Articles Archive for 9 月 2009
ビートルズ »
今月のビートルズベスト10は、楽器演奏者としてのポール=マッカートニーのベストプレイを選んでみたいと思う。
言うまでも無く、ポールは天才である。それはジョンが天才だというのとはちょっと意味合いが違うが間違いなく彼も天才なのである。
おそらくジョンの天才性は、カリスマ性に近い。それは社会=他者とのかかわりで発揮されるものである。
しかし、ポールの天才性は、それこそ神から与えられた才能だ。比喩的に言えば、ポールはおそらく無人島に独りでいても、留置所に入っても天才なのだと思う。そして、そのポールの才能は楽器演奏時にもいかんなく発揮される。
他の人だったら、おそらく練習に練習を重ねてようやく弾けるようになるところをいとも簡単に演奏してしまうポールの姿が目に浮かんでくるようだ。
1.「Martha My Dear」でのピアノ
2.「Dear Prudence」でのドラムス
3.「Taxman」でのベース
4.「Black Bird」でのアコスティックギター
5.「While My Guitar Gently Weeps」でのベース
6.「Taxman」でのリードギター
7.「Old Brown Shoe」でのベース
8.「Something」でのベース
9.「Good Morning,Good Morning」でのリードギター
10.「Back In the U.S.S.R」でのドラムス
1位の「Martha My Dear」のピアノ。僕も高校の時に練習したけど、なかなか弾けるようにならなかった。このフレーズはバッハにも匹敵するのではないか。こんなフレーズをピアノの練習中に思いつくというポールの天才性が最も発揮されたプレイだと思う。
2位の「Dear Prudence」でのドラムスは、普段はある評論家が「リンゴもやろうと思えば、この曲のように叩けるのだから、いつもこのように叩いてほしい」などという大ボケ解説をしてしまった事でも有名。素晴らしいプレイである。
3位の「Taxman」のベースは、単純にフレーズが好き。
4位の「Black Bird」でのアコスティックギターは、70年代、日本のギター少年(高校生位)の休み時間のギターエチュードとして大流行した。ギタリストでもないポールが、そんな名フレーズ(難しすぎず、簡単すぎず)を生み出してしまったことに敬意を表する。
5位の「While My Guitar Gently Weeps」でのベースに関しては、リードギターとして参加したエリッククラプトンが、ビートルズにポール=マッカートニーありを認めた伝説のプレイ。
6位も「Taxman」。リードギターは、ジョージが上手く弾けなかったのを替わりにポールが弾き、ほぼ一発で決めたという。これは何風といういうのだろうか。ちょっとファズがかかっていて、カッコイイ。その後のポールのリードギターの一つの特徴となる。
7位の「Old Brown Shoe」でのベースはとにかく早弾きということでランクイン。
8位は「Something」でのベース。一部で弾きすぎとの批判もあるようだが、このメロディアスベースはポールならでは。何故かジョージの曲になるとベースプレイヤーとしてのポールが活躍するという法則があるが、その典型例。
9位の「Good Morning,Good Morning」でのリードギターは、「Taxman」「Hey Bulldog」「Got To Get You Into My Life」等にも通じるポール色の強いフレーズと音。ジョージのクリアなギターもいいけど、ポールのフレーズはやっぱりカッコイイ。
「Back In the U.S.S.R」でのドラムスを10位に入れたのは、リンゴも「いいドラムだ」と後褒めしたから。それにしても、自分のイスを取られた格好になったリンゴ、お人好しだ。でも、それだけ自信があったということ?それともポールとの信頼関係の深さ?
他にもポールのベースプレイとして印象に残るのは、「And Your Bird Can Sing」「I Am a Loser」「Lucy In The Sky With Diamond」「Lovely Rita」「With A Little Help From My Friend」かな?
まさむね
歴史・家紋, 相撲/プロレス/格闘技 »
以前、ねぶた祭りについて疑問に思ったことがあった。
単純に「ねぶた」とはどういう意味か。確か、民俗学者の柳田國男は、どこかで「ねぶた」の起源は「ねぶたい」=「眠たい」ではないかというようなことを書いていたが、どこに書いてあったのか忘れてしまっていた。
先日、フッと思い出して、Wikipediaで「ねぶた」を検索してみた。そこには、サンカ研究家としても知られる八切止夫氏の説明文として以下が紹介されていた。つくづく思うが、Wikipediaというのは本当に便利なサイトである。
かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍紀古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年に渡って戦ったが、最後には制圧されて蝦夷は滅びた。
阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。
その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりである。
つまり『根』(死)の国へ追いやるための土かぶせの『蓋』ということである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現している。
面白い説である。「ねぶた」=「根蓋」という語源にはそれなりの説得力があるように思える。
しかし、一つ疑問が残った。東北の民衆(=蝦夷)によって踊り継がれた舞踏が、支配者(=朝廷)からの強制を起源にしているというところにどこか無理があるような気がしてならないのである。
先日、久々に「再会」した友人のS君が阿波踊りを趣味にしているという話を聞いた。そして、この阿波踊りに関して、「阿波踊りは『隠れ武術』だったのではないか」という説があるということを教えてもらった。
「阿波踊りに武術をみる」
「阿波踊りに武術をみる」
「阿波踊りに武術をみる」
一般的に、阿波踊りというのは、外様の蜂須賀家政が阿波守としてこの地に赴任し、徳島城を築城、その際に、民衆に祝いの踊りをさせたことが起源といわれているが、実は、民衆にとってはそれは表向きの話で、実は、踊りを装い、いつでも反乱を起こしうる戦闘のための陣形、所作を踊りの中に隠した形で継承したのではないかというのである。
この発想は面白い。ブラジルの黒人奴隷が手を鎖につながれているがゆえに編み出したカポエラの起源伝説を容易に想像させる。彼等は、舞踊という形で格闘の奥義を隠し伝承したのである。(ちなみに新生DA PUMPに参加しているTOMOは、ダンスとしてのカポエラを習得しているという。)
また、大和朝廷に征服された九州の隼人族が、隼人舞という踊りを朝廷に献上する服属儀式が長らく続いていたが、この儀式は、隼人側からすれば、隙あらば天皇に一太刀浴びせようとする最後のチャンスとして捉えていたという見方も出来るのではないだろうか。
さて、踊り=隠れ武術説を「ねぶた」にも取り入れてみよう。ねぶたにおけるハネトの動きに関して、文芸評論家で舞踊研究者でもある三浦雅士は「身体の零度」(講談社選書メチエ)でこう語っている。
日本の民族舞踊のほとんどすべてが、ナンバに摺り足であることはいうまでもない。(中略)激しい舞踊として知られる阿波踊りにしてさえもが、ナンバに摺り足が基本なのである。けっして跳び跳ねたりはしない。
興味深い例外がある。
本州の北端の津軽一帯に、ねぶた(ねぷた)という祭りがある。家ほどもある巨大な灯籠を引いて、町をねり歩く夏祭りである。ところで、やや内陸の城下町、弘前のねぷたは、それこそナンバに摺り足で、ただ城下をねり歩くだけなのだが、他方、五十キロほど北上した港町、青森のねぶたはまったく趣を異にするのである。
巨大な灯籠を引いて歩くのは同じだが、その行列にハネトすなわち跳ねる人と称する群衆がついて、笛太鼓にあわせてさかんに跳び跳ねるのだ。それもじつに激しく跳び跳ねる。
私の郷里ということもあって、この事実に気づいたときには、いささか興奮した。ということはつまり、ナンバに摺り足の舞いの伝統と回って跳びはねる踊りの伝統とが、本州の北端で出会っているということになるからである。東南アジアから北上した農耕民の身体所作と、中央ユーラシアから南下した遊牧民の身体所作とが、ほかならぬ津軽で衝突したということなのだ。
ようするにハネトというのは、日本人の伝統的所作から一線を画した起源を持っているのではないかということなのである。網野善彦の著作などにも繰り返されているが、日本の古層には、東西の文化的対立があるという。
それは、稲作を中心とする西日本と、その稲作を近年まで拒絶し続けた東日本の対立という図式だ。
そして、この対立は、古事記におけるスサノウによるアマテラスに対する抵抗の話としてもほのめかされているが、具体的に言えば、それは非農耕民による田畑荒らしのことなのである。
ここからは、僕の勝手な想像なのであるが、腰を下ろした摺り足が、水田稲作に伴う身体所作であるとすれば、ハネトは稲を踏み潰す姿にも見える。つまり、稲作に対する破壊者の所作そのものに見えるのである。
ねぶた祭りにおけるハネトには、表面的には、蝦夷征服とともに、東北に稲作を持ち込んだ大和朝廷の将軍、坂上田村麻呂を讃えながら、実は田畑破壊の身体所作を温存する東北民のしたたかさが読み取ることができるのではないだろうか。
まさむね
相撲/プロレス/格闘技 »
朝青龍が白鵬との優勝決定戦を制し、24回目の幕の内最高優勝を決めた。
ものすごい気迫だった。本割りで白鵬に一方的に攻め負けた時は、二人の力の差を改めて感じさせたかと思ったのだが、さすが朝青龍は歴戦の勇者だ。優勝決定戦では、頭をつけ、左の上手を引きながら、右からのすくい投げで白鵬を投げきった。
解説の北の富士さんの話だと定石だと左からの上手投げを出すべきシーンだったらしいが、そこを逆に右からすくった朝青龍の自在さ、勝負に対する勘のするどさ、これはおそらく格闘家としての天才だからこそなせる技なのだと思う。
さらに言えば、勝負が決まった後の朝青龍の表情がよかった。悔しい時は本当に悔しい顔になり、嬉しい時は本当に嬉しい表情をするそんな朝青龍の純真さが出た一瞬、人によっては、ガッツポーズは土俵を降りてからすべきとの意見もあるだろうが、そういった道徳をはるかに上回る喜びのパワーが国技館を包み込んだ瞬間であった。
ちなみに、優勝決定戦の後、花道の奥で待っていたど派手な装束を身に纏った長渕剛が朝青龍に抱きついていた。この二人、友達だったのか。あの後、優勝パレード、NHK出演の後、飲みにでも行くのだろうか。朝青龍と長渕剛、さらにその親友の清原や細木数子などが加わりでもしたら、一体、どんな飲み会になるのであろうか。平均気温が高すぎるぜ!濃過ぎるぜ!見たいような見たくないような...
それにしても、今場所の展開は、今年の初場所と全く同じであった。それは、全勝の朝青龍と1敗の白鵬が千秋楽で対戦し、本割りで白鵬が圧勝した後の決定戦で朝青龍が勝つという点でそうなのは誰の目にも明らかであるが、それとは別に白鵬の1敗の仕方が同じだったのである。
思い起こせば、初場所、白鵬が敗れたのは日馬富士だったが、実はその前日の把瑠都戦でがっぷり四つの大相撲を演じていたのだ。把瑠都がその白鵬戦に関して聞かれて「がっぷり四つになればなんとかなると思った」と大言壮語したあの一番だ。
白鵬が翌日の日馬富士に不覚を取ったのは、前日の把瑠都戦での疲れが残っていたのが敗因だったのは誰の目にも明らかであったのである。
同様に、今場所、僕は残念ながら見逃してしまったのだが、把瑠都は再び白鵬と、40秒近くの大相撲を取ったという。
そして、白鵬は、その次の日に翔天狼に一瞬の隙をつかれて前のめりになってしまったのだ。これも、前日の把瑠都戦が白鵬の体に大きなダメージを与えていたのではないのだろうか。
実はその後の数日間、白鵬は自分の相撲が取れなかった。いつもは、立会いするどく踏み込んで、アッという間に自分の得意な体勢に持ち込み、いつの間にか相手を諦めさせて勝つという本来のスタイルとは程遠い、むしろ、朝青龍が得意とする一瞬の勘と運動神経で相手を負かすという、よく言えば、格闘技的、悪く言えばバタバタした戦いの日々が続いたのであった。
把瑠都おそるべしである。今場所、五大関を連破し、12勝を上げた成績は、勿論、申し分ないが、僕はそれ以上に白鵬の体にダメージを残す、その底力にこそ把瑠都の凄みを感じたのであった。おそらく、来場所は関脇に上がり、大関を目指すであろう。白鵬や朝青龍のようなピリピリするような精神的な厳しさは見られないが、それはそれで仕方が無い。恵まれた肉体と体全体から発散されるそのおおらかさを持ち味としたニュータイプの大関になってほしい。
この把瑠都の陰に隠れて、持ち味を発揮できなかったが稀勢の里だ。しかしまさか負け越すとは思ってもみなかった。しかも負け方が悪い。把瑠都に上手を引き付けられ、腰砕けになり、そのまま土俵外にほうり投げられてしまったのだ。
現時点で日本人新大関に最短距離にいる男だと思っていただけに残念だ。ここのところ、いい場所と悪い場所との落差が大きすぎるのが気になる。自分の型がまだ無いのが安定感を欠く原因なのだろうが、こんなところで負け越している場合ではない。それほど期待が大きいのだが...
残念といえば、安美錦の負け越しも残念だった。それでも9日目まで2勝7敗だったのを千秋楽で負け越したとはいえ、7勝したのは立派だ。三役からは陥落するだろうが、来場所もいい位置をキープできるだろう。今場所、7勝のうち、3勝に審判物言いがついたが、それほど土俵際のしぶとさを発揮したということでもある。怪我で思うような稽古が出来ずに臨んだ今場所ではあるが、持ち味は出したとの評価は与えたいと思う。
玄人受けする「浮世雲」風情相撲は来場所も楽しみだ。
その他、さらに残念だったのが琴欧洲だ。先場所は13勝したため、今場所は重要だった。優勝争いに食い込みでもすれば来場所は横綱にも挑戦できる立場だったのだ。7日目の鶴竜戦でとったりでころがされたのが痛かった。これは鶴竜を褒めるべきなのかもしれないが、この日を境に調子を落とし、結局は9勝しか出来なかった。来場所、ぜひとも、捲土重来を果たしてほしい。
いずれにしても、秋場所は終わった。千秋楽の最後の一番で横綱同士が優勝を争うというある意味、最高の締めを見せてくれた。鳩山由紀夫の総理大臣杯授与は放映時間から漏れてしまったが、きっと、小泉首相による貴乃花への授与式に並ぶ名場面になったに違いない。
権力の頂点に上り詰めた男と力士の頂点とのツーショット、これはこれで文化人類学的にも意味のある「絵」なのかもしれないとちょっと思った。
まさむね
時事ネタ, TV番組 マスメディア »
前原誠司国土交通相は、八ッ場ダム視察した。結局、地域住民とは会ってもらえなかったが、この視察にはそれなりの意味があった。
大局的に見れば、ダム建設中止に向けて一歩進んだと見ていいのであろう。日本全国の無駄な公共事業の中止をマニフェストとして掲げた民主党、今までの官僚が決めたことは絶対という硬直したシステムへの挑戦にはおおいに期待したいものである。
さて、客観的に見ても、ダム建設を進めるか、中止すべきかに関して言えば、単純にそのダム建設がどれだけの公益性が見込めるのかという点が重要なのは当たり前の話である。
しかし、民主党の説明によると、八ツ場ダムに関して言えば、治水、利水両面において、既にほとんど意味がなくなっているという。だとしたら、工事を中止するのが筋なのであろうが、その算定に関しては、今までの国交省の公式発表とは全く異なっているから話がややっこしいのだ。国交省によれば、ダムの費用対効果は3.4もあるという。今までの経験で言えば、行政の言うことは怪しいのでは?という推測は出来るが、実際はどちらの言うことが正しいのであろうか。
また、テレビでは既に工事の7割は完成しているというような説明があったが、社民党の保坂氏のブログなどで確認すると、それはただ、総工事見積もりの7割を既に使ったというだけの話らしい。地盤整備などの事業に対する見積もりが当初からかなりずれていて、実際には、2割程度の作業しかできていないという話もある。ということは、今後はさらに多額の費用がかかる可能性もあるということだ。これに関しても、はたして一体、どちらの見積もりが正しいのであろうか。
また、テレビでは、ダム建設中止反対住民という方が話しをしていたが、その理由は、大雑把に言って「今さら、中止というのは、私たちの今までの苦労はなんだったの?」という話だ。また、既に墓所まで移動させられていて、どうしてくれるのかというような人もいた。
しかし、ダム建設で住居移転を迫られた人々には、今までも、当然、補償がされていると思われる。
はたして、一体、どういった補償条件で移転を承諾したのだろうか?それがわからないので、テレビのこちら側としては、同情していいのか、それとも、そんなの我慢しろよという風に感じるべきなのかがよくわからないのである。
さらに言えば、、ダム建設には大きな利権がかかわっていると思われる。国交省OBの天下り団体とか、地元の土建屋とか、中止によって困る人々の具体的な声をテレビでは全く流してくれないのにも困ったものだ。いつもそうだが、利害当事者は、こういった時、一体、何を考えているのだろうか。なぜ、テレビはこういった人々の取材をしないのだろうか。あるいは、取材を断られたなら断られたということを教えてくれないのだろうか。
まぁ、ようするに、1)ダムを作ったほうが公共的な利益になるのか、2)作り続けた場合今後どれだけの費用がかかるのか、3)今まで住民はどのように補償され、今後ダム建設中止された場合にも、住民は具体的にどの程度補償され続けるのか、4)ダム建設中止によって国交省OBの天下り先はどれだけ困るのか等といった重要な点が、テレビではぼかして報道されているため、ただ、「国家権力が住民を翻弄している」という過去数十年にわたって見せられ続けてきた物語の別バージョンにしか見えないのだ。
ダム問題の帰結も勿論、重要なのだが、テレビが描く物語のつまらなさ、大雑把さの方に嫌気がさす。
勿論、これは、いつもの話ではあるが。
まさむね
TV番組 マスメディア »
ドキュメンタリー番組「情熱大陸」が9月から、Twitterでリアルタイムチャット的に情報を流し始めた。現状では、「参加時刻は放送の前後30分、よる10時30分頃から12時頃までを予定しています。放送中は、じっくりとテレビを観ていただきたいので、おもに放送の前後の書き込みになると思いますが、ご参加いただける方はよろしくお願いします。」とのことだ。
リアルタイムチャットの本当の意義はまだわかっていないかのような腰の引け方は気になるものの、とりあえずテレビ制作者側が、いわゆるインタラクティブな批評に対して、窓を開けたということは評価されていいかと思う。こういった「ソーシャルテレビ」化は今後、どのように進んでいくのか、楽しみに見守りたいと思う。
ご存知の通り、Twitterには、ブロック機能というのがあって、「荒らし」「誹謗中傷」等を書き込んだユーザーに対しては、ID単位に書き込めなくなるだけではなく、情報が流れないようなになっている。ということは、そういったネガティブな書き込みを抑制する自浄作用がアーキテクチャアとして組み込まれているということだ。
テレビ番組にたいする「ツッ込み」は2chの実況板という伝統場があるが、ここでの書き込みは、ほとんどが「耳の痛い」ものだ。逆に視聴者側からすれば、言いたいことが無責任で言え、読めるところが刺激的で面白かった。それらの言葉は、ブラウン管内の「生ぬるい」突っ込みによりも、明らかに刺激的で、毒があった。
しかし、制作者側からすれば、これでは逆パブになりかねないと、これらの辛らつは批判は見てみぬふりをしてきた。
しかし、Twitterならある程度、安心出来るという判断があったのだろう。しかし、今後、このTwitterでのリアルタイムチャットは、その毒をどの程度、保持して運営されるのだろうか。
とりあえずは、生ぬるい形で始めようということだろう。しかし、ちょっとでも制作者側に不利な書き込みがあった途端に、ブロックされてしまうのならば、それは、アッという間にTwitterの「茶坊主化」が進み、誰もフォローしなくなってしまう可能性もある。
さらに将来的には、番組の制作者、出演者が主催する有料Twitterなどが出てくると思われる。
それが、それがビジネスとして成功するかは不明だが、少なくともその動向は楽しみである。
さて、ここのところ、とんねるず系の視聴率の低迷が言われている。のりさんの「未来創造堂」は放送打ち切り、たかさんの「うたばん」は曜日引越しなど、具体的な仕打ちが始まっている。思えば、彼等のウリはいわゆる「素人的なツッ込み宴会芸」の延長線上にある行儀の悪さである。それが30年間もテレビの第一線に出続けたということ自体は奇跡的なことではあるものの、そろそろ厳しくなってきたということだ。
おそらく、その背景として、ブラウン管内でツッ込むということの宿命的な「生ぬるさ」に視聴者が気づいてしまったということが大きいのではないか。
結局は、ネットの過激さと対比して、芸能界という内輪の仲間意識、放送コードなどの規制等が透けて見えてしまえば、彼等のツッ込み芸が価値を失っていくのは必然といわざるを得ないと思う。
それでは、こういったネット時代において、どんなテレビが今後、人気を博していくのであろうか。
僕は個人的には、「テレビのちから」の復活を願う。
この番組は、いわゆる公開捜査番組である。そこには社会的に重大で、”旬”な殺人事件(例えば、リンゼイさん殺害事件など)から、名も無い旦那の失踪事件まで、それこそ様々なレベルの事件が、同様のテンションで捜索され、語られるのである。高橋秀樹、中山秀征、川合俊一、林家正蔵、室井佑月、北芝健、東ちずる、家田荘子など、微妙な大物が不必要に並び、それぞれが必死に、時には過剰に事件に対して思い入れて「心配」する。
時に、彼等の会話の間隙をぬって、「現場」からの緊急情報という梶原しげるの天の声が挿入される。その際、聞き耳を立てる高橋秀樹のゆがんだ眉間の皺こそ、この番組の最大の見せ場の一つであった。
さらに、番組はより一層胡散臭くしているのが、ある時はポーランドから、そしてある時はオーストラリアから、それこそ、世界中から集められた超能力捜査官の存在だ。
あくまでも僕の主観だが、中でも一番インパクトがあったのが、日本人の”デコ”師という名のイタコのような老婆が、登場して事件を透視するという場面であった。
彼女は、失踪した被害者の写真を見ながら必死に透視しようとして手を握り締める。そして手の平に出てきた自分の汗を見ながら、「水だ!この事件は水に関係ある!!水といっても水商売かもしれない!!!」と叫んだのだ。
さすがにスタジオの面々もこの推理はフォローし切れなかったと見えて、この”デコ”師は、それ以来、登場しなくなってしまったが...
それはともかく、このように毎回、事件の核心に迫り、何週にも渡って、その事件を引っ張るも最終的には、うやむやになる。「現場から白骨化した骨が出てきた!」...しかし、次週その骨はイノシシの骨であることが判明、というようなことが繰り返されながらも僕等はこの番組を見続けてしまうのだった。
おそらく、このテレビ特有の生真面目な胡散臭い番組こそ、「ソーシャルテレビ」を前提とした時代に再び輝きを増すものとしてクローズアップされてくるに違いないと思う。
まさむね




