杏葉紋 -九州武将あこがれ、異国の馬具を模した紋- 大友宗麟、五代友厚、徳田秋声...

杏葉とは馬具の装飾品。
法然上人の生家の漆間家がこの杏葉紋のため、浄土宗系の寺院の寺紋となっている場合がある。
例えば、伊能忠敬が眠る上野の源空寺、喜多川歌麿が眠る北烏山の専光寺など。画像は、専光寺の杏葉紋。

この紋は、室町時代、九州の大友氏と有力家臣が使用していた。1570年、竜造寺隆信が大友宗麟を戦で破り、その紋を奪った。
さらに、その竜造寺家から、重臣の鍋島家がこの紋を奪った。
それほど、九州地方では憧れの紋だったのである。

したがって、この紋を持つ人は現在でも九州地方の多い。
佐賀県の19位が最高。福岡県、大分県で21位、長崎県で23位、熊本県で25位。九州以外では、広島県で28位。

杏葉紋を使用している有名人は以下。


立花道雪 。1513年4月22日 – 1585年11月2日、 武将。
豊後の戦国大名である大友氏の家臣。耳川の戦いで大友氏が衰退した後も大友氏を支え続けたが、高齢を押して出陣したために病に倒れ死去した。半身不随にも関わらず、勝利し続けたため「鬼道雪」「雷神」と称された。 家紋は花杏葉。


龍造寺隆信 。1529年3月24日 – 1584年5月4日、 大名。
龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男。本姓は藤原氏。「肥前の熊」ともいわれた。大友氏を破り島津氏と並ぶ勢力を築き上げたが島津有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。家紋は日足(左)、剣花菱(中央)、杏葉(右)。


大友宗麟 。1530年1月31日 – 1587年6月11日、 戦国大名。
大友氏は鎌倉~南北朝にかけて九州で権勢を振るう。宗麟時代に大内氏や毛利氏の勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。家紋の花杏葉は「見聞諸家紋」より。


恋川春町 。1744年 – 1789年8月27日、 戯作者。
紀州徳川家附家老の安藤次由の家臣・桑島勝義の次男として誕生。父方伯父の倉橋勝正の養子となる。本名は倉橋格。『金々先生栄花夢』で当世風俗を描き、黄表紙というジャンルを開拓。家紋は三つ並び杏葉紋か?画像は成覚寺にて撮影。


江木鰐水 。1810年12月22日 – 1881年10月8日、 儒学者。
安芸国出身。庄屋福原与曽八の三男。読みは、えぎがくすい。頼山陽に師事。福山藩主阿部正弘に抜擢され、藩儒官となる。ペリーの2度目来航時に応接係に随行。箱館戦争にも参加した。家紋は花杏葉菱紋。画像は谷中霊園にて。


鍋島直正 。1815年1月16日 – 1871年3月8日、 大名。
父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主に襲封。藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革を行う。アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した。家紋は鍋島杏葉。青山墓地の鍋島氏の墓所にて撮影。


壬生基修 。1835年4月4日 – 1906年3月5日、 公卿、伯爵。
京都出身。庭田重基の三男として生まれ壬生道吉の養子となる。読みは、みぶもとおさ。尊王攘夷派の公家として長州藩に下向(七卿落ち)。維新後は東京府知事、元老院議官、平安神宮初代宮司を歴任。家紋は園杏葉紋。画像は多磨霊園にて撮影。


松濤権之丞 。1836年 – 1868年4月頃、 実業家。
江戸出身。中浜万次郎、林和一郎らと鳥島に上陸し、権之丞の筆による「日本属島鳥島」の標柱を立てた。遣仏使節の随員として仏留学を果たす。やがて勝海舟配下の軍事方の一人になり、幕府内部の恭順工作を担当。家紋は抱き杏葉紋。


五代友厚 。1836年2月12日 – 1885年9月25日、 実業家。
薩摩国出身。記録奉行の五代直左衛門秀尭の息子。大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、共同運輸会社、阪堺鉄道(現・南海電鉄)等の創設に関わる。家紋は丸に組み違い十字久留子紋と抱き杏葉紋。画像は青山霊園にて撮影。


高崎正風 。1836年9月8日 – 1912年2月28日、 志士、歌人。
薩摩国川上出身。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭の長男。志士として活躍。八月十八日の政変薩会同盟の立役者となる。新政府に出仕。宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などをつとめる。家紋は抱き花杏葉紋。青山霊園の墓所にて撮影。


四辻清子 。1840年 – 1902年1月10日、 女官。
京都出身。権大納言四辻公績の娘。読みは、よつつじきよこ。祐宮立太子にあたり高松と称し、明治天皇の典侍となる。権典侍、中納言典侍、紅梅典侍などと改称。46年間側近としてつかえた。家紋は抱き杏葉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。


安川敬一郎 。1849年5月9日 – 1934年11月30日、 実業家。
福岡藩足軽の家柄。玄洋社の社員となり、孫文を神戸から東京に迎え、5百円の生活費を提供していたという。実業家としては、安川電機、九州製鋼(のち八幡製鐵所が買収)、黒崎窯業を設立する。家紋の抱き花杏葉紋は、「華族家系大成」による。


小室信介 。1852年9月4日 – 1885年8月25日、 民権運動家。
丹後国出身。砲術家・小笠原忠四郎の第二子。豪商・小室信夫の養子となる。養父は民撰議院設立建白書に板垣退助ら4人の旧参議と共に署名した一人。自身も関西における自由民権運動の雄となる。家紋は抱き花杏葉紋。画像は天王寺墓地にて撮影。


目賀田種太郎 。1853年8月25日 – 1926年9月10日、 法学者。
江戸本所太平町出身。大蔵省主税局長、枢密院顧問官などを歴任。相馬永胤田尻稲次郎駒井重格と共に、専修学校(現:専修大学)を創設した。東京音楽学校(現:東藝大)創設の基礎を築く。家紋の抱き杏葉紋は池上本門寺の墓所にて撮影。


立花小一郎 。1861年3月20日 – 1929年2月15日、 陸軍軍人。
三池藩家老・立花硯の長男として生れる。朝鮮駐剳軍参謀長、朝鮮総督府警務総長、関東軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将。その後は、福岡市長、貴族院議員を務めた。家紋は立花変り杏葉紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。


徳田秋声 。1872年2月1日 – 1943年11月18日、 小説家。
金沢市横山町に加賀藩の陪臣横山雲平の子として生まれる。本名は末雄。島崎藤村正宗白鳥らと共に日本ペンクラブの設立にも参加。代表作は『薮かうじ』 『感傷的の事』『光を追うて』など。家紋は抱き花杏葉紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。


秦勉造 。1877年 – 1943年7月15日、 実業家、医学博士。
東京出身。東京帝国大学医科大学卒業。札幌病院外科医長となる。北海道帝国大学医学部創設とともに同大学医学部教授、初代医学部長となり北海道外科学の進歩に貢献。東京同愛記念病院の開設に尽力。画像は多磨霊園にて撮影。家紋は抱き杏葉紋。


朝倉文夫 。1883年3月1日 – 1964年4月18日、 彫刻家。
大分県大野郡上井田村出身。村長・渡辺要蔵の三男として生まれ、10歳の時に朝倉種彦(衆議院議員)の養子に入る。高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮として活躍。「東洋のロダン」と呼ばれた。家紋の花杏葉紋は朝倉文夫記念館にて教えて頂きました。


国広富之 。1953年4月23日 -、 俳優。
京都府京都市左京区出身。本名は、國廣富之。ファッションモデル兼女優の谷内里早は、実娘。『赤い絆』、『噂の刑事トミーとマツ』など人気ドラマで活躍。家紋の抱き杏葉紋は、1980年頃の雑誌記事「これがアイドルスターの家紋だ!!」による。

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まさむね

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