Articles Archive for 1 月 2009
歴史・家紋 »
平安京の内裏にある紫宸殿正面の階段から見て右には橘の樹、左には桜の樹があった。
一般に、右近の橘、左近の桜と対比される。
桜はどこか死の匂いがする樹木であるが、一方、橘は、その葉が寒暖の別なく常に生い茂っていることから生命力や長寿の象徴とされた。
橘という植物は柑橘類、和歌山県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地に自生している。
橘紋の分布は全国では9位。桜紋よりも圧倒的に浸透している。
和歌山県、高知県で3位、奈良県、広島県、宮崎県で4位とやはり橘が自生している地域に広く分布している。特に、黒岩涙香、幸徳秋水、弘田龍太郎、朝潮など、高知県人の多さが目立つ。
歴史上で、橘紋と言えば有名なのは、日蓮。
1222年の安房国長狭郡東条郷片海の小湊で誕生。
比叡山で学び、後に「南無妙法蓮華経」の題目を唱え始め立宗宣言し、日蓮宗の開祖となった。
そのため、日蓮宗関係の寺院では、この橘紋を使用するとところが多い。
写真は、谷崎潤一郎が眠る慈眼寺の寺門の井桁に橘紋を撮影したもの。
日蓮宗系の立正佼成会の関連施設である佼成学園の記章にも橘紋が使用されている。
また、奈良飛鳥地方に、聖徳太子生誕の地・橘寺があるが、そこの寺紋も橘紋だ。
そもそも、日本書紀によると、この橘とは、田道間守(たじまもり)という人物が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求めて持ち帰った種をまいて芽が出てきた植物であった。
そして、その種をまいた地を橘と呼ぶようになっとのこと。
その橘寺には、聖徳太子が乗ったという黒駒像があり、胴に橘紋がついていた。
日蓮、山中鹿之助、井伊直弼、勝新太郎、花形敬、石井紘基、江川卓、小和田家、北島康介、中川翔子...なんとなく、意志の強い系譜を感じさせる。
さて、橘紋を持つ有名人は以下。
前田玄以。1539年 - 1602年7月9日、僧侶・武将・大名。
前田基光の子として美濃で生まれる。比叡山延暦寺に入ったが、織田信長に招聘されてその家臣となる。後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。豊臣政権における五奉行の1人であり、丹波亀山藩の初代藩主である。
山中鹿之介。1545年9月20日 - 1578年8月20日、武将。
出雲国能義郡に生まれる。尼子氏の家臣。 本姓は源氏。家系は宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流で、尼子氏の一門である。尼子氏が衰亡していく中、御家再興のため、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという。
山鹿素行。1622年9月21日 - 1685年10月23日、儒学者・兵学者。
陸奥国会津(福島県会津若松市)に生まれる。朱子学を批判し、播磨国赤穂藩へ流罪となり、赤穂藩士の教育などを行う。赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人。後に、吉田松陰等に影響を与えた。主著は『中朝事実』『武家事紀』等。
銭屋五兵衛。1774年1月7日 - 1852年12月31日、商人、海運業者。
朝倉氏の末裔を称する。両替商のほか醤油醸造・古着商などを手広く営む家系。蝦夷地や択捉島ではロシアと通商するなど密貿易を行い巨万の富を得る。河北潟の干拓・開発工事を請け負うが失敗。結局は獄死し、銭屋は財産没収・家名断絶とされた。
井伊直弼。1815年11月29日 - 1860年3月24日、大老。
第13代彦根藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡の彦根城で出生。安政の大獄により多数の志士や公卿らを粛清。尊攘派の怨嗟をうけ水戸、薩摩藩浪士により江戸城桜田門付近で暗殺された(桜田門外の変)。画像は菩提寺・豪徳寺の墓所にて撮影。
福岡孝悌。1835年3月3日 - 1919年3月7日、土佐藩家老、政治家。
土佐藩士・福岡孝順の息子。吉田東洋の影響下、藩政改革、土佐勤皇党弾圧を行う。また薩摩藩との間に薩土盟約を締結。「五箇条の御誓文」の草案作成に関与した。家紋は丸に九枚橘の葉(あるいは九枚茶の葉)紋。画像は染井霊園にて撮影。
沖牙太郎。1848年5月10日 - 1906年5月29日、技術者・実業家。
広島県沼田郡新庄村に生まれる。実家の農業を嫌い27歳で銀細工師の腕を資本に上京、工部省で電信技術に携わる。我が国で初めて電気通信機器の製造・販売事業を興した。明工舎(沖電気の前身)創業者。画像は青山霊園にて撮影。
黒岩涙香。1862年11月20日 - 1920年10月6日、作家、報道記者。
土佐国安芸郡川北村大字前島に生まれる。『萬朝報』を創刊。紙名には「よろず重宝」の意味がかけられていた。幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦らが参画し、一時は、最大発行部数は30万部となった。画像は総持寺の墓所にて撮影。
宮崎湖処子。1864年10月20日 - 1922年8月9日、詩人、小説家。
筑前国下座郡三奈木出身。本名は宮崎八百吉。読みは、みやざきこしょし。徳富蘇峰に認められ民友社に入社。小説『帰省』を刊行。国木田独歩らと詞華集『抒情詩』を編集。代表作は『まぼろし』。家紋は藤輪に菊座橘紋。画像は青山霊園にて撮影。
幸徳秋水。1871年11月5日 - 1911年1月24日、思想家。
高知県幡多郡中村町に生まれる。本名は幸徳傳次郎。中江兆民の門弟となり黒岩涙香の創刊した『萬朝報』記者となる。後に無政府主義に傾き大逆事件(幸徳事件)」において逮捕され翌年に死刑判決を受ける。家紋は紋付姿写真より丸に橘紋と判断。
本因坊秀哉。1874年 6月24日- 1940年1月18日、囲碁の棋士。
東京都出身。本名は田村保寿(やすひさ)。家元本因坊家の21世で、終身名人制の最後の名人。法名は日温。引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。家紋は三つ葉橘。画像は本妙寺にて撮影。
市村羽左衛門(15代)。1874年11月5日 - 1945年5月6日、役者。
本名は市村録太郎。屋号は橘屋。東京生れ。旧福井藩主で、幕末には幕府政事総裁職の池田絲とフランス系アメリカ人との混血。当時を代表する美男子で、その美貌から「花の橘屋」と呼ばれた。家紋は根上り橘。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。
荒木貞夫。1877年5月26日 - 1966年11月2日、軍人。
東京都狛江市出身。旧一橋家家臣・荒木貞之助の長男。皇道派の重鎮であり昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在。犬養内閣・齋藤内閣の陸軍大臣を務める。最終階級は陸軍大将。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園にて撮影。
武林無想庵。1880年2月23日 - 1962年3月27日、小説家、翻訳家。
北海道札幌市に生まれる。本名は磐雄。のちに盛一。妻・文子が交際のあった男に発砲される事件があり、世の話題となった。代表作は「ピルロニストのやうに」「第十一指の方向へ」など。家紋は丸に抱き橘紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
中野正剛。1886年2月12日 - 1943年10月27日、言論人、政治家。
旧福岡藩士中野泰次郎として、福岡市生まれ。東京日日新聞、朝日新聞などで政治評論を行う。政治家としては東條英機首相の独裁に反対。倒閣工作を謀った容疑で憲兵に拘束され、自殺を。家紋は丸に中陰地紙に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
柳家小さん(4代目)。1888年4月18日 - 1947年9月30日、落語家。
東京出身。本名、大野菊松(後に平山に改姓)。得意ネタは『二十四孝』『ろくろ首』『三軒長屋』など。新作落語の創作にも力を入れ、『創作力のない者は、噺家ではない』という言葉を残している。家紋は丸に橘紋。画像は谷中・本寿寺にて撮影。
木村兵太郎。1888年9月28日 - 1948年12月23日、陸軍軍人。
東京都出身。終戦直前には軍司令官としてビルマに駐在していたが英軍の進攻を聞くと唐突にラングーン放棄し方面軍の指揮命令系統を大混乱に陥し入れた。最終階級は陸軍大将。終戦後A級戦犯として絞首刑に処された。画像は青山霊園にて撮影。
弘田龍太郎。1892年6月30日 - 1952年11月17日、作曲家。
高知県安芸市出身。児童雑誌『赤い鳥』が創刊されると「赤い鳥運動」に参加。北原白秋等と組み多くの童謡を作曲した。代表作は『鯉のぼり』『浜千鳥』『春よこい』『叱られて』など。家紋は丸に橘。画像は谷中・全生庵にて撮影。
井伏鱒二。1898年2月15日 - 1993年7月10日、小説家。
広島県福山市加茂町出身。本名は井伏満壽二。『ジョン萬次郎漂流記』で直木賞受賞。『本日休診』で第1回読売文学賞小説賞。1966年に、野間文芸賞と文化勲章を受章。主な作品は「山椒魚」「駅前旅館」「黒い雨」。画像は青山・持法寺にて撮影。
永澤邦男。1899年11月21日 - 1972年4月9日、法学者、教育家。
フランス、ベルギーに犯罪学および刑事政策の研究者。慶応義塾塾長を務め、日本私立大学連盟の創立に参画し副会長となる。また、私立学校振興会理事となり、私学振興のため尽力した。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。
三遊亭圓生(6代目)。1900年9月3日 - 1979年9月3日、落語家。
大阪市西区出身。本名は山崎松尾。演目数は落語史上最も多かったという。特異演目は『死神』『鰍沢』『らくだ』『淀五郎』等。NHK連続ドラマ『おはなはん』に出演。バカウマという言葉を流行語にする。画像は烏山・永隆寺にて撮影。
高橋掬太郎。1901年4月25日 - 1970年4月9日、作詞家。
北海道根室市出身。北海道の国後島で漁師の息子。「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー。その後も、昭和の名曲を数多く手がけた。代表曲『酒は涙か溜息か』『船頭可愛や』『ここに幸あり』等。家紋は丸に橘紋。画像は小平霊園の墓所にて撮影。
火野葦平。1907年1月25日 - 1960年1月24日、小説家。
福岡県遠賀郡若松町で沖仲仕「玉井組」を営んだ玉井金五郎の長男。本名は玉井勝則。『糞尿譚』で芥川賞を受賞。『麦と兵隊』『土と兵隊』『花と兵隊』の「兵隊3部作」はベストセラーとなった。家紋画像は文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に橘紋。
高橋竹山。1910年6月18日 - 1998年2月5日、三味線名人。
青森県東津軽郡中平内村小湊生まれ。本名は高橋定蔵。一地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者。演歌歌手北島三郎が歌った『風雪ながれ旅』のモデル。高橋家の家紋は丸に橘紋。ただし、自身のマークとして竹輪に根笹紋を使用。
ジョージ川口。1927年6月15日 - 2003年11月1日、ドラム奏者。
京都市出身。本名は川口譲二。終戦直後、松本英彦、中村八大、小野満と共にバンドビッグ4を結成して活躍。大衆的人気を誇った。越路吹雪のバンドロイヤルポップスオーケストラのドラムとしても活躍。家紋は丸に橘紋。画像は多磨霊園にて撮影。
花形敬。1930年 - 1963年9月27日、ヤクザ、安藤組大幹部。
中学校を自主退学。国士舘中学校では、後の住吉会住吉一家石井会会長・石井福造と番長争いを演じた。安藤組組長・安藤昇に最も可愛がられた。前科7犯、22回の逮捕歴がある。素手喧嘩(ステゴロ)と呼ばれ喧嘩に武器は一切持たない主義であったという。
三橋美智也。1930年11月10日 - 1996年1月8日、演歌歌手。
北海道函館市近郊の上磯町出身。本名は北沢美智也。春日八郎、村田英雄らとともに戦後日本を代表する流行歌手。代表曲は「古城」「哀愁列車」など多数。三橋美智也の家紋は丸に三つ引両紋だが、小平霊園の北沢美智也の墓には丸に橘紋がある。
勝新太郎。1931年11月29日 - 1997年6月21日、俳優。
長唄三味線の杵屋勝東治の次男。本名:奥村利夫。妻は二代目中村鴈治郎の長女で同じ大映の女優・中村玉緒。兄は若山富三郎。代表作は『兵隊やくざ』『座頭市』『悪名』『顔役』『人斬り』。家紋は菊座橘。画像は港区・三田の蓮乗寺にて撮影。
池坊専永。1933年7月21日 - 、華道家。
華道家元四十四世池坊専威の長男。妻は衆議院議員の池坊保子。元々池坊の坊名は聖徳太子が水浴したという池にちなむという。国際科学技術博覧会で「いけばなと着物の交響詩」で舞台用の超大作を制作。画像は鎌倉・東慶寺の東池坊家の墓所にて撮影。
マシオ駒。1940年5月18日 - 1976年3月10日、プロレスラー。
東京都世田谷区出身。本名は駒 秀雄。早稲田実業高校時代は野球部に所属(同期に王貞治)。1972年、ジャイアント馬場が日本プロレスを離脱すると馬場に合流し、全日本プロレスの立ち上げに参加。若手の指導を行うようになる。家紋は丸に橘紋。
石井紘基。1940年11月6日 - 2002年10月25日、政治家。
東京市世田谷区に生まれる。菅直人らと社会民主連合を結成。羽田内閣において総務政務次官に就任。自由連合や新党さきがけを経て民主党の結党に参加。「国会の爆弾発言男」と呼ばれていたが、世田谷区の自宅駐車場で刺殺された。家紋は丸に橘紋。
梅若万三郎(3世)。1941年 - 、シテ方観世流能楽師。
梅若万三郎 (2世)の長男として出生。本名万紀夫。1997年、大阪文化祭本賞受賞。2001年、三世梅若万三郎を襲名。第一回日本能楽団欧州公演に加わって以来、積極的に海外公演を行っている。家紋は丸に橘紋。画像は品川・海晏寺の梅若家墓所にて撮影。
魁傑將晃。1948年2月16日 - 、元大相撲力士。
山口県岩国市に生まれる。本名は西森輝門。日本大学文理学部中退。最高位は大関。引退後は放駒を襲名。日本相撲協会理事長(第11代)。幕内通算成績:367勝304敗4休 勝率.547。幕内最高優勝2回。家紋は丸に橘紋。
山本譲二。1950年2月1日 -、演歌歌手。
山口県下関市出身。所属事務所はジョージ・プロモーション。北島ファミリーの旗頭的存在。『みちのくひとり旅』で「第23回日本レコード大賞」ロング・セラー賞を受賞、さらに「第32回NHK紅白歌合戦」の初出場も果たした。家紋は丸に橘紋。
三遊亭圓楽 (6代目)。1950年2月8日 - 、落語家。
東京都墨田区出身の落語家。円楽一門会所属。師匠の名跡である6代目三遊亭圓楽を襲名予定。1977年8月から「笑点」の大喜利に出演している。家紋は、圓楽一門の定紋である三ツ組橘。(六代目三遊亭圓生と同じ形)
江川卓。1955年5月25日 - 、元プロ野球選手、野球解説者。
福島県いわき市生まれ、栃木県小山市育ち。作新学院高等学校のエースとして、ノーヒットノーラン9回・完全試合2回を記録。六大学野球では、法政大学で、通算47勝は史上2位、完封数17はリーグ記録。プロでは巨人所属で1981年に投手五冠に輝く。
朝潮太郎 (4代)。1955年12月9日 - 、元大相撲力士。
高知県安芸郡出身。本名は 長岡末弘。近畿大学で2年連続してアマチュア横綱のタイトルを獲得。高砂部屋に入門。最高位は大関。北の湖に強かった。531勝371敗33休。幕内最高優勝1回。現在は7代目高砂親方として横綱・朝青龍、朝赤龍等を育てた。
徳仁親王妃雅子。1963年12月9日 - 、皇太子徳仁親王の妃。
外務省職員の小和田恆・優美子夫妻の長女として東京都港区虎ノ門病院にて誕生。外務省職員を経て、1993年6月9日、皇太子徳仁親王との結婚に伴い、皇太子妃となる。2001年12月1日、敬宮愛子内親王を出産。日本赤十字社名誉副総裁を務める。
琴光喜啓司。1976年4月11日 - 、元大相撲力士。
愛知県岡崎市出身。本名は田宮啓司(たみや けいじ)。佐渡ケ嶽部屋所属。最高位は東大関。通算成績:571勝367敗50休。2010年野球賭博事件で解雇される。敬宮愛子内親王のお気に入り力士としても有名だった。
北島康介。1982年9月22日 - 、競泳選手。
東京都荒川区出身。実家は西日暮里・道灌山通りの精肉店「肉のきたじま」を経営。アテネ五輪、北京五輪100m平泳ぎ、200m平泳ぎの金メダリスト。また、100m及び200m平泳ぎの元世界記録保持者。画像は実家・北島商店名物のメンチカツサンドの橘紋。
中川翔子。1985年5月5日 - 、女性アイドル、マルチタレント。
東京都中野区出身。本名:中川しょうこ。2002年にミス週刊少年マガジンに選抜。日本武道館ワンマンライブ「中川翔子 超貪欲☆まつり IN …
歴史・家紋 »
沢瀉は、全国の池や沼に自生する水草のこと。
戦国時代の武士。それこそ、地を這いずり回りながら戦いに明け暮れていた。
そんな時に、ふと水辺の水草にある沢瀉に目をやる。一時のやすらぎの時間だ。
あの毛利元就も、若い頃、出陣の際に沢瀉に蜻蛉が止まったのを見て「勝ち草に勝ち虫、勝利は疑いなし」と全軍を鼓舞したというが、それを元に、この植物を紋として採用したという。
いずれにしても、猛々しい武人の心に芽生えた優しさ、そんなロマンチックな想像をさせてくれるのが、この沢瀉紋である。
全国的には、17位。長野県で5位、山梨県で7位。群馬県で8位。栃木県、愛知県、岐阜県で10位。
日本の中央部分の山間部に多いようである。
毛利元就。1497年4月16日 - 1571年7月6日、戦国大名。
毛利氏は大江広元の四男・毛利季光を祖とする。本姓は大江氏。安芸の国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置く。戦国時代最高の名将の一人と評される。家紋は毛利沢潟と一文字三星紋。画像は別の毛利家の毛利沢瀉紋。
福島正則。1561年 - 1624年8月26日、武将・大名。
福島正信の長男として愛知県海部郡に出生。幼少より秀吉に仕え賤ヶ岳の戦いの時は一番槍として大功を立てて賞され賤ヶ岳の七本槍の中でも突出した5000石を与えられた。九州征伐の後、伊予国今治11万石の大名に封ぜられる。家紋は福島沢潟。
水野忠邦。1794年6月23日 - 1851年2月10日、大名・老中。
唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として出生。大坂城代となる後、老中首座に抜擢され天保の改革を断行しようとするが失敗。強制隠居・謹慎が命じられた上、出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられた。家紋は水野沢瀉紋。画像は烏山妙高寺にて撮影。
男谷信友。1798年2月4日 - 1864年8月17日、剣術家。
直心影流男谷派を名乗り、門下から、島田虎之助、榊原鍵吉などの名剣士が輩出。その実力の高さから「幕末の剣聖」とも島田虎之助、大石進と並んで「天保の三剣豪」ともいわれる。勝海舟は従兄弟。家紋は八重沢瀉紋。画像は深川・増林寺にて撮影。
大関増裕。1838年1月4日 - 1868年1月3日、黒羽藩藩主。
遠江横須賀藩主・西尾忠善の嗣子である西尾忠宝の三男として出生。大関増徳の養嗣子となり跡を継いだ。西洋式砲術の導入するなど藩政改革に取り組む。藩校作新館を創設。家紋は大関沢瀉紋。他に朧月、二つ輪鼓も使用。
山本信次郎。1839年12月22日 - 1942年2月28日、海軍軍人。
神奈川県出身。イタリア大使館付武官を務めた後、皇太子(昭和天皇)の外遊に随行、のち宮内省御用掛。また少年時代に受洗し、カトリック民間使節として16ヵ国を歴訪した。最終階級は海軍少将。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。
国沢新九郎。1848年1月27日 - 1877年3月12日、西洋画家。
土佐藩士・国沢好古の子として土佐国小高坂村に生まれる。米英に留学。イギリスの正統的な画風を受け継いだ肖像画を多く残す。私塾「彰技堂」で本格的な洋画を教授した。代表作は『西洋婦人』。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は青山霊園にて撮影。
高橋是清。1854年9月19日 - 1936年2月26日、政治家。
幕府御用絵師・川村庄右衛門の子として江戸芝中門前町に出生。大蔵大臣の際に世界恐慌により混乱する日本経済をデフレから世界最速で脱出させた。第20代内閣総理大臣。二・二六事件で暗殺された。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は多磨霊園にて撮影。
富岡定恭。1854年12月24日 - 1917年7月1日、海軍軍人。
長野県出身。松代藩海防隊隊長・富岡宗三郎定知の長男。読みは、とみおかさだやす。日清戦争では「厳島」副長として参戦。日露戦争においては秋山真之らとともに早期開戦を求める。最終階級は海軍中将。家紋は抱き沢瀉紋。画像は青山霊園にて撮影。
神尾光臣。1855年2月27日 - 1927年2月6日、陸軍軍人。
信濃国出身。諏訪藩士・神尾平三郎の次男として生まれる。西南戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。最終階級は陸軍大将。戦功により勲一等功一級男爵を受ける。家紋は抱き沢瀉に大の字紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
前田慧雲。1855年3月2日 - 1930年4月29日、学僧、教育者。
伊勢国桑名出身。読みは、まえだえうん。尊皇奉仏を唱え、新欲主学問所の主事となる。東洋大学、龍谷大学の学長を歴任。主著は『大日本続蔵経』『大乗仏教史論』『仏教思想講話』など。家紋は立ち沢瀉紋。画像は和田掘廟所の墓所にて撮影。
末松謙澄。1855年9月30日 - 1920年10月5日、政治家・歴史家。
豊前国前田村に大庄屋・末松七右衛門の四男として出生。読みは、すえまつのりずみ。衆議院議員として逓信大臣、内務大臣などを歴任。義経=ジンギスカン説を唱え、大ブームを巻き起こす。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は品川の清光院にて撮影。
大谷喜久蔵。1856年2月4日 - 1923年11月26日、陸軍軍人。
小浜藩士で藩校「順造館」教授の漢学者、大谷正徳の七男として生まれる。教育総監・浦塩派遣軍司令官・軍事参議官・青島守備軍司令官等を歴任。最終階級は陸軍大将、男爵に至る。家紋は三つ追い沢瀉紋。画像は青山霊園にて撮影。
瓜生外吉。1857年1月27日 - 1937年11月11日、海軍軍人。
加賀藩支藩の大聖寺藩士、瓜生吟弥の次男として生まれる。海軍少将・軍令部第1局長、常備艦隊司令官、将官会議議員、横須賀鎮守府長官等を経て、最終階級は海軍大将。3年間貴族院議員を務めた。家紋は立ち沢瀉紋。画像は青山霊園にて撮影。
中島力造。1858年 - 1918年、倫理学者。
新島襄の要請を受けて学農社の教師として中島を東京に送り出す。第一高等学校講師を経て帝国大学文科大学教授に就任。倫理学の拡充を図り、倫理学の学としての独立性を確立した。家紋は丸に立ち沢瀉紋。雑司が谷霊園にて撮影。
木下尚江。1869年10月12日- 1937年11月5日、社会主義運動家。
信濃国松本城下出身。父親は松本藩士・木下廉左衛門秀勝。旧横浜毎日新聞に入り、廃娼運動、足尾銅山鉱毒問題、普通選挙期成運動などで論陣を張る。幸徳秋水、片山潜、堺利彦らと社会民主党を結成。画像は青山霊園にて撮影。
綱島梁川。1873年5月27日 - 1907年9月14日、評論家。
岡山県上房郡有漢村生まれ。『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。のち宗教に傾倒し、「見神」体験を語って反響を呼んだ。代表作は『予が見神の実験』。家紋は抱き沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
穴水熊雄。1880年 - 1958年、実業家。
山梨県出身。旧姓は興水。穴水家の養子となり実家を継ぐ。京王電気軌道株式会社(現・京王電鉄)社長として沿線の乗客誘致政策が積極化し、桜上水駅、聖蹟桜ヶ丘駅、高幡不動駅などの駅名変更を行う。画像は多磨霊園にて撮影。
高碕達之助。1885年2月7日 - 1964年2月24日、政治家・実業家。
大阪府高槻市で百姓兼紺屋に7人兄弟の3番目として出生。電源開発総裁、満州重工業開発総裁を務めた後に政治家に転身し経済審議庁長官、通商産業大臣、経済企画庁長官、科学技術庁長官などを歴任する。画像は小平霊園にて撮影。
宮崎郁雨。1885年4月5日 - 1962年3月29日、歌人。
新潟県北蒲原郡出身。本名は宮崎大四郎。石川啄木夫人の義弟。石川啄木の死後、函館図書館啄木文庫を設立。主著は『函館の砂-啄木の歌と私と-』。社会事業の功労者として函館厚生院相談役を務める。家紋は丸に抱き沢瀉紋。画像は多磨霊園にて撮影。
飯田蛇笏。1885年4月26日 - 1962年10月3日、俳人。
山梨県東八代郡五成村の大地主で旧家の長男として出生。本名は飯田武治。伝統的俳句の立場から自然風土に根ざした俳句を提唱。代表作は、『山廬集』。俳誌『雲母』の主宰者。画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に立ち沢瀉紋。
古川緑波。1903年8月13日 - 1961年1月16日、コメディアン。
男爵加藤照麿の六男として生まれ、満鉄役員の古川武太郎の養子となる。浅草で夢声らと劇団「笑の王国」を旗揚げ。榎本健一とはしばしば比較され、「エノケン・ロッパ」と並び称せられる。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
片岡千恵蔵。1903年3月30日 - 1983年3月31日、俳優。
群馬県新田郡藪塚本町(現・太田市)に生まれ。本名は植木正義。戦前、戦後を通して時代劇人気を支えた剣戟スターである。代表作は『赤西蠣太』『宮本武蔵』『大菩薩峠』等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。千恵蔵印麻雀牌の沢瀉牌より判断。
伊藤整。1905年1月16日 - 1969年11月15日、評論家、詩人。
北海道松前郡に生まれ、1906年に塩谷村(現在の小樽市塩谷町)へ移住。20世紀日本文学の重要な文芸評論家の一人。私小説的文学の理論化をめざす。代表小説は『鳴海仙吉』『若い詩人の肖像』など。家紋は丸にたち沢瀉。画像は小平霊園にて撮影。
水田三喜男。1905年4月13日 - 1976年12月22日、政治家。
千葉県曽呂村(現・鴨川市)出身。水田家は400年ほど前に讃岐から移住。祖父・竹蔵、父・信太郎はいずれも村長。大蔵大臣を数度に渡って務め戦後日本の代表的な財政家である。城西大学を創立した。家紋は沢瀉に水。画像は護国寺にて撮影。
赤尾好夫。1907年3月31日 - 1985年9月11日、出版人、放送人。
山梨県東八代郡英村(現笛吹市石和町)出身。歐文社(現在の旺文社)を設立。文化放送や日本教育テレビ(現在はテレビ朝日)の創業や、放送大学の設立にも貢献。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は多磨霊園にて撮影。
藤枝静男。1907年12月20日 - 1993年4月16日、作家。
静岡県藤枝出身。本名は勝見次郎。『空気頭』で芸術選奨文部大臣賞、『愛国者たち』で平林たい子文学賞、『田紳有楽』で谷崎潤一郎賞、『悲しいだけ』で野間文芸賞を受賞。家紋画像は、文学者掃苔録図書館より。家紋は丸に立ち沢瀉紋。
菊田一夫。1908年3月1日 - 1973年4月4日、劇作家・作詞家。
神奈川県横浜市生まれ。本名は菊田数男。戦後、数々のラジオドラマ、テレビドラマ、映画、演劇、ミュージカルの音楽を手がけ多くのヒット作品を世に送り出した。代表作は「鐘の鳴る丘」。「君の名は」。画像は上川霊園にて撮影。
飯沢匡。1909年7月23日 - 1994年10月9日、演出家、小説家。
和歌山市出身。本名は伊沢紀。読みは、いいざわただす。父親は官僚政治家・伊沢多喜男。いわさきちひろ絵本美術館初代館長。代表作はNHKの子供番組「ブーフーウー」脚本等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
横井庄一。1915年3月31日 - 1997年9月22日、元日本兵。
愛知県海部郡富田村(現:名古屋市)出身。大東亜戦争のため再召集され、満州を経て、グアム島の歩兵第38連隊に伍長として配属。太平洋戦争終結から28年目、グアム島で地元の猟師に発見された。家紋は丸に立ち沢瀉紋。
内田るり子。1920年8月8日 - 1992年5月1日、声楽家。
東京出身。本名は内田留里子。父は応用化学者の内田壮。童謡歌手として『待ちぼうけ』雨降りお月』等を歌う。国立音楽大学教授、日本歌謡学会理事、東洋音楽会監事も務める。家紋は沢瀉に水。この略歴では歴史が眠る多磨霊園を参照いたしました。
鶴見俊輔。1922年6月25日 - 、評論家、哲学者。
東京市麻布区生まれ。旗本水谷氏備中布賀知行所代官鶴見家の子孫。父は政治家・鶴見裕輔。終戦後、丸山昌男達と共に『思想の科学』を創刊。ベ平連や九条の会結成にも参加するなど戦後左翼言論人として活躍。画像は多磨霊園の鶴見家墓所にて撮影。
天知茂。1931年3月4日 - 1985年7月27日、俳優。
愛知県名古屋市出身。本名、臼井登。ニヒルの代表格で死後20年以上経っても「ニヒルといえば天知茂」といわれている。代表出演作は『ザ・ガードマン』『非情のライセンス』等。家紋は丸に抱き沢瀉だが、これは旗本・水野十郎左衛門の子孫だからか。
若林正俊。1934年7月4日 - 、政治家。
長野県長野市出身。安倍内閣で環境大臣、農林水産大臣。不祥事を起こした農林水産大臣の後のリリーフ役としてのイメージが定着。2009年9月16日に行われた内閣総理大臣指名選挙で自民党の首班候補となる。家紋は丸に抱き沢瀉紋。
市川猿之助(三代目)。1939年12月9日 - 、歌舞伎役者。
三代目市川段四郎の長男として東京に出生。本名は喜熨斗政彦。屋号は澤瀉屋。最初の妻(浜木綿子)との間の息子に俳優の香川照之がいる。スーパー歌舞伎という新境地を切り開いた。定紋は澤瀉(画像は八重花沢瀉)、替紋は三ツ猿。
石立鉄男。1942年7月31日 ‐ 2007年6月1日、俳優。
神奈川県横須賀市出身。家業は養鶏業。1970年代を中心に人気を博し『水もれ甲介』『気まぐれ天使』などユニオン映画制作のドラマに多数主演。代表出演作『パパと呼ばないで』『おくさまは18歳』『噂の刑事トミーとマツ』等。家紋は丸に立ち沢瀉紋。
三沢伊兵衛。亨保時代 、侍。
山本周五郎の短編小説『雨あがる』の主人公。同小説は、2000年に寺尾聡(画像)主演で映画化された。元・越後長岡藩の剣術指南役。武芸の達人でありながら、人の好さが災いして仕官がかなわない。家紋は丸に立ち沢瀉紋。
まさむね
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目結とは、人と人との団結を意味する。
もともとは、コウケチという染めかたの事を目結染と言った。そこから来ている。
目結紋は、宇多源氏=近江源氏・佐々木一族の代表紋として知られているが、それは同時に一族の結束の強さをも表現しようとしていたのである。
絆への願望というのは現代の一つのテーマである。
それは、崩れつつあるものへのノスタルジーではないか。
そのノスタルジーは、この紋が持っている、無骨な安定感へのそこはかとない親しみに通じているようにも思える。
この紋は、全国で10位。特に青森県、岩手県で2位、宮城県で3位、北海道で4位。
これらの地域は、佐々木一族が移り住んだ地である。
逆に少ないところは、山梨県、愛媛県で19位。長野県で18位、兵庫県、岡山県で17位。
有名人では以下。
佐々木道誉。1296年 - 1373年9月12日、武将。
近江国の地頭である佐々木京極氏に生まれる。外祖父である佐々木宗綱の後を継いで家督を継承する。南北朝時代の社会的風潮であるばさらを好んだとされる。『太平記』(NHK大河ドラマ)では、陣内孝則が演じた。家紋は四つ目結紋。
尼子経久。1458年12月25日 - 1541年11月30日、武将・大名。
尼子清定の嫡男として生まれる。幼名は又四郎。本姓は源氏。室町幕府の四職で出雲守護でもある京極政経の寺社領を横領、勢力を広げる。一代で尼子氏を中国地方11ヶ国の太守にのしあげた。中国の三大謀将の一人とと称される。家紋は平四つ目。
佐々成政。1536年2月6日 - 1588年7月7日、武将。
尾張国春日井郡出身。宇多源氏佐々木氏の一族。織田信長に仕え頭角を表す。秀吉から肥後国を与えられたが統治に失敗し改易される。直系子孫に佐々宗淳(「水戸黄門」の助さんのモデル)、評論家・佐々淳行がいる。家紋は隅立て四つ目、棕櫚。
京極高次。1563年 - 1609年6月4日、武将、大名。
名門京極氏に出生。妻は豊臣秀吉の側室・淀殿(茶々)の妹で徳川秀忠の妻・崇源院(江)の姉である常高院(初)。関ヶ原の戦いで功を上げ若狭国小浜藩初代藩主となる。家紋は平四つ目結。画像は谷中霊園の京極高国(高次の弟・高知の直系子孫)の墓所にて撮影。
木村重成。1593年 - 1615年6月2日、武将。
木村重茲の子。母、宮内卿局は豊臣秀頼の乳母となり重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった。大坂冬の陣では今福砦攻防戦を展開。大坂夏の陣が勃発すると豊臣軍の主力として出陣。家紋は四つ目菱。
佐々木小次郎。生年不詳 - 1612年5月13日、剣客。
豊前国田川郡副田庄に生まれ、副田庄の有力豪族佐々木氏の一族とされる。「秘剣燕返し」は福井市にある一乗谷で身につけ、中条流富田勢源、或いは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。宮本武蔵と巌流島で決闘し、敗死したとされる。
丸橋忠弥。生年不詳 - 1651年9月24日、武士。
長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとも言われる。由井正雪の片腕として幕府転覆計画に加担(慶安の変)。家紋は三つ目結と丸に片喰紋。顔画像は歌舞伎「花菖蒲慶安実記」の丸橋忠弥。家紋画像は慈眼寺・金乗院にて撮影。
桂昌院。1627年 - 1705年8月11日、3代将軍・徳川家光の側室。
京都の大徳寺付近で産まれる。大根売りの娘説もある。兄の北小路道芳は後に本庄姓を賜る。御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、春日局の部屋子として家光に見初められ、綱吉を産んだ。女性最高位の従一位の官位を賜る。家紋は繋ぎ九つ目。
堀部安兵衛。1670年- 1703年3月20日、武士。
越後国新発田藩溝口家家臣の中山弥次右衛門の長男。赤穂浪士四十七士の一人。堀部氏は滋賀県に栄えた近江源氏。四十七士の中では一番の剣客。江戸急進派勢力のリーダー格。家紋は家紋は捻り四つ目二ツ。画像は泉岳寺の墓所にて撮影。
間宮林蔵。1780年 - 1844年4月13日、探検家。
常陸国筑波郡上平柳村の農民の子に生まれる。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。間宮海峡を発見。水戸藩へも出入りし川路聖謨らと交友し徳川斉昭や藤田東湖にも献策した。画像は浄心寺安立院管理の墓所にて撮影。
武田斐三郎。1827年11月4日 - 1880年1月28日、学者、陸軍軍人。
伊予大洲藩出身。甲斐武田の末裔という。日本初の洋式城郭「五稜郭」の立案・設計。日本初のストーブを考案した。維新後は、陸軍大学校教授、陸軍士官学校主任教授、陸軍幼年学校長などを歴任。最終階級は陸軍砲兵大佐。
津田真道。1829年7月25日 - 1903年9月3日、官僚、啓蒙学者。
美作国津山藩林田の生まれ。読みは、つだまみち。幕府の目付役になり、大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之らと明六社を結成。1896年(明治29年)に勅選貴族院議員となる。男爵、法学博士。
佐々木高行。1830年11月26日 - 1910年3月2日、土佐藩士、官僚。
土佐国吾川郡瀬戸村出身。藩主山内豊信の側近として藩政をリードし大政奉還の建白を協議。岩倉使節団の一員として欧米各国に渡りその後、宮中や元老院を舞台に天皇親政運動を主導。家紋は七つ割り隅立て四つ目結紋。画像は青山霊園にて撮影。
加藤弘之。1836年8月5日 - 1916年2月9日、政治学者。
但馬国出身。出石藩士加藤正照の長男。福沢諭吉、森有礼、西周らと、明六社を結成。はじめは啓蒙思想の傾向が強かったが後に社会進化論の立場をとる。終生、唯物論者であった。哲学館(現東洋大学)創立時の顧問。画像は雑司ヶ谷霊園にて撮影。
成島柳北。1837年3月22日 - 1884年11月30日、ジャーナリスト。
武蔵国浅草御廐河岸の松本家の3男として出生。成島稼堂の養子となり成島姓となる。『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。自由民権運動の中では、社論は大隈重信の改進党に近く早稲田大学の初代の議員にも就任。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。
大山巌。1842年11月12日 - 1916年12月10日、政治家、軍人。
薩摩国鹿児島城下加治屋町に生まれた。西南戦争をはじめ相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。陸軍大臣を長期にわたって勤め参謀総長、内務大臣なども歴任。陸軍では山縣有朋と並ぶ実力者となった。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に隅立四目結紋。
箕作麟祥。1846年9月19日 - 1897年11月29日、思想家、法学者。
箕作省吾の長男として江戸に出生。東京学士院会員・元老院議官・法典調査会主査委員・貴族院議員等を歴任。ナポレオン法典を5年間の歳月をかけて全訳した『仏蘭西法律書』が著名。家紋は平四目。画像は多磨霊園にて撮影。
松田正久。1847年5月25日 - 1914年3月4日、政治家。
肥前国小城郡牛津に小城藩士横尾只七の次男として生まれた。陸軍省に入省。欧州留学後に佐賀にて自由民権運動に参加し自由党に入党。『東洋自由新聞』を創刊。大蔵大臣、文部大臣、法務大臣などを歴任。家紋は三つ目紋。画像は青山霊園にて撮影。
上原勇作。1856年12月6日 - 1933年11月8日、軍人。
日向国都城出身。都城島津家家臣・龍岡資弦の次男として生まれ上原家の養子となる。工兵近代化に尽力し日本工兵の父と称される。陸軍大臣、教育総監、参謀総長を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は青山霊園にて撮影。
植木枝盛。1857年2月14日 - 1892年1月23日、啓蒙思想家。
土佐国土佐郡井口村出身。土佐藩士・植木直枝の子。私擬憲法の中では最も民主的、急進的な内容とされる『東洋大日本国国憲按』を起草。著作に『民権自由論』『言論自由論』などがある。家紋は、丸に剣三つ目紋。画像は青山霊園にて撮影。
有松英義。1863年7月25日 - 1927年10月24日、官僚。
備前国御野郡に岡山藩士有松正義の子として生まれる。内務省書記官兼法制局参事官として治安警察法・行政執行法等の起草に関わる。枢密院書記官長、拓殖局長官、枢密顧問官を歴任。家紋は石持ち地抜き隅立て四つ目結紋。青山霊園の墓所にて撮影。
金杉英五郎。1865年8月23日 - 1942年1月26日、医学者。
千葉県出身。東京病院で勤務する傍らで、東京慈恵医院医学校にて、講義を行い東京慈恵会医科大学の初代学長となる。耳鼻咽喉科という専門科を創設し日本耳鼻咽喉科学会の創設者となる。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は青山霊園にて撮影。
丘浅次郎。1868年12月31日 - 1944年5月2日、動物学者。
遠江国掛塚生まれ。進化論の啓蒙活動に貢献し、旧制中学の生物学教科書を多く執筆した。帝国学士院会員、日本動物学会会長。また、日本人初のエスペランティストでもある。家紋は隅立て四つ目結紋。画像は谷中霊園にて撮影。
政尾藤吉。1871年12月8日 - 1921年8月11日、外交官、政治家。
愛媛県大洲出身。藩の御用商人の長男として生まれる。外務省からシャムに派遣され、のちに同国の法律顧問として刑法・民法・商法を起草する。タイ国王より信頼を受け白象第三勲章、王冠大綬章を受ける。家紋は丸に隅立て四つ目紋。青山霊園にて撮影。
佐佐木信綱。1872年7月8日 - 1963年12月2日、歌人、国文学者。
三重県鈴鹿郡石薬師村出身。歌人佐々木弘綱の長男。孫の佐佐木幸綱は俵万智の師匠。与謝野鉄幹らと新詩会をおこし新体詩集『この花』を刊行。岩波文庫『新訓・万葉集』、『新古今和歌集』等の編者。画像は谷中霊園にて撮影。
平福百穂。1877年12月28日 - 1933年10月30日、日本画家。
秋田県角館出身。本名は貞蔵。読みは、ひらふくひゃくすい。日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指し自然主義と古典が融合した作品を生み出す。家紋は陰亀甲に隅立て陰四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。
田部重治。1884年8月4日 - 1972年9月22日、英文学者・登山家。
富山県富山市出身。旧姓は南日。19世紀の英文学を研究。登山家として日本アルプス、秩父山地を歩き、『日本アルプスと秩父巡礼』を刊行。後に『山と渓谷』として出版される。隅立て四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。
佐々紅華。1886年7月15日 - 1961年1月18日、作曲家。
東京都台東区生まれ。本名は佐々一郎。読みは、さっさ こうか。妻は元・浅草オペラの歌手・高井ルビー。浅草オペラの草分的存在で脚本も担当。代表作は『君恋し』『神田小唄』など。家紋は七宝に隅立て四つ目結紋。画像は谷中・妙雲寺にて撮影。
佐々木喜善。1886年10月5日 - 1933年9月29日、伝承研究家。
土淵村(現在の岩手県遠野市土淵)の裕福な農家に育つ。柳田國男に知己を得、喜善の語った遠野の話を基に柳田が『遠野物語』を著す。代表作は『奥州のザシキワラシの話』『オシラ神に就いての小報告』等。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。
東龍太郎。1893年1月16日 - 1983年5月26日、官僚、都知事。
大阪府出身。結核予防会理事、厚生省医務局長等を歴任。自由民主党の推薦で東京都知事を2期務める。IOC委員を務めるなど国際スポーツ界に通じ東京オリンピックの誘致に深く関わる。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は多磨霊園にて撮影。
獅子文六。1893年7月1日 - 1969年12月13日、小説家、演出家。
横浜弁天通の岩田商会に生まれる。本名は岩田豊雄。岸田國士、久保田万太郎と共に劇団文学座を創立。日本芸術院賞受賞、芸術院会員、文化勲章受章。代表作は『てんやわんや』『自由学校』『ちんちん電車』など。画像は谷中霊園にて撮影。
片岡鉄兵。1894年2月2日 - 1944年12月25日、小説家。
岡山県苫田郡鏡野町に生まれる。新感覚派の一員として文学活動に入るが後に左傾化し、プロレタリア作家として活動。主著は『左傾について』『朱と緑』。郷里の鏡野町には胸像も建てられている。家紋は重ね四つ目車。画像は多磨霊園にて撮影。
佐々木味津三。1896年3月18日 - 1934年2月6日、小説家。
愛知県北設楽郡下津具村出身。本名・光三。1919年『大観』に載せた「馬を殴り殺した少年」で菊池寛に見出される。代表作は『右門捕物帖』『旗本退屈男』など。旗本退屈男は映画やテレビドラマ化され高い人気を得た。画像は小平霊園にて撮影。
宮沢賢治。1896年8月27日- 1933年9月21日、詩人・童話作家。
岩手県稗貫郡里川口村に質・古着商の長男として出生。独特の魅力にあふれた作品群によって没後世評が急速に高まり国民的作家となる。代表作は『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『雨ニモマケズ』等。家紋の隅立て四つ目結紋は記念館にて確認。
斎藤達雄。1902年6月10日 - 1968年3月2日、俳優。
東京市深川区佐賀町に米の仲買人の息子として出生。小津安二郎監督の2作目『若人の夢』の主役に抜擢されて以来、小津映画に次々と主演。代表出演作は『そよかぜ』『獄門島』等。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は谷中・長運寺にて撮影。
櫻内義雄。1912年5月8日 - 2003年7月5日、政治家。
島根県能義郡広瀬町出身。櫻内家は江戸時代、代々広瀬藩士として松平家に仕えた。外務大臣、農林大臣、建設大臣、第67代衆議院議長等を歴任。世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第9代会長。画像は池上本門寺にて撮影。
荒正人。1913年1月1日 - 1979年6月9日、文芸評論家。
福島県生まれ。マルキシズムの学生運動に熱中。戦後、埴谷雄高・平野謙・本多秋五らと『近代文学』を創刊。漱石の生涯を詳細に調べた『漱石研究年表』で毎日芸術賞を受賞。第14回までの江戸川乱歩賞の選考委員をつとめた。画像は小平霊園にて撮影。
名寄岩静男。1914年9月27日 - 1971年1月26日、大相撲力士。
北海道名寄市出身。本名、岩壁静雄。最高位は大関。立浪部屋の双葉山、羽黒山と「立浪三羽烏」と称された。大関から二度の陥落を経験したが、関脇まで返り咲き40歳になるまで土俵に上がり続けた。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。丸に隅立四つ目結紋。
岡晴夫。1916年1月12日 - 1970年5月19日、流行歌手。
千葉県木更津市出身。本名は佐々木辰夫。「国境の春」でデビュー。「上海の花売娘」「港シャンソン」のヒットを飛ばす。代表曲は「東京の花売娘」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」。家紋は丸に隅立て四目結紋。画像は深川・本立院墓所。
横山新次郎。昭和期、五代目山崎家一家・総長。
稲川会総裁(初代会長)稲川聖城の兄貴分。横綱の大鵬と力道山を招いて素人相撲大会を開催したという。松方弘樹主演「修羅の群れ」(東映1984年)では鶴田浩二が演じている。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。画像は鎌倉霊園にて撮影。
柏戸秀剛。1918年5月3日-1982年12月11日、力士、親方。
岩手県九戸郡種市町出身。本名佐々木秀剛。現役時代は前頭止まりだったが、年寄(10代目伊勢ノ海)として日本相撲協会の発展に尽力。幾多の海外興行を実現し角界のキッシンジャーと呼ばれた。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。
福井謙一。1918年10月4日 - 1998年1月9日、化学者。
奈良県奈良市出身。京都大学名誉教授。日本学士院会員。フロンティア軌道理論でノーベル化学賞を受賞。生涯、基礎学問重視、独創的研究の必要性、科学と人間の平和的共存を訴えた。家紋は丸に隅立て四つ目結紋。
日沼倫太郎。1925年7月3日 - 1968年7月14日、文芸評論家。
栃木県出身。本名は生沼正三。独自の生活実感にもとづく批評を展開。著作に『横光利一論』『文学の転換』『病める時代』がある。「理解は誤解だ」という有名な言葉を残している。家紋は丸に平四つ目結紋。画像は八柱霊園にて撮影。
若乃花幹士(初代)。1928年3月16日 - 2010年9月1日、力士。
青森県弘前市青女子(あおなご)出身。土俵の鬼と呼ばれた。第45代横綱となり栃錦とともに栃若時代を築く。引退後、双子山部屋を創設し弟である大関・初代貴ノ花、横綱・2代若乃花、横綱・隆の里(現:鳴戸)等を育て日本相撲協会の理事長も務めた。
竹腰美代子。1930年10月5日 - 2001年3月1日、美容研究家。
神奈川県逗子市出身。夫はクレイジーキャッツの安田伸。日本のテレビ体操の草分け。1954年から日本放送協会の「美容体操」の専属講師に就任。1958年から香淳皇后に美容体操を教えた。著書「いつもお陽さま家族」。家紋は平七つ割四目結紋。
亀井静香。1936年11月1日 - 、警察官僚、政治家。
広島県庄原市で農業・亀井素一の次男として生まれる。自民党出身ながら、社会民主主義傾向が強くチェ・ゲバラの思想に心酔。運輸大臣、建設大臣、自由民主党政務調査会長、国民新党代表、郵政改革担当大臣などを歴任。家紋は、四目結紋。
さだまさし。1952年4月10日 - …
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見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ 藤原定家
日本の美意識を代表する紅葉は平安の昔から公家の好みだった。
藤原北家の閑院流の今出川家の代表紋である。
しかし、武士の世になるとこの紋は広まらなかった。
やはり、散りゆく紅葉は嫌われたに違いない。
しかし、それでも敢えて紅葉を選んだ粋な人々がいたことは記憶に留めておきたい。
だから、全国的にはどの地域でも30位に入っていない。
使用している有名人は以下。
福沢諭吉。1835年1月10日- 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。
写真は息子の福沢百助の墓で撮影。
市川門之助。1862年 - 1914年8月20日、歌舞伎役者。
出雲国(現在の島根県)松江の出身。本名・荒川清太郎。
『大森彦七』で師の彦七に千早姫をつとめ生涯最大の当り役となる。
「酒屋」のお園、「鏡山」の尾上などの丸本物を得意とした。
家紋は、四つ紅葉。画像は雑司が谷霊園の墓所にて撮影。
いわゆる楓(紅葉)のデザインではないが、尾崎紅葉の弟子の泉鏡花は、師匠の恩義から、敢えて源氏香紋の「紅葉の賀」を家紋として使用した。ちなみに、尾崎紅葉自身は違い鷹の羽紋である。
泉鏡花。1873年11月4日 - 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。
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団扇紋にはいくつか種類がある。
1)普通の団扇(うちわ)紋
2)大相撲の行司が持つのと同じ、軍配扇紋
3)天狗が持つという羽団扇紋
この中で数が多いのが軍配扇紋。
平安時代の武士勃興時代に関東で幅を利かせた児玉党武士団が使用しはじめたといわれる。
多くの家紋の中でも歴史が古い部類に入る。
軍配の采配一つによって、自らの武士団の運命が左右される重要な道具だ。
と同時に、古くから悪鬼を払い、霊威を呼び寄せるという意味合いで、神事などにも用いられてきたのである。
羽団扇紋(左画像)は、駿河の浅間神社の神紋として知られている。
浅間神社は木花咲耶姫命を奉っているが、富士山信仰と深い結びつきがある。
団扇紋を使用はそれほど多くない。全国分布では、福井県で27位、埼玉県で28位。
有名人は以下。
米津常春。1524年 - 1612年、武将。
三河国碧海郡米津出身。幼名は藤蔵。米津氏は松平氏の譜代の家臣。徳川十六神将に数え桶狭間の戦いの際にも三河衆の先鋒として従軍。子孫は武蔵久喜藩、出羽長瀞藩主として明治まで存続。家紋は米津羽団扇紋。画像は東久留米・米津寺にて撮影。
奥平信昌。1555年 - 1615年4月11日、武将。
三河国の有力国人・奥平貞能の長男。徳川家康の長女・亀姫を正室としたので、家康の娘婿として重用される。長篠の合戦時に、長篠城で篭城し武田軍を苦しめる武功を上げ、信長より信昌という名前を賜る。奥平家は、豊前国中津藩幕末をむかえる。
児玉源太郎。1852年4月14日 - 1906年7月23日、武士、陸軍軍人。
周防国都濃郡徳山村出身。徳山藩の中級武士(百石)兒玉半九郎の長男。日露戦争全体の戦略の立案を担当。最終階級は陸軍大将。「太陽にほえろ!」等のテレビ映画監督で有名な児玉進は曾孫。家紋は唐団扇笹紋。画像は多磨霊園で撮影。
加藤高明。1860年1月25日 - 1926年1月28日、外交官、政治家。
尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として出生。正二位 大勲位 伯爵。第24代内閣総理大臣となり、首相在任中に治安維持法、普通選挙法を成立させ日ソ基本条約を締結。ソ連と国交を樹立させる。家紋は六つ唐団扇紋。画像は青山霊園にて撮影。
万年東一。1908年9月10日 - 1985年3月28日、活動家、総会屋。
山形県飽海郡松嶺町で生まれ。終戦後、愚連隊・万年一派の頭領となる。その後、松永高司が全日本女子プロレスを設立すると、初代会長に就任。右翼団体「大日本一誠会」を結成。総会屋としても活動する。家紋は、丸に羽団扇紋。
久米宏。1944年7月14日 - 、アナウンサー・タレント・司会者。
埼玉県浦和市出身。戦時中は埼玉県児玉郡(武蔵七党・児玉党の本貫)に疎開。嫡流・久米氏は唐軍扇紋。祖・時国の時に佐渡流罪の日蓮を久米川まで見送った事から久米氏を称するようになった。代表司会番組『ザ・ベストテン』『報道ステーション』等。
鞍馬天狗。幕末期、勤王志士。
大佛次郎の大正・昭和期における時代小説の主人公。幕末期を舞台にし剣は一刀流の凄腕。時には短筒も使う。その素性は謎が多く天狗党の生き残りではないかと言われた。何度も映画化され特に嵐寛寿郎が主役の映画作品は有名。画像は鞍馬寺の寺紋。
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