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Articles Archive for 3 月 2009

C 型肝炎日記 »

[31 3 月 2009 | No Comment | | ]

一時の顔面湿疹はだいぶ治まったが、まだまだ顔がかゆい。
12月にインターフェロンを中断してネオファーゲンに替えたが、相変わらず痒いのはつらい。
結局、自分にはインターフェロンは効かなかったと判断せざるを得ないだろう。
ドクターの話だと、やっぱり2割~3割の患者には効かないらしい。
ただ、効かないといっても、ウィルス根絶までは行かなかったということで、数値的にはかなりよくはなってきているようだ。
それゆえ、痒み以外、体調はだいぶもどってきたので、来月からサラリーマン生活復帰するつもり。
週に2回のネオファーゲン注射で肝機能を維持し、インターフェロンの次の治療方法が出現するのを待つことにした。
確かにネオファーゲンは悪くない。
以下の4点でいい。
1)インターフェロン+レベトール(飲み薬)は1回で1万円もかかるが、ネオファーゲンは300円程度。
2)注射もネオファーゲンは量的にはかなり多いが血液注射なのであまり痛くない。
3)注射の副作用もなさそう。
4)ドクターとの面診も毎回は必要が無いので、順番待ちの時間も短くて済む。
治らない=現状維持するだけ、週2回(あるいは3回)注射しなければならないという事以外はいいことが多いようだ。
とりあえず、このままの治療をつづけていこうと思う。
まさむね

日常雑事 雑感, 書評 »

[30 3 月 2009 | 2 Comments | | ]

普段は、対談本というのはあまり読まないのだが、BOOKOFFで思わず買ってしまった。
茂木健一郎先生と波頭亮先生の対談「日本人の精神と資本主義の倫理」という本だ。
基本的には、日本にハイカルチャーが無いことを二人で嘆いている内容だである。
お二人ともイギリスなど、海外経験が豊富なため、日本の大衆情報化社会を嫌悪しておられるようだ。
特に茂木先生いわく「正直に言って、僕は日本の地上波テレビを途轍もなく憎んでいます。」だって。それはないだろう。あれだけテレビのバラエティに出まくっていながら(笑)。
でも、僕もテレビばっかり観ているが、時として茂木先生と同じような感想を持つこともある。
おそらく、多くの人が、しょうがなくテレビを見ているのが現代だ。
ただ、テレビは社会を映す鏡というのも一面の真実。
だから、テレビを見ていないとわからないことも沢山あると思う。
例えば、最近の麻生内閣の支持率アップの理由とか、テレビを見まくっていれば簡単に予想できると思う。
話をもどそう。
日本のハイカルチャーが無いという話だった。
別の言い方をすれば、「売れてなんぼのもの」に拮抗する価値観が無いのが問題だということ、その価値に対抗する軸が無いことが問題だということである。
確かに、テレビを見ているとそんな気がしてくる。
特にバラエティ番組を見ていると、各局一斉にある時から急に使われなくなるタレントがいたりする。
例えば、エドはるみとか、髭男爵とか、ここ数ヶ月あまり見なくなった。かわりに、最近とみに出演しまくっているのがオードリーだ。
しかし、一人ひとりの個人を、よく見ているとはたして、そんなに画一的なのだろうか。日本人は。
僕はそうでもないように思う。
みんないろんな事を考えて、いろんなものが好きだったり嫌いだったりなんじゃないかと思う。
少なくとも僕のまわりの人々はそうだ。
でも漠然と、大衆とか言っちゃうと、没個性に見えちゃうんだな。これが不思議に。
またテレビのバラエティにしたってそうだ。かつて村松友視さんが、プロレスを語ったときに、「ジャンルに貴賎無し、ジャンルの中に一流と五流がある」と言っていたが、まさしくそう。バラエティ全般がくだらないのではなくて、バラエティの中に面白いのとくだらないのがあるのだ。
これは僕の個人的感想だけど、バラエティの中でもロンハーは一流だけど、行列は五流だ...と思う。
さて、この本の最後の方で、茂木先生が面白い事を言っている。
天皇陵に対して、「つまり放っておかれていることで、それ自体が価値を帯びてくる時代だと思うわけです。東京なんてひどいものでしょう。触れれば触れるほど汚くなっていく。しかし、放っておかれているものは、近代文明の影響を受けないから、そこには原点が残っているように思うわけです。」とのこと。
そういう文脈でいえば、僕は鄙びたお寺の墓場が好きだ。
そこに入るとまるで異空間が広がっている。
さらに、そこに有名人の墓があったりすると、急に想像が膨らむ。その人に本当に会えたような気すらするのだ。
先日、恵比寿に行った帰りに、田町の蓮乗寺という日蓮宗のお寺に行った。
勝新太郎の墓を見に行くためだ。
ここの墓場はよかった。
都会の中でここだけ取り残された感が素晴らしい。
特に、狭いところに墓が密集しているセコさがいい。
一般の人の墓とスーパースターの墓がまるで分け隔てなく乱雑に存在しているろことがいい。
ところで、このお寺は正式名称が光秀山蓮乗寺という名前だ。ん?光秀?と思ったら、寺の寺紋も剣桔梗だった。
これには深いわけがありそうだ。
こんなちょっとした謎を投げかけてくるところがいい。
そういえば、振袖火事の本妙寺も日蓮宗だし、光秀が信長を殺した本能寺も日蓮宗だ...などなど。
ディズニーランドのような完璧な人工的な謎も確かに面白いだろう。
でも、こういった自分で見つける謎も(欠点は答えが無いことが多いことだが)時には面白い。
あと、最後に、幻冬舎新書のタイトルのつけ方は上手いな。ついつい買いたくなってしまう。さすがその道のプロだ。
まさむね

相撲/プロレス/格闘技 »

[29 3 月 2009 | No Comment | | ]

白鵬が10回目の優勝を果たした。
千秋楽での朝青龍との一番は、その強さをいかんなく発揮した一番である。
残念ながら朝青龍はほとんど何も出来ず、白鵬が得意の右四つの体勢から上手を取ると、朝青龍は自ら諦めてしまったかのような印象すら受けた。
いわゆる地力の違いを見せ付けるような内容に、朝青龍と白鵬との、現時点での差が残酷にも現れてしまったのではないか。
白鵬は、不知火型の横綱としては、初の二ケタ台の幕の内優勝回数ということで、それまで不知火型横綱で一番の優勝回数を誇った伝説の大横綱・太刀山の記録を抜いたことになる。
史上3位の最年少10回優勝達成記録、24歳0ヶ月。これは、北の湖や千代の富士よりも早く、順調に行けば、優勝回数20回、30回も夢ではない。素晴らしい記録の達成に、はやくも大横綱誕生を予感させる。
さて、その白鵬の力士としてのタイプであるが、非常に静かな印象がある。
激しいツッパリや、派手な投げ技も持っているのだが、基本的には相撲の基礎に忠実に、前に出ながら自分が有利な体勢を徐々につくり、最後、相手が何も出来ずに、いつの間にか土俵の外に出ている。
そんな相撲が目立つのだ。
千秋楽の朝青龍との一番もそういった内容であった。
先ほど、不知火型の大横綱として名前を出した太刀山が現役時代に、「にらみ出し」という珍妙な決まり手で勝ったという伝説がある。これは、仕切っているうちに、相手の力士がじりじりと下っていき、勝手に土俵を割ってしまったというウソのような本当の話だ。
ようするに、、その内面から出てくる気迫によって相手を何もしないうちに負かしたということであろう。
白鵬を見ていると、そんな伝説を思い出す。
相手がいつの間にか負けている、何もしないうちに気付いたら土俵を割っている、そんな理想的な「横綱相撲」が出来る風格を白鵬は徐々に身に付けているのではないか。
末恐ろしいと、彼のような力士に使う言葉である。
      ★
その他、今場所、よかった力士を上げてみよう。
まずは、豪栄道。まだ、強いときと、あっさりと負けてしまう時との相撲内容の差は大きいが、ご当地、大阪での人気は抜群だ。
これから、大阪場所が来るたびに、豪栄道の季節が来る予感がする。(左写真は把瑠都をうっちゃらんとする豪栄道)
そういえば、大阪出身の力士はあまり記憶にない。
僕が印象に残っているのは前の山と卓越山くらいか。
前の山はその鶯色のまわしが印象的なハンサムな大関。卓越山は、むしろ引退後、全日本プロレスに加入した高木功としての印象の方が強い大きな力士だった。
ただ、自分としては、同じ大阪出身で1986年生まれの若い格闘家という意味で、柔道の石井慧と印象がダブる。二人とも聞かん坊的な面構えがいい。やっぱり格闘家は体全体から、いい意味での「わがまま」さがにじみ出てるほうが魅力的だ。
また、自分の贔屓で言うならば、把瑠都と山本山が勝ち越したのがとりあえず嬉しかった。
両方とも、尾上部屋の大型力士だ。二人とも大型力士にありがちな波の多さが気になるが、逆にいえばその「おおらかさ」が魅力でもある。
特に把瑠都は、一時は4勝7敗まで追い詰められながらも、結局は千秋楽で星をそろえた。以外に精神的に強いのかも。
千秋楽の相撲も、愛子様のお気に入り琴光喜の下手投げを上手投げで投げ返す強引な取り口で勝利をもぎ取った。把瑠都ならではの力相撲である。
今場所は中盤、いつもの強引な「肩越しの上手つかみ」も影をひそめ、ヤバイ印象だったが、後半は自分を取り戻したようだ。
やっぱり、把瑠都はああじゃなくっちゃ。
最近、あまり見かけなくなった「つり出し」を復活できるのは、彼しかいないと思う。
また、山本山も今場所は楽しませてくれた。
彼も把瑠都と同じように中盤に、疲れたのか、相手に研究されたのか、苦しい土俵が続く日々もあったが、負けても館内を明るくしてくれる雰囲気がいい。
天性のエンターテイナーなのだろう。
舞の海>高見盛>山本山という日大個性派の系譜は脈々と生きているといったところか。
      ★
いずれにしても、大阪場所はアッという間に終わってしまった。
次の場所では、自分も仕事復帰しているだろうから、毎日、全取り組みを見ることは出来なくなると思うが、それでも、さらに応援し続けたい。
まさむね

歴史・家紋 »

[28 3 月 2009 | 9 Comments | | ]
平将門と桔梗との因縁都市・東京の歴史

江戸、東京をつらぬいて渦巻き、闇の戦いを繰り広げている2つの勢力がある(三善里沙子氏)という。
2つの勢力の一つの中心にいるのは、平安時代に朝廷に対して反旗をひるがえした平将門の怨霊である。
その将門が残した一つの伝説。
それが桔梗伝説だ。
将門を裏切って敵に将門の欠点を教えた桔梗という一人の愛人への怨念。
それ以降、将門の怨霊、及び、将門にシンパサイズする人々は桔梗、そして桔梗紋を忌み嫌うようになったのである。
       ★
しかし、他方、将門に敵対する勢力(朝廷)、すなわち将門の怨霊を排除しようとするもう一方の闇の力があった。
その闇の力は、逆に桔梗紋を身に付けていた人々を使って東京=江戸を、そして日本を支配下に治めようとする。
まずは、室町時代、江戸に城を作り、その地を治めた太田道灌。彼の勢力はこの地に拡大していく。
しかし、なぜか、道半ばで主君によって暗殺されてしまう。
彼の家紋は細桔梗だった。
その後、江戸に転じてきた徳川家康が江戸城を拡張し、この地を治める。その際、霊的守護のために将門の力を借りたといわれている。
この件に関しては「神社の系譜 なぜそこにあるのか (光文社新書)」に詳しい。
それによると以下のように、将門の首塚をはじめとして、五街道と江戸城の堀の交点のそれぞれに将門の体の一部を奉った神社を配置したという。
首塚(首) 大手門(奥州街道)
神田神社(胴) 神田橋門(日光道)
鳥越神社(手) 浅草橋門(奥州道)
世継稲荷神社(首桶) 田安門(中山道)
筑土八幡神社(足) 牛込門(中山道)
兜神社(兜) 虎ノ門(東海道)
鎧神社(鎧) 四谷門(甲州道)
そしてこの霊的守護をプロデュースしたのが、謎の怪僧・天海である。実は、この天海は、山崎の合戦の後、逃げ延びた明智光秀と言われている。勿論、明智光秀も桔梗紋者である。天海は、将門の怨霊を鎮め、その怨霊を御霊に変える事によって江戸を支配しようとしたのであろうか。
さらに、天海霊界支配プロジェクトのもう一つが、日光東照宮創建であるが、東照宮の建物の彫刻には三つ葉葵の他に、いくつもの桔梗紋が彫られているというが、それは何を意味するのか。これに関しては、今後も考えていきたい。
        ★
しかし、江戸の町は、幕府開府から49年後の1657年の春、明暦の大火(振袖火事)によって、大半を焼失してしまうのであった。
そしてその火事の原因に関して、一つの噂が流れた。それは、この火事の原因となった振袖の噂である。
(以下、Wiki「明暦の大火」より引用)
ウメノは本妙寺の墓参りの帰り、上野のお山に姿を消した寺小姓の振袖に魂を招かれて恋をし、その振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえてもらって夫婦遊びに明け暮れた。その紋は桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に、菊。そして、恋の病に臥せったまま承応4年(明暦元年)1月18日(1655年2月22日)、17歳で亡くなった。寺では葬儀が済むと、不受不施の仕来りによって異教徒の振袖は供養せず、質屋へ売り払った。その振袖はキノの手に渡ったが、キノも17歳で、翌明暦2年の同じ日(1656年2月11日)に死亡した。振袖は再び質屋を経て、イクのもとに渡ったが、同じように明暦3年の1月18日(1657年2月28日)に17歳で亡くなった。
イクの葬儀に至って三家は相談し、異教徒の振り袖をしきたりに反して、本妙寺で供養してもらうことにした。しかし和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いたつむじ風によって振袖が舞い上がって本堂に飛び込み、それが燃え広がって江戸中が大火となったという。
この伝説は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物は異なるものの、記録を残している。また、幕末以降に流布された振袖火事伝説を、江戸城火攻めの声明文として解釈すると、振袖の寺小姓は、1590年に上総の万木城を徳川軍勢に攻め落とされた土岐家の子孫が浮かび上がる。さらに、その寺小姓は、上野の寛永寺の天海の弟子で、後に、波の伊八で有名な上総和泉浦の、火攻めの兵法に長けた飯綱権現をご本尊とする寺の住持であることが伺える。 そして、不住不施派からの改宗を余儀なくされた上総の法華信徒は、その寺小姓と手を携え合い、狐に括り付けた烏の翼に火を放つ飯綱権現の兵法を吸収し、江戸城と城下の火攻めを決行したことが読み取れる。

さて、この伝説が意味するところは何か。
天海の流れをくむ桔梗紋者が、江戸を火の海にしたということであろうか。
そうであるとするならば、この事件は、反将門勢力の復讐ということになる。
そしてさらに、桔梗紋の振袖を伝説の重要なアイテムとして利用することによって、江戸の人々に対して、この事件を将門の怨霊の仕業として印象づけようと画策したのかもしれない。
しかし、そうだとしたら、それはなんとも皮肉な結果を生み出す。
逆に、この振袖火事は、結果として江戸を新しい大都市に生れ変らせてしまったからである。
そのため、この明暦の大火には、幕府放火説もささやかれたという。
大局的に、しかも霊的に見れば、この事件は将門の怨霊ではなく、将門の御霊が江戸発展のために、敢えて行った江戸大手術だったのかもしれない。この事件に関しても今後、さらに考えて行きたい。
        ★
そして、その後、約200年の間、平和な徳川時代は続き、幕末をむかえる。
新しく覇者となった明治新政府が首都・東京を治める最大のテーマは「なるべく江戸の町を壊すことなく、徳川から朝廷のものにする」ということであった。
そのために必要なのが江戸無血開城であった。
実は、この時の交渉で一番働いたのが幕府方にありながら尊王攘夷派の山岡鉄舟(左写真)である。彼は大仕事をやり終えた後、一旦は篤姫達と駿府へ行くが、西郷隆盛の要請に従って、明治政府に出仕し、10年もの間、侍従として明治天皇に仕えた。そして、1888年7月19日9時15分、鉄舟は、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命したといわれている。胃癌であった。
彼は、桔梗紋者であったが、それにもかかわらず、悲惨な死は遂げていないのである。
天皇の侍従でありながら、全生庵という寺を創建し、維新に殉じた幕府側の人々を供養した。その公明正大な精神に、怨霊も手を出せなかったのではないだろうか。
       ★
さて、話は替わる。徳川の霊的守護に対抗して、明治政府、すなわち朝廷の霊的守護は、靖国神社と、それを中心とした3つの霊園(谷中霊園、雑司が谷霊園、青山霊園)と築地本願寺の5つの霊的スポットの配置で行おうとしたというのが僕の説である。(東京は死者に守られている霊的要塞都市である)
おそらく、それを構想したのは、もう一人の桔梗紋者・大村益次郎ではないだろうか。最初、木戸孝允が靖国神社の場所を上野に置こうとしたという。しかし、それでは幕府の霊的守護とぶつかるというので、益次郎は、靖国神社を九段に置いたのである。
先に引用した「神社の系譜 なぜそこにあるのか」にもこう書かれている。
神田神社には主祭神として地霊・平将門公が祀られていたが、1874年に明治天皇が参拝する際、無礼になるとして主祭神から外されたのも、その一環であろう。しかも、通常神社は南面するはずが、靖国神社の参な道は北西17度という微妙な角度をもっており、この軸線を延長すると、平将門の足を祀る筑土神社を通過し、さらに神田神社へ達するのである。
つまり、地霊・平将門公の神格を利用しつつも、主祭神から外し、それにとって代わろうという意図が見え隠れするのだ。このように靖国神社の配置は、極めて巧妙に決定されていることがわかる。

さらに、大村益次郎は、兵部省兵部大輔として帝国陸軍の基礎を作った。
彼は明治2年に暗殺されてしまうが、帝国陸軍(天皇の軍隊)に桔梗紋を残す。
帝国陸軍の象徴である五芒星(左写真)は、別名、清明桔梗紋という桔梗紋の一種なのである。
しかし、ご存知の通り、帝国陸軍は。その組織自体が悲惨な最後をむかえてしまう。
これも桔梗紋の因縁、将門の怨霊の仕業だろうか。
       ★
さて、戦後、東京の霊的守護の中心地、靖国神社は微妙な状態に立たされる。
ご存知の通り、靖国問題は、日本を思想的に分裂しかねない大きな問題となってしまっているのだ。
靖国問題を起こしたイデオローグの拠点は朝日新聞だが、この靖国論戦が激化したのが朝日新聞が築地に移転した1980年以降というところが気になる。
靖国神社を囲む長方形の南東の頂点である築地本願寺の霊園は、実は関東大震災後に被害を受け、和田堀廟所に移転してしまった。
すなわち、谷中霊園、雑司が谷霊園、青山霊園、築地本願寺の墓所からなる結界の1点が欠けてしまったのである。
ちなみに、東京大空襲の際のB29はその結界が切れた南東の方角から東京の上空を襲ったのであった。
そして、戦後しばらくたった1980年、その欠損点に朝日新聞社が移転、靖国神社批判の拠点となってしまった。
現在、さらに築地市場の移転が問題になっている。そしてその跡地を何にするのか、まだ決まっていないという。
そこに新たな公営墓地を作れという案を誰か出してもらえないだろうか。
そうすれば、靖国神社問題は解決する.....のかもしれない。
       ★
さて、今まで本稿も含め、以下のエントリーで東京の地霊、平将門とそれに対抗する朝廷派の東京=江戸奪取攻防について書いてきた。
東京は死者に守られている霊的要塞都市である
靖国問題は将門の桔梗への怨念が起しているの(かも)
東京・闇の戦いの図式 ~『東京魔界案内』を読んで~
以下に簡単に年表にしてみる。
939年  平将門、新皇を称し、関東全域を手中に収める。
940年  平将門の乱平定祈願のため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行う。(成田新勝寺始め)
940年  平将門が討伐される。
      この頃、桔梗伝説が広まる。
1309年 神田神社に将門が祀られる。
1457年 太田道灌、江戸城築城。
1486年 太田道灌暗殺される。
1582年 明智光秀、本能寺の変、山崎の合戦で敗死。
1590年 上総土岐氏が徳川家康に攻め滅ぼされる。
1590年 徳川家康、駿府から江戸に居を移す。
      この頃、加藤清正によって明治神宮内の「清正の井」掘られる。
1636年 江戸城完成。
1657年 明暦の大火(振袖火事)
1679年 築地本願寺(本願寺築地別院)創建。
1867年 坂本龍馬暗殺される。
1868年 江戸城無血開城。
1868年 兵部大輔に大村益次郎が任ぜられる。
1869年 東京遷都。
1869年 大村益次郎の献策により東京招魂社(現・靖国神社)が創建される。
1869年 大村益次郎暗殺される。
1872年 青山霊園、谷中霊園、雑司が谷霊園が造園。
1874年 明治政府が平将門を神田神社の主祭神からはずす。
1888年 山岡鉄舟、胃癌で亡くなる。
1893年 靖国神社に大村益次郎の銅像が建つ。
1900年 陸軍服制によって、五芒星が軍帽につけられる。
1920年 明治神宮創建。
1923年 関東大震災
1934年 築地本願寺墓所を和田堀廟所へ移転。
1945年 東京大空襲
1945年 大東亜戦争終結。
1952年 太田道灌像東京都庁前に創建。
1978年 靖国神社にA級戦犯合祀。
1980年 朝日新聞、築地に移転。
1984年 平将門、神田明神の本社祭神に復帰。
今後、さらに、いろいろと気付いた点を加えて行きたい。
まさむね
参考エントリー
2011.1.13首都圏にある「京」の字がつく私鉄(京成、京急、京王)の秘密
2009.4.03 平将門魔方陣と明治政府魔方陣が交錯する都市・東京
2009.3.28 平将門と桔梗との因縁都市・東京の歴史
2009.3.18 東京・闇の戦いの図式 〜『東京魔界案内』を読んで〜
2009.3.15 靖国問題は将門の桔梗への怨念が起しているの(かも)

政治 »

[26 3 月 2009 | No Comment | | ]

小沢代表がついに追い詰められた。
公設秘書の大久保氏が政治資金規正法で起訴されたのである。
このことは、逮捕された時点で十分に予想されたことだ。
また、そうなれば、小沢代表辞表すべきという世論が大勢を占めることも同様、予想されたことだ。
国策捜査だとか、ただの虚偽記載だなどと評論家達が「正論」をのたまわっても、一般の人々は、「小沢は怪しい」と思う。
僕的にいえば、「小沢は穢れた」と思う。
日本人の反応としては、それが、当たり前なのだ。
小沢さんは昨日の記者会見で、続投を表明した。
これで、最後のチャンスをも失ったと見るべきだろう。
このチャンスというのは復帰のチャンスという意味だ。
小沢さんは長く居座れば居座るほど、民主党のダメージは増してくるにちがいない。
自分は、新聞も読まないし、ましてやインサイダー情報も何もわからない自宅民ではあるが、それだから逆に、テレビ世論がどう動くのかはよくわかる。
おそらく、今週末に、また世論調査が行われ、小沢辞任の圧力はさらに増加するだろう。
それを受けての辞任となれば、またダメージが深くなるだろう。
鳩山さんはいまだに「行政と戦う」等、全く的外れは発言をしているが何を考えているのだろうか。
この程度の先読みが出来ないのかと唖然とする。
僕は、自動車も持っていないし、子供もいないし、農業もしていない。
だから、民主党のマニュフェストで主張している政策に関してはほとんどメリットが無い。
ただ、それでも民主党を支持してきたのは、民主党が国民の立場に立って、自民党=既得権益者の政権を一度、倒してくれることによって、日本全体を覆っている閉塞感を打破してくれることを期待したからだ。
しかし、その党首の小沢さんが、頭では国民の立場に立っていると言っているのに、下半身は既得権益者側から離れられないということが明白になってしまった。
おしむらくは、大久保秘書逮捕の瞬間に代表、そして出来れば議員をも辞任=「物忌み」しなかったことだが、もう遅い。
さらに、昨日の記者会見で、上杉隆さんの質問に答えて、小沢さんはもしも、首相になった時に、官邸での取材を記者クラブから解放するという事を示唆してしまった。
勿論、それ自体はすばらしいことではあるが、これによって、新聞、テレビは、既得権益を死守するために小沢攻撃をさらに強めるだろう。
そういったことは曖昧にしておけばよかったのだ。
そういう意味で小沢さんは正直すぎるのだ。
また、昨日、検察の記者会見があったという。テレビ視聴者には、どの役職のなんという人が、どういった形式で行ったのかなどはまったくわからなかった。
そして、その際に、記者達が「自民党も同じような政治団体から同じように献金を受けているがそれはいつ問題にするのか。」「金額の多寡は捜査に関係するのか」など、国民として当然の疑問を質問したのか。
質問したとしたならば、どのメディアの何という記者がしたのかなどという事は全くわからなかった。
まったくもって、欲求不満が増す。どうにかならないものなのか。
しかし、一自宅民がそんなことを言ってもしかたがない。
いずれにしても、民主党は早く次を考えるべきだ。
重要なことは、当たり前のことを当たり前にやることである。
まさむね