Articles Archive for 7 月 2009
書評 »
最近、本屋に言って気づくのは、歴史コーナーで「古事記」や「日本書紀」関連の本が増えたことだ。
僕が学生の頃は、岩波文庫や講談社学術文庫ではあったような気がするが、現在のように地図本、漫画本、図解解説本がコーナーに並ぶような状況とは程遠かった。
おそらく、これも時代の流れなのだろう。日本人が自分達のことをもう一度、考え直そうというブーム。それはそれで、結構なことだ。
確かに、記紀を読んでみると、そのストーリーが面白いのと同時に、現代の日本人の倫理感、感性に通じるものを発見することがあり興味深い。
例えば、日本人のキレイ好きは、イザナギの禊に通じるだろうし、人の和を尊重する気風は、大国主命の話し合いによる国譲りに起源を求めることも一興だろう。
また、日本人の酒に対する寛容さは、スサノウによる八岐大蛇退治、ヤマトタケルによるクマソタケル成敗の話が両方とも、酒を敵に飲ませて油断させたところを倒すという、ある意味、卑怯な戦闘に対する自己正当化かもしれないなどとも考えてしまう。
さらに、海幸彦の山幸彦に対する意地悪な態度が後々の不幸を呼び寄せるところとか、ニニギノミコトが木花咲耶姫命と結婚した際に、石長姫を帰すところから天皇家の子孫の寿命が短くなってしまう逸話を見ると、不寛容に対する戒めをそこに読み取ることも可能だ。
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また、古事記を読んでいて面白いのは、このように現代に通じるあるモノを見つけるのと同時に、当時の日本の状況、価値観、事件等を推理するヒントがそこかしこに隠されているところにもあるだろう。「一冊でつかむ天皇と古代信仰」(平凡社新書 武光 誠著)は、そんな知的好奇心を満足させてくれるに足るお手軽な一冊である。
もともと、この武光先生の著書は、学者らしい緻密なデータと、一方で、学者のくせにこんな不用意な事言っていいの的な思い切りの良さのバランスに特徴がある。そして、その思いっきりのいい一言は、読者に、程よい考えるヒントを、また、緻密なデータは安心感を与えてくれるのである。
例えば、上記の本ではこんな言い切りがある。
古代の日本には、神がつくったすべての人間は善なるものだとする発想がつよくみられた。つまり、悪事を行なった人間は、体が一時的に汚れたような気の迷いからまちがいを犯した。泥やごみのついた体は洗えばきれいになる。それゆえ、穢れた者は祓によってもとにもどるとされたのだ。
僕は以前から、日本人は、何故ヤンキーに優しいのだろうと漠然と思っていたが、それは「人間は善なるものだ」という古代からの日本人の信仰にもとづいた観念と繋がっていたのか、と、この一節を読んで納得してしまうのであった。
また、こんな文章もある。
手長、足長の神は、縄文時代以来受け継がれた自然神信仰をもとにつくられた神だと考えられている。諏訪では、そこの最高神と縄文的な神々が共存できた。しかし、朝廷は縄文的な神を否定した。そこで、『古事記』などでは縄文的な神々をまつる人は、手足の長い土蜘蛛として軽蔑の対象とされていた。
今でこそ、手足の長い人はスタイルがいいということで尊重されているが、古代ではむしろ、軽蔑されていたのか。現代のスタイル信仰の起源はもしかしたら、縄文的価値の復活かもしれないと考えさせられたりもするのだ。
さらに、もう一つ。
山幸彦は、呪い返しを恐れて後手で呪術を行なった。相手が呪力をもち呪い返しをすれば、呪いが自分にはね返ってくる。しかし、後ろを向いていれば呪いはかからない。
この発想は近年までみられた。夜道で誰かに声をかけられても、決して振り返ってはいけないという俗信がある。
そういえば、ドラマなどで、上司が部下に残酷な命令を下す際には、後ろ向きの状態で言うというシーンがよくある。もしかした、その構図の起源は古事記のこのシーンにあったのかもしれない。
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とにかく、武光先生の著作は面白い。ちょっと前まで放送していた日テレの「日本史サスペンス劇場」の専門家席に座っているだけの人だと思ったら大間違いの切れ者なのである。「県民性の日本地図 」(文春新書) 、「名字と日本人―先祖からのメッセージ」 (文春新書) 、「「型」と日本人 」(PHP新書) 、「天皇の日本史 」(平凡社新書) 等、どれをとっても、イデオロギー臭さも無くとても読みやすいので日本史があまり得意でない方も是非、手にとってみてほしい。
まさむね
日常雑事 雑感, 歴史・家紋 »
趣味はなんですか。という質問が昔から苦手だった。
特に履歴書の趣味欄というのが恨めしかった。ここに書けるような趣味がなかったからである。
確かに、プロレス観戦というのは20代~30代に一番、時間をかけた「遊び」だったが、恥ずかしながら趣味というのにはちょっと違和感があった。なんか変った人と思われるのがどこかで嫌だったからだ。
しかし、最近、ようやく趣味と呼べるものが出来た。それは墓巡りである。
勿論、これはこれで、常識的な人からは、眉をひそめられる可能性がないわけではない。
ただ、この歳になってしまえば、逆に「恥ずかしがる事自体が恥ずかしい」というある種開き直りにも似た心境になってきたのである。
僕の場合、墓巡りと言っても、ただ有名人の墓に行って、お参りするというだけではない。有名人の墓石に刻まれた家紋を撮影して、種類分けするというのが最終目的だ。そして、この一本気新聞上の「有名人の家紋」というコーナーでデータベース化させていただいているのである。
しかし、それとは別に、霊園で有名人の墓を探すという行為はそれ自体でもかなり楽しいゲームであることに最近気づいている。
このゲームは、まずは下調べから始まる。
『東京お墓巡り―時代に輝いた50人(生活人新書) 』『東京・鎌倉 有名人お墓お散歩ブック―誰もが知っている104人の墓碑完全ガイド』『図説 東京お墓散歩 (ふくろうの本) 工藤 寛正 』といった本や、 名墓録、有名人の墓、文学者墓所一覧表といったサイトで墓の場所をチェックするのである。
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そして、最寄り駅に集合。僕は同志二人と三人でTBC(東京墓石倶楽部)という会を結成しているのだが、彼等はそれぞれが墓探しの得意技を持っていて頼もしい。O君は抜群の視力と勘の良さを頼りに次々と墓の場所を突き止めていく。彼の目にかかれば、谷底にいても山頂の墓石に刻み込まれた人の名前もキャッチできるのだ。また彼の墓探しの勘は、それこそ天下一品。墓の方から彼に「見つけてくれよ」との信号を発しているかのような発見率を誇っているのである。
また、K君の得意技は、通称・墓守誑し。つまり、すぐに墓所関係者と仲良くなり、墓の場所を聞き出すのが得意なのだ。昨今、個人情報保護を盾に、口の堅い墓守さんも増えているが、そんな彼等もK君の話術をもってすれば、コロっと墓の場所を漏らしてしまうのであった。
そんな三人が、本やネットの情報で墓を探すわけであるが、それが一筋縄ではいかない。あるはずの墓がなかなか見つからないこともしばしば。山を登ったり降りたり、まるでオリエンテーリングのように駆け回るのだ。(左図は東京ドーム12個分の広さの鎌倉霊園)
それが、誰が一番早く墓を見つけるかを競う、ある種、スポーツのような面白さなのである。
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また、墓をみつけてみると、その個性にうなずかされるときもある。先日、鎌倉霊園に行って、『ビルマの竪琴』の作者・竹山道雄さんの墓を見つけた時もそうだった。竹山さんの墓は、著名な文学者の墓という感じではないのだが、墓の回りに雑草が生い茂っていて、ビルマのジャングルをも想像させるのであった。
また、以外な有名人同士が「墓ご近所」だったりするという発見をすることがある。例えば、鎌倉霊園だったら、川端康成の墓と堀口大學の墓は隣同士だし、大杉勝男と大伴昌司が近所だった。また、有名なところでは、三鷹の禅林寺の太宰治の墓は森鴎外の墓の向いにあったり、巣鴨の慈眼寺の谷崎潤一郎の墓のすぐ近くに芥川龍之介の墓があったり、谷中霊園の鳩山一郎の墓のすぐ隣に横山大観の墓があったりするのだ。
う~ん、これらの組み合わせには想像を掻き立てられるなにかがある...
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確かに、ゴルフとか競馬とかグルメというような、社会に認知されたレジャーとしての趣味というのもいいだろう。
ただ、なんだかわからないが、いつの間にか夢中になってしまうオリジナルな「遊び」というのも乙(オツ)なものである。
いつまで(厭きないで)続けられるかわからないが、しばらくは止められないと思う。
まさむね
日常雑事 雑感, TV番組 マスメディア »
先日の「大人のソナタ」は興味深かった。
日本人にはモノを怖がらない遺伝子を持つ人が少ないというのだ。
例えば、ヨーロッパ系外国人は35%、アフリカ系外国人は68%、しかし、日本人にはたったの3%しか怖がらない遺伝子を持つ人がいないらしいのだ。
詳細な科学的根拠は不明だが、なかなか面白い説だと思った。
だから、日本人は妖怪やお化けの存在を信じる、そしてそれを怖がるというのである。
そういえば、以前、イギリス人は、他のヨーロッパ人に比べて幽霊を信じているというような話を聞いたことがある。
Beatlesにも「Cry Baby Cry」っていう幽霊ごっこをする子供を歌った歌があるし、ネッシーやミステリーサークル、ハリポタを生み出したのもイギリスである。
ユーラーシア大陸の東西の端にある島国に、それぞれ怖がり屋の人々が多いっていうのはどこか示唆的ではないか。ようするに、元々大陸にいた人々の中で怖がり屋が両端の島に逃げてきて住み着いたという仮説が成り立つからだ。
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確かに、日本人は怖がり=慎重な民族ということが言えるかもしれない。だから、狩猟よりも農耕を選んだ、とか個人でリスクをとるよりも、集団で顔を隠すような社会を選び取ったのかもしれない。「和」という価値を第一に置くメンタリティも、そこから説明できるかもしれない。他人とのトラブルを極端に嫌がるのは怖がりということだからだ。
そういえば、先々週あたりだったか、木村拓也主演の「Mr.Brain」で、「微笑」というものは恐怖心の裏返しという話をしていた。
元々、恐怖心の強かった人類の祖先は、何物かが近づくと歯をむき出しにして相手を威嚇しようとする。しかし、その何物かが敵ではないとわかると咄嗟に、歯をむき出した顔をごまかそうとする、その時の顔が「微笑」というのだ。
日本人は、外国人から、よく「微笑」する民族だと言われるようだが、逆にいえば恐怖心が強いところから来る仕草なのかもしれないのである。
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さらに話を進めてみると、現代のような明日が不透明な時代、不安な時代、日本人は必要以上に恐怖心を感じているのかもしれない。その不透明さに対して果敢に挑戦していこうとするよりも、後ろ向きになったとしても安定性にすがろうとする行動をとるのも、遺伝子的に納得出来る行動なのかもしれない。
僕は、選挙において世襲議員に投票してしまう行動パターンは、一種の安定への志向の表れだと思っている。
それは利権温存、不公平というような問題以前に、日本人の精神性に根付いた行動なのである。
政治家の世襲制限をするということは、安定性を求めようとする有権者の自由をも奪うことでもあるという反面にも注目すべきかもしれない。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技 »
朝青龍が千代大海の引き落としにばったりと落ちた。
立会いから千代大海の突き押しに後退し、土俵際まで追い詰められ、体が完全に伸びきったところを引き落とされてしまったのだ。
一緒にテレビを見ていた妻は仕切っている時から、朝青龍の肌つやの悪さ、オーラの無さを指摘していたが、結果は案の定。
女の勘はいつも鋭い。
それにしても、ここ数場所、一度、緊張感の切れた朝青龍のその後の取り組みはあまりにも脆い。
人並みはずれた気迫と集中力でここまで綱を張ってきた横綱だけに、今後が気になる。
白鵬や日馬富士等、モンゴル勢の成長、琴欧洲、把瑠都等巨漢の欧州勢の台頭の陰で朝青龍の存在感の薄さは寂しい。
このまま、ジリジリと引退の道を歩んでしまうのだろうか。それはあまりにも悲しすぎるではないか。
かつて、憎らしいくらいに強いと評され、ヤンチャで豪放磊落な横綱として、一世を風靡した男の意地を見せるのはこれからだ。
人間誰だって、上り坂の時もあれば、下り坂の時もある。しかし、人間の価値は、その下り坂の時にどれだけ踏ん張れるのかにあるのではないか。
今が正念場の朝青龍、彼の本当の物語はこれから始まるのだ。
その他、今場所で輝いている関取について語ってみたい。
朝青龍、白鵬、日馬富士、鶴竜に続く、モンゴル勢の雄が翔天狼だ。その優しい表情からも想像できるが、彼は本当に親孝行らしい。彼が勝てば、故郷のお父さん、お母さんも喜ぶと思えば、応援しないわけにはいかない。そんな雰囲気を持った彼はスターの素質十分だ。
花がある力士といえば、やはり山本山を外すわけにはいかないだろう。猛虎浪との一戦は、ギリギリの取り直し、極端に体力が無いのか体が重すぎるのか、二番目は見るからに疲労していた。それはそれで見世物としては面白いのだが、大丈夫かと思わず肩を叩きたくなる。
あまりの疲労のため、控え室に下ったのは勝った猛虎浪よりも後だったという冗談みたいな逸話を残してくれた。
今場所は、把瑠都の明るさがヤケに目立つ。元々、陽性の力士ではあるのだが、対戦を終えて花道を下るときのニコニコ顔は憎めない。体の大きさは精神のおおらかさをも内包しているのか、白人とはいえ、久々に「お相撲さん」といったたたずまいが素晴らしい。
今場所好調なのが琴欧洲である。体の大きさの割りに、相撲の小ささ、気の弱さが指摘される大関だが、今場所は逆にその気の弱さを慎重さに替え、巨漢力士にありがちな大雑把な相撲ではなく、理にかなった動きで、昨日の魁皇戦も上手く乗り切った。白鵬という大きな壁があるにしても、久々にやってきた優勝のチャンスを是非ものにしてほしい。
また、ご当地の琴光喜も好調のようだ。ここのところ、分の悪かった日馬富士に対して、彼を上回る動きの速さで1敗を守った。熱烈なファンでしられる愛子様も大喜びだろう。最近は、プロ野球にもご興味をお持ちだという愛子様だが、今日の琴光喜を見て、再び大相撲を見直してくれたに違いない。
好調と言えば、稀勢の里を忘れてはいけないだろう。その武骨な表情はかつての北の湖をも髣髴させる。花という意味では残念ながら琴欧洲や日馬富士に一歩譲るかもしれないが、内に秘めた気迫は並ではない。日本人として横綱に最も近い男、攻めて攻めて攻めまくれば、栄冠も近いに違いない。
一方、頑張って欲しいのが阿覧だ。初めての上位挑戦で星が苦しくなるのは仕方が無い。しかし、いつもの力まかせのバチバチファイトが見られないのが寂しい。確かに、彼の課題は、相撲のセオリーを学ぶことだという意見もわからなくもないが、彼の個性である格闘技的な気迫、ファイトを期待したい。おそらく彼にしか出来ないパワーファイトがあるに違いないのだ。
まだまだ語りたい力士は沢山いるのだが、今日はこのへんで...
それにしても、やっぱり相撲は楽しい。様式美の中に人間の生の気持ちが現れる一瞬が見る人の感情の襞に触れるのだ。
日本人の発明したもののなかで最高の一品が大相撲だと思うのは僕だけだろうか。
まさむね
政治, J-POP »
総選挙が近づいている。今の政治日程だと8月30日だという。
現在の情勢だと、民主党の圧勝は動かない様相を呈している。
自民党はこれまで半世紀にわたって政権を握ってきたわけだが、結局、ここへきてニッチもサッチもいかなくなったということだろう。
元々、自民党は、日本という地方の顔役達の連合組織の利益を保証するための政党だった。
具体的に言えば、自民党は、官僚を通して、土建屋、農協、漁協、商工会議所、業界団体、医師会、郵便局長会、寺や神社などに金をばら撒く、あるいは保護することによって、すなわち、そういった既得権益集団(中間組織)を生きながらえさせ、その上に乗っかることで、結果として日本らしさを維持させてきた政党なのである。
保守というのは、そういった日本らしい組織社会を保守するという意味だったのだ。
そして、冷戦時代までは、外交を、アメリカに一任することは、上記の政策にとって誠に都合がよかったのである。
しかし、90年代に入って、冷戦構造が崩れると、アメリカは日本を保護する政策をとる必要が無くなり、日本はアメリカの金づるとして、具体的にはグローバルスタンダードにさらすことによって、日本的組織社会に大きく揺さぶりをかけるようになってきたのだ。
そして、既得権益集団にばら撒いてきた金自体が底をついた時に登場したのが、「小さな政府」を標榜する新自由主義者の小泉純一郎だったのである。
人々は、彼の登場を熱狂的に受け入れた。今までのように既得権益集団に、直接、金が回らなくなっても無駄をなくせば、世の中はまた回りだすと考えたのだ。
しかし、多くの人々にとって、思ってもみなかったことだが、無駄な部分というのは、実は、自分の事だったのである。
今まで、地方に回っていた金が流れなくなる。競争原理とは無縁な場所で上から降ってくる金に対して口をあけて待っていた面々が一気に困ってしまったというわけだ。
誰だって、自分がやっていた仕事が無駄だとは思っていなかっただろう。しかし、現実は厳しかったという事だ。
そこで、あわてて、かつてのような既得権益者に金を、再びばら撒こうとしたのが、麻生政権での15兆円の景気刺激策だ。
しかし、自民党は一度、新自由主義に舵を切ってしまっている。今更、元へは戻れないという勢力もいる。今回の自民党内の混乱は、ようするに、同じく自民党という旗を持っていたとしても、新自由主義で行くのか、ばら撒き保守にもどるのか、それが全く統一されていないところからくる混乱なのだと思う。
そもそも、一緒にいる事自体が間違っているということなのである。
そして、一方の民主党は、こういった自民党の混乱を尻目に、既得権益集団ではなく、一般の人々に直接ばら撒くという政策でとりあえずは統一しているようにも見える。
子育て支援策(子供一人当たり月々2万6千円の支給)、農家への戸別所得補償、そして高速道路の無料化...
僕は以前から、民主党はヤンキーに優しい政党だと思ってきた。
民主党の本質は、田舎で、出来ちゃった婚した元暴走族で、レタスなんかを作っているあんちゃん(多分に架空の人物ではありますが)に、つまり、僕のような都会のサラリーマンとは全く縁の無いような人々にやたらに篤い政党なのである。
そして、今年の8月30日に、そういうヤンキー達が待ち望む政権がついに誕生する可能性が高くなってきた。
まぁ、それでもかつてのように、官僚が威張り、顔役が得をする政治よりもマシかもしれないという一縷の望みを託し、僕はとりあえず民主党に期待したいが、しかし、一方で、都会の一人暮らし、または夫婦二人暮らしで趣味に生きるようなオタク層には全く恩恵が無い。税金が上がって、自由に使える金が減る、それは覚悟しなくてはならないだろう。
わかりやすく言えば、民主党が政権を取った暁には、オタクや公務員層にファンが多いモーニング娘。にとってはさらに厳しく、ヤンキーの結婚応援歌を歌うGreeeenや湘南乃風にとっては、さらに売上げが伸びそうで、子供を持ちながら力強く生きる安室奈美恵にはちょっといい時代が来そうなのである。
まさむね




