Home » 歴史・家紋, 相撲/プロレス/格闘技

ねぶた祭りにおけるハネトに見られる蝦夷のしたたかさ

28 9 月 2009 No Comment

以前、ねぶた祭りについて疑問に思ったことがあった。
単純に「ねぶた」とはどういう意味か。確か、民俗学者の柳田國男は、どこかで「ねぶた」の起源は「ねぶたい」=「眠たい」ではないかというようなことを書いていたが、どこに書いてあったのか忘れてしまっていた。
先日、フッと思い出して、Wikipediaで「ねぶた」を検索してみた。そこには、サンカ研究家としても知られる八切止夫氏の説明文として以下が紹介されていた。つくづく思うが、Wikipediaというのは本当に便利なサイトである。

かつて東北に追われた原住民であった蝦夷を組織化し、征東大将軍紀古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだ阿弖流為という王が東北にいた。その後、大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年に渡って戦ったが、最後には制圧されて蝦夷は滅びた。
阿弖流為は今の大阪府の杜山まで連行され朝廷に謁見後、斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたとされている。
その生き埋めの上に土をかけ、その土を素直に降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のねぶた(根蓋)の起こりである。
つまり『根』(死)の国へ追いやるための土かぶせの『蓋』ということである。踏んづける恰好をする踊りに坂上田村麻呂の山車を担ぎ踊る様は、その時のエピソードを表現している。

面白い説である。「ねぶた」=「根蓋」という語源にはそれなりの説得力があるように思える。
しかし、一つ疑問が残った。東北の民衆(=蝦夷)によって踊り継がれた舞踏が、支配者(=朝廷)からの強制を起源にしているというところにどこか無理があるような気がしてならないのである。

先日、久々に「再会」した友人のS君が阿波踊りを趣味にしているという話を聞いた。そして、この阿波踊りに関して、「阿波踊りは『隠れ武術』だったのではないか」という説があるということを教えてもらった。
「阿波踊りに武術をみる<上>」
「阿波踊りに武術をみる<中>」
「阿波踊りに武術をみる<下>」
一般的に、阿波踊りというのは、外様の蜂須賀家政が阿波守としてこの地に赴任し、徳島城を築城、その際に、民衆に祝いの踊りをさせたことが起源といわれているが、実は、民衆にとってはそれは表向きの話で、実は、踊りを装い、いつでも反乱を起こしうる戦闘のための陣形、所作を踊りの中に隠した形で継承したのではないかというのである。

この発想は面白い。ブラジルの黒人奴隷が手を鎖につながれているがゆえに編み出したカポエラの起源伝説を容易に想像させる。彼等は、舞踊という形で格闘の奥義を隠し伝承したのである。(ちなみに新生DA PUMPに参加しているTOMOは、ダンスとしてのカポエラを習得しているという。)
また、大和朝廷に征服された九州の隼人族が、隼人舞という踊りを朝廷に献上する服属儀式が長らく続いていたが、この儀式は、隼人側からすれば、隙あらば天皇に一太刀浴びせようとする最後のチャンスとして捉えていたという見方も出来るのではないだろうか。

さて、踊り=隠れ武術説を「ねぶた」にも取り入れてみよう。ねぶたにおけるハネトの動きに関して、文芸評論家で舞踊研究者でもある三浦雅士は「身体の零度」(講談社選書メチエ)でこう語っている。

日本の民族舞踊のほとんどすべてが、ナンバに摺り足であることはいうまでもない。(中略)激しい舞踊として知られる阿波踊りにしてさえもが、ナンバに摺り足が基本なのである。けっして跳び跳ねたりはしない。
興味深い例外がある。
本州の北端の津軽一帯に、ねぶた(ねぷた)という祭りがある。家ほどもある巨大な灯籠を引いて、町をねり歩く夏祭りである。ところで、やや内陸の城下町、弘前のねぷたは、それこそナンバに摺り足で、ただ城下をねり歩くだけなのだが、他方、五十キロほど北上した港町、青森のねぶたはまったく趣を異にするのである。
巨大な灯籠を引いて歩くのは同じだが、その行列にハネトすなわち跳ねる人と称する群衆がついて、笛太鼓にあわせてさかんに跳び跳ねるのだ。それもじつに激しく跳び跳ねる。
私の郷里ということもあって、この事実に気づいたときには、いささか興奮した。ということはつまり、ナンバに摺り足の舞いの伝統と回って跳びはねる踊りの伝統とが、本州の北端で出会っているということになるからである。東南アジアから北上した農耕民の身体所作と、中央ユーラシアから南下した遊牧民の身体所作とが、ほかならぬ津軽で衝突したということなのだ。

ようするにハネトというのは、日本人の伝統的所作から一線を画した起源を持っているのではないかということなのである。網野善彦の著作などにも繰り返されているが、日本の古層には、東西の文化的対立があるという。
それは、稲作を中心とする西日本と、その稲作を近年まで拒絶し続けた東日本の対立という図式だ。
そして、この対立は、古事記におけるスサノウによるアマテラスに対する抵抗の話としてもほのめかされているが、具体的に言えば、それは非農耕民による田畑荒らしのことなのである。
ここからは、僕の勝手な想像なのであるが、腰を下ろした摺り足が、水田稲作に伴う身体所作であるとすれば、ハネトは稲を踏み潰す姿にも見える。つまり、稲作に対する破壊者の所作そのものに見えるのである。
ねぶた祭りにおけるハネトには、表面的には、蝦夷征服とともに、東北に稲作を持ち込んだ大和朝廷の将軍、坂上田村麻呂を讃えながら、実は田畑破壊の身体所作を温存する東北民のしたたかさが読み取ることができるのではないだろうか。

まさむね

Leave your response!

Add your comment below, or trackback from your own site. You can also subscribe to these comments via RSS.

Be nice. Keep it clean. Stay on topic. No spam.

You can use these tags:
<a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">

This is a Gravatar-enabled weblog. To get your own globally-recognized-avatar, please register at Gravatar.