Articles Archive for 15 1 月 2009
歴史・家紋 »
三つ鱗紋は北条家の紋として知られている。
その昔、北条時宗が家運興隆を祈念して、江ノ島弁才天に参った際に、女房が現れた。
その女房が北条家の家運上昇を予言した後、大蛇になって海中に姿を消した。
そして、その後に残った鱗三枚を持ち帰って北条家の家紋としたというのである。
この三つ鱗は、北条氏が滅びた後も、戦国時代の後北条家も含め家紋として採用した。
今でも、弁財天では波と組み合わせて三つ鱗紋を定紋としている。
写真は、吉祥寺の弁財天の提灯。
さて、この三つ鱗だが、モンゴル出身の横綱・白鵬の紋である。
今から700年前の元寇を迎え撃った北条時宗と同紋というのは、これいかに。
横綱になったことで、日本を制圧したことの印として元寇の復讐を果し、念願の相手の大将の家紋を奪い取ったということなのだろうか。
あるいは、この三つ鱗を身に付けることによって、日本の味方になり、もう一人の横綱・朝青龍を迎え撃つ覚悟の印として三つ鱗を採用したということなのか。
いずれにしても、興味深い。
また、19世紀初末のウィーン分離派の巨匠・クリムトの「幸福への憧れ」にも三つ鱗と同様の文様が見られる。
実際、日本の家紋台帳はヨーロッパに輸出され、アール・デコの芸術家のネタ本になっていたという。
もしかしたら、この絵画に描かれている三つ鱗は、クリムトが、日本美術に影響を受ていたということの証なのかもしれない。
さて、鱗紋の全国分布だが、福岡、大分、大阪、和歌山、三重、神奈川で30位に入っている。
ちょうど、瀬戸内海を通って、太平洋に出て関東までのルートにこの紋が散見されるというのも、面白い。
元々、海上民のシンボルだったのかもしれない。
鱗紋を持つ有名人は以下だ。
北条高時。1303年 - 1333年7月4日、武士。
第9代執権北条貞時の3男。鎌倉幕府第14代執権在任中に奥州で蝦夷の反乱、安藤氏の乱、正中の変、元弘の変が起きる。新田義貞の鎌倉へ侵攻の際、菩提寺の鎌倉・東勝寺にて自刃。画像はその東慶寺にて撮影した北条鱗紋。
北条早雲。1432年 - 1519年9月8日、武将、戦国大名。
室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏の出自とみられる。関東一円を支配する戦国大名に成長する北条氏の基礎を築いた。早雲の活動は東国の戦国時代の端緒として歴史的意義がある。後北条家の家紋は北条鱗(ただし早雲は不使用とも言われている)。
種子島時堯。1528年 - 1579年10月21日、種子島の領主。
島津氏に属し時尭は種子島氏の第十四代領主。種子島に漂着したポルトガル商人から鉄砲を購入。鉄砲を分解させて調べさせ鉄砲製造に成功する。鉄砲は種子島銃とも呼ばれ戦国時代に大きな影響を及ぼす。画像は青山霊園の種子島家分家の墓所にて撮影。
平野長泰。1559年 - 1628年6月8日、武将。
尾張津島の出身で、若年にて秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦いで「賤ヶ岳の七本槍」と称えられた。関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。徳川秀忠旗下で旗本として仕え、子孫は九代続いて明治まで生き残る。
横井小楠。1809年9月22日 - 1869年2月15日、熊本藩士、儒学者。
諱は「時存」。横井家は桓武平氏北条氏嫡流得宗家に発する。松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕政改革をする。また、私塾「四時軒」を開き、多くの門弟を輩出した。新政府も出仕するが、翌年暗殺される。
島田魁。1828年2月29日 - 1900年3月20日、新選組隊長。
美濃国方県郡雄総村出身。庄屋近藤伊右衛門の次男。名古屋城内の御前試合で優勝し大垣藩の嶋田才に見初められ養子となり嶋田家を継ぐ。江戸に出て心形刀流を修得。箱館まで戊辰戦争を戦い抜いた。西本願寺の夜間警備員として一生を終える。
児島惟謙。1837年3月7日 - 1908年7月1日、司法官。
愛媛県宇和島市で宇和島藩士の金子惟彬の二男として出生。大津事件(ロシア皇太子暗殺未遂事件)の際には大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き「護法の神」などと高く評価された。家紋は三つ鱗紋。画像は品川・海晏寺にて撮影。
山県有朋。1838年6月14日- 1922年2月1日、政治家、陸軍軍人。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。
横井時敬。1860年1月29日 - 1927年11月1日、農学者。
肥後熊本藩士横井久右衛門時教の四男。種籾の塩水選種法を考案。東京農業大学学長として日本最初の私立農学校を大学に昇格させる。「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」という名言を残す。家紋は丸に三つ鱗紋。画像は多磨霊園にて撮影。
入沢達吉。1865年1月31日 - 1938年11月8日、医師。
越後国出身。父恭平は藩医。宮内省侍医局勤務後、入沢内科を創始・主宰。日本内科学の確立に貢献。十二指腸虫の感染経路追究などの寄生虫症、レントゲン診断学応用、血色素測定法などの研究をする。家紋は北条鱗紋。画像は谷中霊園にて撮影。
正岡子規。1867年10月14日 - 1902年9月19日、俳人・歌人。
伊予国温泉郡藤原新町出身。松山藩士・正岡常尚の長男。本名は常規。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い日本の近代文学に多大な影響を及ぼした。家紋は丸に鷹の羽紋と丸に三つ鱗紋。画像は子規系図より。
川崎卓吉。1871年3月8日 - 1936年3月27日、官僚、政治家。
広島県賀茂郡広村に医師の二男として出生。福島県知事、台湾総督府内務局長、殖産局長を歴任。第1回選抜中等学校野球大会の始球式を務めた。政治家としては民政党幹事長、文部大臣、商工大臣を務める。家紋は丸に三つ鱗紋。青山霊園にて撮影。
河東碧梧桐。1873年2月26日 - 1937年2月1日、俳人・随筆家。
愛媛県温泉郡千船町にて河東坤の五男として出生。正岡子規に野球を教わる。同級生の高浜虚子を誘い子規より俳句を学ぶ。子規が没すると新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。家紋は丸に三つ鱗紋、副紋は笹竜胆紋。
南俊二。1882年9月28日 - 1961年12月29日、実業家。
大阪府出身。製鉄業、砂金鉱業、セメント業に携わった後に、大阪造船所設立。戦後は南氷洋漁業権を確保。億万長者の一人に数えられた。合理的節倹主義の経営方針をつらぬく。日本造船工業常任理事。横木瓜に三つ鱗紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
御船千鶴子。1886年7月17日 - 1911年1月19日、超能力者。
熊本県宇土郡松合村にて、漢方医・御船秀益の二女として生まれる。三井合名会社の依頼で福岡県大牟田市にて透視を行い、万田炭鉱を発見して謝礼2万円を得る。東京帝国大学の福来友吉助教授が「透視」の研究に彼女を使う。家紋は六つ鱗紋。
川端康成。1899年6月14日 - 1972年4月16日、小説家。
大阪府大阪市北区此花町(現在の天神橋付近)に医師の子として生れる。『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『古都』など日本の美を表現した作品を発表。1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞。家紋は北条鱗、画像は鎌倉霊園にて撮影。
西竹一。1902年7月12日 - 1945年3月22日、陸軍軍人。
東京市麻布区麻布笄町に男爵西徳二郎の三男として出生。通称:バロン西。ロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の金メダリスト。第二次世界大戦に従軍、硫黄島の戦いで戦死。家紋は三つ鱗紋。鱗の背景の草は月桂樹か。青山霊園にて撮影。
横井英樹。1913年7月1日 - 1998年11月30日、実業家。
愛知県中島郡の貧しい農家に生まれ東京日本橋の繊維問屋に丁稚奉公。進駐軍出入りの商人となり一財産を築く。白木屋の株買占めや東洋郵船設立による海運業への進出を行う。ホテルニュージャパンの買収で脚光を浴びた。画像は多磨霊園にて撮影。
高倉健。1931年2月16日 - 、俳優。
福岡県中間市出身。父は旧海軍軍人で裕福な一家に生まれる。本名は小田剛一。東映に第2期ニューフェイスとして入社。代表出演作『網走番外地』『八甲田山』『南極物語』『鉄道員』等。家紋は、北条三つ鱗紋といわれている。
白鵬翔。1985年3月11日 - 、第69代横綱。
モンゴル国ウランバートル市出身。父ジグジドゥ・ムンフバトはモンゴル相撲で6度の優勝をした元アヴァルガ(モンゴル相撲の横綱)でメキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト。歴代の不知火型・横綱では史上最多の優勝回数を誇る。家紋は丸に三つ鱗紋。
まさむね
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江戸時代、ほとんどの日本人は農民であった。
おそらく、農民にとって星という存在はそれほど重要なものではない。
星が重要性を持つのは、山野を飛び回る狩猟の民、あるいは漁労の民、海上の民にとってであろう。
おそらく、月、星をシンボルにした人々はそんな狩猟・漁労民の流れを汲んでいたのではないだろうか。
例えば、平安時代、摂津の国に海に生きる人々がいた。
彼らは海上交通を請け負う、「渡り部」として名を馳せた。その渡り部から渡辺という姓が生れた。
そして渡辺家の代表家紋が、渡辺星である。
墓地等に行くと分かるが、いろんな渡辺氏(渡部氏などを含む)の墓の8~9割に、この渡辺星紋が付いている。
名字と家紋との結び付きがこれほどはっきりしている例を他には知らない。
さて、月星紋だが、東日本に多い。
全国では15位だが、宮城県で8位、新潟県で9位、岩手県、福島県、千葉県では10位となっている。
逆に少ないところでは、富山県で26位。和歌山県で22位、大阪府で20位。
月星紋を持つ有名人は以下。
毛利元就。1497年4月16日 - 1571年7月6日、戦国大名。
本姓は大江氏。家系は大江広元の四男 毛利季光を祖とする。安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大し、戦国時代最高の名将の一人と後世評される。毛利家は大名として幕末まで続く。家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。
保科正俊。1509年- 1593年、戦国時代の武将。
父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。武田氏の信濃先方衆の一人として活躍し、特に槍に優れた使い手であったため、戦国の三弾正に数えられ、「槍弾正」と称された。家紋は平方九星。画像は保科家墓所にて撮影。
高坂昌信。1527年 - 1578年6月12日、武田氏の家臣。
甲斐八代郡石和の豪農・春日大隅の子として生まれる。武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田四名臣の一人として数えられる。信玄の衆道の相手も務めた。画像は大河ドラマ「天地人」での高坂昌信(大出俊演)。総合格闘家の高阪剛は子孫(wikiより)。
千葉胤頼。1532年 - 1559年2月18日、武将、九州千葉氏当主。
少弐資元の次男。千葉喜胤(祇園千葉氏)の婿養子。千葉胤誠の父。胤頼は実兄・少弐冬尚が重臣龍造寺隆信と対立するようになるとこれを支援した。龍造寺隆信・千葉胤連に攻められ、肥前国勢福寺城で少弐冬尚とともに自害。家紋は八曜に三日月。
渡辺守綱。1542年 - 1620年5月11日、武将。
渡辺氏は松平氏の譜代家臣で嵯峨源氏の武将渡辺綱の後裔。槍が得手で「槍半蔵」と称された。三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、小牧・長久手の戦いでは先鋒を務めた。その功績から家康配下の徳川十六神将の一人として顕彰された。
九鬼嘉隆。1542年 - 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。
高山右近。1552年 - 1615年2月4日、武将。
高山氏は摂津国三島郡高山庄出身の国人領主である。信長、秀吉の家臣として活躍。山崎の戦い、四国攻め等に参戦。代表的なキリシタン大名として知られる。伴天連追放令の後、ルソンへ追放され、マニラで病没。家紋は七つ星。
佐久間盛政。1554年 - 1583年7月1日、戦国武将。
尾張国御器所に生まれた。織田氏の家臣。御器所西城主。佐久間氏の一族。勇猛さから鬼玄蕃と称された。本能寺の変による信長の没後は柴田勝家に従ったが、賤ヶ岳の戦いで敗れる。子孫は現在まで大分市で続いている。家紋は九曜。
片倉景綱。1557年 - 1615年12月4日、伊達氏家臣。
米沢の成島八幡神社の神職・片倉景長の次男。伊達政宗の軍師役を長年務めた。仙台藩片倉氏の初代。小田原参陣、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなど政宗の主要戦に参戦。白石城一万三千石の城主となり以後、片倉家は明治まで11代に亘って白石の地を治める。
石田三成。1560年 - 1600年11月6日、武将・大名。
石田正継の次男として近江国坂田郡石田村で生まれる。秀吉の小姓として仕える。豊臣政権の五奉行の一人。家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図るが関が原の戦いで破れる。家紋は九曜紋と大一大万大吉紋。
細川忠興。1563年11月28日 - 1646年1月18日、武将、大名。
室町幕府・幕臣・細川藤孝の長男として京都で出生。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で利休七哲の一人に数えられる。熊本藩細川家初代。元首相・細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。
伊達政宗。1567年9月5日 - 1636年6月27日、戦国武将。
家系は伊達朝宗を祖とする伊達氏。本姓は藤原氏。出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。九曜紋は細川氏から使用許可される。他に竹笹に雀紋(仙台笹)、牡丹紋(仙台牡丹)、竪三つ引両紋等の家紋も使用。
小幡景憲。1572年 - 1663年4月3日、兵学者。
父は甲斐国の戦国大名である武田氏家臣の小幡昌盛。武田滅亡後は、他の武田遺臣とともに武田遺領を確保した徳川氏に仕える。関ヶ原の戦いでは井伊直政に属して戦功を挙げ、大坂の陣では豊臣方に与するが徳川氏に内通していた。墓所は池袋の法明寺。
松倉重政。1574年 - 1630年12月19日、大名。
松倉家はもともとは大和の筒井家の家臣であった。重政は大和に残って豊臣家の配下となる。関ヶ原の戦い、大坂夏の陣で功あり、肥前日野江4万3千石を与えられて入封したが苛政と搾取を行い、島原の乱の主因を作った。家紋は九曜。
豊島信満。1579年 - 1628年9月7日、旗本。
豊島氏は平姓秩父氏の一族で武蔵国の名族であるが、室町時代に太田道灌に敗れて没落。江戸城での初の刃傷事件を起こすが、一族の連座はまぬがれ、後に遺児は紀州藩に仕え、吉宗が将軍になった際に御家人になっている。画像は墓所のある法明寺本堂。
木村貞行。1658年 - 1703年3月20日、赤穂浪士47士の1人。
赤穂浅野家家臣木村惣兵衛の子として赤穂に出生。赤穂藩では馬廻り役・絵図奉行150石。通称は岡右衛門。はじめ大石良雄に神文血判書は提出せず、盟約には加わらなかった。家紋は三つ盛九曜紋。画像は高輪・泉岳寺の墓所にて撮影。
田沼意次。1719年9月11日 - 1788年7月27日、武士・大名。
田沼意行(徳川吉宗に登用された旗本)の長男として江戸の田安屋敷で出生。家治の治世、側用人として権力を掌握。株仲間の結成、印旛沼開拓等の幕政改革を行う。父の代に七面大明神に帰依し家紋を七曜紋とする。画像は巣鴨の勝林寺にて撮影。
千葉周作。1793年 - 1856年1月17日、武士。
出生地には岩手県陸前高田市、宮城県栗原市花山の二説。江戸時代の剣術の流派北辰一刀流の創始者で千葉道場・総師範。門下には浪士組幹部の山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助地、弟・定吉の弟子には坂本龍馬がいた。画像は本妙寺にて撮影。
川路聖謨。1801年6月6日 - 1868年4月7日、旗本、勘定奉行。
豊後国日田出身。内藤吉兵衛歳由の長男として生まれ12歳で小普請組の川路家の養子となる。公海岸防禦御用掛に任じられ、ロシア使節プチャーチンと交渉。日露和親条約に調印。家紋は亀甲に渡辺星紋。画像は池之端・大正寺にて撮影。
浅田宗伯。1815年6月29日 - 1894年3月16日、漢方医、儒学者。
信濃国筑摩郡栗林村(現在の長野県松本市島立)出身。家紋は七曜星紋。代々医業と手習師匠を業とする家に生まれる。徳川将軍家の典医、宮内省侍医を拝命。 浅田飴(ノド飴、医薬品。)のルーツとなる処方を考案した。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。
谷口藍田。1822年8月15日 - 1902年11月14日、儒者。
肥前有田出身。名は中秋。読みは、たにぐちらんでん。豊後の広瀬淡窓、江戸の羽倉簡堂らに学ぶ。肥前鹿島藩の藩校弘文館の教授、権大参事を務める。晩年は東京に私塾藍田書院を開いた。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園にて撮影。
秋月悌次郎。1824年- 1900年1月5日、会津藩藩士。
会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ悌次郎は別家として秋月姓を称する。会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い実質的指導者として活躍した。家紋は九曜。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
ジョン万次郎。1827年1月27日 - 1898年11月12日、通訳・教師。
土佐国中浜村の貧しい漁師の次男に生まれた。漁に出て遭難、漂着して、アメリカの捕鯨船に救助され、先方で英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。帰国後、薩摩藩、幕府などで通訳として活躍。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
飯田武郷。1828年1月22日 - 1900年8月26日、国学者。
高島藩出身。読みは、いいだたけさと。脱藩して上京し尊王攘夷運動に参加。48年かけて執筆した『日本書紀』の注釈書「日本書紀通釈」70巻を完成させた。東京大学、慶應義塾、國學院などで古典を教えた。家紋は七曜紋。画像は青山霊園にて撮影。
西周。1829年3月7日 - 1897年1月31日、啓蒙家、教育者。
石見国津和野藩の御典医の家柄。森有礼・福澤諭吉らと共に明六社を結成。哲学、芸術、理性、科学、技術など多くの哲学・科学関係の言葉を考案。著書は、『百学連環』『致知啓蒙』など。家紋は、変わり連子に月。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
前島密。1835年2月4日 - 1919年4月27日、官僚、政治家。
越後国頸城郡津有村に豪農、上野助右衛門の二男。江戸遷都を建白した。日本の近代郵便制度の創設者。1円切手の肖像になる。「郵便」「切手」「葉書」という名称を定め「郵便制度の父」と呼ばれる。家紋は九曜紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
永山武四郎。1837年5月28日 - 1904年5月27日、陸軍軍人。
鹿児島藩士・永山盛広の四男として出生。北海道庁長官となり、北海道の開拓と防衛に情熱を傾け、「屯田兵の父」と呼ばれた。軍人としての最終階級は陸軍中将。家紋は丸に抱き菊の葉に剣四つ星紋。画像は青山霊園の弟・永山盛輝の墓所にて撮影。
渡邊昇。1838年5月1日 - 1913年11月7日、剣術家・政治家。
肥前国大村藩士・渡辺巖の二男として生まれた。坂本龍馬の依頼により薩長同盟締結実現のため、長州藩と薩摩藩の橋渡しをする。武術振興団体・大日本武徳会を結成。近代剣道の確立に尽力。家紋は三つ星に一つ引紋。青山霊園の墓所にて撮影。
司馬凌海。1840年1月2日 - 1879年3月11日、医学者・語学者。
佐渡島真野町新町生まれ。独語学者の司馬亨太郎は長男。独・英・蘭・仏・露・中の6か国語に通じ、医学用語の日本語訳(蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwolffingerdarm)など)を多く作っている。家紋は十三曜紋。画像は青山霊園にて撮影。
松尾臣善。1843年3月6日 - 1916年4月7日、官僚。
姫路の郷士の子として出生。読みは、まつおしげよし。次女の乕は北里柴三郎の妻。大蔵省出納局長、主計局長、理財局長などを務めた後、第6代日本銀行総裁を務めた。家紋は丸に三つ星紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
阪井重季。1847年1月10日 - 1922年3月1日、陸軍軍人。
土佐藩馬廻役・二川周五郎の長男。後に阪井に改姓。読みは、さかいしげすえ。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争に従軍。日露戦争では後備第1師団長として奉天会戦を指揮。最終階級は陸軍中将。後に富士生命社長となる。家紋は四つ星紋。青山霊園にて撮影。
阿部泰蔵。1849年5月19日 - 1924年10月22日、実業家。
三河国吉田に生まれ。旧姓は豊田。豊田家は藩の医家。17歳で上京,蘭学,英学を研究。慶応義塾に学び、卒業後同校教授、次いで塾頭となる。後に明治生命保険会社、明治火災保険会社を設立し社長となる。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園の場所にて撮影。
星亨。1850年5月19日 - 1901年6月21日、政治家。
江戸の左官屋として出生。母の星姓を名乗る。1892年に衆議院議員当選、同議長に就任。伊藤博文と結んで立憲政友会に勢力を張る。第4次伊藤内閣の逓相に就任。東京市会汚職事件により辞任。東京市会議長在職中に暗殺される。画像は池上本門寺にて。
戸田欽堂。1850年8月26日 - 1890年8月10日、実業家、活動家。
大垣藩主戸田氏正の四男として生まれた。渡米し洗礼を受ける。キリスト教書店「十字屋」を設立。その後、日本独立長老教会を設立し自由民権運動の拠点になった。家紋は九曜紋。画像は本駒込・蓮光寺の墓所にて撮影。
相馬永胤。1850年12月25日 - 1924年1月26日、教育者、実業家。
彦根藩士の家に生まれ戊辰戦争では官軍側で奮闘。読みは、そうまながたね。専修学校(後の専修大学)を創立。初代校長、初代学長を勤めた。横浜正金銀行(後の三菱東京UFJ銀行)取締役、頭取を歴任。家紋は九曜紋。青山霊園にて撮影。
渡辺廉吉。1854年1月8日 - 1925年2月14日、法学者。
越後出身。オーストリアにわたり、シュタインに公法、行政学をまなび、憲法調査のため渡欧した伊藤博文を助けた。帰国後、憲法、民事訴訟法の制定に参画。行政裁判所評定官、貴族院議員。家紋は丸に渡辺星紋。画像は青山霊園にて撮影。
中島鋭治。1859年1月15日 - 1925年2月16日、土木工学者。
宮城県出身。東京帝国大学教授、東京市技師長を兼任。衛生工学を研究し、東京、仙台、名古屋、高崎、鹿児島、漢口(中国)、釜山(朝鮮)などの水道敷設を指導。著作に「英和工学辞典」(共著)。家紋は九曜紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。
岡野知十。1860年3月11日 - 1932年8月13日、俳人。
北海道日高様似に生まれる。本名は岡野敬胤。『半面』を創刊し新々派俳風を鼓吹した。俳書の収集に努め、集めた俳書は東京帝国大学の図書館に寄贈され「知十文庫」として収められた。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。
新渡戸稲造。1862年9月1日 - 1933年10月15日、農学者、教育者。
現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として出生。拓大学監、東京女子大学学長、 国際連盟事務次長、貴族院議員を歴任。著書『武士道』は日本紹介の書として広く海外で読まれた。旧五千円札の肖像となる。画像は多磨霊園にて撮影。
臼井甕男。1865年8月15日 - 1926年3月9日、レイキ創始者。
岐阜県山県郡谷合村出身。読みは、うすいみかお。公務員、実業家、新聞記者など様々な職業を経験した後、現在レイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種・臼井霊気療法を創始する。家紋は月星紋。
若槻礼次郎。1866年3月21日 - 1949年11月20日、政治家。
松江藩の足軽奥村仙三郎の次男。東京帝大仏法科を首席で卒業。その成績は東大始まって以来、最高という。第28代内閣総理大臣任期中に昭和金融恐慌、満州事変の発端となった柳条湖事件が起きている。画像は染井霊園にて撮影。
菊池慎之助。1866年3月31日 - 1927年8月22日、陸軍軍人。
水戸藩士・戸田道守の子として生れ菊池敬之進の養子となる。日露戦争では第4軍副官として出征し同軍参謀となった。軍事参議官、東京警備司令官を経て教育総監在職中に死去。最終階級は陸軍大将。家紋は九曜紋。青山霊園の墓所にて撮影。
宮武外骨。1867年2月22日 - 1955年7月28日、ジャーナリスト。
讃岐国阿野郡小野村に庄屋宮武家の四男として生まれた。反骨精神に富み、自ら新聞、雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁、差し止め処分を受けた。『滑稽新聞』が特に有名。画像は染井霊園の墓所にて撮影。
山本悌二郎。1870年2月10日 - 1937年12月14日、政治家。
新潟県佐渡郡真野町出身。漢方医・山本桂の二男。有田八郎の兄。立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選。田中義一内閣、犬養内閣にてそれぞれ農林大臣として入閣。国粋主義的な政治思想の持ち主。家紋は九曜紋。画像は多磨霊園にて撮影。
高浜虚子。1874年2月22日 - 1959年4月8日、俳人、小説家。
愛媛県松山市長町新町に旧松山藩士・池内政忠の4男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。本名・高濱清。俳誌『ほとゝぎす』に参加。俳壇に君臨する。家紋は九曜紋。画像は鎌倉・寿福寺の墓所にて撮影した水桶。九曜が微妙にわかる。
渡辺錠太郎。1874年4月16日 - 1936年2月26日、陸軍軍人。
愛知県出身。煙草店・和田武右衛門の長男。後に農家・渡辺庄兵衛の養子となる。天皇機関説を擁護するなど、渡辺の自由主義的な意見は青年将校の憎悪を生む。二・二六事件の犠牲者。最終階級は陸軍大将。家紋は渡辺星。画像は多磨霊園にて撮影。
左近司政三。1879年6月27日 …
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昔の貴人は、いつも扇で顔を隠していた。
そして、骨の隙間から外を見ていた。
扇というのは、魔除け用グッズだったのである。
ちなみに、とげ抜き地蔵で有名な巣鴨・高岩寺の寺紋は檜扇紋である。
同時に巣鴨通り商店街の提灯にも檜扇が描かれている。
そのデザインはいかにも”おばあちゃんの原宿”を演出しているのだ。
左写真は、高岩寺内で撮影。
一方、鎌倉時代の最初から、大政奉還まで生き延びた大名の佐竹家の家紋は代々扇に月丸紋であった。
「吾妻鏡」には、佐竹四郎が、源頼朝からこの紋を賜ったとの記述がある。
佐竹家を守ってきたのはまさに、その扇の力だったのかもしれない。
扇紋は全国では、23位だ。特に突出した地域は無いが比較的西日本に多い。京都府、山口県、熊本県で18位が最高、和歌山県(19位)、高知県(20位)といったところが多い。佐竹藩のお膝元の秋田県は27位と少ないが、元お膝元の茨城県は21位と比較的多い。
扇紋を使用した有名人は以下。
長野業政。1491年 - 1561年12月28日、戦国時代の武将。
長野憲業の子として生まれる。本姓は在原氏で、祖先は在原業平と称する。官位は伊予守。長野氏は上野西部の豪族で、周囲の国人の取りまとめ役のような立場であった。関東管領・山内上杉家に属する勢力。上野国箕輪城主。家紋は檜扇。
角倉了以。1554年 - 1614年8月17日、豪商。
近江国犬上郡吉田村出身。本姓は吉田氏。佐々木氏の分家。朱印船貿易の開始とともに安南国などとの貿易を行う。幕命により大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行った。家紋は扇地紙に片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の別の角倉家墓所より。
佐竹義宣。1570年8月17日 - 1633年3月5日、秋田藩藩主。
父・義重の隠居により家督を相続し、佐竹氏十九代当主となる。豊臣秀吉の小田原征伐の際に参陣し所領を安堵された。関が原の戦い時に西軍の立場に立つ。父が東軍についたため、出羽久保田21万石へ減転封されるものの家名存続は許された。
秋田実季。1576年 - 1660年1月11日、戦国、江戸時代の大名。
安東愛季の長男。安東氏は安倍貞任の末裔。豊臣秀吉に対する中央工作によって出羽秋田5万2,000石の安堵を認められた。関ヶ原の際の不手際を責められ徳川家康の命を受けて常陸の宍戸に転封されるが後に陸奥三春に移され存続を許された。
貝賀友信。1650年 - 1703年3月20日、侍。
赤穂藩浅野家家臣吉田助兵衛の二男として誕生。本姓は藤原氏。貝賀新兵衛の養子となる。穂藩では中小姓・蔵奉行。赤穂四十七士の一人。吉良邸討ち入りでは弥左衛門は表門隊に属し、門の警戒にあたった。家紋は重ね扇。
岡本黄石。1811年 - 1898年4月12日、彦根藩家老。
家老宇津木久純の子。岡本業常の養子。水戸藩と提携して攘夷を促す建白を行い、藩主井伊直弼に疎まれる。桜田門外の変で井伊が倒れた後は藩政を主導、戊辰戦争の際には藩論を新政府軍側にまとめた。家紋は檜扇紋。画像は豪徳寺の墓所にて撮影。
仁礼景範。1831年4月6日 - 1900年11月22日、海軍軍人。
薩摩藩士の子弟として生まれる。薩英戦争に参加している。海軍中将として、横須賀鎮守府長官、海軍大学校長などを歴任。第2次伊藤内閣の海軍大臣に就任し、海軍備の充実に力を注いだ。家紋は筋入り三本骨三つ扇紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
三遊亭圓朝。1839年5月13日 - 1900年8月11日、落語家。
橘屋円太郎の子として江戸に出生。本名は出淵次郎吉。歴代の名人の中でも筆頭に巧いとされる。「芝浜」「文七元結」「牡丹燈籠」等を創作。言文一致体を一代で完成させ現代の日本語の祖といわれる。家紋は高崎扇。画像は全生庵にて撮影。
渡辺洪基。1848年1月28日 - 1901年5月24日、政治家、教育者。
越前府中善光寺通りに福井藩士で医者の長男として生まれる。衆議院議員、貴族院議員、東京府知事、東京帝国大学初代総長などをつとめる。工手学校(工学院大学の前身)を築地に設立。家紋は三つ日の丸雁木扇紋。画像は青山・長谷寺の墓所にて撮影。
矢野龍渓。1851年1月2日 - 1931年6月18日、官吏、著作家。
豊後・佐伯藩の中級武士の家に長男。福澤諭吉の推薦で大蔵省に入る。明治十四年の政変で政界を追われ東京専門学校設立に携わり役員に就任。『経国美談』の作者として名高い。家紋は三つ追い雁木扇紋。画像は多磨霊園の矢野家墓所にて撮影。
北里柴三郎。1853年1月29日 - 1931年6月13日、医学・細菌学者。
熊本県阿蘇郡小国町に出生。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「日本の細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應義塾大学医学部を創設。家紋は檜扇に左三つ巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
金子堅太郎。1853年3月13日 - 1942年5月16日、官僚・政治家。
福岡藩士勘定所附・金子清蔵直道の長男。岩倉具視欧米使節団に同行して米国留学。伊藤博文の側近として大日本帝国憲法の起草に参画。専修大学創立に携わる。日本大学初代校長、二松學舍大学舎長も務める。画像は青山霊園にて撮影。
橘家圓喬。1865年12月26日 - 1912年11月22日、落語家。
東京出身。本名:柴田清五郎。7歳の若さで三遊亭圓朝門下に入門。「鰍沢」「三軒長屋」「牡丹灯籠」等を得意とした。後世に大きな影響を与えた名人。「魚売人」「二人癖」など20種類ほどのSPレコードを遺している。家紋は、三遊亭と同じ高崎扇紋。
徳富蘆花。1868年12月8日 - 1927年9月18日、小説家。
本名は徳富健次郎。横井小楠門下の俊英であった父・徳富一敬の次男として肥後国に生まれる。思想家・ジャーナリストの徳富蘇峰(猪一郎)は実兄。自然詩人として出発し、小説『不如帰』はベストセラーになった。家紋は丸に扇紋と言われている。
吉住小三郎(4代目)。1876年12月15日 - 1972年2月27日、唄方。
東京生まれ。吉住勘四郎の子。長唄の唄方。東京音楽学校長唄選科教授、日本芸術院会員、人間国宝、文化勲章受章、文化功労者。代表作曲「鳥羽の恋塚」「醍醐の花見」「新平家物語」等。家紋は三本並び扇紋。画像は南麻布・西福寺にて撮影。
中野正剛。1886年2月12日 - 1943年10月27日、言論人、政治家。
旧福岡藩士中野泰次郎として、福岡市生まれ。東京日日新聞、朝日新聞などで政治評論を行う。政治家としては東條英機首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され、自殺を。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
曾我廼家五郎。1877年9月6日 - 1948年11月1日、喜劇役者。
大阪府堺市か岸和田市出身の二説あり。本名は和田久一。日露戦争をネタにした「無筆の号外」が大当たりした。自らが選んだ脚本を、三十六歌仙にあやかり「36快笑」として天満天神に奉納する。家紋は扇を浮線蝶の擬態に使用した浮線扇紋。
岩井粂三郎 (5代目)。1882年6月28日 - 1945年4月13日、役者。
東京浅草の花川戸に出生。本名は岩井久次郎。父親は四代目岩井粂三郎。屋号は大和屋。当たり役は『伽羅先代萩』の政岡や『嫗山姥』の八重桐。告別式で大名跡・九代目・岩井半四郎が追贈された。谷中・本寿寺の岩井家の墓所の家紋は三つ追い雁木扇紋。
宮原晃一郎。1882年9月2日 - 1945年6月10日、文学者、翻訳家。
鹿児島県出身。本名は知久。読みは、みやはらこういちろう。「海の子」を作詞し文部省の懸賞に応募。尋常小学唱歌に登用される。新聞記者を経て翻訳家となる。代表作は「竜宮の犬」など。家紋は丸に三つ扇紋。画像は多磨霊園にて撮影。
賀屋興宣。1889年1月30日 - 1977年4月28日、大蔵官僚、政治家。
広島県広島市出身。父は国学者の藤井稜意。賀屋姓は母方の叔父の姓。近衛内閣、東条内閣で大蔵大臣として軍事費中心の予算を組み、戦後、A級戦犯に指名された。戦後は自民党右派議員として活躍。家紋は丸に二つ日の丸扇地紙。画像は多磨霊園にて撮影。
山口多聞。1892年8月17日 - 1942年6月6日、海軍軍人。
東京市小石川区に旧松江藩士の山口宗義の子として出生。軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任。太平洋戦争では真珠湾攻撃に参加。ミッドウェー海戦で戦死。最終階級は海軍中将。家紋は檜扇紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
堀内寿郎。1901年9月17日 - 1979年6月27日、理学博士。
北海道札幌市出身。読みは、ほりうちじゅろう。科学反応速度理論の研究では世界的な功績を残した触媒研究の世界的な権威。湯川秀樹らと共に第30回恩賜賞を受賞。北海道大学学長も務める。家紋は高崎扇紋。画像は多磨霊園にて撮影。
塚本憲甫。1904年9月16日 - 1974年6月7日、医学者。
東京府生まれ。ノンフィクションライターの塚本哲也は長女ルリ子の夫。放射線医学総合研究所の二代目所長、国立がんセンター病院長を歴任するが、自身が癌に罹り在職のまま死去した。家紋は一重亀甲に違い閉じ檜扇。画像は多磨霊園にて撮影。
浪越徳治郎。1905年11月15日 - 2000年9月25日、指圧師。
香川県仲多度郡多度津町出身。東京市小石川区に指圧学校を設立。マリリン・モンローに素手で触って指圧した唯一の日本人。「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」は得意フレーズ。家紋は丸に五本扇紋。画像は小石川・伝通院にて撮影。
田中英光。1913年1月10日 - 1949年11月3日、作家。
東京市赤坂区榎坂町生まれ。ただし両親は高知県の出身。息子は推理小説家、SF小説家の田中光二。太宰治に弟子入り。その自殺に大きな衝撃を受け後に禅林寺の太宰の墓前で自殺する。代表作『酔いどれ船』『愛と憎しみの傷に』。家紋は折敷に地紙。
高木彬光。1920年9月25日 - 1995年9月9日、推理小説作家。
青森県青森市生まれ。医者の家系。本名は高木誠一。『能面殺人事件』で第3回探偵作家クラブ賞を受賞。代表作は『人形はなぜ殺される』『成吉思汗の秘密』『白昼の死角』等。家紋は折敷に重ね地紙。地紙とは扇に貼るおしゃれな紙。
バーブ佐竹。1935年2月7日 - 2003年12月5日、歌手。
北海道釧路市出身。本名は佐武豊。『女心の唄』でレコードデビュー。250万枚を超える大ヒットとなり、翌年の第7回日本レコード大賞新人賞を受賞。その後も『ネオン川』『カクテル小唄』などがヒット。家紋は五本扇に月紋。
福田康夫。1936年7月16日 - 、政治家。
東京府東京市世田谷区に大蔵官僚・福田赳夫、三枝の長男として生まれる。内閣総理大臣(第91代)。『低炭素社会』を目指す「福田ビジョン」を提唱した。 家紋は丸に五本骨扇紋。家紋画像は福田家の菩提寺・徳昌寺(群馬県高崎市)にて撮影。
尾上菊五郎(7代目)。1942年10月2日 - 、俳優、歌舞伎役者。
本名は寺島秀幸。屋号は音羽屋。妻は、富司純子。長女は女優の寺島しのぶ、長男は歌舞伎俳優の五代目尾上菊之助。現代歌舞伎のスターにして三之助の一人。家紋は「重ね扇に抱き柏」。画像は雑司が谷墓地の五代目尾上菊五郎の墓所にて。
タモリ。1945年8月22日 - お笑いタレント、司会者。
福岡県福岡市南区出身。本名:森田一義。株式会社田辺エージェンシー所属。『笑っていいとも!』『ミュージックステーション』『タモリ倶楽部』『世にも奇妙な物語』でMCを務める。「笑っていいとも!」にて家紋は丸に五本骨扇であることを告白。
三遊亭小遊三。1947年3月2日 -、落語家。
本名は天野幸夫、山梨県大月市出身。古典落語専門で、長屋ものを得意としている。1983年(昭和58年)3月 真打昇進・同年10月16日から『笑点』にレギュラー出演。東京オリンピックの聖火ランナーに抜擢されている。家紋は高崎扇。
藤森慎吾。1983年3月17日 - 、コメディアン、司会者。
長野県諏訪市出身。愛称は「しんご」。よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のオリエンタルラジオのツッコミ担当。『武勇伝』ネタで有名だが、しゃべくり漫才もする。「笑っていいとも!」にて家紋は家紋は五瓜に檜扇であることを告白。
まさむね
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茗荷は摩多羅神という神のシンボルである。
それでは、この摩多羅神とはどういった神なのか?
最澄が唐から帰って来た時に、守護神としてついてきた神と言われている。
憤怒の神、性の神、食人の神などといろいろな説があるが、実はよくわかっていない。
ただ、不道徳と混沌の匂いがする事は確かだ。
それなのに、出雲大社、比叡山・延暦寺、日光東照宮など、名立たる日本の寺社で祭られている。
まったく不思議な存在である。
茗荷を食べると物忘れが激しくなるというが、日本人全部が、この茗荷のシンボル・摩多羅神のことを忘れてしまったということなのか。
茗荷を家紋にしている人々は心のどこかに忘れてしまった神、摩多羅神を宿しているのかもしれない。
全国では12位。岡山県と鹿児島県では5位、富山県、兵庫県では6位。一番少ない山梨県、山形県でも17位。
茗荷紋の有名人は以下。
堀尾吉晴。1544年 - 1611年7月26日、武将・大名。
尾張国上四郡の守護代・織田信安に仕えた堀尾泰晴の嫡男。豊臣政権三中老の一人。関ヶ原の戦いでは東軍に与し出雲富田24万石に加増移封された。出雲松江藩の初代藩主。松江城を建造した。家紋は抱き茗荷。墓には六つ目結紋、分銅紋がある。
山本常朝。1659年7月30日 - 1719年11月21日、佐賀藩士。
佐賀藩士・山本神右衛門重澄の次男として生まれる。通称・神右衛門。江戸時代の武士、『葉隠』の口述者として知られる。墓所は佐賀市の八戸龍雲寺。常朝近くの山本家の家紋が抱き茗荷紋だったため、暫定的に山本家の家紋も茗荷紋と判断。
桐野利秋。1838年12月 - 1877年9月24日、薩摩藩士。
鹿児島郡吉野村字実方で城下士の中村与右衛門の第三子として出生。小松帯刀ら藩の重臣から重用され、薩長両藩の親和のために奔走。明治六年の政変で西郷隆盛が下野するや辞表を提出して帰郷。西南戦争にて戦死。家紋は抱き茗荷に桔梗。
稲垣千頴。1845年 - 1913年2月9日、作詞家。
武蔵国の士族の家に出生。読みは、いながきちかい。東京師範学校教員の傍ら、手がけた訳詞・作詞には「ちょうちょ(2番)」「君が代(2番)」「蛍の光」「美しき」「見わたせば」等がある。家紋は大割り抱き茗荷紋。画像は谷中霊園にて撮影。
大浦兼武。1850年6月15日 - 1918年9月30日、武士、政治家。
薩摩藩主島津家の分家である宮之城島津家の家臣として生まれる。戊辰戦争では薩摩軍に所属し、奥羽方面に出征。桂内閣の農商務大臣、内務大臣、大隈内閣の農商務大臣・内務大臣を歴任。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は青山霊園にて撮影。
石本新六。1854年2月17日 - 1912年4月2日、陸軍軍人。
姫路藩士・石本勝左衛門為延の六男。日露戦争時に陸軍次官として寺内陸相を支えた。第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外では初めての陸軍大臣に就任。最終階級は陸軍中将。家紋は抱き茗荷紋。画像は天王寺墓地にて撮影。
三須宗太郎。1855年9月16日 - 1921年12月24日、海軍軍人。
彦根藩士三須熊次郎の長男として生まれた。日露戦争時は東郷平八郎率いる連合艦隊の一員として対馬沖にロシアのバルチック艦隊を迎え撃つ。「T字戦法」を敢行。軍令部次長。舞鶴鎮守府長官を経て海軍大将となる。画像は青山霊園にて撮影。
牧野富太郎。1862年5月22日 - 1957年1月18日、植物学者。
土佐国佐川村の裕福な商家にうまれる。命名は2500種以上、自らの新種発見も600種余りとされる。25歳で、津村順天堂の協力を得て、『植物研究雑誌』を創刊。誕生日は「植物学の日」に制定される。家紋は抱き茗荷紋。画像は天王寺墓地にて撮影。
伊藤左千夫。1864年9月18日 - 1913年7月30日、歌人、小説家。
上総国武射郡殿台村の農家出身。本名は幸次郎。正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『アララギ』の中心となって斎藤茂吉、土屋文明等を育成。代表作は『野菊の墓』『隣の嫁』等。画像は亀戸・普門院にて撮影。
横川省三。1865年4月28日 - 1904年4月21日、新聞記者。
南部盛岡藩の出身。若い頃は自由民権運動に携わり、加波山事件により投獄された。朝日新聞の新聞記者として千島列島探検隊の特派員や日清戦争の従軍記者などを取材、報道した。家紋は抱き茗荷紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
町田経宇。1865年10月22日 - 1939年1月10日、陸軍軍人。
鹿児島県日置郡伊集院町出身。井尻仲左衛門の二男として生れ、領事町田実一の養嗣子となる。日露戦争では、第4軍参謀。歩兵第30旅団長、支那公使館付武官、参謀本部第2部長を歴任。最終階級は陸軍大将。家紋は抱き茗荷紋。画像は青山霊園にて。
岡田啓介。1868年2月13日 - 1952年10月17日、海軍人、政治家。
福井藩士・岡田喜藤太の長男。第31代内閣総理大臣時に二・二六事件で襲撃を受けるが、女中部屋の押入に隠れ難を免れた。直後、岡田内閣は総辞職した。最終階級は海軍大将。家紋は大割り抱き茗荷。多磨霊園の墓所にて撮影。
秋山真之。1868年4月12日 - 1918年2月4日、海軍軍人。
松山城下出身。父は旧松山藩下級武士の秋山久敬。日露戦争では連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦参謀として日本海海戦の勝利に貢献。最終階級は海軍中将。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公として有名。家紋は抱き茗荷紋。
志賀潔。1871年2月7日 - 1957年1月25日、医学者・細菌学者。
仙台藩・陸前国宮城郡仙台に、仙台藩士の子として生まれた。姓は佐藤、幼名は直吉。母親の実家である志賀家の養子となり、名も潔と改めた。志賀家は、仙台藩の藩医をつとめる家柄。赤痢菌を発見。家紋は環に花茗荷紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。
森田草平。1881年3月19日 - 1949年12月14日、作家・翻訳家。
岐阜県方県郡鷺山村出身。本名森田米松。夏目漱石の門下生の一人。私生活での不祥事が多かった。代表作は『吉良家の人々』『細川ガラシヤ夫人』。翻訳は『カラマゾフ兄弟』『アンナ・カレニナ』等。家紋は抱き茗荷。画像は多磨霊園にて撮影。
倉橋惣三。1882年12月28日 - 1955年4月21日、児童心理学者。
静岡県鷹匠町出身。小学校以降は東京で育つ。形式化した明治以来のフレーベル主義を改革、幼児教育の発展に尽くした。戦後、教育刷新委員会委員を経て、保育学会を創設した。家紋は丸に三つ並び茗荷紋。画像は多磨霊園にて撮影。
松村謙三。1883年1月24日 - 1971年8月21日、政治家。
富山県福光町出身。幣原内閣の農相として農地改革を提案推進したが、この時、松村自身の土地もこの時没収されている。環日本海における産業発展の観点から日中友好、日中国交回復に尽力。タレントのクリス松村は孫。画像は護国寺の墓所にて撮影。
中里介山。1885年4月4日 - 1944年4月28日、小説家。
神奈川県西多摩郡羽村に精米業者の次男として生まれる。本名は、中里 弥之助。小説『大菩薩峠』は、『都新聞』『大阪毎日新聞』、『東京日日新聞』、『隣人之友』、『国民新聞』、『讀賣新聞』と連載された介山の代表作である。丸に抱き茗荷紋。
本間雅晴。1887年11月27日 - 1946年4月3日、陸軍軍人。
新潟県佐渡島出身。太平洋戦争においてフィリピン攻略時、司令官として第14軍を指揮した。バターンでは米比軍の頑強な攻撃を受け多数の死者を出し作戦に失敗する。最終階級は陸軍中将。マニラ軍事裁判において法務死。画像は春秋苑にて撮影。
村山槐多。1896年9月15日 - 1919年2月20日、洋画家。
横浜市出身。小学校教師村山谷助の長男。デカダン的な生活により22歳の若さで夭折。代表作「乞食と女」(絵画)、「槐多の歌へる」(詩集)等。『開運!なんでも鑑定団』では3,000万円の評価額が付けられた。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
小栗虫太郎。1901年3月14日 - 1946年2月10日、推理作家。
東京都千代田区外神田出身。本名は小栗栄次郎。極端な衒学趣味的作風で有名。代表作『完全犯罪』『黒死館殺人事件』(推理小説の三大奇書の一つ)等。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は白山の源覚寺の小栗家の墓所にて撮影。
保利茂。1901年12月20日 - 1979年3月4日、政治家。
生家は佐賀県東松浦郡鬼塚村の零細農家。佐藤政権において田中角栄・福田赳夫と並ぶ三本柱として内閣官房長官、自民党幹事長を務めた。三木武夫内閣当時「三木おろし」を画策。現自民党衆議院議員の保利耕輔は息子。画像は春秋苑にて撮影。
中田俊一。1902年 - 1968年10月9日、実業家。
島根県鹿足郡出身。 中屋万年筆を岡山で創業。その後、東京上野に拠点を移しプラチナ万年筆に改名。カタログを使った通信販売で成功を収めた。プラチナをペン先に用いた万年筆は人気商品。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は寛永寺第一霊園にて撮影。
水谷八重子(初代)。1905年8月1日 - 1979年10月1日、女優。
東京牛込区神楽坂に時計店の娘として出生。芸術座の舞台に端役で出演。後に、新派劇と新劇の融合を目指した演劇の上演で注目された。「日本芸術院賞」「紫綬褒章」「文化功労者」などを受賞。家紋は一つ茗荷巴。画像は本願寺和田堀廟所にて撮影。
原民喜。1905年11月15日 - 1951年3月13日、小説家、詩人。
広島県広島市幟町出身。父は陸海軍・官庁用達の縫製業を営む。「夏の花」が、第一回水上滝太郎賞を受賞。徹底して人間の苦しみに連帯し、死者の嘆きに貫かれて祈り描いた「鎮魂歌」など一連の作品を残す。画像は、文学者掃苔録図書館より。
稲垣浩。1905年12月30日 - 1980年5月21日、映画監督。
東京本郷区出身。芝居小屋の俳優の息子。山中貞雄らとシナリオ執筆集団「鳴滝組」を結成。三船敏郎主演の『無法松の一生』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞。代表作は『宮本武蔵』『風林火山』。画像は谷中霊園にて撮影。
今井堅。1908年10月17日 - 1997年12月3日、実業家。
東京都出身。1945年に「明々社」を創業。後に少年画報社と改名。「黄金バット」をヒットさせる。後に「週刊少年キング」を創刊。『サイボーグ009』『ワイルド7』『銀河鉄道999』等のヒット作を連載する。画像は谷中・了ごん寺墓地にて撮影。
原ひさ子。1909年8月6日 - 2005年12月4日、俳優。
静岡県静岡市葵区出身の女優。本名は石島久。名脇役として長年活躍し芸団協芸能功労者賞を受賞。代表出演作は「人情紙風船」「わが青春に悔なし」「黒い雨」等。家紋は抱き茗荷紋。画像は金嶺寺の墓所にて撮影。
小沢不二夫。1912年6月13日 - 1966年5月15日、脚本家、作詞家。
東京都出身。本名は小澤不二雄。戦前は大都映画でチャンバラ映画の脚本を量産。「日本演劇協会」設立に参加。同協会の理事となる。美空ひばりの大ヒット曲『リンゴ追分』の作詞者として知られる。画像は池袋・祥雲寺にて撮影。
石田波郷。1913年3月18日 - 1969年11月21日、俳人。
愛媛県温泉郡垣生村出身。本名は石田哲大(てつお)。秋桜子主宰の『馬酔木』に投句を始める。代表句集『鶴の眼』。韻文精神に立脚した人間諷詠の道を辿り中村草田男、加藤楸邨とともに人間探求派と呼ばれた。家紋は五瓜に抱き茗荷紋。
升田幸三。1918年3月21日 - 1991年4月5日、将棋棋士。
広島県双三郡三良坂町出身。実力制第4代名人。三冠独占などの輝かしい戦績は勿論のこと独創的な指し手、キャラクター、数々の逸話は将棋界の歴史を語る上で欠かすことができない。「将棋は創作だ」等の名言がある。画像は烏山・常栄寺にて撮影。
水木しげる。1922年3月8日 - 、漫画家。
鳥取県境港市出身。本名は武良茂。世界妖怪協会会長。妖怪漫画の第一人者として活躍。代表作は『ゲゲゲの鬼太郎』『河童の三平』『悪魔くん』等。家紋は隅立角に抱き茗荷紋。画像は調布市の覚證寺の生前墓にて撮影。
田中六助。1923年1月23日 - 1985年1月31日、政治家。
福岡県田川郡上野村に布団屋の三男。侠客めいた気性で知られる典型的な「川筋者」として育ったという。鈴木内閣成立の裏の立役者。自民党政務調査会長、通商産業大臣、自民党幹事長を歴任。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は春秋苑にて撮影。
鏡里喜代治。1923年4月30日 - 2004年2月29日、第42代横綱。
青森県三戸郡斗川村出身。本名は奥山喜世治。時津風部屋所属。幕内成績:360勝163敗28休 勝率.688。幕内最高優勝は4回。引退後は立田川部屋を興し独立した。元力士にしてはかなりの長寿で80歳まで生きた。家紋は丸に抱き茗荷紋。
鶴田浩二。1924年12月6日 - 1987年6月16日、俳優、歌手。
静岡県浜松市出身。本名は小野榮一。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演。代表出演作『人生劇場 飛車角』『人生劇場シリーズ』『博徒シリーズ』等。代表ヒット曲『傷だらけの人生』『同期の桜』。画像は鎌倉霊園にて撮影。
三島由紀夫。1925年1月14日 - 1970年11月25日、小説家。
東京市四谷区出身。本名は平岡公威。代表作は、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』など。楯の会会長として自衛隊にクーデターを促すが、失敗し、割腹自殺(三島事件)。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
向田邦子。1929年11月28日 - 1981年8月22日、脚本家、小説家。
東京府荏原郡世田ヶ谷町若林生まれ。父親が転勤族であるため日本各地で育つ。代表作は、ドラマ脚本では『時間ですよ』『阿修羅のごとく』、小説では『あ・うん』『だいこんの花』等。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
實吉達郎。1929年11月29日 - 、動物学者・作家。
広島県呉市出身。読みは、さねよしたつお。祖父は、子爵の實吉安純。数多くのテレビ番組に出演。未確認動物「UMA」の命名者として知られる。シャーロック・ホームズの研究家でもある。家紋は抱き茗荷紋。青山霊園の祖父の實吉安純の墓所にて撮影。
海老一染太郎。1932年2月1日 - 2002年2月2日、曲芸師。
東京都新宿区出身。本名:村井 正秀。落語家の三遊亭圓駒を父に持つ。和傘の上で毬を回す芸が有名。実の弟・染之助とコンビを組み、正月のテレビ番組には欠かせない存在となっていた。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は、新宿区の常敬寺の墓所にて撮影。
太刀川恒夫。1937年2月12日 -、実業家、フィクサー。
戦後日本の黒幕・児玉誉士夫の元秘書。ロッキード事件の際に、殖産住宅の東郷民安会長を辞任に追い込んだ疑いで逮捕されている。現在は東京スポーツ新聞社会長となっている。家紋は丸に抱き茗荷紋。画像は池上本門寺の太刀川家墓所にて撮影。
平尾昌晃。1937年12月24日 - 、作曲家、歌手。
東京都牛込生まれ。「ロカビリー三人男」として大人気を博す。代表曲は「ミヨちゃん」「カナダからの手紙」など。また「うそ」「瀬戸の花嫁」などを作曲。家紋は三つ追い蔓茗荷紋。画像は谷中霊園の曽祖父・平尾賛平の墓所にて撮影。
角川春樹。1942年1月8日 - 、実業家、プロデューサー。
富山県中新川郡水橋町に生まれる。父は角川書店創業者の角川源義(画像は源義の墓所)。角川家は富裕な米穀問屋。いわゆる角川映画で一世を風靡。メディアミックスによるエンターテイメント中心の文庫戦略は文庫本のあり方に変革をもたらす。
山口二矢。1943年2月22日 - …
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菱紋と言えば、武田家の紋としてあまりにも有名である。
武田家はもともと、清和源氏の義光流の正統的な武家である。
菱紋には割菱系と花菱系があるが、かの武田信玄は両方とも使用したという。
武田家は、分家として、奥州の南部家、小笠原家、松前家など、全国に発展して行ったが、それらはみな菱紋系の紋を使用した。
左の画像は南部家で使用された鶴菱。
すなわち、菱紋には、武家の正統としてのプライドと武田信玄の威光が今でも輝いているのだ。
全国では11位。やはり、信玄のお膝元の山梨県では1位。他では福岡県で5位、山口県で6位が目立つくらいだ。
北畠親房。1293年3月8日 - 1354年6月1日、公家。
村上源氏庶流の北畠師重の子。『神皇正統記』の作者。後醍醐の皇子世良親王の養育をする。吉田定房・万里小路宣房と共に「後の三房」と呼ばれ、後醍醐の信任厚かった。後に、京都を逃れた後醍醐が吉野で開いた南朝に従う。家紋は割菱と笹竜胆。
大内義興。1477年 - 1529年1月29日、戦国大名。
父は周防守護で大内氏の第29代当主・大内政弘。幼名は亀童丸。室町幕府の管領代・将軍の後見人となり周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城の7ヶ国の守護職を兼ね織田信長らが登場する前の戦国前期の事実上の天下人として君臨。家紋は大内菱。
板垣信方。1489年 - 1548年3月23日、武将。
武田氏の宿将として信虎の代から活躍。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代となり諏訪衆を率いて信濃経略戦で戦功をあげた。村上義清との上田原の戦いで先陣となり緒戦で村上勢を破るが逆襲を受けて討死。画像は「風林火山」の時の千葉真一が演じる。
武野紹鴎。1502年 - 1555年12月12日、茶人。
武田一族(武田信孝の孫)で、父は信久。武田新四郎の名を持つ武士であったが、武野に改姓。堺の豪商(武具商あるいは皮革商)として財を成す一方で茶人として活躍。今井宗久、千利休、津田宗及、細川藤孝などは紹鴎の弟子。家紋は丸に割菱。
馬場信房。1515年 - 1575年6月29日、武将。
馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光のひ孫の源仲政を遠祖とする源姓の氏族。武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。武田四名臣の一人。家紋は花菱。
武田信玄。1521年12月1日 - 1573年5月13日、甲斐の戦国大名。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の長男。越後の上杉謙信と5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定。晩年には上洛の途上、三河で病を発し信濃で病没した。画像は菩提寺の本墓の割菱紋。
陶晴賢。1521年 - 1555年10月16日、武将。
大内氏の重臣・陶興房の次男として出生。本姓は多々良氏。家系は大内氏の庶家・右田氏の分家にあたる。初名は隆房。1551年に大内義隆を殺害。厳島の戦いで毛利元就に敗北、自害。武勇に秀でた人物で「西国無双の侍大将」と呼ばれた。 家紋は大内菱。
内藤昌豊。1522年 - 1575年6月29日、武将。武田氏の家臣。
武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男として生まれる。馬場信春、山県昌景、高坂昌信らとともに武田の4名臣の1人として数えられた。第4次川中島の戦いでは、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍した。家紋は丸に花菱、下り藤。
三好長慶。1522年3月10日 - 1564年8月10日、武将。
管領細川晴元の家臣で、後の山城国五郡の守護代、三好元長の嫡男として生まれる。家系は清和源氏の一家系・河内源氏の傍系・甲斐源氏・小笠原氏の庶流である三好氏。信長出現以前に畿内を平定。幕府の相判衆となり実権を握る。家紋は三階菱。
安国寺恵瓊。1539年 - 1600年11月6日、禅僧・大名。
安芸武田氏の一族である武田信重の子と伝わる。毛利氏の外交僧。大友氏との和睦、秀吉への臣従する際の交渉に活躍。関ケ原の戦いでは毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功。西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首された。家紋は武田菱。
穴山信君(梅雪)。1541年 - 1582年6月21日、武将。
穴山信友の嫡男として生まれる。幼名は勝千代。穴山氏は代々武田氏と婚姻関係を結ぶ親族衆。武田姓の使用を許される名門。武田二十四将の一人。織田信長の甲斐侵攻による土壇場に至って勝頼を裏切り徳川家康を通じて信長に内応。家紋は三盛花菱。
長束正家。1562年 - 1600年11月8日、武将。
長束盛里の長男として近江国栗太郡長束村で生まれる。豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、太閤検地の実施に当たった。近江水口5万石を拝領し、五奉行の末席に名を連ねる。関ヶ原の戦いにて敗走する。画像は映画「のぼうの城」で長束正家を演じた平岳大。
南部利直。1576年4月13日 - 1632年10月1日、南部氏当主。
第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて出生。南部家は清和源氏の河内源氏の流れをくむ。関ヶ原の戦いでは帰国して一揆を鎮圧。このため、家康から所領を安堵され、盛岡藩の藩祖となった。家紋は割り菱、南部鶴、鶴菱を使用。
溝口宣勝。1582年 - 1628年11月24日、武将。
若狭国高浜出身。父・溝口秀勝と共に豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の戦いに際しては上杉景勝に扇動された越後一揆を征圧。父の死により後を継いで新発田藩第2代藩主となり積極的な新田開発を行なう。家紋は溝口菱紋。画像は文京区吉祥所の墓所にて撮影。
井原西鶴。1642年 - 1693年9月9日、浄瑠璃作者、俳人。
大坂の裕福な町人の出と言われている。浮世草子と呼ばれるジャンルで名作を多く残した。主な作品『好色一代男』『日本永代蔵』『世間胸算用』等。俳句を一昼夜に2万3500句を詠んだという。画像は、生国魂神社にある井原西鶴像にある丸に花菱。
新井白石。1657年3月24日 - 1725年6月29日、政治家・学者。
江戸生まれ。先祖は上野国新田郡新井村の土豪。六代将軍・家宣、七代将軍・家継の側近として正徳の治を行う。引退後は『藩翰譜』『読史余論』『西洋紀聞』『折たく柴の記』などを著す。家紋は花菱紋、竹雀紋、田の字紋(「日本姓氏事典」)
柳沢吉保。1658年12月31日 - 1714年12月8日、譜代大名。
上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として出生。家系は清和源氏の流れ。第五代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格の幕府側用人として幕政を主導。家紋は四つ花菱。画像は、新宿河田町の月桂寺にある柳沢吉保の孫・信鴻の墓所の花菱紋。
清水喜助。1783年 - 1859年6月8日、実業家。
越中国婦負郡小羽村出身。農家の長男。神田鍛冶町で大工職を始める。「清水屋」(後の清水建設)の屋号で神田新石町の表通りに店を出し、丹後宮津藩本庄家、彦根藩井伊家、佐賀藩鍋島家の御用達を務める。画像は谷中霊園にて撮影。
安藤広重。1797年 - 1858年10月12日、浮世絵師。
江戸の下級武士・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。その後に浮世絵師となる。浮世絵師としては歌川広重と名乗る。風景画を主に制作し、一立齋と号を改める。主作品『東海道五十三次絵』『金沢八景』『名所江戸百景』等。
田中久重。1799年10月16日 - 1881年1月11日、発明家。
筑後国久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男。国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型、アームストロング砲を完成。また、万年自鳴鐘(重要文化財)も完成。東芝の基礎となる田中製造所を設立。画像は青山霊園にて撮影。
稲妻雷五郎。1802年 - 1877年3月29日、第7代横綱。
常陸国河内郡阿波崎村(現在の茨城県稲敷市)出身。本名は、根本才助。松江藩お抱えの江戸時代に活躍した。幕内通算25場所130勝13敗14分3預1無勝負73休、勝率9割9厘、優勝相当成績12回。家紋は三階菱紋。タレントの山咲トオルは稲妻雷五郎の子孫。
渋江抽斎。1805年12月28日 - 1858年10月5日、医師・考証家。
弘前藩の侍医、渋江允成の子として出生。名は全善。字は道純。通称を道純。儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。森鴎外の『渋江抽斎』によって世に知られる。家紋は花菱紋。画像は谷中・感応寺の渋江家墓所にて撮影。
緒方洪庵。1810年8月13日 - 1863年7月25日、医師、蘭学者。
備中国足守藩士・佐伯瀬左衛門惟因の三男として出生。大坂に適塾を開き福澤諭吉、橋本左内、大村益次郎達の人材を育成。後に幕府の要請により奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕。家紋は丸に三つ割り中陰花菱。画像は文京区・高林寺にて撮影。
雲龍久吉。1822年 - 1890年6月15日、大相撲力士、第10代横綱。
本名は、塩塚久吉、佐藤喜太郎。筑後国山門郡大和村出身。柳川藩のお抱え力士。2つの横綱土俵入りのうち、不知火型の考案者といわれている。幕内通算成績は26場所127勝32敗15分5預55休、勝率.799。優勝相当成績7回。家紋は、三階菱紋。
小笠原長行。1822年6月29日 - 1891年1月25日、江戸幕府の老中。
肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として出生。老中職の中に生麦事件で幕府に無断で賠償金を英国に支払い老中職を罷免される。復職するが第2次長州征討では連敗を重ね、二度目の老中罷免。戊辰戦争では函館まで戦う。画像は烏山・幸龍寺にて撮影。
勝海舟。1823年 - 1899年1月19日、幕臣、政治家。
父は旗本小普請組の勝小吉。曽祖父・銀一は越後国三島郡長鳥村の貧農の家に生まれた。幕末の動乱期、幕臣として、神戸海軍操練所の創設、江戸城無血開城などの偉業を成し遂げる。明治維新後は参議、海軍卿、枢密院顧問として活躍。家紋は丸に剣花菱。
奥野昌綱。1823年5月14日 - 1910年12月12日、牧師。
江戸幕府の下級武士である徒士竹内五郎左衛門直道の三男として、江戸に生まれた。49歳でS.R.ブラウンより洗礼を受け、日本各地で伝道旅行をした。文語訳聖書の翻訳や日本賛美歌のために大きな貢献をした。家紋は花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。
由利公正。1829年12月6日 - 1909年4月28日、政治家、実業家。
福井藩士・三岡義知の長男として越前国足羽郡に生まれる。福井藩士としては殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。五箇条の御誓文の起草にも参画。東京府知事に就任。政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。家紋は花角紋(花菱紋)。
松前崇広。1829年12月10日 - 1866年6月9日、松前藩藩主。
蝦夷松前藩9代藩主・松前章広の六男として福山城で生まれる。第二次長州征伐に家茂の供をし陸軍兼海軍総裁となる。老中の阿部正外とともに独断で兵庫開港を決定、官位剥奪、謹慎を命ぜられる。家紋は割り菱紋。画像は文京区吉祥寺の松前家にて撮影。
木村芥舟。1830年2月27日 - 1901年12月9日、幕臣。
父は浜御殿奉行の木村喜彦。家紋は丸に松笠菱紋。老中阿部正弘によって目付に登用される。軍艦奉行、咸臨丸の司令官を務めた。帰国後の木村は軍艦奉行の職務に復帰。幕府海軍の創設を目指して様々な活動を行っている。画像は青山霊園にて撮影。
岩崎弥太郎。1835年1月9日 - 1885年2月7日、実業家。
土佐国の地下浪人の子として生れる。海援隊の経理を担当。明治の動乱期に政商として巨利を得て、三菱財閥を創業。娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出。家紋は三階菱紋。画像は染井霊園の岩崎家の墓所にて撮影。
澤宣嘉。1836年2月9日 - 1873年9月27日、公卿、政治家。
公卿・姉小路公遂の五男として出生。公卿・澤為量の婿養子となる。八月十八日の政変により朝廷から追放されて都落ち(七卿落ち)。王政復古の後は参与、九州鎮撫総督、外務卿の要職を務める。家紋は花菱紋。画像は小石川伝通院にて撮影。
西村勝三。1837年1月15日 - 1907年1月30日、実業家。
下総国佐野藩の藩邸で付家老平右衛門と楽子の3男として生まれる。幼名三平。兄は貴族院議員西村茂樹。桜組製靴の創業者。築地に伊勢勝造靴場を設立し、日本で最初に靴の製造を行う。家紋は五つ松皮菱紋。画像は品川・東海寺の墓所にて撮影。
三条実美。1837年3月13日 - 1891年2月18日、公卿、政治家。
藤原北家閑院流の嫡流で、太政大臣まで昇任できた清華家のひとつ三条家の生まれ。尊皇攘夷(尊攘)派の公家として活躍。明治国家創立期の中心人物の一人として内大臣、右大臣、太政大臣等を歴任。家紋は三条花角門。画像は護国寺の墓所にて撮影。
大倉喜八郎。1837年10月23日 - 1928年4月22日、実業家。
越後国新発田出身。鉄砲商から政商となり大倉財閥を設立。鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。大倉商業学校(現東京経済大学)の創設者。ホテルオークラは長男の大倉喜七郎によって設立された。家紋は溝口菱紋。画像は護国寺にて撮影。
大隈重信。1838年3月11日 - 1922年1月10日、政治家、教育者。
佐賀城下会所小路に、佐賀藩士の大隈信保の長男として生まれる。上士身分。東京専門学校(現早稲田大学)の創設。1898年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣就任。画像は護国寺の墓所の手水鉢の剣花菱を撮影。
近藤長次郎。1838年4月1日 - 1866年2月28日、志士。
高知城下の饅頭商人の息子として生まれる。後に近藤長次郎、上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人等と名乗る。坂本龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立。長州藩に小銃を売り渡している。花菱紋、五瓜に剣片喰紋、卍紋が墓所に掘られている。
永倉新八。1839年5月23日 - 1915年1月5日、新撰組二番隊組長。
本姓は長倉。池田屋事件では近藤勇、沖田総司らと共に奮戦。戊辰戦争では甲陽鎮撫隊に属して戦うが敗走。新選組の生き残りとして近藤勇、土方歳三の墓を建立。家紋は石持地抜き松皮菱。画像は寿徳寺墓所の中陰松皮菱紋。
山口尚芳。1839年6月21日 - 1894年6月12日、官僚、政治家。
佐賀藩出身。読みは、やまぐちますか。鍋島茂義に将来性を見込まれ長崎に遊学。王政復古後は東征軍に従軍。薩長連合締結に尽力。維新後は元老院議官、会計検査院院長などを歴任。家紋は剣花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。
高杉晋作。1839年9月27日 - 1867年5月17日、長州藩士。
長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太(家禄200石)・みちの長男として生まれる。吉田松陰の松下村塾などで学び、攘夷論を信奉する。下関戦争、長州征伐などで奇兵隊など、諸隊を率いて大活躍する。家紋は丸に割菱。
福地源一郎。1841年5月13日 - 1906年1月4日、ジャーナリスト。
長崎で医師福地苟庵の息子として誕生。1868年閏4月(旧暦)に江戸で「江湖新聞」を創刊。新政府側の怒りを買い、新聞は発禁処分となる。立憲帝政党を結成、東京日日新聞社長、歌舞伎座開設等を行う。家紋は花菱紋。画像は谷中霊園にて撮影。
岡内重俊。1842年5月11日 - 1915年9月20日、司法官。
土佐国土佐郡に藩士岡内清胤の長男として出生。海援隊(画像)に入り秘書役として活躍。欧米視察に随行。帰国後、岩倉具視、伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。家紋は丸に亀甲に武田菱紋。画像は谷中霊園にて撮影
山口素臣。1846年6月8日 - 1904年8月7日、陸軍軍人、華族。
山口藩士・山本芳の息子として萩に生まれ山口義惟の養子となる。読みは、やまぐちもとおみ。戊辰戦争に奇兵隊嚮導役として従軍。維新後は陸軍に仕官し、佐賀の乱・西南戦争、北清事変に参戦。最終階級は陸軍大将。家紋は花菱紋。青山霊園にて撮影。
雨宮敬次郎。1846年10月24日 - 1911年1月20日、実業家。
甲斐国山梨郡牛奥村に生まれる。「天下の雨敬」「投機界の魔王」と呼ばれた。結束して商売にあたった甲州商人、いわゆる「甲州財閥」と呼ばれる集団の一人。日本製粉株式会社の前身の「泰靖社」を起業。家紋は丸に割り菱。
古沢滋。1847年12月18日- …




