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Articles Archive for 7 月 2009

ビートルズ »

[31 7 月 2009 | 4 Comments | | ]

突然、思いついた僕のビートルズベスト10。
これから、毎月末に思いつきで発表していこうと思う。
1.A DAY IN THE LIFE
2.夢の人
3.ALL MY LOVING
4.ノルウェイの森
5.SHE LOVES YOU
6.MOTHER NATURE’S SON
7.ACROSS THE UNIVERSE
8.FOR NO ONE
9.のっぽのサリー
10.BACK IN THE U.S.S.R
なんとなくバランスをとってしまった感はなくもないが、まぁ、第1回目だから許して。
ポールの曲が6曲、ジョンの曲が2曲、共作が2曲である。
ポールの曲はどれも、彼の天才性がほとばしるような曲だ。3.の「ALL MY LOVING」はジョンをして、「何故、この曲を自分が作らなかったのか」と言わしめた名曲。でも、そのリズムギターで存在感を発揮している。
2.の「夢の人」はカラオケで歌うと最高に楽しい曲。前奏が微妙に違和感があるところも不思議と好き。
8.の「FOR NO ONE」は完璧なメロディー、フレンチホルンという楽器を選んだポールとジョージマーチンの”選器眼”の良さはこれも天才のなせる技か。
どんな曲を作らせても、出来てしまう。そんなポールの才能が最大限に発揮されたのが10.の「BACK IN THE U.S.S.R」だ。これを作った1968年当時、ポールは、その何十年か後に、ロシアの地で大統領の前でこの曲を演奏することなど想像できただろうか。
6.の「MOTHER NATURE’S SON」はポールが夜に一人で作った曲。その夜、ちょうどソ連がチェコに進行した。そういう歴史物語として捉えると、この曲も独特の味が出てくると僕は思う。
7.の「ACROSS THE UNIVERSE」は結局、ジョンが納得するバージョンが完成しなかったという未完の名曲。いまだに不動産のCMでも使われている。スタンダードナンバーだ。40年経っても、名曲は名曲というところか。
「ノルウェイの森」は、ビートルズが女の子のアイドルから、大人の男性になったことを宣言した曲だと僕は思っている。来年、村上春樹の同名小説が映画化される時、またミニブームが来るにちがいない。(「村上春樹とビートルズの「ノルウェイの森」における共通点」)そういう意味で重要。また、ビートルズ三大ワルツ(残りの2曲は、「BABY’S IN BLACK」「I ME MINE」)としても重要。
5.の「SHE LOVES YOU」はやっぱりはずせない。純粋なラブソングではない。ある意味、友情の歌。ビートルズの4人が一番、仲がよかった時代の金字塔。ジョン、ポール、ジョージのコーラスによる「イェー」はビートルズが最もビートルズらしい一瞬だ。
9.の「のっぽのサリー」はたまたま思いついて入れた。実はこのボーカルはポールの中でもベストだと僕は思っている。
21世紀の現在でも、そのメッセージが行き続ける”A DAY IN THE LIFE”がやっぱり一位だ。(「『A Day In The Life』~現代社会にぽっかり開いた穴~」)ジョンの何とも言えない寂しい歌声は人間業とは思えない。
まさむね

相撲/プロレス/格闘技 »

[29 7 月 2009 | No Comment | | ]

枕草子の第百六段『無徳なるもの』(現代語訳=ぶざまなもの)の中にこんな一行がある。
「相撲に負けて入るうしろ手。」(現代語訳=相撲取りが負けて引っ込む後ろ姿)
今から千年も前から、負けて花道を下がる力士はこのように観られていたのだ。
おそらく、この「無徳さ」を現代に引き継ぎ、さらに、見世物にまで昇華しえたのが高見盛である。
勿論、勝って胸を張って花道を去る高見盛を観たいのは言うまでもないが、一方で、彼の「無徳さ」にも心弾かれる。
千両役者というのは彼のような関取のことをいうのだろう。
今場所は負け越してしまったが、来場所も、僕たちを楽しませてほしい。そして、いつまでも土俵に上がり続けて欲しい。
       ★
今場所ある意味で、最も進歩したのが把瑠都であった。
四日目の栃の心戦、十三日目の翔天狼戦、千秋楽の琴奨菊戦と11勝のうち3勝を「つり出し」で勝っているのだ。
相手の肩越しにつかんだマワシをクレーンのように持ち上げ、そのまま相手を土俵の外に運ぶ。
把瑠都にしか出来ない大技だ。
オリジナルの型を持つ力士は強い。
横綱、大関との対戦成績が悪いのが気になるが、その紙一重の壁さえ破れれば、把瑠都に大関の声がかかるのもそう遠くはないに違いない。
       ★
成績という意味では、安美錦の11勝4敗は立派だった。技能賞というのも納得できる。
僕の中のイメージで言えば、安美錦は『浮世雲(はぐれぐも)』の主人公・雲だ。いつもは飄々とした色男。ところが、一たび太刀を抜けば名人の腕前。安美錦の相撲と瓜二つではないか。
来場所は、また三役に復帰するだろう。そこでまた「欲のない強さ」を見せてもらいたい。
そういえば、先に触れた高見盛もこの安美錦も青森出身だ。青森という土地は、大相撲という見世物にとってある意味大事な個性という「花」の名産地である。
上記二人の関取に加え、演劇評論家で早稲田大学客員教授の宮沢章夫氏が提唱する演劇的な「くたびれた肉体」を最も体現する武州山も青森出身だ。
さらに、その他でも、顔面絶壁男・岩木山、反骨の塩撒き王・将司、眉毛横綱・海鵬等、個性的な面構えが並ぶ青森県出身力士。
全体的に高齢なのが気になるが、これからも土俵に「花」を添え続けてくれるだろう。
       ★
そして最後に、やはり触れなくてはならないのが白鵬だろう。なんだかんだと言いながら、優勝をさらった。安定性という意味で言うなら、おそらく大鵬、千代の富士、貴乃花のそれぞれ全盛時にもひけを取らない。
特に十四日目の日馬富士戦では、日馬富士の最高の立会いを受け止め、すぐに両差し。相手を後ろ向きにさせ、電光石火のごとく送り出した相撲は、まさに横綱相撲と呼ぶにふさわしい内容であった。
魁皇と千代大海の土俵際人生、琴欧洲と稀勢の里の明日への希望、朝青龍と日馬富士の捲土重来...
9月には、また、楽しみ満載の秋場所が待っている。
まさむね

J-POP »

[27 7 月 2009 | No Comment | | ]

携帯動画サイトのVISION CASTに「征吾の出張突撃レポート!!」というコーナーがあって面白い。
これは、w-inds.の2009年のツアー、Sweet Fantasyの各会場のグッズ売り場に設置してあるビデオカメラにコンサート終了後のファンが思い思いにメッセージを残すコーナーである。
VISION CASTの会員でなくても、無料でも見られるので、是非見て欲しい。
気になったのが、7月8日の川口リリアホールでのファンのコメント。口々にマイケル・ジャクソンの事を話しているのだ。
w-inds.ファンのブログ、「Soooo Sick!」での丁寧なレポートを見させてもらうと、MCの時に、慶太をはじめ、メンバーがツアー直前のマイケル・ジャクソンの死を悼んで、物真似をしたというのだ。さらに、龍一はムーンウォークまで披露したという。
自分は、14日の国際フォーラムに参戦したのだが、確かにその時も、所々にマイケル・ジャクソンを思わせるようなムーブがあって、「おっ!」と思っていた。
そういえば、w-inds.とマイケル・ジャクソンといえば、以前、フジテレビの朝の番組「ハマ♪song」で涼平が、自分が最も影響を受けたミュージシャンとしてマイケルを上げていたことがあった。

さらに、「冠慶太」(これもVISION CASTで配信しているおちまさとがプロデュースする慶太の冠番組)でも、慶太のマイケルへの想いが語られていた。慶太はいつもステージに上がる直前までマイケルを聴いているというのだ。
       ★
確かに、現在のようなダンス+ミュージック+演出=舞台パフォーマンスという型を創造・確立したのが80年代のマイケル・ジャクソンである。
だから、当然のように、現代のダンスパフォーマーの中には、マイケルの魂が脈々と流れているのだ。
父親の影響でビートルズのロックをそのルーツに持つ、龍一は微妙に立ち位置が違う(「w-inds.の龍一とジョンレノンが似ている件」「w-inds.のライブツアー特別待受けに見える龍一の想い」「w-inds.のストイックさに明日の可能性がある」参照)が、慶太と涼平には確実にマイケルの「血」が直流しているに違いない。(勿論、龍一にもかなり流れていると思うけど...)
今回のツアーでの見所の一つに、ツアー直前に亡くなったマイケル・ジャクソンに対して、彼等がどのような形で追悼の意を表するのかという隠しテーマがあったのだが、僕は、例えば、「Crazy For You」における三人のパフォーマンスの中にそれを見たような気がした。
その直後のMCで「やっぱりダンスミュージックいいですね。」というような事を語りあっていたが、むべなるかな。
「マイケルを追悼するw-inds.」=「w-inds.に乗り移ったマイケル」を僕は確実に感じ取ることができたのである。
       ★
魔法にかかったシンデレラの舞踏会をコンセプトとした演出のw-inds. Live Tour 2009 “SWEET FANTASY”。しかし、時計の針が12時を回っても彼らは歌い、踊り続ける。
人間なら誰も持っている時の流れに対して感じる残酷な哀愁を謳いあげた「四季」と、それでも一番熱かった時代のノリを現代に蘇らせる「ブギウギ66」を最後に持ってきた彼らの意志に、僕は深くうなずくと同時に、いとおしさすら感じた。
いろんな評価があったのは百も承知で敢て言うならば、少年から青年にならんとするw-inds.の、その時間に対抗するしつつも、その成長を必然として受け入れるギリギリの微妙なラインを演じようとした”一瞬の甘い夢(Sweet Fantasy)”を、永遠の少年・マイケルを乗り移らせる事によっての表現で試みた三人の心意気を僕は最大限に評価したいと思う。
まさむね
2009.12.06 日常生活の中で思わずつぶやくw-inds.のあのフレーズ
2009.10.29 本当の「歌の力」は、w-inds.の新曲「New World」にある
2009.11.26 w-inds.、最後に残るのは慶太、龍一、涼平、3人の声だ
2009.09.03 w-inds.ライブ、その隠れキリシタン的恍惚は特権的だ
2009.07.27 w-inds.のステージはマイケルが乗り移った甘美な夢だ
2009.07.12 名字と出身地から家紋がわかるか ~w-inds.の家紋~
2009.07.04 w-inds.のライブツアー特別待受けに見える龍一の想い
2009.05.25 w-inds.の龍一とジョンレノンが似ている件
2009.05.18 w-inds.とモーニング娘。どちらが勝っても嬉しいし悔しい僕
2009.05.08 w-inds.のストイックさに明日の可能性がある

日常雑事 雑感, 歴史・家紋 »

[26 7 月 2009 | No Comment | | ]

長谷川順音先生が今年の1月に亡くなった。
僕は、毎年、お中元とお歳暮でご挨拶させていただいていたのだが、今年のお中元のお返しは、奥様から、先生がお亡くなりになったという悲しいお知らせだった。
先生は、僕が家紋に興味を持つきっかけを作ってくれた方だ。
以前の会社で、先生と一緒に家系調査の仕事をさせていただいた時からのお付き合いで、いろいろなことを教えていただいた。
こちらが粗相をして烈火のごとく叱られたこともあったが、いつもはとても温厚で、思いやりがあり、優しかった。ちなみに、カラオケにおける声の伸びも一流だった。
先生はいわゆる昭和一桁生まれ、様々な人生経験をされてきた。
先生が僕に話してくれた一番の逸話が、戦争体験だった。
その頃、先生は少年兵としてシナにいたという。
毎日、朝の訓練というのがあったが、ある日、先生は腹痛で朝の訓練を遅刻してしまった。
急いで、訓練場に着いたら、なんと、同級生達が全員、馬賊に殺されていたのだ。
先生は、歩いてそこから最も近い日本軍の駐屯地まで逃げた。たった一人でだ。
それこそ、文字通り、必死だったという。
そういう体験をされている方は強い。その後も、いろんな事を経験されてきたという。
いわゆる「美味しい話」に騙されたこともあったらしい。
家系調査という仕事柄、様々な危ない目にあったこともあったらしい。
おそらく、先生の優しさは、そういったいろんな経験の賜物なのであろう。
先生は常々、人生には落とし穴が沢山あるから、とにかく誠実に生きなさいと言っておられた。
「自分のルーツが解る本」「春日局」「ニッポン人の氏姓」等、沢山の著作も残されている。
今度、ゆっくりとまとめて読み返してみたいと思う。
まさむね
先生の画像は、神田雑学大学よりお借りいたしました。

書評 »

[25 7 月 2009 | No Comment | | ]

学生の頃、静かにヴィトゲンシュタインが流行っていた。
友達の部屋には、必ず、オレンジと緑のヴィトゲンシュタイン全集(大修館書店)があったような気がする。
80年代初期を文学部の学生として過ごした青年達のインテリアのようなものだ。
みんな今頃、どこで何をしているのだろうか。
       ★
『はじめての言語ゲーム』(橋爪大三郎)を読んだ。
「もっともわかりやすいヴィトゲンシュタインの入門書」というキャプションのが目に入ったからだ。
僕が学生の頃読んだヴィトゲンシュタイン、その一行、一行は理解できた。そして口にもしてみた。
「世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」
「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」
「語りえぬことについては沈黙しなければならぬ」
でも、彼が本当に何を言いたいのかはわかっていなかったと思う。
そして、その時のちょっとした恥ずかしさがこの本を手に取らせたのだ。
       ★
橋爪先生はヴィトゲンシュタインのメインコンセプトである言語ゲームについてこう語る。

その結論。「痛い」は感覚の名前ではない。感覚の名前だと考えると、自分が痛いときだけしか、「痛い」と言えなくなる。相手が痛いかどうか、自分にはわからないからだ。そうではなくて、「痛い」は、自分が痛いとき、そして相手が痛いときのふるまいである。ふるまいだから、お互いに観察できる。自分も相手も、誰もがひとしく「痛い」という権利があって、それは、痛いということなのである。-これが、ヴィトゲンシュタインの明らかにした私的感覚の言語ゲームのしくみだ。

この見方は、究極的には、「神」がいるかどうかが問題なのではない。「神」がいるかのようにみんなが振舞うから「神」が実在するようになるということ、つまり宗教(キリスト教)というものは、「神」が実在するというルールを前提とした言語ゲーム内でしか存在し得ないものとなるのだ。
勿論、その言語ゲームを外から見ている人々も別の言語ゲームの中でしか生きられないのであるが。世界について語る時、言語ゲームという考え方はしっくりくる。それが、現代社会批判に通じ、相互理解への足がかりになるということも理解できるのだ。
       ★
しかし、一方で日常感覚に話を戻してみる。
「痛み」という話であれば、僕はどうしてもプロレスに関して考えないわけにはいかないのだ。
プロレスというのは、最低限の「痛み」を最大限にふるまうゲームである。
しかし、最大限に「痛み」をふるまうために、身を削るレスラーたちも沢山存在する。先日、リング上で亡くなった三沢選手もその一人だ。多くのレスラーは、リング上では「痛み」を強調しながら、そして、私的にも確実に、普通に痛がる日常を過ごしているのである。
一方で、全く痛くないのに、「痛み」をふるまうこともある。全く当たっていない技でフォールされてしまうこともあるし、病院の定期健診に行ったら、「運動不足」と診断されたレスラーすらいるのだ。
しかし、中には、「痛み」を全く感じさせるようなふるまいをしてはいけないようなタイプのレスラーもいる。今は懐かしき、ロード・ウォーリアーズなんかはその典型だ。
このようにいろいろと考えてくると、言語ゲームというのが「ふるまい」の総体だというのもよくわからなくなってくる。
世の中、そんな単純化できるのだろうかとも思う。
やっぱり僕の頭では理解出来ない。
歳を重ねれば、思慮深くなり、いろんな事がわかってくるというのは多分、ウソだ。逆に、わからないことが多くなる。
そして、最後はヴィトゲンシュタインの言葉通りに振舞わざるを得ないのだ。
「語りえぬことについては沈黙しなければならぬ」
もしかしたら、80年代初期の文学部青年達もどこかで沈黙を守っているのかもしれない。
まさむね