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Articles Archive for 4 8 月 2009

日常雑事 雑感 »

[4 8 月 2009 | 10 Comments | | ]

僕が大学生の頃だから、今から30年近く前の話だ。
その頃、ミニコミブームのようなものがあった。
みんなが、思想とか、エログロとか、漫画の評論誌なんかを勝手に作っていた。
いまや大学教授の竹熊健太郎先生も、「摩天楼」というミニコミを作っていた。一方で、田中康夫が「なんとなくクリスタル」を書いて脚光を浴びていた。その頃の話である。
僕も、何人かの友達とミニコミを作ろうという話になった。
その中にいたのがH君だ。
彼は無口だったが、たまにボソッと気の利いた事を言う、そんなタイプのクールな感じの青年だった。
そして何よりも見た目もカッコよかった。
ある日、彼と、新しく作るミニコミをどうしようかという話になった。
多分、場所は、渋谷のハチ公前の広場だったと思う。
その頃、僕らはよく何時間も立ち話をした。
大学のキャンパスで話をして、放課後、喫茶店で話をして、別れ際にまた立ち話をして、さらに家に帰って電話で話をする。今、考えると何を話していたんだろうと思うけど、とにかく話をしまくっていたのだ。
話題は女や金儲けの話ではなかったことだけは確かだと思う。
ミニコミの内容は何でもよかったのだが、流行の店を紹介したり、ファッションを取材したりするようないわゆるメジャーな雑誌の真似はする気が無かった。かと言って、サブカル誌にするほど、僕らはそれらにのめり込んでいたわけでもなかった。
ちなみに、当時は、「遊」「POPEYE」「宝島」「ビックリハウス」「現代思想」なんかが流行っていた。
僕らは、ハチ公前で、考えているような考えていないような無意味な時間を過ごしていた。
突然、H君が、「全く役に立たない情報誌を作ったらどうだろう。」と言い出した。
「例えば?」と僕は聞き返す。
すると彼は少し考えて、「東京中の一本杉を特集するとかさぁ...」
その言葉が妙に可笑しくて、僕は即、「そうしよう」と答えた。
そしてその特集に引きづられる形で雑誌の名前は一本杉新聞から一本気新聞に決定したのであった。
全く、安易な思い付きだった。
勿論、根っから不精なH君をはじめ、僕らは東京中の一本杉を調べるための取材などするわけがない。
その企画は一瞬にしてお蔵入りとなったのであった、「一本気新聞」という名前を残して...
ただ、それから一本気新聞は4~5号はミニコミとして続いた。
結局、ミニコミの内容は、当時大学にいた凡庸な教授を物笑いのネタとするような内輪雑誌になった。
そして、僕らにも就職の時がやってきた。僕はコンピュータソフトの会社に、H君は、アパレル業界に就職が決まった。
そんなある日の早朝、H君から電話があった。「ファーストミットを買ったからキャッチボールをしよう」というのだ。
彼はいつも唐突だ。
何故、普通のグローブじゃなくてファーストミットなのか、よくわからないまま、僕らは彼の住んでいたマンションの近くの空き地で会って、黙々とキャッチボールをした。
キャッチボールというのは、人を無言にさせる。僕らはただ、ボールを投げ、受け取り、またボールを投げつづけた。
そして、適当に疲れ、僕らは別れた。
その日の朝、何故、突然、僕に電話をくれたのか。僕は彼に聞きそびれた。
そしてそのことは、小さな謎として残った。
数日後、H君から葉書が来た。
「僕のファーストミットに花を咲かせてくれてありがとう」
しかし、その後、僕はH君とは全く連絡を取らなくなってしまった。
理由は無い。ただ、縁遠くなってしまっただけだ。
そして、時間がたった。僕は人づてにH君がすぐに会社を退社して実家に帰ったという話を聞いた。
僕はそれを聞いて別に何も感じなかった。仕事も始まっていたし、日々の雑事に追われていつの間にか、H君のことなど、気にもしなくなっていたのだ。
そして、次にH君の話を聞いたのは、彼が死んだという知らせだった。
僕は葬式に行った。祭壇に飾られていた彼の写真は、僕が知っている彼ではなかった。
その写真の彼はあまりにも太っていたのだ。
ご家族の話によると、死の間際、彼はほとんど他人とも会わずに家に引きこもっていたらしい。
そして、一人で和歌山県の田辺というところに行って、そこで亡くなったというのだ。
数年後、僕はその田辺という町に行ってみた。そこは何の変哲もない港町だった。
駅前には弁慶の銅像があった。
彼は何故、最期の地に田辺という土地を選んだのだろうか。小さい謎を残した。
僕はその後、90年代初頭に小さなパソコン通信を開設し、それを「一本気新聞」と名付けた。パソコン通信は、しばらくは、それなりに盛り上がった。
しかし、インターネットの時代となり、その小さなパソコン通信もいつの間にか自然消滅した。
また「一本気新聞」という名前だけが残った。
その後、ところざわさんに誘われてブログのハシリのようなことをなんとなく始めた。
90年代中盤の話だ。
このブログは、書き始めては止めて、また書いては止めてということを繰り返した。
本ブログのログを見てもらえばそのあたりからの経緯はお分かりいただけると思う。
しかし、僕は、この「一本気新聞」という名前だけは捨てられないのだ。
村上春樹の「ノルウェイの森」では、主人公のワタナベの友人・ツヅキがワタナベと二人でビリヤードをした日の夜、突然に死んでしまう。ワタナベはこの世界に一人残される。そして、ワタナベはツヅキのことをずっと忘れられないでいる。
僕はこのワタナベの気持ちが少しわかるような気がする。
今まで一緒に歩いていた友人が、突然、深い穴に堕ちてしまっていて、もうそこにはいない。
理由がわからない。謎だけが残る...
そんな奇妙な喪失感をワタナベと僕は共有しているような気がするのだ。
H君が企画した東京中の一本杉の特集はまだ実現していないが、その代わりといっては何だが、いつの間にか「一本気新聞」は、家紋を特集するブログになっている。なんとなくではあるが、全く役に立たない(よく言えば、純粋趣味の)情報誌をやろうと言ったH君の意志を継いでいるような雰囲気にはなってきている。
天国にいるH君はそんな僕のブログを読んでくれているのだろうか...
なっ、はずないか、と思いながら、僕はいつかは東京中の一本杉について調べてみたいと心の中のどこかで思っている...というのも怪しい話だ。
まさむね