢名村の豪農の家に出生。『詩歌』復刊。口語自由律短歌を提唱したが定型歌に復帰。代表作『収穫』『陰影』『生くる日に』。代表歌「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ」家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。
前田多門。1884年5月11日 - 1962年6月4日、政治家、実業家。
大阪府出身。読みは、まえだたもん。東久邇内閣の文相に就任、教育改革を推進した。東京通信工業(後のソニー)社長に就任。日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長等を歴任。家紋は梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。
前田青邨。1885年1月27日 - 1977年10月27日、日本画家。
岐阜県中津川市出身。歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。代表作の「洞窟の頼朝」は重要文化財に指定される。出身地の中津川には青邨記念館がある。家紋は梅鉢紋。画像は総持寺にて撮影。
牟田口廉也。1888年10月7日 - 1966年8月2日、陸軍軍人。
佐賀県出身。盧溝橋事件を独断で裁断したり、インパール作戦の指揮に失敗したりしたため、大日本帝国陸軍将校の中でも評価は低い。最終階級は陸軍中将。戦後は東京都調布市で余生を送る。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。
水野仙子。1888年12月3日 - 1919年5月31日、小説家。
福島県岩瀬郡須賀川町に出生。本名は服部テイ。田山花袋家に寄寓して内弟子となる。後に川波道三と結婚。『青鞜』の社員となる。代表作は『娘』『徒労』『嘘をつく日』。家紋は丸に梅鉢紋。画像は雑司ヶ谷霊園の川浪家の墓所にて撮影。
栗田健男。1889年4月28日 - 1977年12月19日、海軍軍人。
茨城県水戸市出身。遥かな祖先は清和源氏に連なるという水戸藩士の家に出生。読みは、くりたたけお。レイテ沖海戦では機動部隊の指揮を取り「謎の反転」をしたことで知られる。最終階級は海軍中将。家紋は丸に梅鉢紋。画像は多磨霊園にて撮影。
高塚竹堂。1889年5月23日 - 1968年3月30日、書道家。
静岡県清水市出身。本名は錠二。戍申書道会・泰東書道院・東方書道会の創立に尽力し役員・審査員を経る。国定教科書・台湾教科書を揮毫。松本芳翠と共に書道同文会を創設。書道連盟監事を勤めた。家紋は丸に梅鉢紋。画像は小平霊園にて撮影。
古今亭志ん生(5代)。1890年6月28日 - 1973年9月21日、落語家。
東京・神田亀住町の生まれ。本名は美濃部孝蔵。出自は高位の士族。生家は徳川直参旗本の美濃部家で菅原道真の末裔を称する。長男は10代目金原亭馬生、次男は3代目古今亭志ん朝。20世紀を代表する名人に数えられる。画像は文京区・還国寺にて撮影。
仁科芳雄。1890年12月6日 - 1951年1月10日、物理学者。
岡山県浅口郡里庄町浜中の出身。日本に量子力学の拠点を作ることに尽くした。湯川秀樹、朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げ、「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている。死後、仁科記念財団が設立された。画像は多磨霊園にて撮影。
倉田百三。1891年2月23日 - 1943年2月12日、劇作家。
広島県庄原市出身。西田天香の一灯園で深い信仰生活を送る。代表作『出家とその弟子』 は鎌倉時代に浄土真宗を創始した親鸞とその弟子唯円との物語を描いた戯曲。発表とともに当時の青年たちに熱狂的に支持される。画像は多磨霊園にて撮影。
栃木山守也。1892年2月5日 - 1959年10月3日、第27代横綱。
栃木県下都賀郡赤麻村出身。本名:横田守也。体重103kgで史上最軽量の横綱と形容される。引退後、年寄・春日野を襲名。春日野部屋を創立。春日野部屋の力士(栃ノ心、栃乃洋、栃煌山等)の「栃」の字は栃木山が由来。画像は谷中霊園にて撮影。
浜田広介。1893年5月25日 - 1973年11月17日、童話作家。
山形県東置賜郡高畠町の農家に生まれる。作品は“ひろすけ童話”と呼ばれ、小学校低学年向けの平易な語り口と純朴で心を打つ内容により、絵本などで親しまれている。代表作は「泣いた赤鬼」「椋鳥の夢」「竜の目の涙」など。画像は春秋苑墓地にて撮影。
奥むめお。1895年10月24日 - 1997年7月7日、婦人運動家。
福井県福井市に和田甚三郎の長女として出生。本名・奥梅尾。日本初の婦人団体である新婦人協会で平塚雷鳥、市川房枝と共に理事に就任。主婦連合会を結成し会長に就任。主婦会館設立、初代館長となる。家紋は匂い梅。画像は春秋苑の墓所にて撮影。
池田勇人。1899年12月3日 - 1965年8月13日、政治家。
広島県吉名村に造り酒屋を営む池田吾一郎の子として出生。内閣総理大臣時に所得倍増計画を打ち出して、日本の高度経済成長の進展に大きな役割を果たした。「私はウソは申しません」などの発言を残している。画像は青山霊園にて撮影。
梶井基次郎。1901年2月17日 …




