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Articles Archive for 6 月 2009

テクノロジー・ビジネス »

[30 6 月 2009 | 2 Comments | | ]

UNIXが40周年を迎えたという。
アメリカのベル研究所のケン・トンプソンとデニス・リッチー(左写真)がUNIXプロジェクトを始めたのが1969年。それから40年が経過したということだ。
1969年といえば、アポロ11号が月に着陸、人類にとっても記念すべき年である。
私的な興味でいえば、この年に、プロレス界では馬場と猪木のBI砲が全盛期を迎え、ビートルズは実質的に解散した。後期の代表作『Abbey Road』の制作が行われている。
そんな1969年に、ベル研究所の二人が、DECのミニコンPDP-7上で「SpaceTravel」というゲームを移植するために作られたのがUNIXというOSだったのである。ようするに、最初は遊びで作られたのだ。
それゆえに、このOSはもともとからして、遊び心満点のOSだったのである。
かなり前(かれこれ30年近く前)になるが、僕はUNIXの初期のソースを見せてもらったことがあるが、そのソースの行番号には「1984」とか「2001」などというSF好きには意味のある番号が恣意的に使われていて、僕は小さくうなずいたのであった。
さて、UNIXの思想は一般的に簡潔性、移植性、互助性などとも説明される。それは、システムとして完璧であることよりも、自由に成長する可能性を内包したOSであった。
そして、UCLAで改良されたUNIXは、TCP/IPネットワーク機能を内包したOSとして発展をとげる。そして、現在でも、その思想は広まり、オープンソースプロジェクトのLINUXや、MAC OS Xへ受け継がれているのはご存知の通りだ。
勿論、Windowsの元になったMS-DOSにもその発想は受け継がれている。
個人的な話であるが、先日、一度に多くのファイルの名前を替える必要が発生した。エクセルのA列に元のファイル名、B列に名付け後のファイル名が、並んでいる。それでは、どうやってそれらを一気にRenameしたらよいのか。
おそらく、一括名付け機能のあるフリーウェアをダウンロードしてきて云々、というのが通常のやり方だろう。また、データを見ながら、WindowsのGUIで一つづつ名前を替えていくという地道な方法もあるだろう。
しかし、その時、僕は、二十数年前によく使った方法を思い出した。
最近の若者にはおそらく「爺の我がまま」にうつったかもしれないが、僕は強引に懐古的な方法を試したくなったのである。
まずエクセルのその部分をメモ帳にコピーし、DOSのコマンドが羅列されたファイル(仮称:temp.txt)をエディットした。本当だったら、ここでviエディタを使いたいところだったが、手元にないので、その部分はメモ帳の置換機能とコピペを使用して以下のようなファイルを作った。下記のように、AAAAA.TXTをXXXXX.TXTに、BBBBBB.TXTをYYYYY.TXT...というように名前を替えるDOSコマンドが羅列されたファイルである。

REN AAAAAA.TXT XXXXX.TXT
REN BBBBBB.TXT YYYYY.TXT
REN CCCCCC.TXT ZZZZZ.TXT
REN DDDDDD.TXT VVVVV.TXT
REN EEEEEE.TXT UUUUU.TXT
  ・
   ・
   ・

そして、次にそれらのファイルがあるフォルダ(デスクトップの下のtemp)にWindowsディレクトリにあるcommand.comをコピーし、そのcomanndo.comを起動し、DOS窓を開く。
そして、以下のようなラインコマンドを打ったのであった。
C:\DOCUME~1\USER¥デスク~1\temp>type temp.txt | command.com | more
すると一気にファイル名が置換されたのである。
ここで僕が使用した「|」がUNIX OSのオリジナリティの一つ、パイプだ。
これは、小さくて簡潔なプログラム(コマンド)の標準出力を次のプログラム(コマンド)の標準入力につなぐ役割をする。
ここでは、テキストファイル(temp.txt)を画面表示するTYPEというコマンドの出力を、command.comという、DOSコマンドを実現するプログラムの入力として渡すことによって、その結果としてファイルの中のコマンドが実行されて、複数のファイルの名前が一気に書き換えられた。そしてその出力であるエラーメッセージがmoreというコマンドの機能により、画面スクロールしてしまわないように1画面づつとめられたのであった。
DOS窓自体が珍しくなった最近の若者達はもしかしたら僕のオペレーションを見て少し驚き、少し感心したかもしれない。
勿論、僕も少し、得意な気持ちがした。いざという時に、こういう豆知識というのは力を発揮することもあるのだ。
キャンプのときに紐の結び方が役に立つのと似たようなことかもしれない。
さて、話が逸れたが、このUNIXの自由で合理的で、発展性のある思想は、60年代後半にカリフォルニアで流行ったヒッピーの思想にも通じているとも言われている。自分で欲しいものは自分で作る、それは決して金のためではない、自分がやりたいからそれをやるということだ。
彼等は自分達の思想を体現したOSにUNIXという名前をつけた。それは、ケン・トンプソンとデニス・リッチーが当時、仕事として同時にかかわっていたMULTICS (Multiplexed Information and Computing System) という安全だが、複雑で巨大で、鈍重なシステムに対抗して、UNICS (Uniplexed Information and Computing System) と名付けられたが、すぐにUNIXと改称されたのである。
これはあまり知られていないことだが、実は、UNIXはeunuchs=(宦官達[1])と同じ「読み」なのだ。
すなわち、彼等はUNIXを冗談半分に、いわゆる「役立たず達」と呼んでいたのである。
しかし、この「役立たず達」が、新しいコンピュータ(MS-DOS、LINUX、MAC OS X等)に「種」を残していくのだから歴史というのは面白い。
ちなみに、66歳になったUNIXの生みの親の一人、ケン・トンプソン(左写真)はいまだ現役でグーグル社でプログラマとして働いているという。
まさむね
[1]宦官(かんがん)とは、去勢を施された官吏である。「宦」は「宀」と「臣」とに従う会意文字で、その原義は「神に仕える奴隷」であったが、時代が下るに連れて王の宮廟に仕える者の意味となり、禁中では去勢された者を用いたため、彼らを「宦官」と呼ぶようになった。
wiki より

日常雑事 雑感 »

[28 6 月 2009 | 4 Comments | | ]

マイケルジャクソンが死亡した。
これから様々な「真実」が出てくるのだろうが、それにしても早すぎる死である。
僕がカナダの西海岸の田舎町に住んでいた頃(80年代末期)、おそらく、その時期はマイケルの全盛時だったと思う。
僕はそこで、何人かの白人の同僚に「マイケルジャクソンはあまり好きではない」という感想を聞いたように記憶している。
よく知られた話だが、カナダという国は、アメリカに対して憧れと嫉妬と軽蔑が入り混じったようなところで、そこから見えたマイケルは巨大化したアメリカ資本主義の象徴のような存在だった。
一人の男のイメージをハリウッドという巨大なエンタテイメントシステムが、人工的に最大限に膨らませた結果としてのマイケル...
そういえば、その頃、ちょうどソウルオリンピックがあった。
あるカナダ人が陸上の100M走で優勝した。その日、オフィスでは、みんな大ハシャギでその話題で持ちきりだった。
しかし、その数日後、その男からドラッグが検出され、金メダルが剥奪された。
オフィスの面々は口々に言った。「あいつはカナダ人じゃない。ジャマイカから来た黒人だ。」
その男の名はベン・ジョンソン。
90年代に入って、マイケルジャクソンは本業というよりもスキャンダルでタブロイド誌を賑わせるようになる。
その好奇の視線は、辛らつで厳しいものだった。
ちょうど、マイケルの全盛時の80年代後半に、彼と同じように一斉を風靡したプロボクサーのマイクタイソン、バスケットボウラーのマジックジョンソンという黒人のスーパースターが下り坂に入った時の厳しい視線には、アメリカのマジョリティが持つ潜在的な願望が投影しているのだろうか。
僕は、同僚達が見せたベンジョンソンに対する手のひらを返したような反応を忘れることができない。
マイケルの死をきっかけにして、YOUTUBEでもう一度、マイケルのパフォーマンスを見直してみる。
その踊りのキレのよさ、歌声の素晴らしさに改めて驚く。
天才という言葉が口をついて出てくる。
彼はおそらく、自分の存在の全てエンターテイメントに捧げたのだ。
そのムーブ、ボイスは人間のものであって、人間のものではないようにも聴こえる。
よくも悪くも「自然」に逆らうそのパフォーマンス。
それが人造的であればあるほど、「本当のマイケル」とはどういった存在だったのかが気になる。
亡くなっても尚、新たな伝説が紡がれていくのだろう。それがスーパースターの宿命だとしても、やはり哀しい。
まさむね

ビートルズ »

[26 6 月 2009 | 4 Comments | | ]

ロスジェネ論壇の旗手・東浩紀が『動物化するポストモダン』等の著作で、今世紀に入って、映画やアニメや小説などのユーザーの享受の仕方が物語消費型からデータベース的消費に移ったというようなことを言っている。
ようするに、今までは、ある作品における物語的な側面にばかり批評が傾きすぎていたという批判だ。
確かに、その通りかもしれない。しかし、僕達のようにトウの立った世代の人間は、いまだに物語にこだわってしまう。それどころか過剰に物語を読み込んでしまう。そんな性根が捨て切れなくて、もう50歳になろうとしいるのに、恥ずかしながらまだ、その「意味という病」に取りつかれているのだ。
       ★
ビートルズをめぐるいくつかの永遠のテーマがある。「ホワイトアルバムを一枚にするとしたらどういう編成にする?」とか「ジョージにとってインド音楽とは何だったのか?」とか「ビートルズ解散にオノ・ヨーコはどういう役割を演じたか?」等など。
そしてその中に「アルバム『Let It Be』の編成、自分だったらどうする?」というのがある。
ご存知の通り、アルバム『Let It Be』は、1969年の初頭、いわゆるゲットバックセッションという「地球史上最悪なセッション」(ジョン談)で弾き散らかされたビートルズの音源を当時売れっ子のプロデューサ、フィル・スペクタがアルバムとして作り上げた作品である。
発売後にポールが「The Long and winding road」のアレンジを嫌悪したというのは有名は話である。
そして、それから約33年後に、ビートル達の当初の意図を汲み取ってライブに近い形でリミックスして出来上がったのが「Let It Be… Naked」というアルバムだ。勿論、これはこれで賛否両論を巻き起こした。
そこで、永遠に決着がつかないのならということで、僕も誠に勝手ながら、「Let It Be」を自分なりに構成してみた。
このエントリーの冒頭にも書いたように、僕は過剰に物語を読み込むタイプの人間だ。
その(悪?)趣味からすれば、この「Let It Be」は、ビートルズがその解散劇を一つの作品としてドキュメンタリタッチに表現した作品にすべきだと考えている。
音に関して、具体的に語ることは難しいし、その力もない。だからあくまでドキュメンタリとして曲順にこだわってみた。(歌詞はいつもながら内田久美子訳である)
それが以下のラインアップである。
1.Dig a Pony
2.Dig It
3.Across the Universe
4.For You Blue
5.Get Back
6.I Me Mine
7.Two of Us
8.Maggie Mae
9.One After 909
10.I’ve Got a Feeling
11.The Long and Winding Road
12.Let It Be
まずは、「Dig a Pony」これはジョンのヨーコに対する熱愛ソングである。Dig(掘る)A PONY(プリティ・オノ・ヨーコ)というようにも深読み出来るこのタイトル。身も蓋もない言い方を許していただけるのならば、次の「Dig It」とともに、「俺の関心は、ヨーコとのセックスしかないよ」というジョンの身勝手な宣言ソングなのである。だから、オープニングにはこの2曲が来る。
さらに、ジョンの一人の世界は続く。確かに名曲ではあるがこの「Across the Universe」、
Nothing’s gonna change my world
何ものも僕の世界を変えることはできない
ようするに「誰も俺の世界に入ってくるな」ってことである。
そして次に来るのは「For You Blue」。勿論これはジョージの曲であるが、映画「Let It Be」を観る限り、その主役はやはりスライドギターを弾くジョン、そして彼にはべるヨーコである。それにしても、ジョージの楽曲にジョンがマトモに、参加したのはいつ以来だろうか。
さて、そんなジョンとヨーコの熱々ぶりに、嫌気がさし、しかし、どうしても昔のように戻って欲しいのがポールだ。「Get Back」の中で「Get Back Jo-Jo」と叫ぶフレーズがあるが、ここでいうJo-Joは勿論、ジョンのこと。それは次回作「Abbey Road」のオープニングの「Come Together」の最初の歌詞の「He got Joo Joo eyeball」と通じている。
さて、そんなジョンとポールのそれぞれの身勝手に嫌気がさしてきたのがジョージだ。「I Me Mine」でこう叫ぶ。
Ime me mine, I me me mine, I me me mine, I me me mine
俺が俺が俺がと自分のことしか考えない
というわけである。
そして最悪の状態は次の「Two of Us」へ。ご存知の通り、この楽曲の演奏中にポールとジョージが激しい口論になるのだ。しかし、その歌詞の中でポールはまだジョンに対する未練を歌う。
You and I have memories
Longer than the road
That stretches out …

相撲/プロレス/格闘技 »

[24 6 月 2009 | No Comment | | ]

三沢光晴が亡くなって一週間が経った。
いまだに、心の中の穴は埋まりきれていない。
それだけ、彼の存在は僕の中で大きかったということなのだろう。
僕は90年代、副業でプロレスライターをやっていた。
当時、UFWや新日本プロレスについて書くライターは多かったが全日本プロレスをメインターゲットにしたライターは少なかった。
村松友視氏が、新日本プロレスを過激なプロレス、全日本プロレスをプロレス内プロレスと表現したのは、けだし名言である。猪木のアジテーションやその生き方、そしてそこから派生した長州力や前田日明のプロレスはライターたちにとって、恰好のネタだったが、旧態然とした全日本プロレスは、そもそも書くことがない世界だったんだと思う。でも逆に言えば、僕のようなただの一ファンに仕事がまわってきたのもそんな事情からだったのだ。
そんな僕の執筆の中で三沢についての文章をいくつかを読み返してみた。
そして今日は、その中から三沢が馬場に勝ったあの日に関する文章をそのまま転用することにする。
初七日も過ぎ、自分の中の三沢という存在を少しでも整理したい。そんな気持ちからである。
少々長いがご容赦ください。
禅譲という儀式を拒絶した二代目の憂鬱(平成プロレス名勝負!宝島)
三沢光晴、小橋健太組 × ジャイアント馬場、スタン・ハンセン組★1994年3月5日☆日本武道館
その日、馬場が最初に繰り出した技は頭突きであった。緊張する場内を一気に生暖かい雰囲気にしてしまう馬場の挙動を見ながら我々は、この日からちょうど二ヶ月前に東京ドームで行われた猪木と天龍の試合を思い出さざるを得なかった。
あの試合も確か猪木の頭突きから試合が始まったのだ。そして、あの時も場内一杯にどよめきが広がった。頭突きという技は、追い詰められた者の最後の抵抗を表すと同時に、時として、レスラーの頑固な生き方をも表現する。明らかにレスラーとしての死期が近づいている二人の巨頭レスラーが呼応するかのように、その頭の固さを誇示している。彼等は、頭突きによってこれからはじまろうとする試合で何を我々に伝えようとしていたのであろうか。
プロレスという一見、野蛮なやりとりの中に過剰な意味を読み込むこと、レスラーたちののっぴきならない性(さが)を発見し、自分に重ね合わせてみること。プロレスと最初に遭遇した時の少年の目の輝きを失ってしまった我々マニアと呼ばれるファンは、このようにしてプロレスにすがって生きているのだ。そしてそんな追いすがるファンたちをこの両巨頭はある時は突然に突き放し、そしてある時は暖かく迎い入れてくれる。その超然とした態度に我々は心をゆり動かされるのだ。だからこそ、その他、凡百のレスラーとは違って彼らはスーパースターと呼ばれるのである。
★父超えの儀式★
さて、馬場の頭突きで始まったこの試合、老巨体を駆使する馬場の頑張りと馬場を気遣うハンセンの優しさ、小橋のやみくもな汗と三沢の美意識あふれる技が交錯する。それは、平成の名勝負と呼ぶにふさわしい内容であった。それぞれが持てる技をすべて出し尽くす展開。後で馬場自身が「この試合で自分が誇れるのは同じ技を二度出さなかったことだ」と語っていたが、おそら馬場は、この試合で体を張って己のプロレス観を提示しようとしたのである。しかも、それは、二ヶ月前に猪木が提示した「キラー猪木」像とは対極に位置する価値観であった。先ほどの馬場のコメントは、猪木の現在の試合スタイルに対するアンチテーゼとしても捉えることが出来るのではないだろうか。
多彩な技をすべて封印し、相手の背後に回り、霊魂のように己の存在感を消し去ったところで相手を仕留める武術のようなスリーパーにこだわりつづける猪木のスタイルと、若手の技を全て受けきった上で、結果として至上の存在感を誇示する馬場のスタイル。二人が同時にプロレスという枠の中の両極端に走っているそれらの姿を目の前にする時、我々は彼らの頑固さとお互いのライバル心の強固さをひしひしと感じ、この緊張感こそが目には見えないがプロレスの醍醐味なのだと実感するのである。
彼らが試合の冒頭で見せた頭突きは偶然にも正確に、彼らの価値観のかたくなさを見せようとするその試合に対する姿勢になっていたのである。
そして、この試合、馬場は三沢にトップロープからのフライングネックブリーカードロップでフォール負けを喫する。三沢にとっては、天龍に続いて史上二人目の快挙となるわけである。しかし、この結果について馬場は「あの技でフォールを取られたことに関してはむしろ嬉しい」というようなコメントを残している。誰が見ても全日本の跡目を禅譲する格好となったあの一瞬。試合後の馬場の満足そうな笑みは、ようやく納得の出来る跡取りの出現に対する隠しようのない家長の笑みだったのである。
おそらく、その背景として、自分をフォールしたまま裏切って出て行った天龍が二ヶ月前にあの猪木にも勝っているという事実が大きく横たわっていたに違いない。
馬場にしてみれば、ある意味では自分を超えて行った天龍が猪木に負けなかったことでどれだけ安心したことであろうか、二ヶ月前のあの結果があったからこそ、馬場はこの日、これほど美しい「父超え儀式」を万人の前に披露することが出来たのである。
しかし、馬場コール一色の場内でのこの禅譲を、一方の三沢はどのように受け止めたのであろうか。試合後、疲労に耐えつつ、両手で馬場に握手を求める三沢は誰よりも早くリングを降りようとする。リングを後にするその後姿には、勝者の雄雄しさというようりは、あやつり人形の憂鬱すら感じられた。本当の勝者はどっちだったのであろうか。俺は勝ったのだろうか。それとも、勝たされただけなのであろうか。三沢の後姿はそのことを訴えていた。我々はそこに、二ヶ月前の試合後、まるで敗者のようだった情けない天龍の姿をダブらせてしまったかもしれない。と同時に、馬場と猪木という両巨頭の偉大さをも同時に感じてしまったのである。
三沢はこう語っている「あの試合に関しては、100%満足しているわけではない。馬場超えを果たしたと思ってはいない」「『週刊プロレス』ファンが選ぶ年間最高タッグマッチ」に選出されるほどこの年、突出して印象深いこの試合をサラリとこう言い切る三沢の言葉に、プロレスという摩訶不思議な世界に向き合う一人の青年の意地が見え隠れしている。
僕にとっての、三沢はその美しさと同時に憂鬱な後ろ姿としてあった。北海道の小さな炭鉱町で生まれ、子供の頃に、飲んだくれの父親が兄の手を引いて家を出ようとした時、兄のもう片方の手を母と一緒に引っ張って抵抗した光晴少年。当然、力の強い父親が兄だけを奪って、彼を捨てて家を出る。その辛い思い出を優しさに替え、リングに上がり続けた三沢光晴の時に見せる憂鬱が好きだった。
しかし、何を思っても、彼はもういない。
関連エントリー
三沢光晴が死亡。僕の90年代は終わった。
まさむね

TV番組 マスメディア »

[23 6 月 2009 | No Comment | | ]

NHKが4月に放送した「シリーズ・JAPANデビュー第1回放送・アジアの『一等国』」の内容をめぐって、ネットを中心に波紋が広がっている。
その内容は、日清戦争後に、日本初の植民地となった台湾を日本がどのように統治したのかを描いたものであるが、それが極端に偏向しているというのだ。
そこでは戦前に日本の教育を受けた台湾人のインタビューが恣意的に編集され、彼らがあたかも、戦前の日本に対して多大な恨みを持っているかのような内容になっていた。しかも、その偏向した内容に対して、制作者であるNHKは、「内容には問題はない」という言葉を繰り返し、視聴者からの批判を、ただ、やりすごせばいいという態度で逃げまくっているのである。
台湾を訪れた日本人は誰しもが彼らの親日的な態度に驚かされる。
僕も何度か台湾を訪れたが、その度に、彼ら、特に戦前の植民地時代を知る世代の人々の日本に対する想いの深さに、逆に、感動させられた。特に、山岳地域に住む高砂族の長老達、彼等は誠に立派な日本語を話す。そして、彼らの少年、少女時代にいかに、日本人によくしてもらったかを語るのである。
そして、その日本語を聞いていると、その昔、日本人はこんなに美しい心で、美しい言葉を話していたのかと、逆に、今の日本語の乱れが恥ずかしくもなる。
現代の日本人こそ、台湾に学ぶべきところが多いのではないか。そんな気がしてくるのである。
それなのに、あーそれなのに、それなのに...
日本人は終戦の時に台湾の人々を置き去りにしてしまった。
そして、日中国交正常化の時に、もう一度、台湾を切り捨てて大陸の中国を取った。
そして、今回のNHKの放送で3度目、今度は、台湾人の心をも切り捨てようとしたのである。
実は、僕は、今回のNHKの放送がNHKと中国共産党との策謀だとか、NHK内に巣食う左翼勢力の情報戦だというような話にはあまり興味がない。本当のことはよくわからないからだ。
それよりも、僕が出会った何人もの台湾の長老達の心がまた傷ついてしまったのかと思うとそちらの方が気になる。彼らが怒っているとすれば、その本意は、戦前に日本が台湾を植民地化したことを怒っているのではなく、戦後、その台湾を捨てたことに怒っているのだ。
しかし、そんな彼らの心からの言葉を、NHKのドキュメンタリ制作者が勝手に自分の「思想」を語るネタとして利用したのである。僕はそのことが許せないのである。
しかも、多くの視聴者が今回のドキュメンタリに対して怒りの声を上げているにもかかわらず、「内容には問題ない」を繰り返すだけの姿勢には、全くもって納得がいかない。
勿論、日本の台湾に対する植民地政策が全て正しかったわけではないのはよくわかる。僕だって、戦前の日本人が台湾人を全く差別しなかったなどとは思わない。
しかし、NHKが、自分達の一方的な「思想」を全国放送という強大なシステムで流しておきながら、それに対する批判は正面から受け止めようとはしないのはあまりにも身勝手ではないのか。
もう時代は変わっているのだ。今までのように一方的な放送をして、視聴者を啓蒙したつもりになってすましている時代ではないのだ。
今からでも遅くはない。制作者はちゃんと議論の場に出てきて、自分の言葉で説明してほしい。
それが公共放送が責任を取るということだと僕は思う。
まさむね