Articles Archive for 2 月 2009
歴史・家紋 »
最近は、家紋の他に狛犬にも興味が出てきた。
今まで何気なく、撮影した狛犬達。
やはりそれぞれ、個性的な体や顔をしている。
下谷神社の狛犬は筋肉質の鳩胸で、プロレスラーのようだ。
渋谷金王神社の狛犬は地味だが迫力がある。ビルの谷間の金王神社の主に相応しい。
小野照崎神社は上野にある鎮守神社であるが、狛犬が実にたくさんある。
この2つ以外にも、境内の三峰神社のところには狼、稲荷神社のところには狐。
社務所の屋根の上にもあって、ここの宮司さんは本当に狛犬好きなんだなぁと思わせる。
画像右の狛犬は、昭和に入ってからの作品であるが、どことなく沖縄のシーサーに似ているような気がする。
また、地元・田無神社の狛犬は、地べたに這いつくばった姿がかわいい。
この神社は龍神を奉ってあるので、おそらく龍を模しているのではないかと個人的には思っている。
吉祥寺の弁財天にある狛犬は明和の狛犬。
この中で一番古い。美術的にはやっぱり劣るが、そこはかとなく愛嬌がある。
今後、さらに写真を収集してみたいと思っている。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技 »
次に横綱になるのは誰だろうか。
あくまで主観ではあるが、現時点では、把瑠都、日馬富士、琴欧洲の順で可能性が高いと思う。
まずは、把瑠都。
その体力は圧倒的だ。相手にいい形になられても、強引に肩越しに上手を取るとって体勢を巻き返すというオリジナルの武器を持っているのが強い。
先場所、破れはしたが白鵬相手に「上手を取ればなんとかなる」と豪語したその力と自信は徐々に本物になりつつある。
先日、ロシア人女性との婚約を発表した。プライベートでも乗っている証拠だ。
現時点ではまだ関脇ではあるが、来場所あたり優勝も狙えるのではないかと思っている。
次は、日馬富士。
先場所は初日からつまづき、一時は勝ち越しも危ぶまれたが、結局は星を揃えて勝ち越し。
地力を見せ付けた。とにかく努力家、研究家で、常に観客の視線を気にするというプロ意識も人一倍持っている。
そして、上記二人にかなり差をつけられているがやはり素質では琴欧洲ははずせない。
ここという一番での勝負弱さが気になるが、体を活かした大きな相撲に自信が加われば、横綱の地位も向こうからやってくるだろう。それだけの素質を持っている。
それにしても、残念なのは、次の横綱候補に日本人の名前を挙げづらいことだ。
何故、日本人横綱は生れなくなってしまったのだろうか。
その昔、相撲では日本人は外国人(この場合、非モンゴロイド)に負けないという論理があった。高見山が現役の頃だ。
それは、相撲という競技は足腰の強さが何よりも大事、だから日常生活で、畳で立ったり座ったり、農作業したりする民族が、イス+牧畜文化に負けるはずはないという説だ。
また、食べ物も米、野菜中心の日本人はそれを消化するために、西洋人に比べて腸の長さが長い。だから、その分、胴が長く重心が低く相撲に有利だという説もあった。
しかし、そんな事が言われたのは、もう30年も昔の話。
あれからいろんな状況が変ってしまった。
もし、過去がそうだったとしても現在の日本人はかつての生活様式をかなり西洋風に変えてしまったのである。
日本人の生活様式の優位性という理論は既に崩れてしまったと言ってもいいと思う。
と同時に、力士の大型化という流れも日本人の不利に働いているようだ。
最近の決まり手で、突き落とし、叩きこみなどの「前落ち」系の技が増えているのをご存知だろうか。
また、それに反比例してうっちゃりや、つり出しなどが減っているという。(「「うっちゃり」はなぜ消えたのか―データが語る大相撲」 参照の事)
実はこの「前落ち」系の技は白人が得意とする技である。
かれらはその懐の深さを利用してまわしを取りにいこうとするところをタイミングよく、叩く。
日本人の力士の多くは、一度バランスを崩してしまうとなかなか立ちなおせないケースが多い。その体があまりにも大きくなりすぎてしまっているからだ。
残念なことではあるが、骨格というのは民族によってある程度決まってしまっているようである。
把瑠都や琴欧洲のような体躯は日本人ではまずあり得ない。
彼等に対抗しようと、体重を増やそうとすると、その分、どうしても動きが悪くなってしまっているようなのである。
話は変るが、先ほど、うっちゃりや、つり出しが減っているという事を述べたが、体重を増やすためには当然、腹を出さなければならない。そのがゆえに、つりやうっちゃりという、どちらかと言えばソップ型(やせ型)力士の得意技が出なくなってしまっているのだ。
勿論、山本山のようにケタ外れの大きさになれば話は別だ。
彼は、自分の腹に相手を乗せて、うまくうっちゃる技術を持っている。
先場所も何番かそういった逆転の取り組みがあったように記憶しいる。
さて、話をもどそう。
力士の体格のトレンドが日本人にとって不利な方向に働いているという事と同時に、もう一つ、日本人がなかなか横綱になれない理由がある。
それは、最近、中卒、あるいは高校卒業前に大相撲に入門する力士が激減しているということがある。
過去のデータを見ると高卒以上で横綱になった日本人は琴桜と輪島と旭富士、そして曙しかいない。
相撲にとって出世するには圧倒的に中卒(高校中退)が有利というデータが出ているのだ。
しかし、現在、多くの日本人力士は大卒、高卒の学歴を持って(しまって)いるのである。
現在、幕内日本人力士で中卒なのは、千代大海、魁皇、稀勢の里、北勝力、若の里、千代白鵬くらいしかいない。
そして、そのうち、千代大海と魁皇、若の里、北勝力はすでに30歳を超えてしまっている。残念ながらこれから横綱を狙うというのはかなり厳しい状況である。
そうなると現在25歳の千代白鵬、23歳の稀勢の里のその可能性が残されている。
そして、今までの実績、ポジション、体、素質、気力なども考慮に入れるとやはり稀勢の里が日本人横綱に一番近いと言えるのではないかと思う。
おそらく、これは衆目の一致するところである。
しかし、一方で、稀勢の里のライバルとなりそうなモンゴル勢を見てみると、白鵬、朝青龍(高校中退)、日馬富士は勿論、期待の星、鶴竜、光龍、さらに十両の保志光などはみな、中卒あるいは高校中退で大相撲に入っているのである。
おそらく、格闘技で大成するには一日でも早くその世界に身をまかせるというのが最善の方法なのであろう。
勿論、高校相撲、大学相撲も、スポーツとしての相撲をするという意味では相撲部屋に入門とはどこか決定的な違いがあるような気がする。
あれだけ、大卒の大物ルーキーが大相撲の門を叩いて、その中で横綱になれたのがあの輪島だけという事実がそれを物語っているではないか。
ハングリー精神とでもいおうか、「ここを出たらもう行くところがない」的な追い詰められた精神が必要なのが大相撲なのかもしれない。
特にモンゴル勢を見ていると、彼等の勝負に対する執念には頭が下るときがしばしばある。そんな時に、残念ではあるが、彼等は日本人よりも精神的に強いのではないかと思わざるを得ないこともあるのである。
今後、日本では少子化、高学歴化がどんどん進む気配がある。そうなるとますます中卒から大相撲入門という力士は減ってしまうのであろうか。
しかし、昨今の不況が長引けば逆に、大相撲に夢を抱くような若者が増えてくるかもしれない(という期待もある)。
とりあえず、関取になれれば、年収は一千万円は超える。そして、その後も精進すれば、親方、あるいは協会関係者として残る道も開ける。
現代においては、中学時代にそういった事を決意するというのは大変だとは思うが、そういった大志を抱くような若者がどんどん大相撲に入ってきてもらえればと、勝手ではあるが、一ファンとして願うばかりである。
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まさむね
書評, 漫画・アニメ »
神経経済学という学問がある。
人間というものが時として合理的ではない行動をとってしまうという事を説明しようとする脳科学だ。
脳科学者の茂木健一郎氏の「欲望する脳」では以下のように記している。
ネットショッピングにおける「購入」のクリックが意識的に開始される一秒前からその準備活動が無意識のうちに始まっているという事実は、デジタル消費社会における人々の行動倫理を考える上で、大切な教訓を与えてくれるはずだ。
おそらく、人間は思ったほどは意志的には生きられない生き物なのだ。
将来的には、自分では「自由意志」で行っていると信じている多くの行動が、実は脳内分泌物で説明できるということになるかもしれない。
人々がサイトからサイトへと移っていく際の選択のメカニズムには、必然的に不確実性が伴う。あるサイトの内容が興味深いものかどうか、クリックしてみるまではわからない。
もし、神経経済学的手法によって、人々のクリックの傾向がどのような要素に影響を受けて決まるのか予想できれば、直ちにそれはお金へと換算されることになる。
しかし、神経経済学が実際にビジネスに応用されたとして、それがトータルとして人類の役に経つとはどうしても思えない。
そこが難しいところだ。
茂木先生は、最終的には人間の行動や感情をトータルで説明しようとする科学理論を信じるという立場に立っているが、一方で、合理性から漏れてしまう人間の心情にも最大限の敬意を抱いているようにも思える。
その揺らぎがこの本を魅力的にしているのだ。
さて、先日、アカデミー賞の短編アニメーション賞を受賞した加藤久仁生氏の「つみきのいえ」は、同時に外国語映画賞を受賞した「おくりびと」と同様に、そういった人間の非合理的さを描いた素晴らしい作品であった。
水没していく土地で、どんどん天に向かってレンガを積み、上の階に移住していく一人の老人。
パイプを水の中に落としてしまい、それを拾おうと、下の階に潜水していき、そのたびに過去を思い出していくのである。
傍から冷静に見れば、水没を逃れて別の土地に移ればいいと思うのだが、それでも思い出がつまった土地から離れられない、いや離れようともしない、そんな老人を限りなく愛おしく描いている。
人にとって一番の宝物は、やはり思い出の豊かさである。
まさむね
書評 »
「新聞・TVが消える日」というタイトルにつられて思わず買ってしまったこの本。
何故、多くの人が新聞、テレビから離れてしまったのか。
報道が各社画一的なこと、論評、社説に全く新鮮味が無いこと、テレビのバラエティやドラマがマンネリに陥っていること、自社が出資している映画の過剰なパブリシティ行為などに触れるのかと思ったが、そういった内容的な指摘は全くなかった。
また、マスメディアが抱え、しかし、それゆえに報道すらされない問題、例えば、新聞社とテレビ局とのクロスオーナーショップの問題、新聞の再販問題、新聞販売店の問題、記者クラブ制度の弊害、テレビ局の電波特権の問題、下請け会社に対する格安発注の問題、行政との癒着などに切り込むのかと思いきや、それらの問題もほとんどスルー。
著者が元毎日新聞の記者ということで、昨年、ネット上で話題になった毎日変態新聞問題に対するコメントも、期待したが...僕が間違っていたようだ。
さらに、ネットでの情報に関して以下のように言い切っている。
ウェブサイトには、真偽あやふやな情報や人権侵害情報、無責任で為にする抽象などが氾濫している。「ネットの情報は、信頼できない」という不信感が根強い。
これは具体的にはどのサイトのことをいっているのであろうか。少なくともネットユーザーは、より高度なリテラシィを求められるのは確かかもしれない。しかし、現在よりネットユーザーのなかで不信に思われているのはむしろ、新聞やテレビなどのほうだと思う。編集権とか、時間の都合とかの理由で勝手に編集されていることへのマスメディアへの不信はネットユーザーであれば誰もが共有しているのではないか。
僕の個人的希望だが、例えば、首相のぶら下がり会見などは、編集せずに出来れば生で中継するようなメディアが是非登場してもらいたいものである。また、国民が本当に知りたがっている質問を直接伝えるようなシステムは出来ないものだろうか。
◆
さて、この本の内容のメインと言えば、ネットにコンテンツを配信する時の困難(著作権処理の問題)、ニュースをポータルサイトへ提供することのジレンマ、放送と通信の融合の難しさというような「あたり前」の業界内の話。
さらに、音楽のネット配信に関しても、CD販売が減っているが、配信やライブは伸びているため、音楽業界としてはトントン(「CD不況」だが「音楽不況」ではない)とか、ゲーム業界もこれからは世界に通用するオンラインゲームをつくるべきなど、門外漢が本を書いてまで主張するようなことか?と疑問を抱かざるを得ないような内容だった。
おそらく、読者として著者(1944年生まれ)と同世代の諸先輩方を想定しているのだろう。
たしかに、わかりやすくて正確な文章はさすがである。ただ、僕はターゲットではなかったようだ。
今後、本を購入するするときは、せめて目次を見るなどして、気をつけたいものである。
まさむね
映画 »
滝田洋二郎監督、本木雅弘主演の『おくりびと』がアカデミー賞の外国語映画賞を受賞した。
この賞がどれほどの価値があるのかはよくわからないが、ハリウッドで日本の映画が評価されたという事は単純に嬉しい。
今まで、ベネチアやカンヌ等、芸術的審美眼で名高いヨーロッパでは認められていたものの、アメリカでの評価が今ひとつだっただけに、今後、日本映画がアメリカというビッグマーケットで受け入れられる第一歩となって欲しいと思う。
先ほど、この『おくりびと』の企画は元々、本木雅弘が納棺師に興味を持ったところから始まったというニュースドキュメンタリをやっていたが、シブガキ隊で一世を風靡した元アイドルタレントが、これほど深く人生についての洞察を持っていたとは。本木から『納棺夫日記』の著者・青木新門への手紙も映されていたが、その字の美しさは目を見張るものがあった。
あらゆる意味で、人間としてのクォリティの高い人なんだなぁと改めて驚かされた。
さてこの作品、受賞したのが滝田洋二郎監督というところに一つの感慨がある。
ご存知の通り、滝田監督はもともとピンク映画監督である。
おそらく、その時期、いつかは一般作の監督として大成する事を夢見ていたことだろう。
その夢が、オスカー受賞という最高の形で結実したのである。
素晴らしい事だ。
それにしても、滝田監督(1955年生まれ)と同世代の有名監督達、金子修介、黒沢清、周防正行といった面々はみな、80年代の成人映画出身者(たたき上げ)であることに改めて驚かされる。
金子修介 (1955年06月生まれ):OL百合族19歳(1984年)、 いたずらロリータ。うしろからバージン(1986年)
滝田洋二郎(1955年07月生まれ):痴漢電車 ちんちん電車(1984年)、痴漢電車 車内で一発(1985年)
黒沢清 (1955年07月生まれ):白い肌に狂う牙(1977年) 、神田川淫乱戦争 Kandagawa Wars(1983年)
周防正行 (1956年10月生まれ):変態家族 兄貴の嫁さん(1984年)
彼等は、ここで映画監督としての修行をするとともに、実験的に自分達の個性を磨いていったのだ。
例えば、周防監督の「変態家族 兄貴の嫁さん」は、小津安二郎的なアングルを試していたのである。
その意味で、成人映画自体が衰退してしまった昨今、次世代の監督達にとっての出身畑はどこがメインになるのであろうか。
宮藤官九郎を出した小劇場か、岩井俊二を出したPVなのか、それとも辻仁成、北野武のように全く別の畑からか...
あるいは「HERO」の鈴木雅之、「恋空」の今井夏木のようなテレビディレクター、すなわちテレビ局社員の起用が増えてくるのであろうか。
だとすれば、テレビ局に入社することが、映画監督になるための登竜門になってしまう。
人材育成という観点からすれば、それは将来的に、映画業界の首を絞めかねないのではないだろうか。
まさむね




