Articles Archive for 1 月 2009
歴史・家紋 »
州浜は、神仙が住む蓬莱島のこと。
海の向こうにあると言われている究極の幸せの国への憧れがこの紋に現れている。
和歌山県(24位)、徳島県(25位)で多い。
小田氏治。1534年- 1602年1月6日、戦国大名。
常陸の大名小田氏の15代(最終)当主。上杉氏・佐竹氏・宇都宮氏らと抗争を繰り返す。秀吉の小田原征伐に際し、秀吉軍に参陣せず豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し小田城奪還の兵を起こしたことを理由に所領を没収される。家紋は洲浜紋。
奥田行高。1678年 - 1703年3月20日、赤穂浪士47士の1人。
赤穂藩浅野家家臣の近松小右衛門行生の五男として誕生。赤穂藩ではまだ家督前の部屋住みだった。吉良邸討ち入りの際には裏門隊に属した。享年26。主君浅野内匠頭と同じ江戸の高輪泉岳寺に葬られた。家紋は丸に洲浜紋。
最上徳内。1754年 - 1836年10月14日 、探検家。
出羽国村山郡楯岡村の普通の農家出身。江戸へ出て、天文や測量等を学ぶ。後に千島、樺太を探検。『蝦夷草紙』『渡島筆記』『蝦夷方言藻汐草』などを著す。江戸時代には珍しく農民から商人、武士へと立身出世した。画像は蓮光寺にて撮影。
本田親雄。1829年10月3日 - 1909年3月1日、武士、官僚。
薩摩藩の藩士本田弥右衛門の長男として生まれる。寺田屋事件のときには負傷者を救護。維新前国事に尽力し、元老院大書記官、元老院議官、貴族院男爵議員を歴任。家紋は丸に頭合わせ三つ洲浜紋。青山霊園の墓所にて撮影。
園田孝吉。1848年2月23日 - 1923年9月1日、官僚、実業家。
大隅国太良村に薩摩藩士・宮内健吉の長男として出生。のち、同藩士・園田沢右衛門の養子となる。松方正義の推薦により横浜正金銀行頭取となる。後に東京倶楽部理事や帝国運輸倉庫社長など数多の会社役員を務める。画像は青山霊園にて撮影。
まさむね
歴史・家紋 »
二個以上の輪が鎖のように繋がった紋。
長谷寺の寺紋が二つ輪違い。
二つの輪は、曼荼羅の金剛界、胎蔵界を表し、その二つの世界が調和していることを表すといわれている。
ようするに、一つの輪は一つの世界を表し、それらが絡み合うことによって、多元的な宇宙の調和を表している。
七宝とは、仏教でいうところの七つの宝。仏教の加護の願いをこの紋に込める。七宝、釜敷も広い意味で輪違い紋のため、この項目に入れた。
石川県、福井県、岐阜県、鳥取県、島根県、滋賀県、愛媛県、高知県などで比較的多く見られる。
使用している有名人は以下。
高師直。生年不詳 - 1351年3月24日、武将。
高氏は足利氏の執事職を代々務めた。本姓は高階氏。尊氏の側近として討幕戦争に参加。分捕切捨の法を初めて採用。尊氏が室町幕府を開くと絶大な勢力を振るう。『騎馬武者像』(左の画像)は近年の高師直の像とされる。家紋は寄り懸かり輪違い。
脇坂安治。1554年 - 1626年9月26日、武将・大名。
脇坂氏は近江東浅井郡脇坂野に居住し、その土地の名から脇坂と称した。秀吉の家臣として活躍。賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路洲本藩主。のち伊予大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は輪違い。画像は玉林寺の脇坂家墓所にて撮影。
小堀遠州。1579年 - 1647年3月12日、茶人、建築家、作庭家。
小堀正次の長男として生まれる。秀吉、家康に仕え、出世し、備中松山藩2代藩主、のち近江小室藩初代藩主となる。茶は古田織部に学び、三大茶人の一人として数えられるようになる。茶道遠州流の祖。家紋は輪違いに花菱紋。
大岡忠相。1677年 - 1752年2月3日、幕臣・大名。
旗本(1700石)・大岡忠高の四男。大岡忠世家の当主で西大平藩初代藩主。 徳川吉宗が進めた享保改革を町奉行として支える。『大岡政談』では名奉行として名高い。家紋は大岡七宝紋。画像は谷中・瑞輪寺の大岡家の墓所にて撮影。
上田秋成。1734年7月25日 - 1809年8月8日、読本作者。
大坂曾根崎に、松尾ヲサキの私生児として生まれる。父は確かでない。紙油商嶋屋、上田茂助の養子となり、仙次郎と呼ばれた。賀茂真淵一門の国学者、加藤宇万伎に師事した。怪異小説「雨月物語」の作者として特に知られる。家紋は七宝に花菱紋。
石川七財。1828年4月8日 - 1882年7月30日、実業家。
土佐藩の下級武士として生まれたが、才覚を認められ漸次(ぜんじ)登用されていった。維新後、九十九商会入社、その後三菱汽船管事となり三菱の海運部門を指揮。後に日銀総裁も務める。家紋は七宝に花菱。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。
安田善次郎。1838年11月25日 - 1921年9月28日、実業家。
富山県富山市出身。安田財閥の祖。東京大学の安田講堂や、日比谷公会堂は彼の寄贈によるものである。前衛芸術家オノ・ヨーコの曽祖父。元々、安田家の家紋は「丸に木瓜」であったが、後に「釜敷梅鉢紋」に変更。
宮城浩蔵。1852年6月2日 - 1893年2月13日、刑法学者。
出羽国・天童藩士の家に生まれる。仏刑法理論である新古典派・折衷主義を日本に紹介。岸本辰雄・矢代操と共に明治法律学校(明治大学)を創設。 第1回衆議院議員総選挙に山形1区より立候補し当選。家紋は花輪違い。画像は谷中霊園にて撮影。
添田寿一。1864年9月15日 - 1929年7月4日、財政家・経済学者。
筑前国遠賀郡広渡村の職人・添田新三郎の三男として生まれる。近代日本における財政確立の功労者の一人であるとともに経済学の教育・普及に尽力。日本法律学校(現日本大学)の設立に加わった。家紋は七宝に花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。
秋山雅之介。1866年1月23日 - 1937年4月11日、官僚。
安芸出身。外務省、陸軍省、法制局などの参事官を歴任。ワシントンの万国赤十字社総会などに政府委員として出席。青島(チンタオ)守備軍民政長官。退官後、法政大学学長をつとめた。著作に「国際公法」。家紋は七宝に花菱紋。画像は青山霊園にて撮影。
池田成彬。1867年8月15日 - 1950年10月9日、財界人、政治家。
山形県米沢市に米沢藩士池田成章の長男として生まれる。三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女艶と結婚し、三井銀行筆頭常務となる。日本銀行総裁、大蔵大臣、商工大臣、枢密顧問官を歴任。家紋は、持ち合い三つ七宝紋。護国寺にて撮影。
中村吉蔵。1877年5月15日 - 1941年12月24日、劇作家。
島根県生まれ。イプセンの影響を受け春雨と号して新社会劇団を主宰の後、藝術座の島村抱月に招かれて戯曲「剃刀」などを書く。1920年に「井伊大老の死」を歌舞伎座で上演。歴史劇を書くようになる。家紋は七宝に井桁紋。画像は豪徳寺にて撮影。
鏑木清方。1878年8月31日 - 1972年3月2日、日本画家。
東京・神田に生まれた。本名は健一。 近代日本の美人画家として上村松園、伊東深水と並び称せられる。代表作は『三遊亭円朝像』(重要文化財)、『朝涼』『築地明石町』など。家紋は七つ輪違い紋(釜敷七曜紋とも同型)。画像は谷中霊園にて撮影。
佐々紅華。1886年7月15日 - 1961年1月18日、作曲家。
東京都台東区生まれ。本名は佐々一郎。妻は元・浅草オペラの歌手・高井ルビー。日本ビクターや日本コロムビアでも作曲活動を行う。代表作は『当世銀座節』『笑い薬』『君恋し』など。家紋は七宝に隅立て四つ目結紋。画像は、谷中妙雲寺にて撮影。
中山晋平。1887年3月22日 - 1952年12月30日、作曲家。
長野県下高井郡新野村出身。多くの傑作といわれる童謡・流行歌・新民謡などを残す。代表童謡『シャボン玉』 『てるてる坊主』 『証城寺の狸囃子』 など。代表歌謡曲『東京音頭』 『波浮の港』 など。家紋は三つ輪違い紋。画像は多磨霊園にて撮影。
犬丸徹三。1887年6月8日 - 1981年4月9日、実業家。
石川県能美郡根上村に父・犬丸六右衛門の長男として生まれる。上海、ロンドン、ニューヨークのホテル勤務を経て、帝国ホテル入社。副支配人、常務、代表取締役、専務等を経て、社長となる。家紋は七宝紋。画像は青山霊園にて撮影。
江戸川乱歩。1894年10月21日 - 1965年7月28日、推理作家。
三重県名賀郡名張町出身。本名は平井太郎。祖父の代まで津藩士。少年愛、少女愛等への志向が強かったという。代表作は『怪人二十面相』『人間椅子』『黄金仮面』など。日本推理作家協会初代理事長。家紋は七宝に二つ算木。画像は多磨霊園にて撮影。
迫水久常。1902年8月5日 - 1977年7月25日、官僚、政治家。
東京府出身。大蔵省入省。二・二六事件の際、岡田首相を救済。また、鈴木貫太郎内閣時の内閣書記官長として終戦工作に携わる。政治家としては経企庁長官、郵政大臣等を歴任。家紋は丸に丸に花付十字紋と輪違いに水紋。多磨霊園の墓所にて撮影。
愛知揆一。1907年10月10日 - 1973年11月23日、政治家。
宮城県仙台市出身。祖父・信元は幕末期、徳川慶喜に小姓。法務大臣、文部大臣及び科学技術庁長官、内閣官房長官、外務大臣、大蔵大臣を歴任。環境庁長官、防衛庁長官の愛知和男は女婿で後継者。家紋は七宝に蔦紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
大山倍達。1923年7月27日 - 1994年4月26日、武道家・空手家。
本名は同じ。旧名は崔永宜。韓国全羅北道出身。国際空手道連盟総裁・極真会館館長。劇画『空手バカ一代』でも主人公として取り上げられた。極真会館のシンボル、観空マークは創作紋だが広い意味で輪違い紋と解釈。画像は護国寺の墓所にて撮影。
野村万作。1931年6月22日 - 、狂言師。
六世野村万蔵(人間国宝)の次男、3歳で初舞台を踏む。芸術祭大賞、日本芸術院賞、紫綬褒章を受賞。人間国宝。昭和40年代、ネスカフェの「違いの分かる男」のCMでお茶の間に認知された。家紋は上り藤に七宝に花角紋。青山霊園の野村家墓所にて撮影。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技 »
大相撲の初場所は面白かった。
勿論、朝青龍の23回目の優勝は素晴らしかったが、朝青龍に関しては、こちら(朝青龍完全復活は格闘家としての本能の勝利だ)をお読みいただくとして、このエントリーでは他の関取について書いてみたい。
まずは、優勝決定戦で朝青龍に敗れた白鵬について。
白鵬は静かな横綱である。初日から世間の話題が朝青龍に向いている中、独り黙々と横綱の務めを果たし、静かに勝ち進んでいた。
あまりにも危なげなかったため逆に話題にもならなかったのだ。
大鵬、北の湖などの全盛期の「横綱相撲」を思い出させるような立ち振る舞いだ。
今場所は朝青龍に優勝をさらわれたが、白鵬が第一人者である事には変わりない。
来場所、また頑張って欲しい。
次は大関陣だ。
魁皇の勝ち越しが何よりも嬉しい。魁皇に関しての詳細はこちら(大関という生き方 -魁皇論-)をお読みいただければと思う。
どうしても九州場所までは土俵に上がり続けて欲しいと切に願う。
琴欧洲は、久々に動きがよかった。
おそらく、精神的にも好調だったのである。
先場所までのどこか暗い表情が、今場所は自信に満ち溢れていた。
惜しむらくは、6日目の安美錦戦だ。すばやく横に廻られて、一気に出されてしまった。
また、10日目の千代大海戦も残念だった。
千代大海にも大関の意地があるのだろう。ツボにはまると思わぬ力を発揮する。さすがだ。
上記の2番をもし、乗り越えていたら、朝青龍の11日目で全勝決戦になっていたはずだ。
そうであれば、また別の結果が出ていたかもしれない。
いずれにしても来場所楽しみだ。
日馬富士の初日からの4連敗は意外だった。
ただ、体調が悪いようには見えなかった。おそらく、精神的なものだろう。
雅山戦、稀勢の里戦で、前に落ちてしまったが、これらは明らかに体が堅くなっていたからだ。
調子をつかめば、いつかは盛り返してくるだろうと思っていたが、さすが、14日目に勝ち越してくれた。
関脇以下でも、何人も注目すべき関取がいた。
まずは、把瑠都だ。特に白鵬戦はすばらしかった。まるで横綱同士が闘っているようながっぷり四つの大相撲。
今場所のベストバウトのひとつだ。
特に、この一番の前の把瑠都のコメントがいい。
「がっぷりになれば何とかなる。」
今をときめく、白鵬を前にしてのこの自信、さすが大物だ。
そして、千秋楽の日馬富士との一番も凄かった。
いくら軽量とはいえ、相手は大関、それを足を取って、そのままつり出してしまった。
まるで大人と子供だった。
今場所、途中で負けが重なってしまったが、気にする事は無い。来場所、優勝すら狙えると僕は思う。
一方、把瑠都と同様のヨーロッピアン力士は今ひとつだった。
阿覧は負け越してしまった。
本来の荒々しさが、影を潜めてしまった。
よく、阿覧に対して、「相撲を知らない」「型が無い」と言われることがあるが、僕はそうはそれは大きな問題だとは思えない。
阿覧には阿覧らしく、相撲取りの以前の格闘家の精神を忘れないで欲しいからだ。
極論するならば、阿覧には、無茶な張り手や力任せの寄りを見せて欲しい。
大相撲の「明日」にとっても、異種格闘技を取り込んでいった方が、よりエキサイティングな見世物になるからだ。
同様のことは、栃ノ心にも言える。
栃ノ心は千秋楽でようやく、勝ち越すことが出来たが、今場所では、彼らしさはほとんど見られなかった。
あの懐の深さと、サンボヨーロッパ王者としての技術を生かしたオリジナルスタイルを是非確立してほしい。
今場所注目していたが、一番残念だったのが武州山だ。
30歳を超して、新入幕、勝ち越しての今場所だったが、幕の内上位には全く通じなかった。
出っ腹に撫で肩のくたびれた肉体、いいではないか。来場所勝ち越して、何とか、幕内に踏みとどまって欲しいと願う。
色黒の元気者、嘉風と豊真将の活躍も目立った。
特に嘉風の動きの良さと気持ちの強さは、朝青龍戦を持ち出すまでもなく、素晴らしい。
今場所、いろんな事を学んだであろう。将来が楽しみだ。
白鵬、朝青龍、日馬富士以外のモンゴル勢も総じていい動きをしていた。
時天空が久々に勝ち越した。千秋楽の豊真将で見せた足技はこの人オリジナルだ。こういう個性的な力士は好きだ。
旭天鵬が前頭一枚目で勝ち越し、来場所の三役復帰に期待を持たせてくれた。すでに36歳になるのに、その肉体はまだまだ輝いている。
鶴竜の動きの良さも目立った。明日の日馬富士は、この鶴竜だ。
朝赤龍、光龍、玉鷲は残念ながら負け越してしまったが、十両では、翔天狼、白馬が十両優勝決定戦を争うほど元気だ。
また、個人的に注目なのは、今場所負け越してしまったが保志光だ。彼の肉体のユニークさは特筆物である。早く幕の内に上がってきてほしい。
十数年ほど前、確かに、小錦、曙、武蔵丸等のハワイ勢は活躍していた。
しかし、彼等の次の人材が続かなかった。ゆえにその流れは絶えてしまった。
一方、モンゴル勢は次々に新しい才能が上がってくる。
その勢いは凄い。
彼等の運動神経、ハングリー精神に対して、日本人はどう対抗して行ったらいいのだろうか。今後の大相撲界の大きな課題である。
嬉しかったのは、新入幕の山本山の勝ち越しだ。
来場所もまた幕の内での相撲が見られるからだ。
四日目の将司戦で見せた、圧倒的な押し、中日の垣添戦で見せた土俵際での打っちゃり気味の上手投げ、十四日目に見せた怒涛の決め出しすべてが彼の持ち味だ。
惜しむらくは、千秋楽での木村山との一戦。動かれ、横から攻められ、押し出された。ここで勝っていれば9勝。さらに上に上がれたのに...
ちなみに、今場所のベストバウト5は以下
1位:初日の朝青龍VS稀勢の里(朝青龍の意地が見えた)
2位:三日目の千代白鵬VS鶴竜(二人で土俵狭しと動き回るこれぞ相撲)
3位:二日目の若の里VS普天王(一見地味なこの対決。思わぬ名勝負に)
4位:九日目の白鵬VS把瑠都(一番の力相撲だった)
5位:十日目の白鵬VS日馬富士(日馬富士の維持が爆発)
逆にがっかりさせられたのは七日目の把瑠都VS琴欧洲。
この二人の怪物対決、いつも期待するのだが、いつも一瞬で勝負がついてしまう。
この二人が白鵬対朝青龍のような名勝負が見せられるようになれば、この二人の時代が来ると思うのだが。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技 »
大相撲初場所が終わった。
結果はご存知の通り、朝青龍が23回目の優勝を果たした。。
貴乃花の22回を抜き、北の湖の24回にあと1回と迫った。大記録だ。
思えば、今場所の朝青龍は、誠に危なっかしい出足だった。
三場所の全休。稽古も十分に出来ていない。
場所前のけいこ総見では、白鵬に全くかなわなかったという。
多くの評論家が今場所は出場さえしないのではないかと予想していた。
そんな中で朝青龍は出場を強行したのだ。
最悪の場合、引退をかけての出場になる。大丈夫か朝青龍。
初日は、そんなプレッシャーの中での稀勢の里戦である。
もともと、苦手としていた相手だ。大相撲協会も酷なことをするものだ。
◆
その一番、立ち会いに稀勢の里に突っ張られ、右上手を取られ、土俵際まで追い詰められた。
しかし、そこから朝青龍の逆襲が始まる。
その後、左を巻き変えて怒涛の逆寄り。
最後は、右と左と、稀勢の里への顔面に張り手。
追い詰められた横綱の意地が表れた瞬間だ。
朝青龍の強さの源はこの意地である。
格闘家本来の、絶対に負けたくないという気持ちが人一倍強いのだろう。
勿論、日々の稽古が大切というのは言うまでも無いことであるが、朝青龍の存在は、それ以上に本番での気迫が重要である事を改めて示してくれた。
◆
同様のシーンは、7日目の嘉風戦でも見られた。
嘉風は、先場所、前頭12枚目で11勝し、今場所、初めて朝青龍と対決する位置(前頭2枚目)まで上がってきた新進気鋭の若武者である。
普通、初顔合わせの力士は横綱に対しては、ほとんど何も出来ないのだが、この嘉風は違った。
立会いのから激しい張り合いの応酬、その中で嘉風は、朝青龍の顔に張り手に行ったのである。
勝負は、朝青龍が送り出しで辛勝したものの、勝負がついた後、勝ち名乗りを受けている時でもまだなお、朝青龍は嘉風をにらみ続けていたのだ。
「横綱としての顔」を超えた、格闘家・朝青龍としての本能を垣間見せた一瞬であった。
おそらく、こういった表情を出せる力士は、朝青龍をおいて他にはないのではないだろうか。
相撲の本質はやはり、格闘技である。そして、格闘技の本質は相手を倒したいという本能である。
そして、現在の大相撲の力士の中で、その格闘家としての本質を、最も身に付けているのが朝青龍なのである。
◆
そして、ついに迎えた本日の優勝決定戦。
本割の立会いに失敗し、白鵬に完敗して、1敗同士で並ばれた朝青龍。
決定戦を待つ間、支度部屋で立会いの練習を繰りかえす朝青龍。
一方の白鵬は目をつぶって精神統一。
対照的な二人の姿。追い詰められた朝青龍、と誰もが思っただろう。
しかし、朝青龍は強かった。立会い鋭く、白鵬の左下手を引き、頭をつける。白鵬に左をささせない。
そして、一気に白鵬を土俵の外に寄り切ったのだ。
おもわず、土俵上でガッツポーズを見せる朝青龍。
日頃、「横綱の品格」とやらを口にするような。いわゆる・うるさ型(やくみつるや内館牧子達)を完全に黙らせる、乱れ髪のままの喜びのポーズだ。
そして、花道を引き上げていく時、うっすら目に涙を浮かべて顔をぬぐう朝青龍の姿は、誰をも感動させたシーンであった。
◆
まだまだ朝青龍は大丈夫だ。
今回の優勝も嬉しいが、来場所からも、またその勇姿を見れるのは何よりも嬉しい。
まさむね
テレビドラマ »
NHKの大河ドラマ「天地人」。直江兼続の少年、青年時代の与六(妻夫木聡)の放映が続いている。
ここで気付くのは、少年時代はともかく、青年時代の彼は、なんとも「女性的」に描かれているということだ。
◆
例えば、後日、妻になるお船=おせん(常盤貴子)との出会いの場面だ。
人々でごった返す道路に、突如としてあばれ馬が突っ込んでくる。
逃げ遅れそうになった女の子を助けようとして、身を挺して女の子を抱きかかえ、その場にうずくまる与六。
そこに迫り来る暴れ馬。
与六の大ピンチだ。
その時、その暴れ馬に飛び乗り、暴走を止める一人の女性の姿が。その場を収めてその女性が与六に言う。
「この頃の若サムライは馬の扱いも出来ぬと見える」
その態度に、ムッとする与六。
遠目からその女性を2度見し、鏡を見る女性らしさに微妙な笑顔。
そして、次の日の宴会で、その女性と再会して驚くのである。
言うまでも無く、この出会い>不快感>まんざらでもなく思う>再会というパターンは、ラブコメにおける出会いの紋切型である。
しかし、典型的なパターンではあるが、かつては男と女の立場は逆だったはずだ。
◆
また、与六は、主君の景勝(北村一輝)が、そのお船に惚れていると知ると、二人を接近させようとして、(景勝がお船に逢いたいという)偽りの手紙を書き、二人を逢わせ、それを影から覗く。
さらに、その後、故郷の母の体調が悪いと知ると木陰で一人泣き出すシーンも出てくる。
これら、与六の振る舞いは、どれもこれも、どう見ても、彼が「女性的」ということを表すエピソードである。
勿論、この「女性的」というのは、現実の女性がそのように振舞う仕草ではなく、芝居やドラマの中での「意味づけ」としての「女性的」にすぎないのであるが、どうして、これほど執拗に、与六を「女性的」にしたがるのであろうか。
そういえば、前作、「天障院・篤姫」では、少女期の篤姫(=於一)に対して、木登りをしたり、野原を駆け回ったり、「源氏物語」よりも「大日本史」が好きだったり、碁が得意だったりと、与六とは逆に「男性性」が付与されていた。
まるで、於一と与六、篤姫と兼続は合わせ鏡のようなキャラクタ設定だったのである。
◆
最近のドラマの多くが女性は「男性的」に、男性は「女性的」に描くのが勝ちパターンのようではある。
しかし、そのパターンを、現代ドラマと同様に、視聴率のために時代劇に持ち込むというのはいかがなものか。
一俗説によると、直江兼続が上杉家で重きをなしていく要因の一つとして謙信との衆道関係(ゲイ)にあったという。
真実はわからないが、例えば、篤姫の男性っぽさが、結局は、彼女が処女のまま生涯を終えるという「悲劇」の伏線になっていたように、この与六の女性っぽさが、大河では描けない「ひとつの可能性」の「ほのめかし」として、示唆的に扱われ、物語に厚みを加えるものであって欲しいというのは贅沢な願望だろうか。
そうなってくると、兼続の兜の「愛」の意味もより深みを増すと思われるのだが。
まさむね
-篤姫関連エントリー-
大河ドラマ「篤姫」の視聴率がよかった11の理由
篤姫が私達にくれた6つのメッセージ




