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鷹の羽紋 -爪を隠した優美な紋- 浅野長矩、菊池寛、小泉純一郎...

ヨーロッパのファミリークレスト(紋章)と日本の家紋を比べて大きく3つの点で異なっている。
1)ファミリークレストは貴族階級のみ所持するが、家紋は一般庶民にまで広まった。
2)ファミリークレストの図柄は写実的なものが多いが、家紋はデザインが洗練され、抽象化されているものが多い。
3)ファミリークレストでは動物、猛禽類が素材に使われるが、日本ではそれらが使われるのは稀である。
そんな日本の家紋の中で、例外的に猛禽類を家紋として、かなり広まっているのが、この鷹の羽なのである。
しかし、鷹は鷹でもこの紋は、鷹の姿ではなく、鷹の羽を家紋化するところが特徴だ。
獰猛、精悍な姿(いわゆる爪)を隠して、その羽を優美な紋所とする、そのセンスは、どこか、軍隊を自衛隊と言い繕う感覚と通底している。
ごまかしと言うのか、慎み深いと言うのかは、立場によって違うとは思うがいずれにしても日本的といえるだろう。
しかも、この家紋は全国では3位だ。
目立つ地域は、群馬県、千葉県、神奈川県、大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県で1位。
茨城県、栃木県、埼玉県、東京都、山梨県、長野県、愛知県、滋賀県、奈良県、京都府、兵庫県、福岡県、佐賀県、長崎県で2位。
関東と九州で特に多いことがわかる。一方で、比較的少ないのが、青森県(10位)、石川県(8位)、浅野家、阿部家のお膝元広島県の9位。
九州では名族・菊池一族の家紋だったことが大きく影響しているからと言われているが、一方、関東に多いのは、この地域では比較的広い荘園を支配した武士の紋を、そのまま農民が多く使用したからでないだろうか。
それに対して、関西、中国四国の村々では、それぞれの家紋を持った比較的力の強い家族が集まった共同体的性格が強かったのではないだろうか。
さて、鷹の羽を持つ有名人は以下。

菊池武光。1319年 - 1373年12月29日、武将。
菊池氏の第15代当主。南朝・後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。一色、少弐、両者を倒して九州における南朝勢力の隆盛を確立した。家紋は並び鷹の羽。

阿蘇惟豊。1493年 - 1559年12月5日、阿蘇氏の18代当主。
阿蘇惟憲の子。阿蘇惟将・惟種の父。甲斐親宣・親直父子の補佐を受け阿蘇氏の最盛期を築く。阿蘇五ヶ所衆の一人。阿蘇神社大宮司でもある。後奈良天皇宸筆の「般若心経」を受納し阿蘇上宮に社納。家紋は違い鷹の羽。画像は阿蘇神社の神紋。

浅野長矩。1667年9月28日 - 1701年4月21日。大名、赤穂藩主。
播磨赤穂浅野家は広島浅野家の傍流の一つで浅野長政の三男長重を祖とする家柄。殿中刃傷を起こし切腹させられ赤穂浪士の復讐へと繋がる。後に「忠臣蔵」等の歌舞伎や映画で扱われる。家紋は浅野鷹の羽紋。画像は別の浅野家の浅野鷹の羽紋。

高松喜六。1600年代 - 1713年、名主。
江戸浅草阿部川町の名主(なぬし)。元禄11年、あたらしい宿場開設を幕府に願いでて、内藤氏屋敷前に内藤新宿をひらき、甲州街道をとりしまる名主となった。家紋は抱き鷹の羽に変わり「高」の文字紋。画像は四谷・愛染院にて撮影。

勝川春章。1726年 - 1793年1月19日、浮世絵師。
本姓不詳。画姓は初め宮川、後に勝川と称した。写実的でブロマイド的な役者似顔絵を完成させた。代表作の「東扇」は大首絵の先駆的作品。肉筆画では「雪月花図」が代表作。葛飾北斎(勝川春朗)をはじめ、多数の弟子がいた。家紋は丸に鷹の羽紋。

菊池容斎。1788年11月28日 - 1878年6月16日、日本画家。
幕府西丸の御徒・河原専蔵武吉の次男として、江戸下谷長者町にて出生。系図によると南朝遺臣の菊池武時の後裔であるという。菊池武長の後を継いで菊池家を再興した。代表作は「蒙古襲来図」「堀河焼討図」「九相図」。家紋は並び鷹の羽紋。

歌川国芳。1798年1月1日 - 1861年4月14日、浮世絵師。
江戸日本橋本銀町に生まれる。父は京紺屋を営む柳屋吉左衛門。武者絵、名所絵、美人画、役者絵、狂画など多彩な作品を残す。幕府を風刺することで絶大な人気を得る。代表作は『役者似顔絵六歌仙図』『忠臣蔵十一段目夜討之図』等。

阿部正弘。1819年12月3日 - 1857年8月6日、老中首座。
福山藩・第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷にて出生。幕末の動乱期にあって改革を断行。老中首座在任中にペリーが来航、日米和親条約締結を行う。洋学所、長崎海軍伝習所等を創設。家紋は阿部鷹の羽紋。画像は谷中霊園にて撮影。

中村正直。1832年6月24日 - 1891年6月7日、啓蒙思想家。
江戸で幕臣の家に出生。サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題で出版、100万部以上を売り上げる。同人社創立者。また福澤諭吉、森有礼、西周らと明六社を結成。家紋は下り藤に違い鷹の羽紋。画像は谷中霊園にて撮影。

福沢諭吉。1835年1月10日 - 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤桃介・於順の次男として生まれる。東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。画像は元麻布・善福寺の墓所にて撮影。

ジョセフ彦。1837年9月20日 - 1897年12月12日、通訳、貿易商。
播磨国加古郡出身。本名は浜田彦蔵。紀伊半島の大王岬沖で難破。米商船に救助されて渡米。神奈川領事館通訳を務めた。後に英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。新聞の父と言われる。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて。

長與專齋。1838年10月16日 - 1902年9月8日、医学者、官僚。
長与氏は肥前国大村藩に代々仕える漢方医の家系。オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。文部省医務局長に就任。また東京医学校の校長を兼務。衛生思想の普及に尽力。衛生の語は、Hygieneの訳語として長与が採用した。画像は青山霊園。

坂田警軒。1839年6月15日 - 1899年8月15日、漢学者、政治家。
備中国川上郡九名村出身。肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称される。岡山藩家老池田氏の賓師から第2代興譲館(岡山藩藩校)館長に就任。家紋は五瓜に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

小牧昌業。1843年10月5日 - 1922年10月25日、官僚、政治家。
薩摩藩(鹿児島県)で生まれた。明治期に官僚として黒田清隆に仕え、開拓使幹事・大臣秘書官・内閣書記官長、奈良県知事、愛媛県知事などを歴任した。後に、貴族院議員に勅選された。家紋は丸に鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。

日比谷平左衛門。1848年3月25日 - 1921年1月9日、実業家。
越後国蒲原郡三条町の旅宿営業者の3男として生まれ、日比谷家の養子となる。日清紡績、鐘淵紡績の設立に関わり日本紡績界の巨人といわれた。また、第一生命、九州電力などの設立にも寄与。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。

日高壮之丞。1848年4月26日 - 1932年7月24日、海軍軍人。
鹿児島県出身。薩摩藩士・宮内清之進の次男。日高籐左衛門の養子となり家督を相続。NHKドラマ「坂の上の雲」では中尾彬が演じた。最終階級は海軍大将。幾多の軍功によって男爵位を受勲。家紋は割り杏葉菊に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。

川村景明。1850年4月8日 - 1926年4月28日、陸軍軍人。
薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ川村家の養子となる。戊辰戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官、帝国在郷軍人会会長を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に並び鷹の羽紋。画像は青山霊園にて。

大蔵平三。1853年1月30日 - 1911年8月25日、陸軍軍人。
岡山県出身。医師・大野意俊の二男として生まれ、大蔵建安の養子となる。西南戦争に出征し、陸軍大学校教授、参謀本部第2局員、陸大教官、騎兵第1大隊長、騎兵課長、騎兵監を歴任。最終階級は陸軍中将。画像は青山霊園にて撮影。

飯沼貞吉。1854年4月22日 - 1931年2月12日、白虎隊士。
会津藩士・飯沼時衛一正の二男として出生。年齢を偽り白虎隊に参加したが戦い利あらず飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが死に切れなかった。日清戦争にも従軍、77歳で生涯を終えた。家紋は環に違い鷹の羽紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。

大井成元。1863年10月22日 - 1951年7月15日、陸軍軍人。
山口県出身。大井又平の三男。読みは、おおいしげもと。シベリア出兵に従軍した。最終階級は陸軍大将。除隊後は貴族院議員となり、恢弘会会長に就任し、内閣参議も務める。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。

浅川範彦。1865年 - 1907年1月10日、細菌学者、医学博士。
土佐国土佐郡秦村に生まれる。中江兆民の従兄弟。旧高知藩士。ジフテリアや破傷風などの血清研究に功績を残した。免疫学の第一人者として活躍。日本細菌学会賞の一つ、浅川賞に名前を残す。家紋は上り藤に違い鷹の羽紋。青山霊園の墓所にて撮影。

原嘉道。1867年3月23日 - 1944年8月7日、法学者、政治家。
信濃国須坂に原茂作の長男として出生。父はもともとは庄屋格の農家。中央大学学長として「法律の中大」の基礎を作る。政治家としては、司法大臣、枢密院議長などを歴任。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。

一木喜徳郎。1867年5月7日 - 1944年12月17日、法学者、政治家。
遠江国佐野郡倉真村に岡田良一郎の二男として生まれ一木家の養子となる。内務省に入省。ドイツに留学し行政法を学ぶ。法制局長官、文部大臣、内務大臣、宮内大臣、枢密院議長を歴任。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は谷中霊園にて撮影。

五島清太郎。1867年8月18日 - 1935年7月20日、動物学者。
長門国阿武郡川島村に長州藩藩士五島守篤の次男として出生。歌人・五島美代子の父。寄生虫関連の研究で知られる。東大理学部長を務め、日本寄生虫学会創立。初代会頭就任した。家紋は丸に違い鷹の羽。画像は染井霊園の五島家の墓所にて撮影。

正岡子規。1867年10月14日 - 1902年9月19日、俳人・歌人。
伊予国温泉郡藤原新町に松山藩士・正岡常尚の長男として出生。本名は常規。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。家紋は丸に鷹の羽紋と丸に三つ鱗紋。画像は子規系図より。

尾崎紅葉。1868年1月10日 - 明治36年10月30日、小説家
江戸芝中門前町出身。父は根付師。本名、徳太郎。幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなした。代表作は「金色夜叉」「多情多恨」「二人比丘尼 色懺悔」など。泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声などは門下生。画像青山霊園にて撮影。

広瀬武夫。1868年7月16日 - 1904年3月27日、海軍軍人。
岡藩士・広瀬友之允の次男。日露戦争・旅順港閉塞作戦に従事。部下を助けるため敵軍砲弾の直撃を受け戦死。日本初の軍神となり出身地の大分県竹田市に広瀬神社が創建された。最終階級は海軍中佐。家紋は丸に並び鷹の羽。画像は青山霊園にて撮影。

大砲万右エ門。1869年12月30日 - 1918年5月27日、第18代横綱。
角田県刈田郡大鷹沢村出身。本名は角張萬次。現役引退後は年寄・待乳山を襲名。98勝29敗51分4預138休。優勝相当成績2回。当時史上最長身の横綱。常陸山ですら彼には苦戦し当の本人も常陸山が相手だと聞けば安心していたと伝えられている。

大下藤次郎。1870年7月9日 - 1911年10月10日、水彩画家。
東京で馬宿、馬車問屋を営む家に出生。家業を手伝う傍ら美術界へ進むことを決意し絵画を学ぶ。技法書の『水彩画之栞』を刊行しベストセラーとなる。美術雑誌『みづゑ』を刊行。家紋は、丸に並び鷹の羽紋。画像は雑司が谷の墓所にて撮影。

内田良平。1874年2月11日 - 1937年7月26日、右翼運動家。
旧福岡藩士内田良五郎の三男。叔父の平岡浩太郎の影響により国家主義運動の指導者となった。日本の朝鮮、中国への勢力拡大に強い関心を持ち、黒龍会を結成、主幹となり日韓合邦論を主張した。家紋は丸に一つ鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。

鈴木梅太郎。1874年4月7日 - 1943年9月20日、農芸化学者。
静岡県榛原郡堀野新田村にて、農業・鈴木庄蔵の次男。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章受章者。世界初のビタミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)、また、合成清酒を発明する。画像は多磨霊園にて撮影。

高木貞治。1875年4月21日 - 1960年2月28日、数学者。
岐阜県本巣郡数屋村出身。ドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し多大な影響を受ける。代数的整数論の研究では類体論を確立しクロネッカーの青春の夢を解決した。著書に『初等整数論講義』『代数的整数論』がある。画像は多磨霊園にて撮影。

山梨勝之進。1877年7月26日 - 1967年12月17日、海軍軍人。
宮城県宮城郡仙台出身。旧仙台藩士の長男として生まれた。軍政部門に歩み山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐと目されていた条約派の1人。海軍次官在任中はロンドン海軍軍縮条約の締結に奔走。最終階級は海軍大将。画像は青山霊園にて撮影。

野間清治。1878年12月17日 - 1938年10月16日、実業家。
群馬県桐生市出身 。講談社創業者、報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ雑誌「キング」は大ヒット、昭和時代前期の出版界を牽引。主な刊行雑誌『少年倶楽部』『キング』『少女倶楽部』。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は護国寺にて撮影。

米内光政。1880年3月2日 - 1948年4月20日、海軍軍人、政治家。
旧盛岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。林内閣にて海軍大臣として入閣。海軍内の条約派として三国同盟・日米開戦に反対。阿部信行の内閣総辞職により内閣総理大臣(第37代)に任命された。最終階級は海軍大将。

石橋湛山。1884年9月25日 - 1973年4月25日、政治家。
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男。ただし、母方の石橋家を継ぐ。その石橋家は江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋。第55代内閣総理大臣就任直後に脳梗塞で倒れ首相在任期間は65日。歴代で3番目の短命政権。画像は日暮里の善性寺。

高須四郎。1884年10月27日 - 1944年9月2日、海軍軍人。
茨城県桜川村出身。知英派で当時の欧米事情に詳しく日独伊三国軍事同盟や日米開戦に反対し、山本五十六や米内光政等、海軍左派勢力からも強く信頼されていた。最終階級は海軍大将。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。

木下杢太郎。1885年8月1日 - 1945年10月15日、医学者、詩人。
静岡県伊東市出身。本名は太田正雄。石川啄木創刊の「スバル」等に詩を発表。また「パンの会」(青年文芸・美術家の懇談会)を主催、永井荷風、高村光太郎、谷崎潤一郎等が参会する。医学の道では、らい病の権威でもある。画像は多磨霊園にて撮影。

木村篤太郎。1886年2月7日 - 1982年8月8日、政治家、剣道家。
奈良県五條町に生まれる。読みは、きむらとくたろう。幣原内閣の検事総長、吉田内閣で司法大臣、法務大臣、保安庁長官、防衛庁長官を務める。全日本剣道連盟初代会長。家紋は五瓜に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。

早川雪洲。1886年6月10日 - 1973年11月23日、俳優。
千葉県安房郡千倉町の裕福な網元の家に出生。本名は早川金太郎。日本人として最も早い時代に活躍した国際的映画俳優である。日本人男優として初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされる。代表出演作は『南海漂流』『戦場にかける橋』等。

牛島満。1887年7月31日 - 1945年6月23日、陸軍軍人。
鹿児島県鹿児島市出身。陸軍では教育畑を歴任。沖縄戦においては第32軍を指揮し自決。温厚な人柄で彼の人柄を懐かしむ声は多いという。最終階級は陸軍中将(死後大将に昇進)。家紋は反り違い鷹の羽紋。青山霊園の墓所にて撮影。

菊池寛。1888年12月26日 - 1948年3月6日、小説家。
香川県高松市生まれ。菊池家は高松藩の儒学者の家柄。文藝春秋社を創設し、芥川賞、直木賞を設立。川端康成、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助を行う。代表作は「父帰る」「恩讐の彼方に」。丸に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて。

三木露風。1889年6月23日 - 1964年12月29日、詩人、童謡作家。
兵庫県揖西郡龍野町生まれ。本名は三木操。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称された。代表作は「赤とんぼ」「かっこう」「野薔薇」「十五夜」等。家紋は折敷に違い鷹の羽紋。

川島正次郎。1890年7月10日 …

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巴紋 -水が渦巻いている姿を表現- 山本勘助、土方歳三、松田聖子...

巴というのは水が渦巻いている姿を文様にしたものである。
古来、人間にとって最も重要な物質が水である。
ある時は、水不足にならないように、ある時は、火除けのために、人々はこの巴紋に願いを込めたのである。
また、この文様は武士の弓手の装着する鞆(トモ)から来たとも、人の魂を形象化したものとも、勾玉から来たとも言われている。
おそらく、巴紋の形の普遍性は、それらの様々な由来を全部汲み取っているのであろう。
全国では、13位。
特に多い地域は無いが、栃木県、鳥取県、愛媛県、高知県、大分県での6位が最高。
続いて、島根県で7位、愛知県、岐阜県、和歌山県、広島県、福岡県で8位に入っている。
少ないところでは滋賀県、京都府が19位、長野県が22位。
巴紋を持つ有名人は以下。

赤松満祐。1381年 - 1441年9月25日、守護大名。
播磨・美作・備前の守護大名・赤松義則の子。二度に渡って侍所頭人を務め、幕府内の長老格として権勢を振るう。1441年に結城合戦の祝勝会として足利義教を自邸に招き暗殺、いわゆる嘉吉の乱を起こすが、幕府方が派遣した細川氏、山名氏などに敗北。

山本勘助。1501年 - 1561年9月10日、戦国武将。
三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)出身。武田家家臣。二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。2007年NHK大河ドラマ「風林火山」の主役となった(内野聖陽が演じる)。写真は勘助がしていたといわれる巴紋付きの眼帯。

氏家卜全。1512年 - 1571年6月4日、戦国時代の武将。
美濃守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。美濃三人衆の中では最大の勢力を有していた。伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し戦死。家紋は左三巴紋。

小早川隆景。1533年 - 1597年7月26日、武将・大名。
毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名徳寿丸。毛利両川の1人として元春と共に毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では秀吉の信任を受け、文禄年間に五大老の一人に任じられた。家紋は左三巴。

九鬼嘉隆。1542年 - 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。

板倉勝重。1545年 - 1624年6月14日、大名、京都所司代。
三河国額田郡小美村に生まれる。父の家督を継いで家康に従う。関ヶ原の戦い後の三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都所司代に任命され京都の治安維持を担当。禁中並公家諸法度に基づいて朝廷の指導と監視に当たった。家紋は九曜巴。

宇都宮広綱。1545年 - 1576年8月30日、戦国大名。
上野の守護大名、宇都宮氏二十一代当主、宇都宮尚綱の子。父が那須高資と戦って敗死した時、幼少だったため家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城を落ち延びる。上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏と対立したが独立を保持。家紋は右三巴紋。

田中吉政。1548年 - 1609年3月23日、武将、大名。
近江国・高島郡田中村の出身。先祖は近江源氏高島氏の一族田中氏で田中城の城主。転封の過程で居城とした近江国・八幡、三河国・岡崎、筑後国・柳河などに現代でも高く評価できる都市設計を行った。家紋は左三巴紋と釘抜紋。

蒲生氏郷。1556年 - 1595年3月17日、武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。織田氏家臣から、豊臣家(羽柴家)家臣となる。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。またキリシタン大名で洗礼名はレオン。家紋は蒲生対い鶴と左三巴。

別所長治。1558年 - 1580年2月2日、大名。
別所氏は早くから織田信長に従う。中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせるが「三木の干し殺し」戦法で自害。家紋は左三巴。

不破光治。生年不詳 - 1580年12月14日、斎藤氏・織田氏の家臣。
藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔とする説がある。稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われる。越前一向一揆を平定後は、佐々成政、前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。画像は不破光治が拠った龍門寺。

糟屋武則。1562年 - 1607年、大名。
糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家。賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。関ヶ原の戦いに西軍として参戦した。家紋は三つ盛三巴。

有馬晴信。1567年 - 1612年6月5日、大名。
肥前・有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ大友宗麟や大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り小西行長の居城であった宇土城を攻撃。その功績により旧領を安堵された。家紋は左三巴と五瓜に唐花。

結城秀康。1574年3月1日 - 1607年6月2日、武将、大名。
家康の次男として遠州浜松で生まれた。下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領10万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗る。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩から越前北庄67万石に加増移封される。家紋は右三つ巴。

宮本武蔵。1584年 - 1645年6月13日、剣豪。
播磨国出身。二刀で有名な二天一流兵法の祖。家系に関しては諸説ある。吉岡一族との決闘、巌流島の決闘など60余回の勝負を行い全てに勝利したという。主著は「五輪の書」。また、工芸家、水墨画家としても名高い。家紋は九曜巴紋。

安松金右衛門。1611年 - 1686年10月24日、武蔵川越藩士、郡代。
本国は河内国、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し,名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。

大石内蔵助。1659年 - 1703年2月4日、播磨国赤穂藩の筆頭家老。
播磨国出身。大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄の下司職をつとめていた。元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした忠臣蔵で有名になった。家紋は右二つ巴紋。画像は泉岳寺の墓所にて撮影。

石田梅岩。1685年10月12日 - 1744年10月29日、思想家。
丹波国桑田郡東懸村に百姓の次男として生まれる。45歳の時に無料講座を開き、石門心学と呼ばれる思想を説いた。思想の根底にあるのは宋学の流れを汲む天命論である。主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。家紋は左三つ巴紋。

葛城彦一。1818年11月5日 - 1880年1月23日、武士。
大隅加治木の郷士。本姓は竹内。島津家の家督相続の内紛では斉彬を推して久光に対抗したが,脱藩して筑前にのがれた。加治木島津家から近衛家に嫁した貞姫の付け人として近衛家につかえた。家紋は右三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

大木喬任。1832年4月23日 - 1899年6月26日、政治家。
肥前国佐賀藩士・大木知喬の長男。読みは、おおきたかとう。大木氏は筑後国の蒲池氏の一族。江藤新平、大隈重信らと共に義祭同盟に参加。東京奠都に尽力。東京府知事、民部大輔、元老院議長を務めた。家紋は左三つ巴。画像は青山霊園にて。

橋本実梁。1834年5月13日 - 1885年9月16日、公家。
橋本実麗の子。読みは、 さねやな。条約勅許に反対する有志堂上88名の列参に参加。八月十八日の政変後は差控に処せられたが王政復古によって参与となり戊辰戦争に従軍。左画像は麻路さき(宝塚歌劇団)。家紋は右尾長巴紋。青山霊園にて撮影。

土方歳三。1835年5月31日 - 1869年6月20日、幕臣。
武蔵国多摩郡石田村出身。新選組鬼の副長として恐れられた。戊辰戦争では榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。蝦夷共和国においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任。函館戦争中に銃弾に戦死。家紋は左三つ巴。

谷干城。1837年3月18日 - 1911年5月13日、陸軍軍人、政治家。
高知城下に土佐藩上士・谷万七の第4子として生まれた。幕末時代は、攘夷から倒幕派へ。西南戦争の際には西郷軍の攻撃から熊本城を死守した。最終階級は陸軍中将。その後、学習院院長から政治家に転身。農商務大臣も務めた。家紋は左三つ巴紋。

西園寺公望。1849年12月7日 - 1940年11月24日、政治家。
清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、西園寺家へ養子に入り家督を相続した。第12・14代内閣総理大臣。思想的にリベラルを自称し、衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。家紋は右三つ巴。多磨霊園での墓所にて撮影。

角田秀松。1850年3月25日 - 1905年12月13日、海軍軍人。
会津藩医、角田良智の二男。父の蝦夷地赴任に同行した。戊辰戦争で朝敵とされた会津藩出身者として初めて海軍将官となった。日露戦争時には竹敷要港部司令官を務めた。最終階級は海軍中将。家紋は五瓜に右三つ巴紋。青山霊園にて撮影。

浅田信興。1851年11月5日 - 1927年4月27日、陸軍軍人。
武蔵国出身。川越藩士・坂口朗忠の三男として生まれ、同藩士・浅田順信の養子となる。歩兵第2連隊長、屯田兵参謀長、陸軍大佐、近衛師団長、教育総監、陸軍大将、軍事参議官兼東京衛戍総督を歴任。家紋は結び三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

中村雄次郎。1852年3月18日 - 1928年10月10日、陸軍軍人。
伊勢国一志郡波瀬村出身。大庄屋・中村一貫の二男。陸軍省軍務局砲兵事務官長、陸軍士官学校校長、陸軍次官兼軍務局長等を歴任。日清、日露戦争の功により男爵を受勲。最終階級は陸軍中将。家紋は右金輪巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

北里柴三郎。1853年1月29日 - 1931年6月13日、医学・細菌学者。
熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「日本の細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應義塾大学医学部を創設する。家紋は檜扇に巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

江木千之。1853年5月21日 - 1932年8月23日、官僚、政治家。
周防国岩国藩出身。読みは、えぎかずゆき。内務省で大臣秘書官、県治局長、愛知・広島などの県知事を、晩年には枢密顧問官、文政審議会副総裁、大東文化協会副会頭、皇典講究所所長などを務めた。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

片山東熊。1854年1月18日 - 1917年10月24日、建築家。
長門国萩出身。宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。ジョサイア・コンドルの最初の弟子。家紋は左三つ巴紋。

高嶺秀夫。1854年10月5日 - 1910年2月22日、教育学者。
陸奥国若松城下出身。会津藩主松平容保の小姓。会津戦争では籠城の末、降伏。米留学帰国後、東京高等師範学校長、東京女子高等師範学校長、東京美術学校長、東京音楽学校長を歴任。家紋は左三つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。

大岡育造。1856年7月4日 - 1928年1月27日、政治家。
長門国豊浦郡小串村に医師大岡尚斎の長男として出生。国民協会、帝国党立憲政友会、立憲政友会の設立に関わる。第1次山本内閣には文部大臣として入閣。3年間、衆議院議長を勤める。家紋は右金輪巴紋。画像は谷中霊園にて撮影。

土肥慶蔵。1866年7月20日 - 1931年11月6日、医学者。
越前武生領の医者五世石渡宗伯の次男として、越前府中松原に出生。読みは、どひけいぞう。実質的に西洋医学に入る皮膚科を日本に導入し日本皮膚科学会を発足させた。主著は『世界黴毒史』。家紋は丸に左三つ巴紋。画像は多磨霊園にて撮影。

服部宇之吉。1867年6月2日 - 1939年7月11日、中国哲学者。
福島の二本松藩士服部藤八郎の三男。哲学科出身で西洋哲学やその方法論を学び中国哲学を講じた。東京帝国大学教授、ハーバード大学教授、東方文化学院院長を歴任。代表著作『孔子教大義』『孔子及孔子教』等。画像は護国寺にて撮影。

梶田半古。1870年-1917年、日本画家。
彫金家梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれる。日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成発起人の一人として加わった。新な写実表現を用い、『春宵怨』『豊年』などを発表する。家紋は尾長右三つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。

吉岡彌生。1871年4月29日 - 1959年5月22日、教育者、医師。
遠江国城東郡土方村に漢方医・鷲山養斎の娘として出生。東京女医学校・東京女子医科大学創立者。日本女医会会長、日本医師会参与を歴任。画像は東京女子医大隣の月桂寺東京女子医大の水桶の校紋。ただし本人の墓所の巴は三つ左巴。

広田弘毅。1878年2月14日 - 1948年12月23日、外交官、政治家。
福岡県那珂郡鍛冶町の石材店の息子。旧名は丈太郎。外交官を経て二二六事件で倒れた岡田内閣の後を受け第32代内閣総理大臣となり日独防共協定を締結。戦後、A級戦争犯罪人として死刑となる。家紋は右二つ巴紋。墓所は福岡市の聖福寺にて撮影。

鮎川義介。1880年11月6日 - 1967年2月13日、実業家、政治家。
山口県氷川郡出身。読みは、あいかわよしすけ。父は旧長州藩士・鮎川弥八。母は井上馨の実姉の長女。日産コンツェルン (日産自動車、日立製作所、日産火災等)の創始者。杉田かおるとの結婚で話題になった鮎川純太の祖父。画像は多磨霊園にて撮影。

朝比奈泰彦。1881年4月16日 - 1975年6月30日、薬学者。
東京本所出身。読みは、あさひなやすひこ。東京帝国大学教授。「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞、文化勲章受章、文化功労者を受賞。著書は「日本隠花植物図鑑」「私乃たどった道」「正倉院薬物」。家紋は尾長巴紋。青山霊園にて撮影。

小山内薫。1881年7月26日 - 1928年12月25日、劇作家、演出家。
父は陸軍軍医・小山内建で、母は旗本・小栗家の出。二代目左團次と「自由劇場」を開始、「築地小劇場」を土方与志と起こし新劇運動の中心的存在となる。「新劇の父」の異名がある。家紋は左三つ巴紋。画像は多磨霊園にて撮影。

山本五十六。1884年4月4日 - 1943年4月18日、海軍軍人。
新潟県長岡市出身。旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男。旧長岡藩家老の家柄・山本家を相続し山本五十六を名乗る。日米開戦には反対していた。最終階級は海軍大将(戦没後に元帥海軍大将を追贈)。家紋は左三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。

荻原井泉水。1884年6月16日 - 1976年5月20日、俳人。
東京芝区神明町生まれ。荻原家は越後国高田の出。本名:荻原幾太郎。東大文学部卒後、新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。「層雲」には河東碧梧桐、尾崎放哉、種田山頭火などが参加。代表作は『流転しつつ』『無所在』『奥の細道ノート』等。

吉井勇。1886年10月8日 - 1960年11月19日、歌人、脚本家。
東京芝区出身。祖父は旧薩摩藩士の吉井友実、父は海軍軍人吉井幸蔵。『明星』に歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目される。歌集『祇園歌集』を発表。後に里見弴、田中純、久米正雄らと『人間』を創刊。家紋は左巴紋。青山霊園にて撮影。

阿南惟幾。1887年2月21日 - 1945年8月15日、陸軍軍人。
大分県竹田市出身。読みは、あなみこれちか。平均的な軍務官僚で陸軍大臣就任以前は目立ったエピソードも少ない。誠実な人柄で人望が厚く今日でも人気の高い。ポツダム宣言の受諾返電の直前に自刃。最終階級は陸軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。

九鬼周造。1888年2月15日 - …

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[16 1 月 2009 | Comments Off | | ]
柏紋 -海の人々に奉られた神の紋- 島左近、森鴎外、青島幸男...

柏手を打つという言葉がある通り、柏は神道と関係が深い植物である。
宗像神社に奉仕する宗像氏、伊勢神宮に奉仕する久志本氏、熱田神宮に奉仕する千秋氏、吉田神社に奉仕する卜部氏など、神官関連に柏紋を使用する家が多い。
また、神社自体の紋としては、恵比寿神社の神紋が有名であるが、どちらかと言えば、海人系の人々に好まれたのではないか。
全国分布では、比較的に東日本で多い。
北から、秋田県、宮城県、山形県、千葉県、三重県、大阪府などでベスト3に入っている。
三重>千葉>宮城という海の道がそれとなく見えてくる。
全国的には4位にランクされている。
逆に少ないところは、広島県と佐賀県で13位、山口県、高知県で12位。
柏紋を持つ有名人は以下。

吉田兼好。1283年 - 1352年、遁世者・歌人・随筆家。
本名は卜部兼好。卜部氏は古代より卜占を司り神祇官を出す神職の家柄。父兼顕も吉田神社の神職。出家したことから兼好法師とも呼ばれる。日本三大随筆の一つとされる『徒然草』の作者。また私家集『兼好法師家集』がある。家紋は抱き柏紋。

島左近。1540年6月9日 - 1600年10月21日、武将。
大和国の国人の家系に生まれた。筒井順慶、豊臣秀長・豊臣秀保らに仕えた後、浪人となって近江に隠棲。三成の説得により仕官を受け入れ、当時の三成の禄高4万石のうちの半分、2万石の俸禄で召し抱えられた。関が原の戦いで壮絶死。家紋は三つ柏。

中川清秀。1542年 - 1583年6月10日、武将。
はじめ摂津の豪族であった池田勝正に仕えた。清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した。賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、戦死。家紋は中川車と中川柏。

山内一豊。1545年 - 1605年11月1日、武将。
尾張国葉栗郡黒田にある山内家の居城であった黒田城に生まれる。豊臣秀吉に遣え、出世し、家康に土佐国20万石を与えられ、土佐藩初代藩主となる。妻・見性院の「内助の功」は有名。2006年に放送された大河ドラマ『功名が辻。』の主役となる。

本因坊算砂。1559年 - 1623年6月13日、囲碁の棋士。
舞楽宗家の加納与助の子として生まれる。本姓は加納。兄(叔父)の日蓮宗の僧・日淵に弟子入りして出家。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康という三英傑に仕え寵愛された。家康から碁打ち・将棋指しへの連絡係に任ぜられて後の家元制度の基礎となった。

八百屋お七。1668年 - 1683年4月25日、八百屋太郎兵衛の娘。
下総国千葉郡萱田で生まれる。幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、鈴ヶ森刑場で火刑に処された。生年については1666年(丙午の年)とする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となる。家紋は丸に三つ柏紋。画像は文京区円乗寺の墓所にて撮影。

喜多川歌麿。1753年 - 1806年10月31日、浮世絵師。
出生地は江戸市中、あるいは京、大坂、栃木、川越と諸説がある。版元の蔦屋重三郎の援助を得て「当時全盛美人揃」「娘日時計」「北国五色墨」など優れた大首半身物の美人画を刊行。家紋は丸に三つ柏紋。残存する肖像画より判断。

高田屋嘉兵衛。1769年2月7日 - 1827年4月30日、廻船業者。
淡路島の農民の子として生まれる。家紋は丸に違い柏紋。18歳で廻船業者を志して出て、後に本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。ゴローニン事件でカムチャツカ半島へ連行されるが、翌年帰国。司馬遼太郎の歴史小説『菜の花の沖』で有名になる。

高島嘉右衛門。1832年12月24日 - 1914年10月16日、易断家。
江戸三十堀間町に生まれる。父は遠州屋嘉衛門(本姓は薬師寺)。材木屋、磁器販売などを手がける。横浜発展に寄与し高島町にその名前を残す。その後も愛知セメント株式会社を興す。易断による占いでも特に有名で今でも「易聖」と呼ばれている。

大野右仲。1837年1月14日 - 1911年6月11日、新選組隊士。
唐津藩士大野勘助の長男として出生。戊辰戦争が勃発すると藩主・小笠原長行に従って会津へ入り仙台で新選組に入隊。榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。二股口の戦いから土方の補佐役を務めた。家紋は三つ柏紋。天王寺墓地にて撮影。

桂文楽(四代目)。1838年12月26日 - 1894年1月28日、落語家。
本名、新井文三。口癖で「デコデコ」とよく言っていたため「デコデコの文楽」と呼ばれた。人情噺が得意で『音羽丹七』は絶品であったという。得意ネタは『居残り佐平次』『たちきり』など。家紋は丸に三つ柏紋。画像は谷中・観音寺にて撮影。

相楽総三。1839年 - 1868年3月26日、赤報隊隊長。
下総相馬郡の郷士小島兵馬の四男として江戸・赤坂に出生。江戸薩摩藩邸の焼討事件の端緒を作り赤報隊を組織するが偽官軍とされ捕縛される。顔画像はアニメ「るろうに剣心」の相楽総三。家紋は三つ重ね柏紋。青山霊園にて撮影。

加納鷲雄。1839年12月14日 - 1902年10月27日、新選組隊士。
伊豆国賀茂郡加納村に農民・高野伴平の長男として出生。伊東甲子太郎らと新選組の隊士募集に応じて入隊したが御陵衛士の結成に伴い新選組を離脱。油小路事件では難を逃れて脱出し、後に近藤勇を襲撃。家紋は丸に抱き柏紋。画像は青山霊園にて撮影。

渋沢栄一。1840年3月16日 - 1931年11月11日、実業家。
武蔵国血洗島村に養蚕、米、麦、野菜の生産も手がける豪農の家に生れる。第一国立銀行や王子製紙・日本郵船・東京証券取引所といった多種多様の企業の設立・経営に関わり日本資本主義の父と呼ばれる。家紋は丸に違い柏。谷中霊園の渋沢家墓所にて。

境川浪右衛門。1841年5月28日 - 1887年9月16日、相撲力士。
下総国葛飾郡(現・千葉県市川市)出身。本名は宇田川政吉、のちに市川政吉から市川浪右衛門。第14代横綱。28場所118勝23敗71分5預63休、勝率.837。優勝相当成績5回。歴代横綱の中で引分率が最も高い。家紋は丸に三つ柏紋。

沖守固。1841年8月13日 - 1912年10月7日、官僚、政治家。
鳥取藩士・江戸詰絵師、沖一峨の長男として江戸で生まれる。内務省に入り内務少書記官となる。神奈川県知事、長崎県知事、元老院議官、滋賀県知事、和歌山県知事、大阪府知事、愛知県知事を歴任。家紋は二つ蔓柏紋。青山霊園の墓所にて撮影。

安保清康。1843年1月30日 - 1909年10月27日、海軍軍人。
備後国御調郡の医師・林金十郎の四男として出生。坂本龍馬の遺体を鳥野辺に埋葬したとされる。戊辰戦争・佐賀の乱・西南戦争に出征。海軍中将に進級し、海軍大学校長、佐世保鎮守府長官を歴任。家紋は丸に実付き三つ柏紋。青山霊園にて撮影。

寺内正毅。1852年2月24日 - 1919年11月3日、陸軍軍人、政治家。
周防国山口出身。長州藩士宇多田正輔の三男。母方の寺内勘右衛門の養嗣子となる。陸軍大臣、外務大臣、韓国統監、朝鮮総督、内閣総理大臣(第18代)、大蔵大臣を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は亀甲に三つ柏紋。

安東貞美。1853年10月20日 - 1932年)8月29日、陸軍軍人。
信濃飯田藩槍術師範・安東辰武の三男として生まれる。父の辰武は信濃松本藩槍術師範・菅沼政治の子。台湾総督・朝鮮駐剳軍司令官や第10・第12師団長を歴任。階級は陸軍大将勲一等功三級男爵。家紋は丸に三つ柏紋。画像は青山霊園にて撮影。

御木本幸吉。1858年3月10日 - 1954年9月21日、実業家。
志摩国鳥羽浦の大里町で代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男として生まれた。真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、御木本真珠店(現・ミキモト)を創業。真珠王と言われた。家紋は三つ追い柏。画像は青山霊園にて撮影。

嘉納治五郎。1860年12月9日 - 1938年5月4日、柔道家、教育者。
摂津国御影村で父嘉納治朗作の三男として生まれる。家業は酒造・廻船を営む。講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力。「柔道の父」と呼ばれる。画像は雑司ヶ谷霊園の父・次郎作の墓で撮影。

落合豊三郎。1861年4月7日 - 1934年3月31日、陸軍軍人。
江戸出身。松江藩士・落合鍬蔵の三男。日露戦争では、第2軍参謀長として出征した。その際、部下と対立。以後、関東総督府陸軍参謀長、交通兵旅団長などを歴任。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に三つ柏。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

牧野伸顕。1861年11月24日 - 1949年1月25日、政治家。
大久保利通の二男として生れたが、生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。茨城県知事、文部大臣、農商務大臣、外務大臣を歴任。第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加。青山霊園の墓所にて撮影。

森鴎外。1862年2月17日 - 1922年7月9日、小説家。
石見国津和野で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる。文学においては理想や理念などを描くべきだとする理想主義を掲げた。代表作は、「舞姫」「青年」「阿部一族」「高瀬舟」など。家紋は乱れ追い重ね九枚柏という変り紋。

森永太一郎。1865年8月8日 - 1937年1月24日、実業家。
佐賀県伊万里市出身。生家は焼き物や魚類を商う卸問屋。森永製菓の前身・森永西洋菓子製造所を設立。主にマシュマロを製造していたが後にキャラメルを主力製品とする。安倍晋三元首相夫人昭恵は曾孫にあたる。家紋は丸に抱き鬼柏。青山霊園にて撮影。

山下亀三郎。1867年5月12日 - 1944年12月13日、実業家。
伊予国宇和郡河内村出身。庄屋・山下家の7人兄弟の末子として生まれた。読みは、やましたかめざぶろう。山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者。勝田銀次郎、内田信也と並ぶ三大船成金の一人。家紋は丸に三つ柏紋。画像は多磨霊園にて撮影。

大森房吉。1868年10月30日 - 1923年11月18日、地震学者。
越前国足羽郡福井出身。下級武士・大森藤輔の五男。世界初の連続記録可能な大森式地震計を開発。また初期微動継続時間から震源までの距離を割り出す大森公式も発表。日本地震学の父と呼ばれている。家紋は丸に三つ柏紋。画像は多磨霊園にて撮影。

白川義則。1869年1月24日 - 1932年5月26日、陸軍軍人。
松山藩士白川親応の三男。上海派遣軍司令官、関東軍司令官、陸軍大臣、軍事参議官等を歴任。上海での天長節祝賀会で爆弾に遭って重傷を負いそれが元で死去。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に軸付柏巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

三土忠造。1871年8月11日 - 1948年4月1日、政治家。
香川県大内郡水主村出身。宮脇姓であったが、三土家に養子入りしたために三土姓を名乗った。文部大臣・大蔵大臣・逓信大臣・鉄道大臣・枢密顧問官・内務大臣を歴任した戦前政界の重鎮。家紋は丸に土佐柏紋。青山霊園の墓所にて撮影。

菱田春草。1874年9月21日 - 1911年9月16日、日本画家。
長野県飯田に生まれた。本名は三男治。岡倉天心の門下で明治期の日本画の革新に貢献し日本美術院の創設に参加。伝統的な日本画の世界に様々な斬新な技法を導入。代表作は『寡婦と孤児』『紅葉山水』『黒き猫』。画像は中野・大信寺墓地にて撮影。

林銑十郎。1876年2月23日 - 1943年2月4日、陸軍軍人、政治家。
石川県金沢市出身。豪快なヒゲにもかかわらず素顔は謹厳、温厚だった。第33代内閣総理大臣時代に特に何もしなかったことから、名前を取って「何にもせんじゅうろう内閣」と揶揄された。最終階級は陸軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。

窪田空穂。1877年6月8日 - 1967年4月12日、歌人。
長野県東筑摩郡和田村生まれ。本名は窪田通治。読みは、くぼたうつぼ。与謝野鉄幹選歌の「文庫」に投稿をする。鉄幹から勧誘され「明星」にも参加。代表歌集は『まひる野』『土を眺めて』等。家紋は抱き柏紋。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。

山内多門。1878年4月29日 - 1932年5月30日、日本画家。
宮崎県都城市倉之馬場通東に山内勝麿の子として生まれる。読みは、やまうちたもん。川合玉堂に入門、雅号都洲を授かる。翌年、橋本雅邦に師事する。代表作は「秋渓」「驟雨」「日光山の四季」など。家紋は丸に抱き柏紋。画像は多磨霊園にて撮影。

馬場鍈一。1879年10月5日 - 1937年12月21日、政治家、官僚。
東京府芝区出身。旧幕藩士・山本時光の長男。日本勧業銀行総裁を経て広田内閣に大蔵大臣として入閣。増税と公債増発を発表(内閣総辞職のため実現はせず)。また、近衛内閣では内務大臣も務めた。家紋は丸に五徳柏紋。画像は多磨霊園にて撮影。

内田信也。1880年12月6日 - 1971年1月7日、実業家、政治家。
旧常陸麻生藩士の家に生まれる。山下亀三郎、勝田銀次郎と並ぶ三大船成金の一人。船舶事業で財を成した後、政界にも進出し宮城県知事、鉄道大臣、農商務大臣、農林大臣等を歴任した。家紋は抱き柏紋。青山霊園の墓所にて撮影。

大谷米太郎。1881年7月24日 - 1968年5月19日、実業家。
富山県小矢部市出身。貧農の家庭に長男として出生。裸一貫から力士、酒屋等を経て、ホテル経営で大成功を収める。ホテルニューオータニの創業者。浮世絵のコレクターでも知られそのコレクションはニューオータニ美術館に所蔵。画像は鎌倉霊園。

小菅丹治。1882年4月27日 - 1961年9月16日、実業家。
神奈川県足柄上郡川村出身。旧姓:高橋。1908年に伊勢丹呉服店に入社。初代・小菅丹治(伊勢丹創業者)の養子となり、2代目小菅丹治を襲名。関東大震災後に百貨店形式にする。新宿に本店オープン。家紋は丸に三柏紋。画像は本行寺にて撮影。

北一輝。1883年4月3日 - 1937年8月19日、思想家・社会運動家。
新潟県佐渡島両津湊町の酒造屋に出生。上京し社会主義思想に接近。中国革命同盟会に入党、以後革命運動に身を投じる。二・二六事件の理論的首謀者とされ死刑。主著は『国家改造案原理大綱』『日本改造法案大綱』。画像は弟・北昤吉の墓所で撮影。

岩村通世。1883年8月21日 - 1965年3月13日、弁護士、政治家。
東京市神田区神保町出身。読みは、いわむらみちよ。岩村通俊の五男。兄の岩村俊武(通称は団次郎)は海軍中将。太平洋戦争開戦時の日本の司法大臣。A級戦犯として逮捕されたが無罪で釈放された。家紋は抱き柏紋。画像は多磨霊園にて撮影。

安成貞雄。1885年4月2日 - 1924年7月23日、批評家。
秋田県出身。早稲田大学英文科卒。『火鞭』の同人で『近代思想』『新社会』などに関わり大正三奇人の一人として知られる。旺盛な読書力と優れた英語力で「学東西に亘り、識古今を貫き」と称された。主著は『文壇与太話』。家紋は雪輪に違い柏紋。

石川一郎。1885年11月5日 - 1970年1月20日、財界人、経営者。
石川卯一郎の長男として東京に出生。武蔵工業大学(現東京都市大学)学長の石川馨は長男。日本商工会議所会頭の石川六郎は六男。東京帝国大学助教授、日産化学工業社長を経て、経団連初代会長に就任。家紋は丸に三つ柏紋。画像は染井霊園の墓所にて。

葛西善蔵。1887年1月16日 - 1928年7月23日、小説家。
青森県弘前市に生まれ。生家は広く商売(米の仲買業等)をしていたが、善蔵が2歳のときに没落。ほとんどが自らの体験をつづった〈私小説〉プロレタリア作家。代表作は『哀しき父』『子をつれて』『椎の若葉』等。墓所は鎌倉市の建長寺塔頭の回春院。

重光葵。1887年7月29日 - 1957年1月26日、外交官、政治家。
大分県大野郡三重町出身。士族・重光直愿の次男。母の実家の養子となり重光家26代目の当主となる。大東亜戦争中に外務大臣を務めポツダム宣言に調印。国際連合加盟に尽力。画像は多磨霊園の兄・簇(あつむ)の墓所の丸に三つ柏紋。

里見とん。1888年7月14日 - 1983年1月21日、小説家。
横浜出身。本名は山内英夫。母の弟の山内英郎の養子となり山内姓となる。『恋ごころ』で読売文学賞を受賞。代表作は『善心悪心』『多情仏心』。『彼岸花』は小津映画のために書き下ろした。家紋画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に土佐柏紋。

松旭斎天洋。1888年9月21日 - …

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[16 1 月 2009 | Comments Off | | ]
片喰紋 -平和的、協調的、平凡な極めて日本的な紋- 長曾我部元親、野口英世、田中角栄...

片喰は、日本の普通の農村、野山に自生する、いわゆる雑草である。
江戸時代、葵紋は徳川家の紋所として、その他の人が使用するのが禁止されていた。
この葵紋と類似した形状を持つ片喰紋は爆発的に広まった。
普通にノンポリで、普通に可愛いい物好きで、普通に平和的で、普通に協調性のある日本人を一番よく表している紋である。
落語等で、「あの、おケツが3つ付いた紋」などと、滑稽に言い表されることがあるが、これは葵紋へのパロディと片喰紋への親しみを表現していたのだと思う。
日本で一番、広く使用されている家紋。
田中姓に多く使用されているとも言われているが、特に、田中姓が西日本に広く分布していることと平行して、西日本の地域ではほとんど1位である。
山形県、福島県、茨城県、東京都、長野県、福井県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県、奈良県、京都府、大阪府、兵庫県、岡山県、鳥取県、島根県、山口県、香川県、徳島県、愛媛県、高知県、福岡県、佐賀県、長崎県で1位。
ベスト5にはずれるのは、わずかに、宮城県(6位)、鹿児島県(14位)といったところのみ。

長曾我部元親。1539年 - 1599年9月12日、武将。戦国大名。
本姓は秦氏。家系は秦の始皇帝を祖とする秦河勝の血筋の長宗我部氏。家督を継いで土佐国人から戦国大名に成長し阿波の三好氏、讃岐の十河氏、伊予の河野氏らを破って四国の覇者となるが豊臣秀吉に敗れ土佐一国に減知となった。家紋は七つ片喰。

酒井重忠。1549年 - 1617年8月22日、徳川氏家臣。
三河国坂井郷出身。徳川氏の譜代家臣・酒井正親の次男。姉川の戦いなど、家康初期の主要な合戦に参加して武功を挙げた。関ヶ原の戦いでは本戦に参加後、近江国大津城の守備を担う。武蔵国川越藩主、上野国厩橋藩初代藩主、雅楽頭系酒井家宗家初代。

角倉了以。1554年 - 1614年8月17日、豪商。
近江国犬上郡吉田村出身。本姓は吉田氏。佐々木氏の分家。朱印船貿易の開始とともに安南国などとの貿易を行う。幕命により大堰川、富士川、高瀬川、天竜川等の開削を行った。家紋は扇地紙に片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園の別の角倉家墓所より。

成瀬正成。1567年 - 1625年2月23日、徳川氏の家臣。
幼少の頃より小姓として徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦いで初陣。小田原征伐で功を挙げ、下総国葛飾郡栗原4000石を与えられた。家康の老中となって本多正純、安藤直次らと共に政務の中枢、初期幕政に参与した。家紋は丸に片喰。

宇喜多秀家。1572年 - 1655年12月17日、武将・大名。
備前国岡山城主の宇喜多直家の次男として出生。幼名は八郎。羽柴秀吉による備中高松城攻めに協力。秀吉の寵愛を受けて猶子となる。豊臣政権下の五大老の一人。関が原の戦いに敗れ、流人として伊豆諸島・八丈島へ配流。家紋は剣片喰と児の字。

丸橋忠弥。生年不詳 - 1651年9月24日、武士。
長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとも言われる。由井正雪の片腕として幕府転覆計画に加担(慶安の変)。家紋は三つ目結と丸に片喰紋。顔画像は歌舞伎「花菖蒲慶安実記」の丸橋忠弥。家紋画像は慈眼寺・金乗院にて撮影。

幡随院長兵衛。1622年 - 1657年8月27日、侠客。
佐賀藩の武士・塚本伊織の子で口入れ屋を営んでいた。本名は塚本伊太郎。旗本奴と対立し町奴の頭領となったとされる。日本の侠客の元祖とも言われ歌舞伎、講談の題材に盛んに使われた。中でも『極付幡随長兵衛』が有名。画像は源空寺にて。

青木昆陽。1698年6月19日 - 1769年11月9日、儒学者、蘭学者。
江戸日本橋小田原町の魚屋の1人息子として生まれる。京都の儒学者・伊藤東涯に私淑して儒学を学ぶ。徳川吉宗の命を受け、薩摩芋の試作に成功。後に薩摩芋の栽培が普及し天明の大飢饉では多くの人々の命を救う。家紋は剣片喰。画像は目黒・滝泉寺にて。

高橋至時。1764年12月22日 - 1804年2月15日、天文学者。
大阪定番同心の子として出生。通称・作左衛門。読みは、たかはしよしとき。伊能忠敬に西洋暦を教え忠敬の日本全国の地理測量を支援。伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保の父。画像は上野源空寺の墓所にて撮影。

国定忠治。1810年 - 1851年1月22日、侠客。
上野国佐位郡国定村の豪農の家に出生。父は国定村の百姓与五左衛門。本名は長岡忠次郎。後に博徒となって上州から信州一帯を実質支配。天保の大飢饉で農民を救済した侠客として伝説化された。家紋は丸に剣片喰紋。画像は養寿寺にて撮影。

入江長八。1815年9月7日 - 1889年10月8日、左官職人、工芸家。
伊豆国松崎村明地に農家の長男。26歳で江戸日本橋茅場町にあった薬師堂の御拝柱の左右に『昇り竜』と『下り竜』を造り上げて名工「伊豆の長八」として名を馳せた。漫画家つげ義春の作品「長八の宿」によって知名度が上がる。画像は上野・正定寺。

清水次郎長。1820年2月14日 - 1893年6月12日、侠客。
駿河国有渡郡清水湊の船持ち船頭・三右衛門の三男に生まれ、母方の叔父で米穀商の甲田屋の主の次郎八の養子となった。本名は山本長五郎。戊辰戦争で戦死した幕府軍の遺体を埋葬。浪花節の題材として取り上げられ人気を博す。家紋は丸に片喰。

河井継之助。1827年1月27日 - 1868年10月1日、武士。
長岡城下に出生。先見性と実行性を有しながらも長岡藩家臣として新政府軍に対抗する道を選ぶ。河井家は元々近江国膳所藩本多氏の家臣。司馬遼太郎の『峠』により一躍有名になる。家紋は丸に剣片喰紋、片喰紋。画像は栄凉寺の墓所の片喰紋。

杉亨二。1828年9月10日 - 1917年12月4日、統計学者、啓蒙家。
肥前国長崎に出生。中津藩江戸藩邸の蘭学校(慶應義塾の前身)にて教鞭をとり老中・阿部正弘の侍講となる。維新後は明六社の結成に参加。全国の総人口の現在調査を志し日本近代統計の祖と称される。家紋は太丸に片喰。画像は染井霊園にて撮影。

島本仲道。1833年6月5日 - 1893年1月2日、藩士、官僚。
土佐国出身。土佐勤王党に参加し終身刑の宣告を受けるも赦され戊辰戦争で活躍。維新後は官僚として近代日本国家の検察、警察、弁護士機構制度の確立に尽力。自由民権運動に参加、保安条例で処分される。家紋は丸に剣片喰紋。青山霊園にて撮影。

近藤長次郎。1838年4月1日 - 1866年2月28日、志士。
高知城下の饅頭商人の息子として生まれる。後に近藤長次郎、上杉宋次郎、近藤昶次郎、梅花道人等と名乗る。坂本龍馬と共に海援隊の前身である亀山社中を設立。長州藩に小銃を売り渡している。花菱紋、五瓜に剣片喰紋、卍紋が墓所に掘られている。

中村重遠。1840年12月25日 - 1884年2月22日、陸軍軍人。
土佐国宿毛村に小野弥源次の子として出生。中村儀平の養子となる。戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争に出征し軍功をあげる。廃城に瀕した姫路城を陸軍の費用で修復、姫路城には大顕彰碑がある。家紋は中陰松皮菱に片喰紋。画像は青山霊園にて撮影。

田中正造。1841年12月15日 - 1913年9月4日、代議士。
下野国小中村の名主の家に出生。岩松氏の一族という。父の跡を継いで小中村名主となり幕末から村民らと領主に対して政治的要求を行う。足尾銅山鉱毒事件の告発者として有名。衆議院議員選挙に当選6回。家紋は丸に片喰紋。

伊藤忠兵衛 (初代)。1842年8月7日 - 1903年7月8日、実業家。
滋賀県豊郷町出身。実家は「紅長」という屋号の繊維小売業。伊藤忠商事、丸紅という2つの大手総合商社を創業し多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した。郷土、豊郷村の村長を務め郷土の人からも愛された。家紋は丸に片喰紋。伊藤忠兵衛記念館にて。

酒井孫八郎。1845年12月15日 - 1879年4月15日、桑名藩の家老。
実家服部氏は徳川家康に仕えた服部正成(服部半蔵)の系譜につながる。桑名藩家老・酒井三右衛門の養子に迎えられる。藩論を尊王派で統一し桑名城を無血開城して新政府に恭順。家紋は丸に剣片喰紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

外山正一。1848年10月23日 - 1900年3月8日、教育家・文学者。
江戸小石川出身。父は旗本の外山忠兵衛正義。『新体詩抄』は近代文学に多大な影響を与えた。大日本帝国憲法発布の記念式典に明治天皇に対して万歳を唱えた。東京帝大文科大学長を経て同総長、第3次伊藤博文内閣の文部大臣を務めた。画像は谷中霊園。

濱尾新。1849年5月12日 - 1925年9月25日、教育行政官、政治家。
但馬豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として豊岡に生まれる。東京美術学校校長代理、文部大臣、東京帝国大学総長、貴族院議員、東宮御学問所・東宮大夫副総裁、枢密院議長、内大臣臨時代理などを歴任。家紋は剣片喰。画像は染井霊園にて撮影。

原田二郎。1849年11月24日 - 1930年5月5日、実業家。
伊勢国松坂に紀州藩士の原田清一郎の長男として生まれる。大阪の鴻池財閥経営者。鴻池家監督に就任するなど,鴻池銀行および鴻池家政の事実上の最高経営者となった。経営方針は堅実を旨とした。家紋は丸に片喰紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

浜田玄達。1855年1月14日 - 1915年2月16日、医学者。
肥後国(熊本県)大岳村出身。日本の産婦人科学のパイオニアとして日本婦人科学会を創立、会長を連続務めた。また、帝大医科大(東大)教授、医科大学長、宮内省御用掛もつとめた。家紋は丁子片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。

門野幾之進。1856年4月18日 - 1938年11月18日、実業家。
志摩鳥羽藩の家老・門野豊右衛門の長子。阿部泰蔵らと共に千代田生命保険を創立。千代田生命保険社長、時事新報会長、交詢社会長、日本無線電信設立委員、国際観光委員会等を歴任。家紋は丸に剣片喰紋。画像は青山霊園にて撮影。

酒井忠匡。1857年1月14日 - 1911年4月30日、藩主、知事。
出羽松山藩8代で最後の藩主。左衛門尉酒井家分家8代目。読みは、さかいただまさ。父が戊辰戦争で幕府側に与したために強制隠居処分となったため、家督を継ぐ。版籍奉還により知藩事となる。家紋は平隅入り角に片喰紋。画像は天王寺墓地にて撮影。

伊東巳代治。1857年5月29日 - 1934年2月19日、官僚、政治家。
長崎県出身。明治天皇の母方のいとこでもある。井上毅、金子堅太郎と共に大日本帝国憲法起草に参画。東京日日新聞(現在の毎日新聞)を買収し、在官のまま第3代社長となる。家紋は丸に剣片喰紋。画像は和田堀廟所で撮影。

柳家小さん(3代)。1857年9月20日 - 1930年11月29日、落語家。
一橋家家臣の家に生まれる。本名は豊嶋銀之助。上方落語ネタを江戸落語に移植した演目が多い。得意ネタは「らくだ」「にらみ返し」「天災」「青菜」「うどんや」等。あの夏目漱石も『三四郎』の中で小さんについて書いている。家紋は丸に片喰紋。

斎藤実。1858年12月2日 - 1936年2月26日、海軍軍人、政治家。
陸奥国水沢藩で水沢藩士・齋藤耕平の子として出生。読みは、さいとうまこと。第30代内閣総理大臣として農村の救済、満州国承認等を行う。最終階級は海軍大将。外務大臣、文部大臣、内大臣、ボーイスカウト日本連盟総長等も歴任。画像は多磨霊園。

長瀬富郎。1863年12月31日 - 1911年10月26日、実業家。
美濃国恵那郡福岡村出身。12歳で奉公に出る。23歳で独立を果たし「長瀬商店」を馬喰町に創業。高品質の「花王石鹸」製造に成功。シアトル万国博覧会で金杯を獲得。現在の花王の基礎を築く。家紋は丸に剣片喰。画像は染井霊園にて撮影。

山座円次郎。1866年12月2日 - 1914年5月28日、外交官。
福岡藩の足軽・山座省吾の次男として、福岡に生まれる。東京帝国大学の学生時代以来、南方熊楠と親しかったという。日露ポーツマス講和会議に随員として出席するなど小村外交の中心的役割を担った。家紋は剣片喰紋。画像は青山霊園にて撮影。

比留間賢八。1867年4月19日 - 1936年4月15日、マンドリン奏者。
東京生まれ。渡欧後に、マンドリン教室を開く。日本のマンドリンの普及に尽力。その門下には音楽家の齋藤秀雄、華族の徳川義親、土方与志、作家の里見弴、詩人の萩原朔太郎、画家の藤田嗣治がいる。家紋は重ね片喰紋。画像は多磨霊園にて撮影。

鈴木喜三郎。1867年11月6日 - 1940年6月24日、官僚、政治家。
神奈川県川崎市の川島家に生まれ、大師本町天台宗明長寺の12世鈴木慈孝の養子となる。司法官僚から、貴族院議員、清浦奎吾内閣の司法大臣、田中義一内閣の内務大臣を歴任し、犬養毅暗殺後の立憲政友会第7代総裁を務めた。画像は谷中霊園にて撮影。

横山大観。1868年11月2日 - 1958年2月26日、美術家。
旧水戸藩藩士・酒井捨彦の長男。朦朧体と呼ばれる線描を抑えた独特の没線描法を確立した近代日本画壇の巨匠。戦中に自らが売却した絵の代金を軍に寄付したため終戦後に戦犯容疑者として取り調べを受けた。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。

西田幾太郎。1870年6月17日 - 1945年6月7日、哲学者。
石川県かほく市森に出生。西田家は江戸時代には十村(大庄屋)を務めた豪家。近代哲学を基礎に仏教思想、西洋哲学を融合させようとした。その「絶対矛盾的自己同一」論は有名。代表作は『善の研究』。家紋は片喰紋。西田幾多郎記念哲学館にて確認。

木村栄。1870年10月4日 - 1943年9月26日、天文学者。
石川県金沢市出身。読みは、きむらひさし。水沢緯度観測所(現・国立天文台水沢VLBI観測所)の所長に就任。位置天文学の研究、Z項の発見などの業績を残す。学士院恩賜賞、文化勲章を受勲。家紋は丸に片喰紋。画像は多磨霊園にて撮影。

国木田独歩。1871年8月30日 - 1908年6月23日、小説家、詩人。
千葉県銚子生まれ。父・専八は旧龍野藩士。民友社に入り徳富蘇峰の『国民新聞』の記者となる。『独歩吟』を『国民之友』に発表。自然主義文学のはしりとなる。代表作『巡査』『忘れえぬ人々』『牛肉と馬鈴薯』『武蔵野』等。家紋は丸に片喰紋。

山下芳太郎。1871年12月24日 - 1923年4月7日、言語政策研究家。
愛媛県出身。外務省勤務後、住友に転職し住友鋳鋼所、住友製鋼所等の重役を務める。後に、漢字を非効率と考え、カタカナの左横書き文書普及を目指すカナモジ運動に専念するためすべての役職から退く。家紋は剣片喰紋。画像は鶴見・総持寺にて撮影。

桃中軒雲右衛門。1873年10月25日 - 1916年11月7日、浪曲師。
出生地は茨城県説、埼玉県説、群馬県説など。本名は岡本峰吉。武士道鼓吹を旗印に掲げ大阪中座や東京本郷座で大入りをとり、それまで寄席芸であった浪曲の劇場への進出を果たす。家紋は丸に剣片喰紋。画像は墓所の東京都品川区の天妙国寺にて撮影。

島崎赤太郎。1874年7月9日 - 1933年4月13日、音楽教育者。
東京の築地に生まれた。文部省著作『尋常小学唱歌』の作曲委員会主任。『中学唱歌』などの選曲編集にも尽力。西南学院大学、立教大学などの校歌も作曲。代表曲は「最上川」。家紋は丸に剣片喰紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。

野口英世。1876年11月9日 - 1928年5月21日、細菌学者。
福島県耶麻郡三ッ和村に野口佐代助・シカ夫妻の長男として生まれる。黄熱病や梅毒等の研究で知られる。ガーナのアクラで黄熱病原を研究中に自身も感染して51歳で死去。千円札の肖像になっている。家紋は剣片喰紋。野口英世記念会にて確認。

磯村春子。1877年3月16日 - 1918年1月31日、新聞記者。
福島県相馬郡中村町出身。『報知新聞』記者となり婦人問題を担当。青鞜社同人らとも交流をもつ。NHK朝の連続ドラマ「はね駒(こんま)」の主役・りん(斉藤由貴演)のモデルとなる。家紋は丸に片喰紋。画像は中野・高徳寺にて撮影。

平賀譲。1878年3月8日 - 1943年2月17日、海軍軍人、工学者。
東京府生まれ、本籍地は広島県広島市。父は芸州藩士から維新政府に仕えた主計官。読みは、ひらがゆずる。八八艦隊主力艦の基本計画を担当。最終階級は海軍技術中将。1938年に東京帝大総長となる。家紋は丸に剣片喰紋。画像は多磨霊園にて撮影。

佐分利貞男。1879年1月20日 - 1929年11月29日、外交官。
佐分利家は備後福山藩士。大使館参事官、通商局長、条約局長等を歴任。箱根宮ノ下の富士屋ホテルにおいて変死体で発見され自殺とされたが大陸浪人説、中国国民党工作員説などの他殺説もある。家紋は丸に片喰。画像は文京区吉祥寺にて撮影。

石原誠。1879年5月18日 …

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[16 1 月 2009 | No Comment | | ]
梶紋 -永遠の敗者として奉られた軍神の紋- 小松帯刀、加山雄三、安倍晋三...

梶紋は、諏訪大社の神紋と知られている。
ご存知の通り、諏訪大社は、建御名方神(たけみなかたのかみ)を奉ってる。
この建御名方神は天孫降臨の際に、大国主神(おおくにぬしのかみ) の子として、建御雷神(たけみかづちのかみ)と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃れ、奉られたという。
実は、建御名方神が奉られてある諏訪大社は、ちょうど、ライバル、建御雷神が奉られてある鹿島神宮の真西にある。
建御雷神は、建御名方神に対する優位を永遠のものにしようとしたのだ。
東と西、大相撲でも東の方が西よりも格上とされる伝統はここから来ている。
しかし、不思議なのは、むしろ多くの武士にとって人気を博したのはこの敗れた神(建御名方神)だったということだ。
梶紋は、この建御名方神を軍神として崇めた武士たちの発展とともに広まったのである。
全体としては、30位に入っていないが、諏訪大社のお膝元の長野県(15位)、山梨県(8位)。群馬県、愛知県、東京都、岐阜県、徳島県、鹿児島県では30位に入っている。
梶紋を持つ有名人は以下。
諏訪頼重。1516年 - 1542年8月31日、信濃国の戦国大名。
諏訪頼満の嫡孫・諏訪頼隆の子。上原城城主。武田信玄によって上原城を攻められ降伏。弟の頼高と共に武田氏の本拠・甲府に連行され東光寺に幽閉された後に自刃。2007年のNHK大河ドラマ「風林火山」では小日向文世(画像)が演じた。家紋は梶の葉紋。

安島帯刀。1811年 - 1859年9月23日、政治家。
三河譜代の名門、戸田氏の嫡流・戸田松平家の分家の出自。幕府内の海防掛に徳川斉昭、戸田忠太夫、藤田東湖らと共に参与。また水戸藩で日本発の軍艦 旭日丸の建造に参与するなどして日本の海防に功績を残す。回天神社祭神。家紋は丸に立ち梶の葉。

松浦武四郎。1818年3月12日 - 1888年2月10日、探検家。
伊勢国一志郡須川村の郷士松浦桂介の四男。松浦家は、肥前国平戸の松浦氏の一族で中世に伊勢国へ来たといわれている。1844年に蝦夷地探検に出発。その探査は択捉島や樺太にまで及んだ。北海道という名前を考案した。画像は染井霊園にて撮影。

手塚律蔵。1822年7月25日 - 1878年11月29日、蘭・英学者。
防州小周防村生まれ。父は医師の手塚治孝,母は瀬脇氏。墓所には後に改名した瀬脇寿人の名前が見える。英語の重要性を早くから認識。桂小五郎にも英語を教えた。門人から西周、津田仙など優れた英学者を輩出。家紋は立ち梶の葉紋。青山霊園にて撮影。

小松帯刀。1835年12月3日 - 1870年8月16日、幕末の薩摩藩士。
島津久光に重用され西郷、大久保などの下級藩士と藩主とを繋ぐ役として幕末の薩摩では重要なポジションをこなした。帯刀の紋は一般的には抱き鬼菊の葉とも言われているが小松家は禰寝氏の流れのため梶紋の流れを汲む抱き鬼梶の葉とみなす。

鮫島尚信。1845年4月4日 - 1880年12月4日、外交官。
薩摩国鹿児島城下山之口馬場町の薩摩藩藩医、鮫島淳愿の子として生まれる。薩摩藩の留学生としてロンドンで学ぶ。「外国交法案内」を著す。仏特命全権公使時代に、条約改正に尽力。家紋は丸に立ち梶の葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

山本権兵衛。1852年11月26日 - 1933年12月8日、政治家。
薩摩国鹿児島郡出身。数々の軍政改革を行い日清戦争・日露戦争を屋台骨から支え日本海軍のオーナーと言われた。また第16、22代内閣総理大臣も務める。最終階級は海軍大将。家紋は抱き鬼梶の葉紋。画像は青山霊園にて撮影。

有賀長雄。1860年11月13日 - 1921年5月17日、法学、社会学者。
家は大坂の国学者の家系。陸軍大学校、東京帝国大学、早稲田大学などで憲法、国際法を講じる。日清戦争、日露戦争には法律顧問として従軍。著書『社会学』は日本初の体系的な社会学的著作。家紋は鬼梶の葉に二本筆紋。青山霊園の墓所にて撮影。

横河民輔。1864年10月28日 - 1945年6月25日、建築家・実業家。
兵庫県明石市出身。医師の息子。建築家としては帝国劇場、三越日本橋本店等を設計。実業家としては計測・制御機器メーカーの電気計器研究所(現横河電機)を創業した。墓所の家紋の梶の葉は、葉が七枚の変わり紋。画像は多磨霊園にて撮影。

小坂梅吉。1873年11月8日 - 1944年12月2日、実業家、政治家。
信州・伊那出身。上京し上野輪王寺の御用商人となる。銀座に小松食堂を開業。 日比谷公園の内の松本楼を入手。孫文の支援者で日活の創業者・梅屋庄吉とは姻戚関係。衆議院議員、貴族院議員を務める。家紋は丸に梶の葉紋。画像は谷中霊園にて撮影。

白井勇。1898年6月19日 - 1984年4月12日、政治家。
山形県鶴岡市出身。東京帝大出身。農林省に入省後、米穀局で食程政策を担当。終戦とともに食糧庁の検査課長として食糧行政機構と農産物検査制度の確立に尽力。後に参議院議員を4期務め大蔵政務次官、逓信委員長等を歴任。画像は多磨霊園にて撮影。

新田潤。1904年9月18日 - 1978年5月14日、小説家。
長野県上田市出身。本名は半田祐一。高見順らと『人民文庫』を創刊、プロレタリア作家として活動。戦後は風俗小説も書いた。代表作は『片意地な街』『太陽のある附近』『禁断の果実』『色事師と女』等。家紋は梶紋。画像は谷中・瑞松院にて撮影。

瀬川昌治。1925年10月26日 -、映画監督、脚本家。
東京市神田区神保町の官吏の家に出生。『ぽんこつ』で監督デビュー。1960年代に数多くの喜劇シリーズを監督。代表監督作は『図々しい奴』『乾杯!ごきげん野郎』等。また、テレビドラマ『赤いシリーズ』『スチュワーデス物語』等の脚本も手がける。

里見浩太朗。1936年11月28日 - 、俳優、歌手。
静岡県富士宮市出身。本名は佐野邦俊。芸歴が半世紀を越える時代劇俳優。代表出演作は『大江戸捜査網』『闇を斬る!大江戸犯科帳』『松平右近事件帳』『水戸黄門』等。また、演歌歌手としても多数リリースしている。家紋は立ち梶の葉紋。

加山雄三。1937年4月11日 - 、俳優、歌手。
神奈川県横浜市出身。祖父は鹿児島出身の陸軍大佐。父親は俳優の上原謙。母は女優の小桜葉子(岩倉具視のひ孫)。代表出演作は『若大将シリーズ』。『君といつまでも』『サライ』の作曲者としても有名。画像は多磨霊園にある父親・上原謙の墓所より。

米長邦雄。1943年6月10日 - 、将棋棋士。
山梨県南巨摩郡増穂町出身。タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持。2003年11月、紫綬褒章受章。3人の兄達は頭が悪いから東大へ行った。自分は頭が良いから将棋指しになったという言葉は有名。家紋は丸に立ち梶の葉紋。

中沢新一。1950年5月28日 - 、宗教学者、評論家、文化人類学者。
山梨県山梨市出身、歴史学者の網野善彦は叔父。東京大学大学院人文科学研究科へ入学後、ネパールでチベット仏教の修行を行い帰国後現代思想研究の成果を駆使して著作活動を開始。代表作は『チベットのモーツァルト』『悪党的思考』『哲学の東北』。

安倍晋三。1954年9月21日 - 、政治家。
東京都出身。安倍家は山口県長門市の豪家。父親の晋太郎も有力政治家であったが志半ばで亡くなる。第90代内閣総理大臣となり「戦後レジュームからの脱却」を旗印に本格的保守政権を目指す。画像は冨士霊園・安倍家の墓所にて撮影。

下条みつ。1955年12月29日 - 、政治家。
長野県松本市出身。祖父・下条康麿は文部大臣、父・下条進一郎は厚生大臣を務めた。また母方の祖父は、経団連初代会長・石川一郎。衆議院議員(3期)。羽田グループに所属。家紋は松皮菱に梶紋。画像は染井霊園の下条康麿の墓所にて撮影。
まさむね