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Articles Archive for 1 月 2009

歴史・家紋 »

[26 1 月 2009 | No Comment | | ]
杏葉紋 -九州武将あこがれ、異国の馬具を模した紋- 大友宗麟、五代友厚、徳田秋声...

杏葉とは馬具の装飾品。
法然上人の生家の漆間家がこの杏葉紋のため、浄土宗系の寺院の寺紋となっている場合がある。
例えば、伊能忠敬が眠る上野の源空寺、喜多川歌麿が眠る北烏山の専光寺など。画像は、専光寺の杏葉紋。
この紋は、室町時代、九州の大友氏と有力家臣が使用していた。1570年、竜造寺隆信が大友宗麟を戦で破り、その紋を奪った。
さらに、その竜造寺家から、重臣の鍋島家がこの紋を奪った。
それほど、九州地方では憧れの紋だったのである。
したがって、この紋を持つ人は現在でも九州地方の多い。
佐賀県の19位が最高。福岡県、大分県で21位、長崎県で23位、熊本県で25位。九州以外では、広島県で28位。
杏葉紋を使用している有名人は以下。
立花道雪。1513年4月22日 - 1585年11月2日、武将。
豊後の戦国大名である大友氏の家臣。耳川の戦いで大友氏が衰退した後も大友氏を支え続けたが、高齢を押して出陣したために病に倒れ死去した。半身不随にも関わらず、勝利し続けたため「鬼道雪」「雷神」と称された。 家紋は花杏葉。

龍造寺隆信。1529年3月24日 - 1584年5月4日、大名。
龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男。本姓は藤原氏。「肥前の熊」ともいわれた。大友氏を破り島津氏と並ぶ勢力を築き上げたが島津・有馬氏の連合軍との戦いで敗死した。家紋は日足(左)、剣花菱(中央)、杏葉(右)。

大友宗麟。1530年1月31日 - 1587年6月11日、戦国大名。
大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて九州で権勢を振るう。宗麟の時代に大内氏や毛利氏の勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。家紋は花杏葉。

鍋島直正。1815年1月16日 - 1871年3月8日、大名。
父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主に襲封。藩校弘道館を拡充し優秀な人材を育成し登用するなどの教育改革を行う。アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功した。家紋は鍋島杏葉。青山墓地の鍋島氏の墓所にて撮影。

五代友厚。1836年2月12日 - 1885年9月25日、薩摩藩士、実業家。
記録奉行の五代直左衛門秀尭の息子。大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、共同運輸会社、阪堺鉄道(現・南海電鉄)等の創設に関わる。家紋は丸に組み違い十字久留子紋と抱き杏葉紋。画像は青山霊園にて撮影。

高崎正風。1836年9月8日 - 1912年2月28日、志士、歌人。
薩摩国川上出身。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭の長男。志士として活躍。八月十八日の政変、薩会同盟の立役者となる。新政府に出仕。宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などをつとめる。家紋は抱き花杏葉紋。青山霊園の墓所にて撮影。

小室信介。1852年9月4日 - 1885年8月25日、民権運動家。
砲術家・小笠原忠四郎の第二子。豪商小室信夫の養子となる。養父・小室信夫は民撰議院設立建白書に板垣退助ら4人の旧参議と共に署名した一人、自身も関西における自由民権運動の雄となった。家紋は抱き花杏葉紋。画像は天王寺墓地にて撮影。

立花小一郎。1861年3月20日 - 1929年2月15日、陸軍人、政治家。
三池藩家老・立花硯の長男として生れる。朝鮮駐剳軍参謀長、朝鮮総督府警務総長、関東軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将。その後は、福岡市長、貴族院議員を務めた。家紋は立花変り杏葉紋。画像は多磨霊園にて撮影。

大橋新太郎。1863年 - 1944年5月5日、出版業者、政治家。
越後国長岡出身。博文館創業者大橋佐平の三男。父没後、博文館館主となり、博文館印刷所(現在の共同印刷)、日本書籍株式会社を設立。衆議院議員・貴族院議員もつとめる。家紋は杏葉菊菱紋。画像は護国寺の墓所にて撮影。

尾上梅幸(6代)。1870年11月8日 - 1934年11月8日、役者。
尾張国名古屋出身。父は尾上朝次郎本名は寺島榮之助。屋号は音羽屋。昭和初期を代表する名女形役者。十五代目市村羽左衛門の名相方とうたわれ墓も隣にある。役者としての家紋は重ね扇に抱き柏だが、雑司が谷墓地の墓所の家紋は杏葉菊紋。

徳田秋声。1872年2月1日 - 1943年11月18日、小説家。
金沢市横山町に加賀藩の陪臣横山雲平の子として生まれる。 本名は末雄。島崎藤村・正宗白鳥らと共に日本ペンクラブの設立にも参加。代表作は『薮かうじ』 『感傷的の事』『光を追うて』など。家紋は抱き花杏葉紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。

秦勉造。1877年 - 1943年7月15日、実業家、医学博士。
東京出身。東京帝国大学医科大学卒業。札幌病院外科医長となる。北海道帝国大学医学部創設とともに同大学医学部教授、初代医学部長となり北海道外科学の進歩に貢献。東京同愛記念病院の開設に尽力。画像は多磨霊園にて撮影。家紋は抱き杏葉紋。

若山牧水。1885年8月24日 - 1928年9月17日、歌人。
宮崎県東臼杵郡東郷村の医師・若山立蔵の長男として生まれる。自然への愛、情熱的な恋、大の酒好きなどでも知られている。代表歌集は『海の声』『独り歌へる』『別離』等。家紋は杏葉牡丹。牡丹が杏葉の形状になって表現されている。

石井ふく子。1926年9月1日 - 、テレビプロデューサー。
東京都出身。父(養父)は劇団新派の俳優・伊志井寛。TBSのプロデューサーとして「肝っ玉かあさん」「ありがとう」「女と味噌汁」「おんなの家」「渡る世間は鬼ばかり」等を手がける。家紋は菊杏葉紋。谷中・瑞輪寺の伊志井寛の墓にて撮影。

花川戸助六。江戸時代、歌舞伎の演目「助六」主人公の侠客。
「助六」は、江戸の古典歌舞伎を代表する演目の一つ。粋を具現化した洗練された江戸文化の極致として後々まで日本文化に決定的な影響を与えた。歌舞伎宗家市川團十郎家のお家芸である歌舞伎十八番の一つ。家紋の杏葉牡丹は元々市川團十郎の替紋。
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[26 1 月 2009 | No Comment | | ]
蛇の目紋 -神秘的なヘビ信仰を現代に伝える- 加藤清正、加藤友三郎、加藤楸邨...

蛇の目に似ているため、蛇の目紋と呼ばれる。
おそらく、古来、蛇の神秘的な姿や動きに聖なるものを感じた日本人がその神秘的な力にあやかろうと家紋にしたのであろう。シンプルなデザインに力強さを感じさせる。
戦国、安土桃山時代の武将・加藤清正が替紋にこの「蛇の目紋」を使った。
彼の長烏帽子についていた蛇の目は有名。
蛇の目紋を使用している有名人は以下。
佐久間信盛。1528年 - 1582年2月18日、武将、織田信長の家臣。
尾張国に生まれ、織田信秀に仕える。六角氏との戦い、一向宗との戦い、比叡山焼き討ちで武功を上げる。信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、信盛は嫡男・佐久間信栄と共に高野山に追放された。家紋は蛇の目九曜、三つ引両。

加藤清正。1562年 - 1611年、武将・大名。
尾張国愛知郡中村に鍛冶屋の子として出生。豊臣秀吉の家臣として仕え各地を転戦し、秀吉の死後も豊臣家に忠義を尽くした。関が原戦いでは東軍につき活躍。戦後、肥後一国を与えられた。家紋は桔梗と蛇の目を使用。写真は供養塔(本門寺)で撮影。

篠原国幹。1837年1月11日 - 1877年3月4日、武士・軍人。
薩摩国鹿児島城下平之馬場町で篠原善兵衛の子として生まれる。戊辰戦争のとき、薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって鳥羽伏見の戦いに参戦。西郷が下野すると近衛長官の職をなげうって鹿児島へ帰り、西南戦争に参戦、戦死。家紋は丸に蛇の目紋。

平岡浩太郎。1851年7月21日 - 1906年10月24日、運動家。
福岡藩士平岡仁三郎の次男として福岡市地行に生まれる。幼名は銕太郎。戊辰戦争で官軍側として活躍。維新後、自由民権運動に参加。玄洋社の初代社長に就任。日本に亡命した孫文に活動費、生活費を援助する。家紋は蛇の目紋。墓所は福岡市の聖福寺。

加藤友三郎。1861年4月1日 - 1923年8月24日、軍人、政治家。
広島市大手町出身。広島藩士・加藤七郎兵衛の三男。最終階級は元帥海軍大将。ワシントン会議には日本首席全権委員として出席。第21代内閣総理大臣時代にはシベリア撤兵・軍縮の実施などの重要な課題を遂行。画像は青山霊園にて撮影。

川島義之。1878年5月25日 - 1945年9月8日、軍人。
愛媛県出身。松山中学時代は夏目漱石の教え子だったという。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を歴任。岡田内閣で陸軍大臣に就任したが二・二六事件の処理に失敗。最終階級は陸軍大将。画像は青山霊園の墓所。

砂田重政。1884年9月15日 - 1957年12月27日、政治家。
愛媛県生まれ。1920年に立憲国民党から衆議院議員に初当選。第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組んだ。家紋は桔梗紋と蛇の目紋。画像は小平霊園にて撮影。

加藤楸邨。1905年5月26日 - 1993年7月3日、俳人、国文学者。
東京市北千束に生まれる。父が鉄道官吏。俳誌『寒雷』を創刊し主宰。そこから金子兜太、森澄雄を輩出。句集『まぼろしの鹿』で第二回蛇笏賞を受賞。紫綬褒章、勲三等瑞宝章を叙勲。日本芸術院会員。家紋は陰蛇の目紋。画像は九品仏浄真寺にて撮影。

山川方夫。1930年2月25日 - 1965年2月20日、作家。
東京市下谷区上野桜木町に日本画家山川秀峰の長男として出生。本名は山川嘉巳。第3次『三田文学』を創刊。新人発掘に力を注ぎ曾野綾子、江藤淳などを発掘。代表作は『演技の果て』『海の告発』。家紋は蛇の目に桔梗紋。画像は妙覚寺にて撮影。
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[26 1 月 2009 | No Comment | | ]
久留子紋 -隠れキリシタンがつけた悲しい紋- 小西行長、中島敦、寺山修司...

キリシタン禁止後、信者は、この紋を使用して十字架をカモフラージュしたといわれている。
そこまでして信仰を守ろうとした人々の気持ちを考えると、その意志の強さと同時に悲しさも感じさせる。
尚、このページには丸に十字紋(轡紋)の使用者も、久留子紋と同様に、十字を描いているという意味で含ませております。
使用する有名人は以下。
小西行長。1555年 - 1600年11月6日、武将、大名。
堺の薬を主に扱う商人である小西隆佐の次男として京都に出生。12才から秀吉に仕え数々の手柄を上げ南肥後の20万石を与えられた。朝鮮出兵時、加藤清正と先陣を争ったことでも有名。関ヶ原の戦いで西軍の将として敗北。家紋は花久留子と中結祇園守。

高山彦九郎。1747年6月15日 - 1793年8月4日、尊皇思想家。
上野国新田郡細谷村の郷士高山良左衛門の二男として生まれ。先祖は平姓秩父氏族である高山氏出身とされている。勤皇の志を持ち、各地を遊歴して勤皇論を説く。家紋は京都三条大橋にある皇居望拝姿の台座の丸に十字と鶴の丸。

島津斉彬。1809年 - 1858年7月16日、島津氏の第28代当主。
薩摩藩の富国強兵に成功した幕末の名君の一人。後に西郷隆盛ら幕末で活躍する人材も育て上げた。日本の国旗である日章旗を初めに提案した。丸に十字は薩摩・島津家家紋として有名。画像は護国寺の島津家の墓。

陣幕久五郎。1829年6月4日 - 1903年10月21日、第12代横綱。
出雲国意宇郡出身。徳島藩の抱え力士として出発したが途中で松江藩の抱え力士となり1864年10月以降は薩摩藩の抱え力士となった。通算成績は幕内19場所87勝5敗17分3預65休、勝率.946。優勝相当成績5回。家紋の丸に十字は薩摩藩のお抱え力士ゆえか。

五代友厚。1836年2月12日 - 1885年9月25日、薩摩藩士、実業家。
記録奉行の五代直左衛門秀尭の子として生まれる。大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、共同運輸会社、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などの創設に関わる。家紋は丸に組み違い十字久留子紋と抱き杏葉紋。

田中芳男。1838年9月27日 - 1916年6月22日、博物学、園芸学者。
飯田中荒町(長野県飯田市中央通り)に生まれる。パリで行われた第4回万国博覧会、ウィーン万国博覧会に責任者として派遣される。「博物館」という名称を生み出し、殖産興業の指導に尽力。家紋は丸に十字紋。画像は谷中霊園にて撮影。

島津源蔵。1839年6月25日 - 1894年12月8日、実業家、発明家。
京都の醒ヶ井魚棚で仏具の製造をしていた島津清兵衛の次男。1875年に教育用理化学機器の製造を始め島津製作所を創業。家紋の丸に十字は先祖の井上惣兵衛尉茂一が島津義弘から「島津」の姓とともに与えられたという。画像は島津製作所社章より。

村橋久成。1840年 - 1892年10月、実業家。
薩摩藩主島津家一門、加治木島津家の分家に生まれる。北海道開拓使に採用され麦酒醸造所建設の責任者となる。現在のサッポロビール生みの親として語り継がれる。家紋は丸に十字紋。青山霊園の墓所にて撮影。

伊集院五郎。1852年9月27日 - 1921年1月13日、海軍軍人。
薩摩藩士の子として生まれ、西南戦争に参軍。伊集院信管を開発し、バルチック艦隊を撃破する大きな要因となった。に軍令部長兼将官会議議員、海軍大将、元帥を歴任。家紋は丸に花角久留子紋。青山霊園の墓所にて撮影。

小田川全之。1861年 - 1933年6月29日、土木事業家。
江戸小石川出身。旧幕臣小田川彦一の長男。安全第一の先駆者。足尾鉄道株式会社を創立。国有鉄道をなるまで取締役社長として活躍。各種土木学会等の会員として、鉱業発達史上に重大な役割を演じた。 家紋は丸に十字紋。画像は多磨霊園にて撮影。

徳田真寿。1867年6月17日 - 1944年、古銭・切手収集家。
肥前国松浦郡江迎に生まれる。「天下の奇人」。自称も「頓痴奇屋主人」。紋付きの洋服に袴ばき、シルクハットと特大の懐中時計を携行という特異な姿で、鉄道の運賃始め旅先ではすべて一銭銅貨で支払ったという。家紋は丸に十字紋。

中村是公。1867年12月18日 - 1927年3月1日、実業家・政治家。
安芸国佐伯郡に酒造業・柴野宗八の五男として出生。読みは、なかむらよしこと。南満州鉄道株式会社総裁、鉄道院総裁、東京市長、貴族院議員などを歴任。夏目漱石の親友。家紋は丸に十字紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。

島津保次郎。1897年6月3日 - 1945年9月18日、映画監督。
東京神田区駿河台に老舗海産物商の息子として生まれる。多くの作品で庶民生活を生き生きと活写し、「メロドラマ」の名手として知られる。代表作は『兄とその妹』『麗人』『嫁ぐ日まで』等。家紋は丸に十の字。島津家の代表紋である。

迫水久常。1902年8月5日 - 1977年7月25日、官僚、政治家。
東京府出身。大蔵省入省。二・二六事件の際、岡田首相を救済。また、鈴木貫太郎内閣時の内閣書記官長として終戦工作に携わる。政治家としては経企庁長官、郵政大臣等を歴任。家紋は丸に丸に花付十字紋と輪違いに水紋。多磨霊園の墓所にて撮影。

中島敦。1909年5月5日 - 1942年12月4日、小説家。
中島家は代々、日本橋新乗物町で駕籠を製造販売する商家だったが祖父・中島撫山は商家から漢学者となり、父・中島田人は旧制中学の漢文の教員となる。代表作は『山月記』『文字禍』『李陵』。家紋は花久留子菱紋。画像は多磨霊園にて撮影。

石井好子。1922年8月4日 - 2010年7月17日、シャンソン歌手。
東京都出身。日本シャンソン界の草分け。日本シャンソン協会を設立し会長に就任。「料理の鉄人」にはたびたび審査員として出演。代表著作は「巴里の空の下オムレツのにおいは流れる」。家紋は雪輪に丸に?久留子紋。青山霊園にて撮影。

田英夫。1923年6月9日 - 2009年11月13日、政治家。
東京都出身。貴族院議員・田健治郎の孫。『JNNニュースコープ』の初代メインキャスターとなる。参議院議員として日本社会党、社会民主連合、新党護憲リベラル、平和・市民、社会民主党と所属政党を移した。画像は多磨霊園の田家の墓所にて撮影。

寺山修司。1935年12月10日 - 1983年5月4日、歌人、演出家。
青森県弘前市紺屋町生まれ。本籍地は青森県上北郡六戸村。先祖は薩摩藩家老。メディアの寵児的存在で各方面に膨大な作品を残した。代表映画「書を捨てよ町へ出よう」「田園に死す」など。家紋の丸に十字紋は寺山修司記念館にて確認。

田宮高麿。1943年1月29日 - 1995年11月30日、活動家。
岩手県出身。赤軍派軍事委員会議長。よど号グループのリーダー。ハイジャック事件では実行の首謀者。長男・森大志は三鷹市議会議員選挙に市民の党から立候補したが落選。墓所は田宮家の菩提寺である新潟県新発田市の瑞雲寺。家紋は丸に十字紋。

田辺誠一。1969年4月3日 - 、俳優。
東京都出身。代表出演作「らせん」「フードファイト」等。2011/1/17のTwitterで自身がアフレコした「ケロロ軍曹」のキャラ(ナベベ)に対して「これが『ナベベ』でありますっ!田の字の家紋であります!」と発言したことより暫定的に丸に十字紋と判断。

眠狂四郎。江戸時代、剣客。
柴田錬三郎の小説に登場する剣客。転びバテレンと日本人の混血という出自を持ち、平然と人を斬り捨てる残虐性を持ち、「円月殺法」という剣術を用いて活躍。映画では、鶴田浩二、市川雷蔵、松方弘樹等が演じている。家紋は角花久留子紋。
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丁子紋 -南洋に対する想いを表した紋- 富永一朗、海音寺潮五郎、把瑠都...

丁子とは、モルッカ諸島原産の常緑樹。
その蕾を干したものは、香料、薬として珍重されたという。
一般的には、この薬を珍重した藤原系の家(押公路、前田、甲藤など)が使用したといわれているが、もしかしたら、南洋からの移民が先祖を忘れないために紋にしたのかもしれない。
だから、この紋の使用家は、九州全般、特に鹿児島県(16位)に多い。
また、その他では、富山県(19位)に多い。おそらく薬の名産地(富山の薬売り)と関係があるのではないだろうか。
使用する有名人は以下。
英一蝶。1652年 - 1724年2月7日、日本画家。
京都生まれ。本姓は藤原、多賀氏。読みは、はなぶさいっちょう。父・多賀伯庵は伊勢亀山藩の侍医。肉筆浮世絵に近い風俗画に優れた作品を残すも、生類憐みの令に違反で三宅島へ流罪となる。家紋は五つ丁子紋。画像は池上本門寺の英家墓所にて撮影。

川路利良。1834年6月17日 - 1879年10月13日、警察官僚。
薩摩藩与力、川路利愛の長男として薩摩国鹿児島近在の比志島村に出生。禁門の変で戦功を挙げ西郷隆盛や大久保利通から高く評価された。欧米の近代警察組織の骨格を日本で初めて構築した日本警察の父。家紋は六つ丁子車紋。画像は青山霊園にて撮影。

野津道貫。1841年12月17日 - 1908年10月18日、軍人、政治家。
鹿児島城下高麗町の下級藩士・野津鎮圭の二男。幼くして両親を亡くした。戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争に参戦。最終階級は元帥陸軍大将。兄の野津鎮雄も長じて陸軍中将となる。家紋は六つ追い丁子紋。青山霊園の墓所にて撮影。

浜田玄達。1855年1月14日 - 1915年2月16日、医学者。
肥後国(熊本県)大岳村出身。日本の産婦人科学のパイオニアとして日本婦人科学会を創立、会長を連続務めた。また、帝大医科大(東大)教授、医科大学長、宮内省御用掛もつとめた。家紋は丁子片喰紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。

竹内明太郎。1860年3月20日 - 1928年3月23日、政治家、実業家。
高知県宿毛市出身。竹内綱の長男で吉田茂の長兄。自由民権運動に関わり、自由党に入党。小松製作所、日産自動車の前身の快進社、早稲田大学理工学部を設立。家紋は左三つ丁子巴紋。画像は多磨霊園にて撮影。

町田忠治。1863年5月17日 - 1946年11月12日、政治家。
出羽国秋田郡久保田城下に秋田藩士・町田伝次の四男として誕生。愛称はノンキナトウサン。国務大臣、大蔵大臣、商工大臣、農林大臣、民政党総裁などを歴任。一時期、報知新聞社社長も兼任した。家紋は右二つ丁子巴紋。

藤山雷太。1863年9月13日 - 1938年12月19日、実業家。
肥前国松浦郡大里村の庄屋・伊吹家の三男として出生。芝浦製作所(後の東芝)の支配人、王子製紙の専務取締役を歴任。歌舞伎座取締役として帝国劇場の創立にも関わる。慶應義塾大学構内に銅像がある。家紋は六つ丁子紋。画像は多磨霊園にて撮影。

野口寧斎。1867年4月29日 - 1905年5月12日、漢詩人。
長崎県諫早出身。漢詩人であり官吏の野口松陽の長子。明治期漢詩界の大家森槐南の一番弟子。七言律詩によって評した「韻語陽秋」が人気を博し、『太陽』や『めざまし草』などに連載された。家紋は二重丸に違い丁子紋。画像は青山霊園にて撮影。

清水澄。1868年9月27日 - 1947年9月25日、憲法、行政法学者。
石川県金沢市出身。宮内省及び東宮御学問所御用掛となり、大正天皇、昭和天皇に憲法学を進講した。最後の枢密院議長として新憲法の審議に尽力したが日本国憲法が施行された後に自殺。家紋は折入り角に右一つ丁子紋。画像は青山霊園にて撮影。

山本昇雲。1870年12月30日 - 1965年5月10日、報道画家。
高知県長岡郡後免町に旧土佐藩・山内家の下級武士で古物商を営む家の次男として出生。本名は茂三郎。20年間にグラフ誌「風俗画報」の表紙、口絵、挿画など1300点を描く。代表する日本画も残す。家紋は現在確認中。画像は青山霊園にて撮影。

藤村操。1886年7月 - 1903年5月22日、旧制一高の学生。
北海道出身。祖父の藤村政徳は盛岡藩士。日光の華厳滝で自殺。当時の社会に大きな影響を与えた。また、当時、藤村のクラスで英語担当だった夏目漱石の精神にも大きな打撃を与えた。家紋は六つ丁子に釘抜き紋。青山霊園の藤村家の墓所にて撮影。

宮川竹馬。1887年4月18日 - 1964年8月27日、実業家。
高知県幡多郡入野村早咲出身。戦後復興期の電力業界人として活躍。1951年電力九分割によって誕生した四国電力株式会社の初代社長となる。その際、電力九分割案を松永安左衛門と協力してつくった。家紋は、丸に三丁子紋。多磨霊園の墓所にて撮影。

大麻唯男。1889年7月7日 - 1957年2月20日、政治家。
熊本県玉名市出身。東條内閣の国務大臣として初入閣を果たし「東條の茶坊主」と呼ばれた。政党政治家として戦前から戦後にかけて政友本党、立憲民政党、改進党、日本民主党、自由民主党等を渡り歩く。家紋は六つ丁子車紋。青山霊園にて撮影。

海音寺潮五郎。1901年11月5日 - 1977年12月1日、小説家。
鹿児島県伊佐郡大口村生まれ。本名は末富 東作。第3回直木賞受賞。史伝文学の復興に対する功績があった。代表作は『西郷隆盛』『天と地と』『海と風と虹と』『悪人列伝』等。家紋は五つ丁子。写真は、和田堀廟所の墓石。

富永一朗。1925年4月25日 - 、漫画家。
京都府京都市生まれ。大分県佐伯市育ち。1976年より1994年まで放送された長寿番組『お笑いマンガ道場』に出演。代表作は『チンコロ姐ちゃん』『ポンコツおやじ』など。家紋は地抜き左二つ丁子巴。画像は、すがも平和霊園の墓所にて撮影。

増位山太志郎。1948年9月16日 - 、大相撲の力士。
大関増位山大志郎の長男として東京に生まれる。本名は澤田昇。最高位は大関。現年寄・三保ヶ関。歌手として「そんな女のひとりごと」「そんな夕子にほれました」等のヒット曲がある。家紋は三保ヶ関部屋の玄関にある隅切り角に違い丁子紋。

把瑠都凱斗。1984年11月5日 - 、大相撲の力士。
エストニア共和国出身。スウェーデン系。エストニア柔道ジュニア王者を経て大相撲入り。入門前、バーの用心棒を務めていた。最高位は大関。得意技は左四つ、寄り、吊り。家紋は入門時所属の三保ヶ関部屋の隅立て角に違い丁子を受け継ぎ丸に違い丁子。
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[26 1 月 2009 | No Comment | | ]
葵紋 -徳川家の紋としてあまりにも有名- 徳川慶喜、山南敬助、北大路魯山人...

平安時代に、宮中で7月7日に行われた相撲会の際、東の力士は葵の葉を、西の力士は夕顔の花を髪飾りにして入場した。そこから「花道」という言葉が出来たという。
葵紋といえば、徳川家の家紋として有名。
しかし、葵紋は賀茂神社の神紋(二葉葵)であるため、徳川家はもともと、賀茂一族の出ではないかと言われている。
また、善光寺の寺紋(立葵)でもある。
有名使用者は以下。
本多重次。1529年 - 1596年8月9日、戦国武将。徳川氏の家臣。
勇猛果敢で剛毅な性格に由来する「鬼作左」の通称で知られた。三河一向一揆鎮圧戦などで大いに活躍し戦功を挙げた。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は日本一短い手紙の名文として有名。家紋は丸に立ち葵。画像は向丘高林寺の墓所にて撮影。

本多忠勝。1548年 - 1610年12月3日、武将・大名。
徳川本家の最古参の安祥譜代の本多氏で本多忠高の長男。本姓は藤原氏。家康の家臣として数々の武功を上げる。徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられた。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。家紋は立葵(左)と丸に本の字。

徳川忠長。1606年 - 1634年1月5日、駿府藩主、甲府藩主。
徳川二代将軍・秀忠の次男として江戸城に出生。母は浅井長政の娘で正室の江。晩年は領地を没収され、逼塞先の高崎で自害。高崎市大信寺の忠長の墓所には裏葵(画像)が彫られている。顔画像は大河ドラマ「江」における幼少時の忠長(国松)。

賀茂真淵。1697年4月24日 - 1769年11月27日、国学者、歌人。
浜松の神官・岡部政信の三男。賀茂神社神官の末流。荷田春満・本居宣長・平田篤胤とともに「国学の四大人」の一人とされる。万葉集などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究した。主著『歌意考』『万葉考』『国意考』。家紋は二葉葵。

松平不昧。1751年3月11日 - 1818年5月28日、松江藩藩主。
直政系越前松平家宗家7代。家老・朝日茂保の藩政改革によって潤った藩財政を茶道具道楽でつぶした。茶人としての才能は超一流。収集した茶器の銘品・銘菓は「不昧公御好み」として現在にも伝えられている。画像は護国寺にて撮影。

山南敬助。1833年 - 1865年3月20日、新選組総長(副長)。
仙台藩出身。姓は藤原氏。小野派一刀流免許皆伝、後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。後に浪士組に参加、副長に就任するが脱退、切腹。介錯は沖田総司が務めた。家紋は丸に右離れ三つ葉立ち葵。画像は大河ドラマ「新撰組」の山南敬助(堺雅人)。

徳川慶喜。1837年10月28日 - 1913年11月22日、江戸幕府将軍。
江戸・小石川の水戸藩邸にて第9代藩主・徳川斉昭の七男として出生。大政奉還や新政府軍への江戸城無血開城を行なった江戸幕府最後(15代)の将軍。明治になってからは趣味に没頭した生活を送った。写真は谷中霊園の慶喜墓の門にある三つ葉葵紋。

本多庸一。1849年1月7日 - 1912年3月26日、教育者、宗教家。
青森県弘前市出身。読みは、ほんだよういつ。弘前藩士・本多八郎の長男。新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造と並ぶ明治期日本におけるキリスト教主義教育の先駆者。東京英和学校を青山学院と改称し第2代院長となる。家紋は丸に立ち葵紋。

林権助。1860年3月23日 - 1939年6月27日、外交官。
会津藩出身。会津藩大砲隊長として著名な林権助安定は祖父。会津戦争では若松城に籠城して官軍と戦う。日露戦争中には韓国政府に迫って日韓議定書を調印させる等、日韓併合の実現に尽力する。家紋は蔓四つ葵に花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。

北大路魯山人。1883年3月23日 - 1959年12月21日、芸術家。
京都府京都市上賀茂出身。本名は房次郎。上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家など多方面で活躍。家紋は丸に六つ葵紋。葵紋は賀茂神社の社家であることを示す。

松平勇雄。1907年6月14日 - 2006年4月1日、政治家。
福島県大沼郡会津高田町出身。伊佐須美神社宮司・松平健雄(松平容保の次男)の次男。参議院議員を4期23年間、福島県知事も3期12年務めた。文化施設を設置し文化の知事と呼ばれた。家紋は河骨紋似の会津三つ葵紋。画像は多磨霊園にて撮影。

木原光知子。1948年4月5日 - 2007年10月18日、元水泳選手。
兵庫県明石市生まれ、岡山県岡山市で育つ。東京オリンピックに出場し「ミミ」の愛称で一躍アイドル選手となり、テレビ等に多数出演。実業家としては「ミミスイミングクラブ」を創立、日本水泳連盟理事も務める。家紋は丸に三葉葵紋。墓所にて確認。

志村けんのバカ殿様。江戸時代、バラエティ番組のキャラクタ。
ドリフターズの志村けんが扮する。モデルは江戸幕府第9代将軍徳川家重。幼名は竹千代。志村城の城主、志村藩(親藩)12万石の領主。コントでは「丸に三つ葵」が城内に見られる。家老格の桑野信義は丸に橘紋、側用人のダチョウ倶楽部は巴紋を使用。
まさむね