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Articles Archive for 5 月 2009

テレビドラマ »

[31 5 月 2009 | No Comment | | ]

TBSの土曜ドラマ「Mr.Brain」が好調のスベリ出しだそうだ。
初回視聴率が24.8%、今日放送の2回目もおそらく20%を超えるだろう。
このご時世、普通に20%を超える数字をたたき出すのだから、さすが木村拓哉である。
内容に関しては、細かいところまで金をかけているだけあって、贅沢なつくりになっている。
さらにドラマの中にジャンケンの勝ち方みたいな話とか、脳に関するちょっとした豆知識も入っていて、これも最近、特に流行の露骨なプラグマチックネタである。
このドラマの中に役に立つ、あるいは役に立ちそうなネタを仕込むというのは、ドラマを純粋に見世物として楽しむ態度の衰退とみるべきなのだろうか。
あるいは、かつてはその内容というよりも、次の日の仲間との話題ネタ、すなわち、コミュケーションのための道具として機能していたドラマが、携帯電話の発展でその役割を失いつつあることに対して、その替わりに担った新役割なのであろうか。
それはまたいつか考えてみたいと思う。
さて、「Mr.Brain」である。シナリオの不備を、木村拓哉の存在感とその他のとりあえず名のある役者陣の豪華さで補っている。これが僕の評価である。
シナリオの不備というのは、例えば、2回目の放送で、小雪が犯人だとわかってしまうシーン。
殺人現場にネックレスの玉を落として、手の中にその玉があることを知っていて木村拓哉が小雪にジャンケン勝負を挑むシーン。小雪はその玉を見られたくないがために、グーしか出せないと読んだ木村はパーを出して勝つ。
そして、何故、小雪がグーしか出せないのかという謎解きをして、彼女が犯人であるということを証明するのであるが、話の流れが、小雪の心情を全く無視しているのである。
小雪としては、その玉を見られたくなかったなら、逆の手でジャンケンすることも出来ただろうし、そもそも、絶対に手を開けないような状況でジャンケン勝負を受けるという心理はありえるのだろうか。
自分が、その小雪のシチュエーションだったら、どうするかを考えれば簡単に答えは出ると思う。
ただ、ボーッと観ていればおそらく、話は綺麗に進んでいるように見えるのかもしれない。それだけの演出と役者の演技力があったのは確かだ。
実は僕は木村拓哉が大好きなのだ。今まですべてのテレビドラマで最高なものは何かと問われれば、迷わず「ロングバケーション」と答えるだろう。
あまりに、そのドラマが好きなために、僕の中では今でも木村拓哉は、山口智子と一緒にボストンにいるのではないかという幻想がどこかで生きているである。
だから、僕的には木村拓哉は、このドラマでも、若手俳優人気ナンバー1の水嶋ヒロに完全に勝っている。さらにうがった見方をすれば、この「Mr.Brain」の役柄上、かっこいい木村拓哉と情け無い水嶋ヒロをぶつけることは、ジャニーズが研音をつぶしのために仕組んだワナでは?とさえ思ってしまうのである。
しかし、木村拓哉も人間だ。欠点はある。木村拓哉が好きな僕ではあるが、その欠点に関して気にしないといったら嘘になる。だから敢えて、以下続けるのだ。(ファンの方、悪く思わないでね)
その、第一の欠点がその身長である。公称では176cm、しかし、一部週刊誌やネットなどでその件に関しては、様々な疑惑をもたれているのは事実だ。
その彼の欠点をこのドラマはどのように「処理」するのか。実は、僕にとっては、それが一つの楽しみであった。
言うまでもなく、身長の低さを隠すには、第一には背の低い俳優との接近した絡みを多くすればいい。僕はこのドラマの田中裕二起用は、そこにポイントがあるのでは?と見ている。実際、1回目、2回目ともに、田中祐二との「接近戦」が組まれ、木村拓哉のイメージは完全に補強されていた。しかも、今回は香川照之と、顔を近づけ、鼻までつけるシーンがあり、さらに身長イメージ補強はダメを押されていた。
しかし、一方、水嶋ヒロ、小雪との絡みという問題が残った。
ちなみに、こちらも公称ではあるが水嶋ヒロは180cm、そして小雪は170cmである。
特に小雪には以下のようなエピソードが残されている。興味を持たないで見ろというほうが無理ではないか。

「長身の女優はドラマや映画のキャスティングで苦労することが多いですからね。ドラマ『エンジン』では、ヒロインの小雪の身長が木村拓哉よりも高かったため、ツーショット撮影はかなり気を使ったそうです。また、ドラマ『プロポーズ大作戦』では、長身の長澤まさみとの釣り合いが考慮されて、長澤の友人役としてさらに長身の榮倉奈々が抜擢されました。本人や相手役がバランスを気にするケースは意外に多いから、ガッキーの心中は複雑かもしれません」(テレビ関係者)「ガッキーが身長のことで悩んでる???」
しかし、結果としては、小雪との絡みでも、水嶋ヒロとの絡みでも、木村拓哉の身長イメージは十分維持出来ていたように思う。特に、水嶋ヒロとのシーンでは、カメラが下から見上げるシーンが少なくとも2回確認され、その身長差は周到に隠蔽されていたように思える。特に小雪のネックレスの玉を確認するシーンで、木村拓哉と水嶋ヒロが二人してしゃがむのであるが、その際の水嶋ヒロのより念入りの深いしゃがみに彼の大先輩への敬意を見たのは僕だけだろうか。
しかし、今後、2人の絡みが毎回、下からのカメラというのはどうなのだろう。来週からさらに二人の絡みは、さらに楽しみである。撮影班の「配慮」はこのドラマの一つの見せ所となっていくに違いない。
       ★
また、身長問題と連動する欠点が彼の顔の大きさである。今まではそういったシーンはないようだが、田中祐二が木村拓哉の「身長対策」として起用されたとすれば、「顔の大きさ対策」として起用されたのがトータス松本ではないかと想像してしまう。こちらも今後の絡みが楽しみである。
       ★
最後に、芸能人といえば、疑惑を持たれるのがいわゆる「宗教関連ネタ」である。個人の信仰にかかわることなので、本来なら、疑惑などということ自体、問題であることは確かなのだが、興味を持っている人が多いのも事実だ。そういう意味では、木村拓哉が、殺人現場で「南無阿弥陀仏」ではなく「南無妙法蓮華経」と手を合わせていた事は何か深い意味があるのであろうか。この一行は、シナリオ通りなのだろうか、それとも「素」なのだろうか。
まさむね

ビートルズ »

[29 5 月 2009 | 4 Comments | | ]

先日、YahooNewsでジョージハリソンの未発表歌詞が発見されたというニュースがあった。
故G・ハリスンの未発表詞、アビイ・ロードで見つかる
[ロンドン 8日 ロイター] 元ビートルズの故ジョージ・ハリスンが1967年に書いた未発表の歌詞が、ロンドンの「アビイ・ロード・スタジオ」で見つかり、大英図書館で展示されている。
 この歌詞はハリスンが23歳か24歳の時のもので、ビートルズがアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の制作に向け、同スタジオを中心に活動していたころに書かれたとみられる。
 ビートルズ公式伝記の著者ハンター・デヴィス氏が、同書の改訂版執筆のリサーチ中に、スタジオの床に放置されていた紙くずの中から見つけたという。
 題名がない8行の歌詞には、漠然とした不安などがつづられている。
 
歌詞の内容が「漠然とした不安」という。興味津々だ。というのも、その詞が書かれたのが1967年だからである。
もともと、寡作のジョージはこの年、4曲しか作って(レコーディングして)いない(と思う)。
レコーディングの日順に言えば、以下の4曲だ。
1967年2月13日 Only a Northern Song
1967年3月15日 Within You Without You
1967年5月25日 It’s all too much
1967年9月06日 Blue Jay Way
自身の曲が3曲も収録され、大活躍の「Revolver」を出した1966年、インドに行き、「While My Guitar Gently Weep」という傑作が生みだす1968年の間に挟まれたジョージの1967年。
僕の印象だとジョージにとって谷間の年にあたる。
逆にこの年はポールにとっては、アドレナリン大放出の年で、「SGT. PEPPER’S LONELY HEARTS CLUB BAND」「MAGICAL MYSTERY TOUR」を主導し、次々と傑作を生み出すだけではなく、実質的なリーダーの役割も積極的に果たすようになっていったのである。
その影で、ジョージは、ビートルズの一員としての活動よりも、インド音楽に傾倒、東洋哲学に興味を示していくのだ。
確かに、「SGT」におけるジョージの影の薄さは尋常ではない。自身の曲は一曲に抑えられただけではなく、アルバムテーマ曲の「SGT」や「Good-Morning Good-Morning」等では聴かせところであるリードギターソロをポールに奪われている。しかも、ジョンの名作「Being For The Benefit Of Mr.Kite」ではバスハーモニカ、「A Day in the Life」ではマラカスなどというどう見てもマイナーな楽器を持たされているのだ。しかも、「A Day in the Life」のあるテイクでは「マラカスの音が大きすぎる!」とジョンに叱られている有様だ。(そういう音源が残っている)
そんな、この年のジョージ。4曲の主題もどちらかといえば、ネガティブな感じなのである。歌詞の中身を深読みすると、特にポール、そしてジョンに対してさえも、微妙な敵意を持っているとすら僕には思えるのだ。具体的に見てみよう。
★Only a Northern Song★
ここで歌われているNorthern Songとは当時ビートルズの楽曲を管理していた会社。ビートルズが売れても、富はこの会社に吸い取られる状況をジョージが皮肉っているというのが一般的な解釈だが、僕はそれに加えて、ジョージのポールに対する若干の悪意を感じるのだ。
If you think the harmony
Is a little dark and out of key
You’re correct There’s nobody there
And I told you there’s no one there
この曲のハーモニーをなんだかあいまいで調子っぱずれだと思うんなら 君は正しいのさ
そこには誰もいないんだ わかったかい そこには誰もいないんだ
この「曲にその作者が不在」という批評は実は、ジョージがポールの曲に対して持っていた疑念なのである。例えば「PaperBack Writer」「Lady Madonna」「Rocky Racoon」等、ポールの作品は、物語としては成立しているが、ポール自身の思想、人生が投影されたものかと言えば、そうではない。ポールは超一流のエンターティナーとも言いうる反面、「浅い」といえばそうかもしれないもう反面を持っているのだ。
しかし、これが、ポールのスタイルなのである。
おそらく、この頃、ジョージは、ポールの湯水のように溢れるエンターティナーとしての才能に対して「深さ」「哲学」で対抗するしかなかったのではないか、というのが僕の「深読み」である。
★Within You Without You★
全編、哲学的な歌詞の雰囲気の中にこういう箇所がある。
the people-who hide themselves behind a wall of illusion never glimpse the truth
幻想の壁の陰にじっと身を隠した人々彼らは真実を見つめようとしない
僕はこれは、ポールが「Fix A Hole」であらわした次の一節への反論だと見ている。
See the people standing there who …

日常雑事 雑感 »

[28 5 月 2009 | 4 Comments | | ]

毎週、病院に通っている。
相変わらず、待ち時間が長い。
朝の8時に病院の待合室の席に座っても、既に番号は40番くらいだ。
診療が始まるのが9時。注射だけの日はすぐに終わるのだが、診察がある日は、悲惨だ。
下手すると12時半位まで待たされる。
そして、5分間、診察して、会計すると13時だ。すでに昼過ぎなのである。
       ★
時間があると、ケータイでネットを見る癖がついている僕にとってはその時間は本当につらい。
言うまでも無い。病院内ではケータイの電源を切らなければならないからだ。
しかし、そのたびに思うことがある。
もしもケータイが医療機器や心臓のペースメーカーを乱す「可能性」があるとすれば、それは電波法でなんとかすべきなのではないか。だいたい、その「可能性」ってなんだ。何パーセントの確率でその「可能性」はやってくるのか。
それはそれらの機械同士が干渉しあってしまう現象は技術や法律で解消させるべきではないのか。
何故、利用者が注意しなければならないのだろうか。
寡聞にして、僕はケータイと医療機器とのトラブルが起きて、人が亡くなったなどという事件を知らないし、聞いたことも無い。自動車事故で死ぬ人が1年で1万人、インフルエンザで死ぬ人もそのくらい、さらに自殺者が3万人のこのご時世に、たった一人の事故すら聞いたことの無いような機械の使用が禁止されているというのはいったい科学的なのだろうか、現実的なのだろうか。
正直言って、電車の中でもそうだが、僕はケータイが医療機器に害を与えるというのはある種の都市伝説だと思っている。さらに言えば、それらの規制をすることによって「食っている」法人様のための規制だとすら想像している。
病院にあった、禁止のポスターにはそういった公益法人として以下の3つが記載されていた。「情報通信ネットワーク産業協会」「電波産業会」「電気通信事業者協会」これらの法人はこういった本当かどうかわからない(少なくとも僕が)規制によって、ポスターを作ったり、監視したりして生き延びているのではないか。
実は僕も、10年くらい前に、当時の労働省関係の法人の仕事をしていた。詳細は言えないが、そこではあるくだらない法律(規制)のおかげで、それに必要なステッカーを高額で製作、販売するだけの会社だった。
だから、こそ上記の3法人をなんとなく疑ってしまうのだ。
ちなみに、そのポスターにはマナーを守って、病院ではケータイを使用しないようにと書かれていた。事故を起こす「可能性」があるから、つまり人を殺してしまうかもしれないから禁止しているのか、それはただのマナー(礼儀)なのか、そのポスターはすでに混乱していたのであった。
さらに言えば、このケータイに対する規制は、どうも「差別」の臭いがしなくも無いが、まぁ、それはあくまで臭いの話。根拠はありません。
以上、病院の待合室でイライラしながらの文面だ。お読み苦しいところご容赦ください。
まさむね

日常雑事 雑感 »

[27 5 月 2009 | 2 Comments | | ]

「ノルウェイの森」でメガホンをとるトラン・アン・ユン監督は、1962年生まれの46歳。
12歳のときにベトナム戦争を逃れるため、両親と共にフランスに移住したという(wikiより)。
ベトナム生まれというと僕にもある友人がいた。
彼の名前はD・トラン。20年も前の話だが、僕がカナダのブリティッシュコロンビアに住んでいた頃、最も仲が良かった友達だ。
そのDはベトナム戦争で両親を失い、小学生の頃、一人、カナダに養子に来たという。
おそらく、彼はもともと頭がよく、学校での成績は良かったのだろう。そして、彼はカナダで頑張ったのだろう。将来を有望視されたSEとして、僕と一緒の職場で働いていた。
Dは、いつも僕に優しかった。英語の出来ない僕をフォローし、何かと面倒を見てくれた。反面、どことなくシニカルで、みんなが楽しそうにしているホームパーティでは、いつも部屋の隅で一人でいるようなところもあった。
彼は、僕にグーフィーというあだ名をつけて、面白がっては、僕のことを「Goofy-Sami(グーフィーサミー)」と呼んだ。
グーフィーというのは、ディズニーアニメのキャラクターで、頭の悪そうな犬である。wikiではこう書かれている。
平和を好むのんびりとした性格が特徴。しかし、ミスも多いため周りに迷惑をかけることが多々ある。また、早口を聞き取れないことがあり、時々おかしな返事を返すことも。
僕達は職場でソフトボールのチームを作っていて、よく他のチームと試合をした。ある時、凄いチャンスで僕に打順がまわってきた。僕はいささか緊張気味でバッターボックスに入った。ベンチからDが叫んだ。
Goofy-Sami ,Take your time!
僕は、「タイムを取れ」だと思って、審判に「タイム!」と言って、Dのところに走っていった。
そうしたらDは大笑いをして、こっちへ来なくていい、バッターボックスへ戻れと言った。
僕はわけがわからなかった。後で辞書で調べたら、「take one’s time」というのは、マイペースで行け、とか、リラックスしろとかいう意味であることがわかった。
そんなつまらない失敗を繰り返しながら、Dと僕は職場でも、プライベートでも沢山の時間を過ごした。
たまに、彼がベトナムで生まれた事、小学生の時、ひとり飛行機に乗ってカナダに来たとき、凄く寂しかった事、その飛行機から富士山が見えたとき、いつか日本に行ってみたいと思ったことなんかを話してくれた。
ある時、僕はこんな失敗をした。僕は何故かそのカナダに相原コージの「コージ苑」という漫画を持っていっていたのだが、その中に、日本の若者がつまらないことで悩んでいる一方で、世界では悲惨な子供達が飢えているという4コマ漫画があった。今、手元にその本が無いので正確には違うかもしれないが、そんなような内容だったと思う。
たまたま、Dが僕のアパートメントに遊びに来ていたので、その漫画を何気なく見せたのだ。そしたら彼は真剣な顔をして、僕らはあまりにも幸福だと言った。そして、この漫画のどこが面白いんだ?と言った。
僕は何も答えることができなかった。
Dは確かに真面目だった。何事にも真剣だし、負けず嫌いだった。
ある日、僕は彼のアパートメントに遊びに行った。カナダの住宅事情は良く、彼は一人暮らしだけど、2LDKの小奇麗な部屋に住んでいた。
しかし、僕はあることに気づいた。彼の家は、すごく綺麗に片付いていたが、ベッドが無かったのだ。でも、僕は黙っていた。何か、聞いてはいけないような気がしたからだ。
それから何回か、彼のアパートメントに遊びに行ったが、ある時、僕は玄関の脇にある、靴やスキーを置いたり、コートをかけるための備え付けのクロゼットが開いているのを見てしまった。
そこには鳥の巣のように毛布やタオルケットと大きなぬいぐるみとか、柔らかそうな汚れたモノが沢山、クシャクシャと置いてあった。僕は一瞬、見てはいけないものを見たなと感じたが遅かった。
Dは、きまり悪そうに僕に言った。僕はここで寝ているんだ。この中でしか眠れないんだ。
そう言って、彼はクロゼットを閉じようとした。
しかし、僕はそのクシャクシャした毛布やらなんやらの中に幼い頃の両親との写真があったのを見てしまった。
その時、僕は彼の心の奥底をも見てしまったような気がした。
なんとなく、哀しく、ちょっと嫌な気持ちがした。一瞬の話である。
でも、その後もDとの普通の日常は僕が帰国するまで続いた。
相変わらず、仕事ではいろんな事を教えてもらい、休日になると遊んだ。
Dが僕を呼ぶときの「Goofy-Sami!!」という声と発音はまだ僕の耳の中に残っている。
まさむね

ビートルズ, 書評 »

[26 5 月 2009 | 5 Comments | | ]

村上春樹の「ノルウェイの森」が来年秋公開で映画化されるという。
メガホンをとるのは「青いパパイヤの香り」のトラン・アン・ユン。ベトナム系フランス人だ。
主役のワタナベには松山ケンイチ(画像左)、恋人の直子には菊池凛子(画像下)と配役も決まり、来年の3月にクランクイン。フジテレビがバックについていることもあるが、おそらく、封切り時には「ノルウェイの森」ブームが来ることが今から予想されている。
僕は、この小説、発売当時に、紅色と深緑の上下巻2冊の単行本を買って読んだ。
おそらく、恋愛小説に感動できるかどうかは、その小説が読者の実人生に、いかにシンクロしてくるかにかかっているが、当時の僕はそういう意味で非常に感銘を受けた記憶がある。中学生の時に、背伸びをしてゲーテの「若きウェルテルの悩み」を読んだはいいが、全く理解できなかったのに比べると、少しは成長したかなと思ったものである。つまらない話ではあるが、ちょうど、新宿の「DUG」という喫茶店でこの本を読んでいたら、この小説の中にも「DUG」が出てきた。そういう、ちょっとした偶然が、この小説のリアリティを増してくれたのだ。まぁ、だから何なのだと言われれば、それまでの体験なのではあるが。
そして、先日、再びこの本を手にする機会が来た。
映画化のニュースもあり、先日、衝動的に本屋で文庫本を購入、一気に読んだのであった。
読書感想はまたの機会に書くとしてここでは、この小説の「ノルウェイの森」と、ビートルズの楽曲の「ノルウェイの森」とのイメージの関連性・連続性について考えてみたいと思う。
村上春樹自身、この小説のタイトルとして、最初は「雨の中の庭」というのを考えていたそうだ。しかし、奥さんに読ませて意見を聞いたところ、「ノルウェイの森」でいいんじゃない?ということで、このタイトルに決まったという。(wikiより)
まぁ、どちらかといえば御座なりな感じで決まったのである。
しかし、結論から言えば、この小説はビートルズの名曲「ノルウェイの森」のイメージ、そしてテーマとかなり重なっているように感じられる。結果としては、誠にいいタイトルにしたものだ、と僕は思う。
まず、ビートルズの「ノルウェイの森」の歌詞を見てみよう。

あるとき女を引っかけた
それともこっちがひっかけられたのか
彼女は僕を部屋に招いた
いいじゃないかノルウェイの森
泊まっていってと彼女は言い
好きなところにすわるように僕を促した
そこで僕は部屋を見まわし
椅子がひとつもないのに気づいた
敷物の上に腰をおろし
ワインを飲みながら時間をつぶすうち
すっかり話こんで2時になった
すると彼女「もう寝なくちゃ」
朝から仕事があると言って
彼女はおかしそうに笑った
こっちは暇だと言ってみても始まらず
僕はしかたなく風呂で寝ることにした
翌朝 目が覚めると僕ひとり
かわいい小鳥は飛んでいってしまった
僕は暖炉に火を入れた
いいじゃないか ノルウェイの森
「COMLETE LYRICS OF THE BEATLES」内田久美子=訳
この歌詞に関しては、いろいろな解釈があるのは確かだ(「RUBBER SOUL」参照)が、ここでは、ほぼ、上記の歌詞の解釈を採用したいと思う。
例えば、「Norwegian Wood」はノルウェイ製の家具、ではなく素直にノルウェイの森と考えたいのだ。
実は、村上春樹も、小説の中でこの曲を、上記の歌詞のイメージに沿った形で効果的に使用しているのである。
この小説の中には、ビートルズの「ノルウェイの森」が出てくる箇所が何箇所かあるが、それはどれも似たシチュエーションなのだ。
そして、それは、この小説にとって、重要な「絵」なのである。
まずは、小説の冒頭、主人公のワタナベは旅客機でドイツの空港に着陸する。そして、着陸とともに機内に流れるのが、この「ノルウェイの森」なのである。
飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始めた。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの「ノルウェイの森」だった。そしてそのメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。
物語の冒頭部分で、過去を回想させるための装置として、「失われた時を求めて」(マルセル・プルースト)のプチットマドレーヌよろしく、「ノルウェイの森」が流れる。
この物語は主人公の記憶の中の物語であることが暗示されるのである。そして、主人公・ワタナベの青春の思い出の、その重要な部分にはこの「ノルウェイの森」が、そしてビートルズのその他多くの楽曲が登場することとなるのだ。
まずは、最初の箇所、文庫で言えば上巻の81ページあたりだ。
高校時代の親友・キズキの恋人だった直子と2人、場所は彼女のアパートである。キズキは既に自死しており、ワタナベは上京して大学に通っている。そして、彼女と偶然に再会するのだ。
食事が終わると二人で食器を片づけ、床に座って音楽を聴きながらワインの残りを飲んだ。僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。直子はその日、珍しくよくしゃべった。(中略)僕はレコードをかけ、それが終わると針を上げて次のレコードをかけた。ひととおり全部かけてしまうと、また最初のレコードをかけた。レコードは全部で六枚くらいしかなく、サイクルの最初は「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で、最後はビル・エバンスの「ワルツ・フォー・デビー」だった。
はじめて行った女性の部屋で、二人っきり、床に座りながらワインを飲む。そのシチュエーションがビートルズの「ノルウェイの森」と全く、同じなのである。
そして次は、その直子が精神治療施設「阿美寮」に入寮し、そこを訪れたワタナベが、そこでの直子の同僚レイコさんを交えての3人でのシーン。文庫本では上巻の222ページあたりである。
レイコさんは冷蔵庫から白ワインを出してコルク抜きで栓をあけ、グラスを三つ持ってきた。まるで裏の庭で作ったといったようなさっぱりとした味わいのおいしいワインだった。(~ここでレイコさんはギターを取り出して、直子が曲をリクエストする。~)「リクエストタイム」とレイコさんは目を細めて僕に言った。「直子が来てから私は来る日もくる日もビートルズのものばかり弾かされているのよ。まるで哀れな音楽奴隷のように」彼女はそう言いながら「ミシェル」をとても上手く弾いた。
「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレイコさんは言ってワインをひとくち飲み、煙草を吸った。「まるで広い草原に雨がやさしく降っているような曲」
それから彼女は「ノーホエア・マン」を弾き、「ジュリア」を弾いた。時々ギターを弾きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワインを飲み、煙草を吸った。
「『ノルウェイの森』を弾いて」と直子が言った。(中略)
「この曲を聴くと私時々すごく哀しくなることがあるの。どうしてだかはわからないけど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」
また、下巻の35ページにもこの3人のシーンが出てくる。場所は前回と同じ、直子が入寮している「阿美寮」である。
葡萄を食べ終わるとレイコさんは例によって煙草に火をつけ、ベッドの下からギターを出して弾いた。「デザフィナード」と「イパルマの娘」を弾き、それからバカラックの曲やレノン=マッカートニーの曲を弾いた。僕とレイコさんの二人はまたワインを飲み、ワインがなくなると水筒に残っていたブランディーをわけあって飲んだ。
さらに、次に出てくるのは、直子とレイコさんの二人のシーンだ。正確に言えば、直子は既に自死しており、レイコさんが直子と自分との思い出をワタナベに語る、その話の中のシーンである。下巻の271ページである。
それから私たちはいつものように食堂で夕ご飯を食べて、お風呂入って、それからとっておきの上等のワインをあけて二人で飲んで、私がギターを弾いたの。例によってビートルズ。『ノルウェイの森』とか『ミッシェル』とか、あの子の好きなやつ。そして私たちけっこう気持ちよくなって電気消して、適当に服脱いで、ベッドに寝転んでたの。
そして最後は、、下巻の283ページ。勿論、そこには既に直子はいない。レイコさんとワタナベがワタナベの家で二人になっているのだ。
レイコさんはビートルズに移り、「ノルウェイの森」を弾き、「イエスタディ」を弾き、「ミシェル」を弾き、「サムシング」を弾き、「ヒア・カムズ・ザ・サン」を唄いながら弾き、「フール・オン・ザ・ヒル」を弾いた。僕はマッチ棒を七本並べた。
「七曲」とレイコさんは言ってワインをすすり、煙草をふかした。「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさとかいうのをよく知っているわね」(中略)レイコさんは四十九曲目に「エリナ・リグビー」を弾き、五十曲めにもう一度「ノルウェイの森」を弾いた。
お気づきの通り、ビートルズの曲あるいは特に「ノルウェイの森」は、男と女、あるいは女同士が夜、ワインを飲みながら、まったりとした時間を過ごしながら親密になっていくシチュエーションで登場するのである。そして、その世界は、楽しいながらも、どこか陰鬱で濃厚な空気に包まれている。それはビートルズの「ノルウェイの森」の歌詞の世界と同じなのである。
そういえば、小説「ノルウェイの森」の上下巻の紅色と深緑は、まさに、ワインと森のイメージではないのだろうか。そして面白いことにそれは、「RUBBER SOUL」のジャケットの、背景の森の深緑とサイケなロゴのオレンジの色合いにも微妙に重なる。勿論、ワインの色は鮮血の色でもあるのだ。
ちなみに、ここで、イメージを横滑りさせていくならば、ここでレイコさんがギターで弾く曲は、直子への鎮魂の年忌の回数とも重なる。三回忌が「ミッシェル」、七回忌が「フール・オン・ザ・ヒル」...そして五十回忌が「ノルウェイの森」なのだ。
さらに重要なのは、あまりに哀しいことに、両方(曲も小説も)とも、男と女(そしてある時は女と女)は決定的にすれ違う運命にあるということである。曲の中では男と女は、セックスをしたようなしないような、しかし、朝起きてみると彼女はいなくなっている。
内田久美子訳ではわかりにくいのだが、ビートルズの原文では他の部分は全て過去形なのに、この彼女がいなくなっているところだけが「This bird has flown」と、現在完了形である。すなわち、それ以来、永遠に彼女とは別れたということだ。深読みするならば、彼女は既にこの世にいないとも取れるのだ。
しかし、それでも一人、世界に残された男は普通の日常を生き続けなければならない。そこがどこかわからないような世界で...
「ノルウェイの森」が収録されているアルバム「RUBBER SOUL」には、もう一つのジョンの名曲「Nowhere Man」が収録されているが、女が去ってしまった後の男は、まさしく「Nowhere Man」=「自分の居場所がわからない男」として、しかし同時に、「Now here man」=「今ここに居る男」として、とり残されるのだ。
実は、僕はこの「ノルウェイの森」のイメージは北欧なのに、曲のイントロと間奏で、インドの楽器シタールが鳴っていることに対する違和感が全く無いことに対して、ずーっと疑問を感じていたのだが、それがようやく解決したような気がする。おそらく、それはこの曲の「世界の何処にいるのかわからない感」を、それこそピッタリと表現していたのである。
一方、小説の中では、男は女(直子)からの愛が無かったことを悟らされるのである。しかし、この、よくわからない世界の、よくわからない場所で、不完全な存在の男は立ちすくみながらも、それでも明日に向かって生きていかなければならない。というのが小説「ノルウェイの森」の主題だと思う。そして、この小説の最後はこう締められている。
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所の真ん中から緑(女性の名前)を呼びつづけていた。
「ノルウェイの森」のような鬱蒼とした世界のイメージを前にしてたたずむ無力な「ひとりぼっちのあいつ」。森は、時に女性そのものをあらわし、それは同時にこの世界をもあらわす。
これは「RUBBER SOUL」の主題でもあるが、同時に村上春樹の小説の主題にも重なるのである。
そして、それは、とりもなおさず現代に生きる僕らの孤独のイメージでもあるのだ。
しかし、さらに比喩を進めるのならば、ワタナベがその中でも「緑=森=女性」を求めつづけるのと同じように、僕らも「森=世界=人々とのつながり」を求め、世界に挑んでいく事でしか状況は拓けないのかもしれない。
その森にぽっかりとあいた底知れない暗い穴に落ちるかもしれないが、それでも、歩きながら。
まさむね
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