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歴史・家紋 »

[9 1 月 2009 | Comments Off | | ]
蔦紋 -遊女が好んだ優美な紋- 藤堂高虎、谷崎潤一郎、いかりや長介...

蔦紋は、江戸時代におおいに広まった。
大名では、藤堂、松平、六郷などの諸氏が使用している。一方で、遊郭でも大流行。形が優美で、しかも、纏わりついて繁栄するという蔦の姿が、遊女達の心情を表現していたからであろうか。
石川県(1位)、新潟県(2位)、富山県(4位)、島根県(5位)など、日本海側の各県で使用者が多い。
逆に高知県では24位と断然少ない。また、佐賀県で16位、山梨県、長崎県で15位、青森県、岐阜県、和歌山県で14位と少ない。
使用している有名人は以下である。
何故か、政治家よりも文化人が多いのが目立つ。

松永久秀。1510年 - 1577年11月19日、戦国時代の武将。
出身については阿波国・山城国西岡・摂津国五百住の土豪出身など諸説がある。三好三人衆と共に第13代将軍・足利義輝を殺害し畿内を支配。第13代将軍・足利義輝暗殺や東大寺大仏殿焼失の首謀者。北条早雲・斎藤道三と並んで日本三大梟雄とされる。

藤堂高虎。1556年2月16日 - 1630年11月9日、武将・大名。
近江犬上郡藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。築城の名手としても知られている。家紋は藤堂蔦。画像は染井墓地の藤堂家の墓所にて撮影。

成富茂安。1560年 - 1634年、龍造寺氏次いで鍋島氏の家臣。
佐賀県佐賀市鍋島町増田に生まれ、龍造寺隆信、龍造寺政家、鍋島直茂などに仕える。熊本城などの築城、筑後川の堤防工事、潅漑事業に手腕を振るう。明治天皇に業績を賞賛され従四位を追贈される。家紋は丸に蔦紋。画像は佐賀市本行寺の墓所にて撮影。

出雲阿国。1572年 - 没年不詳、女性芸能者。
伝説によれば出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘とされる。1603年春に北野天満宮に舞台をかけて興行を行ない大変な人気を集めた。江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息がとだえた。歌舞伎の創始者。画像は出雲大社近くの阿国のものとされる墓。

徳川吉宗。1684年11月17日 - 1751年7月12日、将軍。
徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。江戸幕府の第8代将軍に就任し、新田開発、定免法や上米令、目安箱の設置、公事方御定書の制定、江戸町火消しを設置等、いわゆる享保の改革を行う。定紋の三つ葉葵紋の他、蔦紋も使用。

蔦屋重三郎。1750年2月13日 - 1797年5月31日、版元(出版人)。
父(丸山氏)は江戸の吉原で遊廓の勤め人。喜多川氏の養子になる。蔦屋は喜多川氏の屋号、吉原の茶屋。山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵の出版をした。家紋は山形に蔦。画像は「蔦屋重三郎展」のポスターより。

山田検校。1757年6月14日 - 1817年5月25日、箏曲家。
尾張藩・宝生流能楽師の三田了任の子で山田は母方の姓。本名は斗養一。浄瑠璃の叙事的な要素を導入して語り物的な箏曲の分野を確立した。代表作は「小督の曲」「長恨歌の曲」「葵上」。没年には当道最高位の惣録検校に昇進した。家紋は鬼蔦紋。

瀧山。1805年 - 1876年1月14日、大奥御年寄。
御鉄砲百人組・大岡義方の長女。江戸幕府12代将軍徳川家慶・13代家定・14代家茂時代の御年寄を務め江戸開城に伴い大奥の最後の幕引きをした。家紋は丸に大割り蔦紋。家紋画像は川口・錫杖寺にて撮影。顔画像は『篤姫』の稲盛いずみ。

古河市兵衛。1832年4月16日 - 1903年4月5日、実業家。
幼名は木村巳之助。木村家は京都岡崎で代々庄屋を務める家柄。渋沢栄一から援助を受け、事業を発展させる。足尾銅山を買収。古河財閥の創業者。事業は後の古河電気工業へと発展していく。家紋は鬼蔦紋。画像は南麻布・光林寺にて撮影。

頼山陽。1780年1月21日 - 1832年10月16日、歴史家、文人。
広島藩の城下の袋町に育つ。幼名は久太郎。主著『日本外史』が幕末の尊皇攘夷運動に与えた影響は甚大であった。安政の大獄で処刑された頼三樹三郎は三男。画像は、帆足杏雨筆の頼山陽像。紋付の家紋は丸に蔦紋。定紋は四つ又抱き鹿角。

有村次左衛門。1839年2月11日 - 1860年3月24日、尊攘派志士。
薩摩藩士・有村兼善の四男として生まれる。兄に後の貴族院議員・海江田信義。大老井伊直弼暗殺を水戸藩士らと計画し、江戸城桜田門外で行列を襲撃した。のちに正五位が追贈される。家紋は浮線蔦。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

市川左団次(初代)。1842年11月30日 - 1904年8月7日、役者。
大坂道頓堀生まれ。父は歌舞伎役者の結髪師・中村清吉。本名は高橋榮三。明治座を新築し、座元(劇場所有者)として近代的な劇場経営を行う。定紋は三升に左の字、替紋は松川菱に鬼蔦。また、肖像写真から中陰鬼蔦も使用と判断。

藤堂平助。1844年 - 1867年12月13日、新選組隊士。
武蔵国江戸出身。新選組結成当時からの同志。新選組八番組組長。池田屋事件では、近藤勇・土方歳三に次ぐ褒賞金を幕府から下賜される。伊東甲子太郎に従って新選組を離脱し後に油小路事件で暗殺される。家紋は丸に蔦紋。画像は薄桜鬼の藤堂平助。

森有礼。1847年8月23日 - 1889年2月12日、薩摩藩士・政治家。
薩摩国鹿児島城下春日小路町で薩摩藩士森喜右衛門有恕の五男として生まれた。明治維新後に福澤諭吉、西周らと共に明六社を結成。初代の文部大臣。英語の国語化を提唱したことでも有名。家紋は頭合わせ三つ鬼蔦。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

東郷平八郎。1848年1月27日 - 1934年5月30日、海軍軍人。
薩摩国鹿児島城下出身。父親は薩摩藩士・東郷実友。日本海軍司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し日本の国際的地位を引き上げた。特に日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った。最終階級は元帥海軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。

島村速雄。1858年10月26日 - 1923年1月8日、海軍軍人。
高知県出身。土佐藩の郷士・島村左五平と妻・鹿子の間に生まれる。第四艦隊司令官、海軍兵学校校長、海軍大学校校長、海軍教育本部長、海軍大将を歴任。「天性的に度量のある人物」といわれた。家紋は丸に変り三つ蔓蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。

元良勇次郎。1858年12月5日 - 1912年12月13日、心理学者。
摂津国三田出身。旧姓は杉田。読みは、もとらゆうじろう。東京英和学校(青山学院の前身)や、正則予備校の設立に参画。帝国大学文科大学教授として日本における近代心理学の礎を築いた。家紋は鬼蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

高田早苗。1860年4月4日 - 1938年12月3日、政治家、教育家。
東京深川生まれ。東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立に参加。第1回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選。衆議院議員、貴族院議員、早稲田大学総長、文部大臣などを歴任した。家紋は大割り蔦紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。

本野一郎。1862年3月23日 - 1918年9月17日、外交官、政治家。
肥前国佐賀生まれ。父は読売新聞創業者の本野盛亨。弟に化学者・早稲田大学教授の本野英吉郎がいる。外務省に入りフランス公使、ベルギー公使を歴任。寺内内閣で外務大臣となる。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

柴田家門。1863年2月6日 - 1919年8月25日、政治家。
萩城下平安古に柴田英佐の長男として出生。第2次山縣内閣の内務省地方局長を務める。後に勅撰の貴族院議員となり、第3次桂内閣の文部大臣に就任。退任後も貴族院議員を務め臨時教育会議の委員を務める。家紋は丸に三つ寄せ蔦紋。画像は青山霊園にて。

田中義一。1864年7月25日 - 1929年9月29日、政治家。
萩藩士・田中信祐の三男として萩に出生。第26代内閣総理大臣在任中に張作霖爆殺事件が起き、それがもとで昭和天皇にも「お前の最初に言つたことと違ふぢやないか」と強く叱責されたため内閣総辞職した。家紋は鬼蔦。画像は多磨霊園にて撮影。

石塚英蔵。1866年10月31日 - 1942年7月28日、官僚、政治家。
福島県出身。会津藩士・石塚和三郎の長男として生まれる。台湾総督、貴族院議員、枢密顧問官を歴任。台湾総督時代に霧社事件(最大規模の抗日暴動事件)が起こり、辞職している。家紋は丸に二つ中陰蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。

幸田露伴。1867年8月22日 - 1947年7月30日、小説家。
江戸下谷三枚橋横町に生まれる。『五重塔』『運命』などの作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。第1回文化勲章受章。娘の文も随筆家、後に小説も書いた。家紋は蔦紋。画像は池上本門寺の墓所にて撮影。

山路一善。1869年4月24日 - 1963年3月13日、海軍軍人。
愛媛県松山市に松山藩士山路一審の三男として生まれる。明治から大正の大日本帝国海軍の海軍中将。日本海軍での航空兵力の導入、整備に尽力し、海軍航空の生みの親と呼ばれる。家紋は丸に大割り蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

尾上柴舟。1876年8月20日 - 1957年1月13日、詩人、歌人。
岡山県苫田郡津山町出身。本名は尾上八郎。読みは、おのえしばふね。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ同藩士・尾上動の養子となる。「叙景詩」を刊行し浪漫主義に対抗して叙景詩運動を推し進めた。家紋は三つ蔦紋。画像は多磨霊園にて。

植原悦二郎。1877年5月15日 - 1962年12月2日、政治家。
長野県南安曇郡明盛村出身。国民主権論を大胆に主張するなど急進的な大正デモクラットとして言論活動を展開した。戦後、日本自由党の結成に参画し第1次吉田内閣の国務大臣として入閣する。改造後は内務大臣。家紋は蔦紋。画像は青山霊園にて撮影。

佐藤義亮。1878年2月18日 - 1951年8月18日、実業家。
秋田県仙北郡角館町に佐藤為吉の四男として出生。読みは、さとうよしすけ。耐乏生活の末、1896年に新声社(後の新潮社)を立上げて雑誌『新声』を創刊。その後、雑誌『新潮』を創刊した。家紋は丸に蔦紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

松岡映丘。1881年7月9日 - 1938年3月2日、日本画家。
兵庫県神崎郡の旧家・松岡家に産まれ。本名は輝夫。兄には医師の松岡鼎、医師で歌人・国文学者の井上通泰(松岡泰蔵)、民俗学者の柳田國男、海軍軍人で民族学者、言語学者の松岡静雄がいた。家紋は大割蔦紋。父親の羽織より。

早川徳次。1881年10月15日 - 1942年11月29日、実業家。
山梨県東八代郡御代咲村に生まれる。東京地下鉄道(後、帝都高速度交通営団→東京地下鉄)の創業者。日本に地下鉄を紹介・導入し、「地下鉄の父」と呼ばれる。『帝都物語』にも登場する。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。

土肥原賢二。1883年8月8日 - 1948年12月23日、陸軍軍人。
岡山県岡山市出身。謀略部門のトップとして満州国建国及び華北分離工作で活躍。「満州のローレンス」と呼ばれていた。終戦後、特に中国からの主張によりA級戦犯として絞首刑となる。最終階級は陸軍大将。家紋は鬼蔦紋。画像は護国寺にて撮影。

長谷川伸。1884年3月15日 - 1963年6月11日、小説家、劇作家。
神奈川県横浜市の土木業の家に生れる。「講談倶楽部」や「都新聞」に山野芋作のペンネームで小説を発表。文学学校「新鷹会」を主宰。門下生に山岡荘八、平岩弓枝、池波正太郎、西村京太郎達がいる。代表作「関の弥太っぺ」「股旅草鞋」等。

小松原道太郎。1886年7月20日 - 1940年10月6日、陸軍軍人。
神奈川県出身。海軍工廠技師・小松原五良の長男として生れる。歩兵第57連隊長、関東軍司令部付を歴任。ノモンハン事件のきっかけを作る打電をする。最終階級は陸軍中将。家紋は丸に蔦紋。画像は護国寺共葬墓地にて撮影。

谷崎潤一郎。1886年7月24日 - 1965年7月30日、小説家。
耽美主義とされる作風で、『痴人の愛』『細雪』など多くの秀作を残し文豪と称された。『文章読本』でみずから主張するような「含蓄」のある文体で日本的な美、性や官能を耽美的に描いた。家紋は丸に蔦紋。画像は巣鴨・慈眼寺の墓所にて撮影。

野田高梧。1893年11月19日 - 1968年9月23日、脚本家。
北海道函館市出身。長崎県、愛知県で育つ。小津安二郎とは公私共に良きパートナー。共作という形で『晩春』から『秋刀魚の味』までの全作品を手がける。日本脚本家協会の初代会長を務めた。家紋は八曜に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。

松下幸之助。1894年11月27日 - 1989年4月27日、実業家。
和歌山県海草郡和佐村千旦ノ木に、小地主松下政楠・とく枝の三男として出生。松下電気器具製作所を創業。世界的企業・パナソニックに育て上げる。経営の神様と称される。晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。家紋は丸に蔦紋。

大塚敬節。1900年2月25日- 1980年10月15日、医師。
高知県高知市に生まれる。読みは、おおつかよしのり。大塚家は産婦人科・大塚修琴堂医院。昭和期の漢方復権に尽力。東洋医学の発展に貢献した業績により日本医師会より最高優功賞を受賞。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。

戸坂潤。1900年9月27日 - 1945年8月9日、哲学者。
東京市出身。京都帝国大学のマルクス主義研究者。西田左派に属し唯物論研究会を創始。治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ栄養失調により、敗戦の直前に長野刑務所で獄死。家紋は丸に知り合わせ三つ蔦。画像は多磨霊園にて撮影。

下山定則。1901年7月23日 - 1949年7月6日、鉄道官僚。
兵庫県出身。日本国有鉄道が発足して初代総裁に就任した。総裁として職員約10万人の解雇を決定し第一次整理の3万700人を通告したが直後、消息を絶ち轢死体となって発見された(下山事件)。家紋は丸に蔦紋。画像は多磨霊園にて撮影。

柳家三亀松。1901年9月1日 - 1968年1月20日、三味線漫談家。
東京の木場の材木職人の家に生まれる。本名は伊藤亀太郎。にお色気の音曲漫談では『アハァ~ん』や『イヤァ~ん』等の女性の鼻の掛かった名文句で売り出す。余りに過激すぎて寄席で禁止令が出る程だった。芸術祭奨励賞を受賞。家紋は中陰鬼蔦紋。

富田常雄。1904年1月1日 - 1967年10月16日、小説家。
柔道家富田常次郎の子として東京府に生まれる。『姿三四郎』で流行作家となる。戦後、『刺青』、『面』で直木賞を受賞。また、「弁慶」を原作としてNHKで連続ドラマ『武蔵坊弁慶』が放送された。家紋は陰丸輪に蔦紋。画像は谷中・信行寺にて撮影。

円地文子。1905年10月2日 - 1986年11月12日、小説家。
東京府東京市浅草出身。本名は富美ふみ。劇作家として小山内薫の薫陶を受ける。女性の心理を露にした新時代的小説と源氏物語の現代語訳に代表される古典文学の両輪により高く評価され文化勲章を受章するまでに至った。画像は谷中霊園にて撮影。

愛知揆一。1907年10月10日 - 1973年11月23日、政治家。
宮城県仙台市出身。祖父・信元は幕末期、徳川慶喜に小姓。法務大臣、文部大臣及び科学技術庁長官、内閣官房長官、外務大臣、大蔵大臣を歴任。環境庁長官、防衛庁長官の愛知和男は女婿で後継者。家紋は七宝に蔦紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。

長谷川一夫。1908年2月27日 - 1984年4月6日、俳優。
京都伏見の芝居小屋の子として生まれる。戦前、戦後の長きに渡って日本を代表する二枚目役者として映画界に君臨。代表作は『雪之丞変化』『沓掛時次郎』『忠臣蔵』など。家紋は丸に鬼蔦紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。

ライオン野口。1908年6月2日 - 1961年5月8日、プロボクサー。
東京市本郷区根津出身。日本ウェルター級チャンピオン。日本フライ級チャンピオンの野口恭は次男、キックボクシング創始者の野口修は長男。引退後は愛国社の同人となり、若槻禮次郎民政党総裁を襲撃。家紋は丸に鬼蔦紋。

佐分利信。1909年2月12日 - 1982年9月22日)、俳優。
北海道空知郡歌志内村の炭鉱夫の家に生まれる。上原謙、佐野周二と松竹三羽烏を結成し翌年の三人で主演した「婚約三羽烏」が大ヒット。代表出演作は「お茶漬けの味」「あゝ青春」「華麗なる一族」。家紋は丸に蔦紋。画像は小平霊園にて撮影。

麻生三郎。1913年3月23日 …

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桐紋 -日本を象徴する紋- 豊臣秀吉、板垣退助、芥川龍之介...

鎌倉時代後期より、皇室の紋所として使用される。五三の桐、五七の桐がある。
その後、皇室から功のあった臣下に下賜され、さらに、家来に下賜されることによって広まる。
有名なところでは、後醍醐天皇から足利尊氏へ、足利義輝から織田信長へ、正親町天皇から豊臣秀吉へ下賜されている。
一般に織田信長と言えば、織田木瓜、揚羽蝶が有名であるが、長興寺にある一番有名な肖像画には五三桐の紋付を着ている信長が描かれている。
ちなみに、木瓜紋は、織田氏同様、越前の守護・斯波氏の家臣であった朝倉氏も使用しているが、両氏の関係は不明だ。
元々、織田氏は藤原氏からの流れと言われていたが、信長が天下を意識し始めた頃から、その出自を平氏と創作。
その際に、平氏の代表紋である揚羽蝶も使用したのではないだろうか。
信長はリアリストであったので、出自や家紋など、出世のために使えるものは何でも使おうとしたのであろう。
一方、秀吉は、己の出自にコンプレックスを持っていたため、桐紋を下賜されると、それを最大限に活用した。
寺社などの建物、大判・小判など、人目に触れるところにも桐紋を入れさせ、価値を高めようとしたのである。
特に、太閤紋というオリジナルデザイン紋を作らせ、日用品や調度品にも入れさせたという。
その後、徳川家康は朝廷からの桐紋下賜を断り、葵紋にこだわった。この紋に、既に秀吉のイメージが染み付いていたからであろう。
江戸時代は、葵紋以外の家紋に関する規制がなかったため、庶民の間にもこの紋は広まる。
明治時代になると、日本国政府の慣例的な紋章となり、例えば、パスポートのデザインや、総理大臣、外務大臣の演台に取り付けられるプレートに使われている。
昨年、放送された木村拓也主演の総理大臣ドラマ「CHANGE」のオープニングにも桐紋旗がはためいていたので覚えていらっしゃる方もいるのではないか。
最近は、形がオーソドックスで人気があるため、貸衣装屋の紋付では一番品揃えがあるらしい。
全国の分布では、西日本に多い。広島県では一番多い家紋である。
また、有名人でこの紋を使用する人も多い。

豊臣秀吉。1537年3月17日 - 1598年9月18日、武将・戦国大名。
家系は尾張国の百姓の生まれ。はじめ木下氏を名字とし・羽柴氏に改める。織田信長に仕え、数々の戦いで功を挙げ、出世を重ねる。信長死後、日本全土を制圧。刀狩、検地、朝鮮出兵を行う。桐紋を信長、朝廷から下賜される。太閤桐はオリジナル。

本居宣長。1730年6月21日 - 1801年11月5日、国学者、医師。
伊勢国松坂の木綿商である小津家の次男として生まれた。(小津安二郎は一族の末裔)。少年時代から習字を習い、漢籍も学んだ。主著は、『古事記伝』『源氏物語年紀考』『玉勝間』等。画像は谷中霊園の本居家の墓所にて撮影の中蔭五三桐紋。

円山応挙。1733年6月12日 - 1795年8月31日、絵師。
丹波国桑田郡穴太村に農家の次男として生まれた。近世の日本の画家のなかでも際立って「写生」を重視した人物として知られている。代表作は『大乗寺障壁画』『写生図鑑』『雪松図屏風』等。画像は、大乗寺の彫像にある五七の桐紋。

鹿津部真顔。1753年 - 1829年7月6日、狂歌師・戯作者。
通称は北川嘉兵衛。読みは、しかつべのまがお。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋。狂歌の四天王の一人で狂歌師を職業化し狂歌という名称を俳諧歌と改めた。代表作は狂歌撰集「類題俳諧歌集」等。家紋は五三桐紋。墓所は小石川の光円寺。

式亭三馬。1776年 - 1822年2月27日、戯作者、浮世絵師。
本名は菊地(池)久徳。父の茂兵衛は八丈島出身。平賀源内に憧れ、当時の人気戯作者・山東京伝に多大な影響を受けた。戯作のモデルとした人足とのトラブルで手鎖の処分を受けた。代表作は「浮世風呂」「浮世床」など。家紋は五三桐。

幾島。1808年7月11日 - 1870年5月26日、女中。
父は薩摩藩御側用人の朝倉孫十郎景矩。江戸幕府13代将軍徳川家定の正室篤姫(天璋院)付きの御年寄となり、江戸城と薩摩藩との情報連絡役としても活動しした。NHKの大河ドラマ「篤姫」では松坂慶子が演じて有名になる。

海江田信義。1832年3月13 - 1906年10月27日、武士、政治家。
薩摩藩士・有村仁左衛門兼善の長男。生麦事件を起こす。戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀として活動するが長州藩の大村益次郎と事あるごとに対立したという。維新後は元老院議官、貴族院議員、枢密顧問官等を務める。画像は青山霊園にて撮影。

板垣退助。1837年5月21日 - 1919年7月16日、土佐藩士、政治家。
高知城下中島町出身。土佐藩上士・乾栄六正成の長男。戊辰戦争では土佐藩軍指令・東山道先鋒総督府参謀として幕府軍を撃破。自由民権運動の主導者として知られる。100円札に肖像が用いられた。家紋は土佐桐。画像は品川神社にて。

香川敬三。1841年12月27日 - 1915年3月18日、勤皇志士。
水戸藩郷士蓮田重右衛門孝定・袖の3男として出生。攘夷の志士と交わり中岡慎太郎率いる陸援隊の副隊長格となる。戊辰戦争で官軍として活躍。維新後は枢密顧問官、皇太后宮大夫など宮内官僚として要職を歴任。家紋は五七桐紋。青山霊園の墓所にて撮影。

小沢武雄。1844年12月19日 - 1926年1月29日、陸軍軍人。
小倉藩士・小沢義房の長男。第二次長州征伐において軍議役兼陣場奉行を勤める。西南戦争に征討総督本営参謀として出征。最終階級は陸軍中将。貴族院議員に在任し日本赤十字社副社長も勤めた。家紋は五七鬼桐紋。青山霊園にて撮影。

橋本左内。1845年7月24日 - 1909年2月18日、医師、尊王家。
河内源氏の名門・足利氏の連枝・桃井氏(もものいし)の後胤。一橋慶喜(徳川慶喜)擁立運動を展開。井伊直弼が発令した安政の大獄のために、小塚原刑場にて斬首された。画像は、弟の橋本綱常の墓(青山の長谷寺)より。

頭山満。1855年5月27日 - 1944年10月5日、国家主義者。
福岡県出身。玄洋社の総帥。右翼の巨頭・黒幕的存在。孫文、蒋介石、ラス・ビハリ・ボースら日本に亡命した革命運動家らに援助を行う。アジア主義の立場で活動した。日韓併合の際、奔走するも植民地化の状態には幻滅した。画像は青山霊園にて。

波多野伝三郎。1856年9月20日 - 1907年2月13日、政治家。
越後国長岡藩出身。東京横浜毎日新聞に入社。立憲改進党結成とともに入党。衆院議員選挙に当選し第2次松方内閣時代に福井県知事就任したが、当時自由党が大勢を占めた県議会に不信任案を可決される。家紋は丸に五三紋。画像は青山霊園にて撮影。

福本日南。1857年6月14日 - 1921年9月2日、ジャーナリスト。
福岡藩士福本泰風の長男として福岡に生れる。陸羯南・古島一雄らと新聞『日本』を創刊。玄洋社系の「九州日報」の主筆兼社長に就任。主著の『元禄快挙録』で現在の忠臣蔵のスタイル・評価を確立する。家紋は五三桐紋。青山霊園の墓所にて撮影。

村上鬼城。1865年6月10日 - 1938年9月17日、俳人。
鳥取県の鳥取藩士、小原平之進の長男として江戸に生まれるが、母方の村上家の養子となる。本名は村上荘太郎。司法書士の傍ら『ホトトギス』の同人として活躍。「心耳の詠み人」と呼ばれる。家紋は五三桐紋。画像は高崎市・龍広寺にて撮影。

望月圭介。1867年4月1日 - 1941年1月1日、政治家。
広島県大崎上島東野村。生家は廻船問屋。衆議院議員に13回連続当選。初当選時には自由党、後に立憲政友会に所属し、原敬内閣時に幹事長に就任。逓信大臣、内務大臣を歴任。門下より池田隼人、宮澤喜一という二人の総理大臣を輩出。画像は多磨霊園。

岸清一。1867年8月3日 - 1933年10月29日、IOC委員。
松江雑賀町に松江藩の下級武士岸伴平の次男として生まれる。法曹界の重鎮であり特に民事訴訟法の権威であった。国際オリンピック委員会委員に就任し死ぬまで務めた。東京都渋谷区の岸記念体育会館にその名を残す。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

麻田駒之助。1869年10月14日 - 1948年11月24日、編集者。
京都出身。中央公論社初代社長。西本願寺内局に勤務し『反省雑誌』の編集に携わり後に『中央公論』と改称。また築地本願寺の財政面に参与する『勘定』として尽力。旧邸は登録文化財となっている。家紋は五七桐紋。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。

平山周。1870年3月 - 1940年4月21日、アジア主義者。
筑前国夜須郡出身。宮崎滔天の同志としてアジアの反植民地民族運動を支援した。戊戌政変に際しては梁啓超に同行して彼の日本亡命を助ける。南京国民政府から陸海空軍総司令部顧問に迎えられる。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。

下村観山。1873年4月10日 - 1930年5月10日、日本画家。
和歌山県和歌山市出身。狩野芳崖、橋本雅邦らに師事する。東京美術学校を第一期生として卒業後、同校で教授となる。岡倉天心が野に下った時に行動を共にし横山大観、菱田春草と共に日本美術院を創設。家紋は五七桐。画像は多磨霊園にて撮影。

岡麓。1877年3月3日 - 1951年9月7日、歌人、書家。
東京出身。本名は三郎。名前の読みは、おかふもと。正岡子規に入門。「馬酔木」編集同人、『アララギ』で歌を発表。代表歌集は『庭苔』『朝雲』『小笹生』。また書家としても多くの書を残す。家紋は五七の桐紋。画像は文京区高林寺にて撮影。

多門二郎。1878年9月10日 - 1934年2月15日、陸軍軍人。
静岡県出身。医師・多門信夫の二男として出生。読みは、たもんじろう。義兄は松川敏胤(陸軍大将)。第2師団長に親補され満州に駐屯、満州事変が勃発し諸作戦に従軍した。最終階級は陸軍中将。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。

長谷川時雨。1879年10月1日 - 1941年8月22日、劇作家・小説家。
東京の日本橋区に弁護士の長女。本名は長谷川康子。坪内逍遥に弟子入り。『女人藝術』を創刊。宮本百合子・佐多稲子などの女性作家の発表場所を確保した。代表作に『旧聞日本橋』『日本美人伝』などがある。画像は総持寺にて。

安田善三郎。1880年10月10日 - 1930年1月9日、安田銀行総裁。
旧名は伊臣貞太郎。安田財閥の祖・安田善次郎の婿養子となる。元々、安田家の家紋は丸に木瓜であったが善次郎の代に釜敷梅鉢紋に変更。ただし、多磨霊園の善三郎の墓所にはこの桐紋が付けられている。前衛芸術家オノ・ヨーコの祖父。

五島慶太。1882年4月18日 - 1959年8月14日、日本の実業家。
長野県小県郡出身。東急電鉄の事実上の創業者。会社買収の強引さから強盗慶太の異名をとる。鉄道経営者として阪急の小林一三と並び西の小林・東の五島と賞された。美術品コレクターとして知られ、死後、五島美術館が創立された。画像は九品仏浄真寺。

高村光太郎。1883年3月13日 - 1956年4月2日、彫刻家、詩人。
東京都出身。1929年に妻・智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり後に統合失調症を発病した。 1938年智恵子と死別。1941年に詩集『智恵子抄』を出版。家紋は変り片喰桐紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。

山下奉文。1885年11月8日 - 1946年2月23日、陸軍軍人。
高知県長岡郡大杉村出身。読みは、やましたともゆき。太平洋戦争の劈頭において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮してシンガポールを占領。「マレーの虎」と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に五七の桐紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。

大川周明。1886年12月6日 - 1957年12月24日、思想家。
山形県酒田市出身。東亜経済調査局に勤務。その思想は近代日本の西洋化に対決し精神面では日本主義内政面では社会主義、外交面ではアジア主義を唱道。終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され東京裁判に出廷。画像は滝泉寺にて撮影。

白鳥敏夫。1887年6月8日 - 1949年6月3日、外交官、政治家。
千葉県出身。東洋史学者の白鳥庫吉は叔父。満州事変当時、国際的批判に対抗した。また、日独伊三国同盟の推進を図る。終戦後、極東国際軍事裁判にて終身禁固刑の判決を受ける。家紋は五三桐紋。家紋画像は雑司ヶ谷霊園の庫吉の墓所にて。

太田耕造。1889年12月15日 - 1981年11月26日、政治家、教育者。
福島県出身。読みは、おおたこうぞう。興亜専門学校(後の亜細亜大学)設立の中心人物の一人で後に学長。鈴木貫太郎内閣で文部大臣となる。終戦後、戦犯容疑に問われ巣鴨刑務所拘留後、不起訴となり出所。家紋は五三桐紋。画像は多磨霊園にて撮影。

芥川龍之介。1892年3月1日 - 1927年7月24日、小説家。
東京市京橋区出身。「羅生門」「鼻」「芋粥」「歯車」等代表作多数。友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し服毒自殺。死後、芥川の業績を記念して菊池寛が創設した芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞となる。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。

左卜全。1894年2月20日 - 1971年5月26日、俳優。
埼玉県入間郡小手指村北野に小学校校長の次男として出生。本名は三ヶ島一郎。三ヶ島家は代々、埼玉県入間郡三ヶ島村の氷川神社の神官。とぼけた脇役として活躍。代表出演作「七人の侍」「三匹の侍」等多数。「老人と子供のポルカ」が大ヒット。

宮城道雄。1894年4月7日 - 1956年6月25日、箏曲家。
兵庫県神戸市出身。クラシック音楽の影響を受けた作曲を行う。「春の海」が代表曲。作家の内田百閒とは親友同士。交友も深く、双方の随筆でたびたび言及。十七弦の発明者としても知られる。家紋は五三桐紋。画像は谷中霊園の墓所の門にて撮影。

秋葉安太郎。1895年 - 1969年、教育家、文学研究者。
千葉県出身。文学博士。日本大学名誉教授。大鏡の研究者として知られる。主著は『国語概説』『大鏡本文』『大鏡の研究』など。日本大学学長となり日本大学三島キャンパス開設に尽力。家紋は丸に五三桐。画像は家紋、肖像ともに多磨霊園にて撮影。

里見甫。1896年1月22日 - 1965年3月21日、実業家。
秋田県山本郡能代町出身。読みは、さとみはじめ。父親は元海軍軍医の里見乙三郎。中国の地下組織や関東軍との太い人脈を生かしアヘン取引組織を作り阿片王と呼ばれた。A級戦犯容疑者として逮捕されるが、後に釈放される。家紋は松葉菱に五三桐紋。

東郷青児。1897年4月28日 - 1978年4月25日、日本の洋画家。
鹿児島市出身。本名は東郷鉄春。独特な女性像で有名。東京・西新宿に東郷青児美術館がある。この桐紋は、桐の一部をデフォルメしたもので、おそらく東郷青児氏がオリジナルで作ったもの。「東郷桐」と言われている。画像は雑司ヶ谷霊園。

清水かつら。1898年7月1日 - 1951年7月4日、男性詩人。
東京深川生まれ。本名は桂。中西屋書店で「幼女号」「小学画報」の編集をする傍ら童謡の作詞を行う。代表作は『靴が鳴る』『叱られて』『あした』『みどりのそよ風(』など。家紋は五七の桐紋。画像は文京区吉祥寺の墓所にて撮影。

二村定一。1900年6月13日 - 1948年9月12日、歌手・俳優。
山口県下関市の出身。本名・林貞一。読みは、ふたむらていいち。榎本健一と二人座長で立ち上げたピエル・ブリアントが浅草の人気を独占。「どんぐり頓兵衛」「ちゃっきり金太」等の映画がヒット。歌手としても「君恋し」「浪花小唄」等を残す。

北村小松。1901年1月4日 - 1964年4月27日、小説家、脚本家。
青森県三戸郡八戸町出身。松竹キネマ蒲田研究所に入社し『マダムと女房』など多くの映画シナリオを執筆。戦後はユーモア小説作家に転じ「人物のゐる街の風景」「燃ゆる大空」などを著す。小松左京が、SF作家を志すきっかけになった小説家。

岡田時彦。1903年2月18日 - 1934年1月16日、俳優。
東京神田区宮本町出身。本名は高橋英一。大正・昭和初期の俳優。無声映画時代を代表する二枚目俳優。溝口健二監督の『紙人形春の囁き』や小津安二郎監督の『東京の合唱』などに出演している。娘は女優の岡田茉莉子。家紋は丸に五三桐紋。

玉錦三右エ門。1903年12月15日 - 1938年12月4日、第32代横綱。
高知県高知市出身。農家の長男。本名は西ノ内彌寿喜。昭和初期に一時代を築く。308勝92敗3痛分17休。優勝回数は9回。引退後、二所ノ関部屋を師匠として大部屋へのしあげた。家紋は五三紋。画像は吾妻橋・清龍寺の西ノ内家墓所にて撮影。

林芙美子。1903年12月31日 - 1951年6月28日、小説家。
行商を営んでいた宮田麻太郎と林キクの間に婚外子として生れる。本名はフミ子。「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」の句は有名。代表作は『放浪記』 『うず潮』『めし』 など。家紋は丸に五三桐。画像は中野区・万昌院功運寺にて撮影。

関屋敏子。1904年3月12日 - 1941年11月23日、声楽家、作曲家。
東京市小石川区出身。父・関屋祐之介(実業家)、母・愛子の娘。父方の家系は二本松藩の御殿医。オペラ「お夏狂乱」、歌曲「野いばら」「浜唄」などを作曲した。後年、ゾルゲ事件関与の容疑をかけられた。家紋は五七桐紋。

新田新作。1904年4月1日 …

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[7 1 月 2009 | No Comment | | ]

正月に、たけしの”教科書に載らない”日本人の謎~篤姫はなぜ上野の山に眠るのか~を見た。
東京(江戸)の真北(北辰の位置)にある日光・東照宮、鬼門にある東叡山・寛永寺、裏鬼門の増上寺等が江戸を霊的に守っていることを比較的よく知られている。
また、平将門の体の各部位を奉る神社が、以下のようにそれぞれ五街道の出発点に存在させることによって、悪鬼が江戸に侵入するのを防ごうとしたという話は、「神社の系譜」(宮元健次著)に詳しい。
首塚(首) -大手門(奥州道)
鳥越神社(手)-浅草橋門(奥州道)
神田神社(胴)-神田橋門(日光道)
世継稲荷神社(首桶)-田安門(中山道)
筑土八幡神社(足)-牛込門(中山道)
兜神社(兜) -虎ノ門(東海道)
鎧神社(鎧) -四谷門(甲州道)
「神社の系譜」より
番組では、そういった江戸の霊的な守備陣営を紹介し、その一環として、寛永寺に13代将軍家定と篤姫が埋葬されていて、江戸を守っているという説明がされていた。
確かにその通りだろうし、興味深い話ではある。
しかし、僕としては、さらにもう一歩進めた推理を展開して欲しかったのも事実だ。
さて、上記の「神社の系譜」の最終章にはさらに面白い事実が指摘されている。
かの靖国神社(=東京招魂社)は、最初、彰義隊と官軍との戦い(上野戦争)で火の海と化した上野の寛永寺に営むことになっていたというのだ。
陸軍参与の木戸孝允がその決定をしたらしいのだが、おそらく彼は、寛永寺に換わる江戸の総鎮守として、官軍兵士を顕彰する神社を建てようとしたのだと思う。
しかし、その決定は上野戦争での功労者である大村益次郎の主張によって、現在の九段に再決定することになる。
「上野の山は、徳川軍の霊のさまよう『亡魂の地』だから」というのがその理由だったらしい。
しかし、僕は、当時の明治政府には、徳川の墓所をつぶして、その場所に自分達のための霊的施設を営むだけの自信がなかったのではないかと思う。
まだ、江戸には徳川親派が数多く潜伏している状況の中で、そのあたりに関して、センシティブにならざるを得なかったのであろう。
新政府は、上野の山には手を付けられなかったのである。
そして、その後の明治6年、この上野の山は公園として庶民に解放されることになる。
桜の樹の下には屍体が埋まっている!とは、後の文学者・梶井基次郎の言葉であるが、彰義隊員の戦死の記憶は、江戸時代から有名だった上野の桜として記録されることになるのだ。
徳川の墓所は、こうして、上野に残存を許されたのである。
「篤姫はなぜ上野の山に眠るのか」と言うのならば、このあたりまで踏み込んでもらいたかった。
一方、九段には、靖国神社(=東京招魂社)が建てられるが、「神社の系譜」によると、その位置は浅草寺(寛永寺の前の江戸総鎮守)から見て、冬至の太陽が沈む方向に、そしてその参道は神田明神に続くような方角に延びているという。
すなわち、靖国神社は、浅草寺と神田明神という江戸の2大パワースポットから力をもらえるような位置、設計になっているというのである。
靖国神社は、徳川以前から存在していた江戸の地霊と真っ向対決するのではなく、協調する姿勢を見せているのだ。
ただし、その後(明治26年)、靖国神社境内に大村益次郎の銅像が建立される。
その視線は、上野の方角に向け、手には双眼鏡を持っている。
一方で地霊とは協調しながら、ここでは、逆にしっかりと徳川の霊に睨みを効かせているのが面白い。
徳川の復帰は認められないが、江戸の人々は味方に付けたかったという思惑が垣間見れるからだ。
さて、大村益次郎の銅像が建てられてから5年後、上野の山には、西郷隆盛の銅像が建てられる。
西郷と言えば、上野戦争で徳川軍を攻めた官軍の参謀であり、彰義隊を壊滅させた男である。
しかも、その後、西南戦争を起こして、新政府にとっても賊軍とされた男である。ちなみに靖国神社に彼の御霊は祭られていないのは有名な話である。
その西郷の銅像はなぜ、上野という地に建てられたのか。
一説によると西郷が上野の山によく散歩に出かけたからというが、どうも、その説には迫力が無い。
僕が思うに、日本には昔から「夷をもって夷を制す」という発想があるが、明治政府は、西郷という傑出した荒魂の力で、彰義隊の魂を未来永劫封じ込めようとしたのではないだろうか。
あるいは、敢えて、犬を連れた着流し姿という隙の多い銅像にすることによって、彰義隊にとって、いつでも殺れるようにと、西郷を差し出したのかもしれない。ようするに、徳川の霊の機嫌をとりたかったのかもしれない。そういえば、位置関係でも、南を向いている西郷像のすぐ背後に彰義隊の墓があるではないか。
申し訳ないが、僕には、ここで、真偽を語るほどの知見はない。
次回は、西郷隆盛の銅像はなぜ、上野の山にあるのか。という番組を、是非やってもらいたいと思うだけである。
まさむね

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[5 1 月 2009 | No Comment | | ]

巣鴨地蔵通り商店街はおばあちゃんの原宿と言われるだけあって、物凄い平均年齢の高い人口密集道路である。
僕は1月4日の朝9:30頃に行ってみたのだが、それでも大変な混雑だった。
    ◆
この商店街の両脇には煎餅屋とか人形焼屋とか、漬物屋、衣料品店、お土産屋などが並んでいる。
ここだけ昭和の匂いがする。
多分、他の商店街に比べて、店の人の売り声が大きいのと、値札と看板の文字も大きいからそう感じるのだろうか。
僕は、商店街にある家紋を見て歩く。
まずは、商店街に入ってすぐに左にある大きな漬物屋・河村屋さんの蕪の紋所。
おそらくこれは商標なのだろう。紋所というよりは、デザインされた社標だ。
さらに、その先にあったのが、ゼイタク煎餅と人形焼の向井商店さんの分銅紋。
この紋は、公平誤りのない心情を表すといわれ、武士魂を象徴する紋だったらしい。(「家紋を読む」能坂利雄著参照)
おそらく、向井商店さんも、商売に対する誠実さを現したかったじゃないかな?
さらに、しばらく行くと右側に塩大福のみずのさんがある。
ここの紋は、おそらくオリジナルで、水という字をデザインしたものかと思われる。
そして、その先に、とげ抜き地蔵(秘仏)があるのある高岩寺がある。
紋所は檜扇紋だ。そういえば、この商店街の提灯も檜扇が使われている。
ところで、この高岩寺は曹洞宗の寺院、だから境内には稲荷神社があった。
曹洞宗は、実はこの稲荷神社とタイアップする事によって、勢力を伸ばしたんだよね。愛知県にある豊川稲荷は、名前からすると神社だけど、実は曹洞宗の寺院なのである。豊川稲荷は江戸に進出し、大ブレイクした。
曹洞宗と言えば一般的には、厳しい禅修行の世界が思い浮かぶが、一方で、ビジネスに対して積極的であることでも知られているのだ。
例えば、ここの高岩寺のとげぬき地蔵もそうだけど、他に大船観音も曹洞宗の寺院、一般民衆へのアピール(と同時に、御布施集め)に長けている。
また、この高岩寺の近くの曹洞宗の寺院、總禅寺は手塚治虫の墓所があることで知られているが、墓地に入るだけで、線香代ということで200円かかる。
一方、昨年の11月、曹洞宗配下の駒沢大学が、投資に失敗して154億円の損出を出したという事件もあったけど...これはあんまり関係ないか。
    ◆
昨年に行った人形町以上に、庶民の街、巣鴨。
家紋も既成のものをそのまま権威として使うのではなく、わかりやすくオリジナル化しているところに特徴があった。
まさむね

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[3 1 月 2009 | No Comment | | ]

元旦は、NHKスペシャル「激論2009」を興味深く見せてもらった。
番組のポイントは、現在の不況の原因を作ったといわれている構造改革の政策責任者の一人の竹中平蔵元総務大臣を金子勝、山口二郎、斎藤貴男の3氏がどれだけ、攻め込めるかだった。
ご存知の通り、竹中氏は、郵政民営化を初めとする新自由主義に基づいた(民営化、規制緩和、地方分権、財政再建など)政策を立案、実行したことで知られているが、その竹中氏に対して、今日の惨状の責任を認めさせるというのが、この3人に課せられたテーマだった。
多くの視聴者もそう思ってみていたはずだ。
しかし、結果としては、竹中氏は逃げ切った。
竹中氏に「第一の課題は貧困をなくすことだ」とか「大事なのは犯人探しをする事ではなくて、一つ一つ具体的に問題を解決することだ」と、正論を言い切られて、ほとんど有効な反論ができなくなってしまった。
さらに、実際の政策実行過程で具体的に官僚の執拗な抵抗があるという経験談に対して、この3人は黙って聞くしかない。
終いには、リアリストたれと一喝されることによって、事実上、論家あるいは研究者としての気楽さをも指摘され、いわゆる格の違いを見せ付けられてしまった。
それでも、例えば、今日の派遣切りなどの惨状と竹中氏の政策の失敗が明確にひも付けられれば、細かい点で、もっと攻め込めたかとも思うのだが、社会情勢の変化等も絡めて説明されると、それも難しかった。
具体的には、2003年に法制化された労働者派遣法の改正(製造業務への労働者派遣の解禁)の問題点が指摘されたが、それは別に小泉・竹中構造改革からだけの問題ではなく、80年代から徐々に解禁されてきた経緯がある。
労働者派遣法は、2003年の前に、既に1985年、1996年、1999年と徐々に派遣出来る業務が広がってきたのである。
また、同様に、パートタイマー(フリーター)、契約社員等の非正規社員もこの30年あまりの間にどんどん増えてきたし、転職なども当たり前になってきた。
それらは、新しい働き方、あるいは新しい生き方を支援するための新制度として、むしろ肯定的に広がっていったのである。
   ◆
そして、これらの労働形態の多様化は、その背景として、「自分らしく生きろ」、「個性を生かせ」、「夢を持て」などという耳あたりのいいイデオロギーが後押ししてきたのではなかったか。
おそらく、現代日本人にとって、こういった価値は、それこそ骨の髄まで染み付いている。
例えば、昨年の大河ドラマ「篤姫」は、まさに「己の心のままに生きる」ことを肯定する価値観を背景に持っていたし、TBSの大ヒットドラマ「ROOKIES」は常に「夢にときめけ!明日にきらめけ」と語りかけていた。
それらのドラマが発する価値観があまりにも自然なため、僕たちはその起源すら忘れがちであるが、それらは決して古いものではない。
おそらく、戦後にいつの間にか浸透したものであると思う。
しかし、昨年から今年をまたいでさらに続くと思われる経済危機の中、これまで僕らを支配していた、悪く言えば浮かれた価値観は必然的に変わらざるを得なくなってくるのではないか。まず、足元の生活を維持する事こそが重要になってきてしまうからだ。
勿論、だからと言って、その前の価値観=勤勉、忍耐、協調という古い価値観を持ち出すこともナンセンスだ。
それらは、日本型農業社会、そして、右肩上がりの工業生産重視の時代、あるいは終身雇用が当たり前の時代にまでしか通用しない価値観だからである。
これからは、普通の人が、普通に真面目に働いてもその先に成功するとは限らない時代が待っていると思う。
逆に、今まで以上に、一人一人が、付加価値を付けていかなければ生き残っていけない時代になる。その意味で、上記討論番組において、勝間和代氏が、これからは教育が大事だ、しかもそれは、子供に対してだけではなく、個々人が自らに対してもそうだという趣旨の話をしていたが、まさしくその通りなのである。
しかし、一方で、だからこそ、これからはイザという時のために、普段から、絆(今上天皇によって、天皇誕生日のご感想だけではなく、年頭のお言葉でも繰り返された言葉であるが)=人間関係というセイフティネットを大事にし、さらに、国に頼る以前に、自分達で作っていかなければならない時代になると思う。
そういう意味で、今後、学校の役割は、自分が落ちそうになった時の精神的、人間関係的なセイフティネットの基礎となる絆を作る場としての意味も大きくなっていくようにも思える。教育に金をかけるのは確かに大事だが、学校というところが、大人になるためのプラグマチックな訓練場として以上に、学校を卒業して大人になった時に、僕たちを癒してくれる「故郷」として必要になってくると思うのは、いささかノスタルジックに過ぎるだろうか。
    ◆
さて、今年の大河ドラマ「天地人」では上杉家家臣の直江兼続が主役であるが、彼は、「愛」と「義」に生きた武将として知られている。
「愛」と「義」というコンセプトは、自分自身の生き方というよりも、周囲に対しての接し方のコンセプトなのだと思うが、それがこの時代に必要な「絆」構築のための思想になれるかどうか。その思想が時代とシンクロしていけるかどうか。
そういう視点でこのドラマを見て行きたいと思う。
まさむね