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Articles Archive for 10 月 2009

テレビドラマ »

[31 10 月 2009 | 2 Comments | | ]

「ロングバケーション」が再放送しているという。
なんと9年ぶりだそうだ。
日本のテレビドラマ史に燦然と輝く「ロンバケ」。
低視聴率にあえぐテレビ業界がついに切り札をだして来たという感じだろうか。木村拓哉と山口智子という当時の黄金コンビが織り成す微妙な恋の駆け引き。ジャパニーズメロドラマの王道である。
才能がありながらくすぶる若き一人暮らしのピアニストの瀬名(木村拓哉)のアパートメントに、ひょんなことから30歳過ぎの行き場を失った南(山口智子)が迷い込む。
今で言えば、草食系男子の典型である内気な青年と、強気でお節介焼きの年増女が、時に励ましあい、時に傷つけ合う、そして結ばれていく、その二人の微妙な距離感がこのドラマの生命線である。
昨年再放送した「29歳のクリスマス」でもそうだったが、南の溌剌とした色気はなんとも魅力的だ。あくまで自分の欲望に忠実(自分に正直)でありながら、しかし、そこはかとなく優しい。そして、最終的には瀬名にとって無くてはならないような存在になっていく。それはまるで、幸せを運びこむ座敷童子のようでもある。
柳田国男は「妹の力」という評論で、女性というものが持つ根源的な男に幸せをもたらす霊力について語っていたが、「ロンバケ」における南はまさに、そういった意味で、日本民俗学的にも典型的な女性像なのかもしれない。
このドラマが放映されたのが1996年で、この時、南が31歳だから、彼女は、逆算するとちょうど男女雇用機会均等法が成立した1985年に20歳(短大卒が社会人になる年)、時代の流れに乗ってキャリアウーマンとして社会に出るが、そこで様々な挫折を繰り返して、「これでいいのかと振り返ってみたら31歳、人生の節目にぽっかりあいたエアポケットのような時間、それをこのドラマでは「神様がくれた長い休み=ロングバケーション」と表現している。
しかし、あの時代の彼女達はまだ幸せのように思える。まだ、希望、そして何よりもファイトがあったからだ。最終的に瀬名と結婚してボストンに行く南だが、それまでの過程はまさに社会と、そして自分との闘いがある。
闘っている女性は美しい、だから彼女も輝いている。山口智子がこのドラマを最後にして女優としての一線を退いた、その潔さも含め、このドラマは永遠に「闘いにおける勝利のドラマ」として僕の記憶に残り続けるのだ。
一方、ピアニストとしての自分にどうしても自信を持てず、しかし、南の「霊力」を借りて世界に羽ばたいていく瀬名。彼もまたロングバケーションというエアポケットに迷い込んだ戦士である。
おそらく、今回の再放送は、現代、平日の夕方という時間帯に自分を見失った多くの若者が見ているにちがいない。しかし、瀬名が持っていたピアニストという漠然とした夢ですら、それらの若者は持っているのだろうか。余計なお世話を百も承知でそんなことを考えてしまった。
あの時代、瀬名はまだ、「今はロングバケーションだ」とその現状を人生の波の底辺として解釈する余裕があった。しかし、今の若者の多くは「もしかしたらこのまま沈んだままではないのだろうか」「負のスパイラルに迷い込んだのではないだろうか」との不安を持っているに違いない。
実は、この「ロンバケ」が再放送された今から11年前、僕はフリーという名前の失業者=自宅警備員だった。今で言えばニートだ、いや、既に35歳を超えていたからニートですらなかったのかもしれない。
しかし、それでも僕には漠然とした希望があった。今思えば、なんとも無謀で危うい希望ではあったが...
おそらく、「ロンバケ」が放送された15年前、そして僕が再放送をみた11年前に比べ、その「時代が持つ希望の有無」という点が一番大きく変わってしまった悲劇かもしれない。
これらの不安の観念の大部分が「幻想」なんだよ、だから大丈夫なんだよ。と僕は、今、夕方のこの時間に「ロンバケ」を見ている若者に言ってあげたい。
しかし、それも言えない現代という時代というのは一体何なのだろうか。
まさむね

J-POP »

[29 10 月 2009 | 33 Comments | | ]

「SNOOZER」の編集長・田中宗一郎氏はビートルズ特集で(おおよそ)こんなことを書いている。

ビートルズとは、何か。30年間ずっと考え続けて、最後に残った答えは、ソウル・シンガーとしてのレノンの声だった...
・・・そして、あのマッカートニーの超絶的なコーラスがあった時にこそ、レノンの声は最高に輝いた。
世界最高のロックバンド、ザ・ビートルズをして、様々な伝説や物語などのデコレーションをそぎ落としていくと、究極的に残る「ビートルズらしさ」がジョンの肉声だというのだ。
なるほどと思った。
実は僕は、同じようなことをw-inds.についても考えていたが、それを言葉に出来なくて、ずっとムズムズしていたからだ。
w-inds.は一般的にはアイドルグループかもしれない。
ダンスユニットという言い方をされるときもある。
しかし、僕にとって、w-inds.とは何か?という問いに対して、最後に残った答えは、橘慶太のハイトーンボイスと、それを見事に輝かせる緒方龍一と千葉涼平のコーラスなのだ。
「Everyday」という至高のラブバラードも、「キレイだ」のカラっとした少年の独り言も、「ブギウギ66」のちょっとクラシカルなダンスチューンも、「Rain is fallin’」の実験的で野心的なG-Dragonとのコラボも、すべての彼らのパフォーマンスの「核」に3人の肉声の存在感があるといえる。
それにしても、彼らの「声」が不当に扱われているテレビゴールデンタイムの音楽シーンは何とかならないものか。「うたばん」や「HEY!HEY!HEY!」がいつの間にか、懐メロ+おふざけトーク番組となり、「ミュージックステーション」の権威主義が鼻につく今日この頃、その(内)輪の中からははずされてはいるが、しかし、逆に言えば、ある意味、そんな退屈な場所には見事に収まりきらないw-inds.のパフォーマンスがもっと多くのリスナーに届く方法はないものだろうか。
文芸評論家・小林秀雄は、現実とは困難の代名詞であり、困難とは努力の代名詞であると言ったが、その言葉が頭をよぎるとき、僕はいつも、w-inds.のことも同時に思い出す。
現実は思うより甘くはなく辛いけど
今日の僕は 昨日よりも
少しだけ強いはず
No More Tears 強がりは いつだって
僕の背中 そっと 後押しする
これは彼らの「TRIAL」という曲の一節だ。
身をけずるようなパフォーマンスの代償として気管支炎をわずらってしまった慶太も見事、困難を乗り切り、「SweetFantasy」の国内ツアーを終えたw-inds.の3人。
12月9日発売の「New World」が今から楽しみである。
「ドクターハウス シーズン2」エンディングテーマとして一部分を聴く限り、ヴィジョンファクトリーの先輩・安室奈美恵の「Dr.」と似た感じのメロディだ。早く、フルコーラスを耳にしたい、とファンなら誰しもが思うだろう。
僕だってこの歳にしてそう思うのだから。
まさむね
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政治 »

[28 10 月 2009 | No Comment | | ]

ここ10年余り、日本の地域は急速に疲弊しつつあります。経済的な意味での疲弊や格差の拡大だけでなく、これまで日本の社会を支えてきた地域の「絆」が、今やずたずたに切り裂かれつつあるのです。しかし、昔を懐かしんでいるだけでは地域社会を再生することはできません。
 かつての「誰もが誰もを知っている」という地縁・血縁型の地域共同体は、もはや失われつつあります。そこで、次に私たちが目指すべきは、単純に昔ながらの共同体に戻るのではない、新しい共同体のあり方です。スポーツや芸術文化活動、子育て、介護などのボランティア活動、環境保護運動、地域防災、そしてインターネットなどでのつながりなどを活用して、「誰かが誰かを知っている」という信頼の市民ネットワークを編みなおすことであります。
国民生活の現場において、実は政治の役割は、それほど大きくないのかもしれません。政治ができることは、市民の皆さんやNPOが活発な活動を始めたときに、それを邪魔するような余分な規制、役所の仕事と予算を増やすためだけの規制を取り払うことだけかもしれません。しかし、そうやって市民やNPOの活動を側面から支援していくことこそが、21世紀の政治の役割だと私は考えています。
 新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではありません。政治や行政が予算を増やしさえすれば、すべての問題が解決するというものでもありません。国民一人ひとりが「自立と共生」の理念をはぐくみ発展させてこそ、社会の「絆」を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことができるのであります。
これは、鳩山総理大臣の施政方針演説からの抜粋である。
久しぶりに政治家から素晴らしい言葉が聞けたと、僕は正直思った。
明治維新以来、150年もの間に徐々に崩れてきた日本の地域社会(鳩山さんはここ10年余りと言っていたが、僕はそんな歴史の浅い話ではないと思っている。)を再生させるには、過去を振り返るのではなく、新しい「絆」を再生する以外方法が無い。
それは昨年末に天皇が述べられた「これまでさまざまな苦難を克服してきた国民の英知を結集し、また、互いに絆(きずな)を大切にして助け合うことにより、皆で、この度の困難を乗り越えることを切に願っています。」というお言葉に呼応した大事な宣言を鳩山首相がしてくれたのだと素直に評価したい。
そして、政府の役割として、その人と人との「絆」を邪魔しないこと、市民やNPOの活動を側面から支援していくことと明言し、さらに、予算を増やしさえすればすべてが解決するものではないとまで述べているのだ。
これぞ、「お任せください。幸せにしま~す」の政治から「邪魔しないから、みんなでやろうよ」の政治への大きな転換だ。
とりあえず、今エントリーでは、実際の政策とのギャップを云々する気は無い。
チクリと皮肉を言ったり、眉をひそめたりするのはマスメディアにまかせた!
僕らは、自分たちが実際に、何が出来るのか考えよう。
だけど、今日はもう寝よう。
まさむね

テレビドラマ »

[27 10 月 2009 | No Comment | | ]

テレビドラマを見ることの一つの大きな動機に、「実際の生活に役立つから」というのがある。
それは、おそらく、テレビドラマの歴史が始まってからずーっとそうなだと思う。
最近の例を上げれば、例えば、火曜日22:00~の「リアル・クローズ」では、毎回、年増のキャリアウーマンがそれっぽい台詞を吐く。前回の2回目では、美姫(黒木瞳)が主人公の絹恵(香里奈)に向かって言う。
「好きなものをたどっていくと、必ず、過去の自分が幸せだった記憶にたどりつく」と...
そして、今日の3回目の放送では、老舗ストッキングメーカー『ヴィオーラ』の水嶋専務(片平なぎさ)が言う。
「朝一番、最初の一歩を踏み出す足が履くストッキングは、その日一日を決める」と...
記憶で書いているので、正確ではないがだいたいそんな台詞だったように思う。
そして、彼女達がドラマの中で真剣にそう言うと、確かになんとなくそんな気がする。
多くの視聴者にとって、彼女達の言葉は「役に立つ一言」に聞こえるという仕組みである。
さらに、同時に主人公の絹恵(香里奈)が、もがきながら成長していく姿に、自分を重ね合わせてドラマを見ていく。
楽しみながら、いろいろと考えさせられる。
そうしたドラマと視聴者との幸福で健康な古典的関係が生きている(ように見える)ところが「リアル・クローズ」の良さだ。
少なくとも僕にとって、このドラマの自信溢れる古典性は心地よい。
しかし、その反面、このドラマは、リアルタイムに衣装をネットで販売するという「オンエアリンク」システムを初めて導入したドラマとしても注目なのだ。ある意味、時代の最先端を行っているのだ。僕は先日の『「リアルクローズ」で始まった「オンエアリンク」に注目だ』というエントリーで、「27歳位の女性達が立って話をし、時に回転して、ようするに服を見せつけるような長回しシーンが多用されるようなドラマばっかりにならないか微妙に心配である。」という懸念を表明していたのだが、まさしくそんなシーンが見られてしまった。
主人公の絹恵(香里奈)が優作(西島秀俊)の指示で一回転するシーンが出てきたのだ。でもまぁ、しかたないかという感いなのだが...★さて、一方で、日曜劇場「JIN -仁-」 の主人公・南方(大沢たかお)が持つ悩みは逆に、僕等の人生とはほとんど関係のない悩みで、それはそれで爽快である。
彼は、タイムスリップという荒唐無稽な状況で幕末の江戸に飛ばされる医師なのだが、真剣に、ここで医療活動をしてしまうと歴史を変えてしまうのではないかと悩む、さらに、いや、歴史の中では自分の力などほとんど無力なのではないかと涙を流しながら反問したりもする。しかも、その悩みのシーンがやけに長く、切実なのだ。
そういったところはいかにも丁寧に作られていてそれはそれで、好感が持てるのだが、あまりにも実生活には役に立たない悩みに、どうせSFなんだし、そこまで凝らなくてもとすら思わせる。
ただ、このドラマの丁寧さは、家紋ファンの僕の心を少しくすぐる。坂本龍馬の家紋が、「組合角に桔梗紋」だったり、勝海舟の家紋が、「丸に剣花菱紋」であるのは当然の事として、架空の人物である、150石の貧乏旗本の橘恭太郎(小出恵介)の家紋が、きっちり丸に橘なのだ。(おそらく、この旗本、苗字の通り橘姓にちがいないっ!)
こういう丁寧さの積み重ねが、荒唐無稽なストーリーにして、しかし、感動を与えるリアリティを保持しえているコツなのではないか、と、そして、スタッフの陰の力なのだ、と、改めて感じさせる。
とりあえず、今クールは、上記2本が僕の「はまドラ」だ。
まさむね

TV番組 マスメディア »

[26 10 月 2009 | No Comment | | ]

雑誌の休刊が相次いでいるようだ。
最近、休刊を耳にした雑誌をざっと上げてみるだけで「諸君!」「BRIO」「スタジオボイス」「ガテン」「ChouChou」「マリ・クレール」「フォーブス」「sabra」....軽く片手に余る。
各誌とも、それなりに個性があり、固定的な読者層をかかえていただけに、全く残念な話であるが、これも時代の流れなのであろうか。「広告収入が落ちこんで云々」という理由はよく聞くが、結局、読者からの購読料だけで運営が出来なくなっていたということ。今までのビジネスモデルがもう持たなくなったということである。
残念だが、キツイ言い方をすれば、それはある種の「虚構」の上に成立していたということなのであろう。
インターネットという広告出稿とその成果というのが数字として明示されてしまうメディアの登場で、今までのように、ざっくり掲載、成果があっても無くても、よくわからない世界の胡散臭さが露呈してしまったことが大きいのではないかと思う。
勿論、その種のいい加減さは、広告主、代理店、メディアのそれぞれの担当者にとっては、ある意味、楽で、美味しいシステムだったのだろう。成果がなくても、「しかたがないですなぁ」で済ますことが出来たからだ。
しかし、そんな時代はもう終わったということだ。
これから、どうなってしまうのだろうか。
社会のいたるところで、曖昧さが排除され、明確な結果が求められるようになると、さらにストレスフルな状況が加速するような気がする。
そうなると読者はさらに、自分の狭い趣味の世界だけの情報を欲するようになる。いたずらに、自分の心をかき乱すような「雑」なコンテンツを嫌悪するからだ。そうして、自分がほしい情報を得ようとするだけではなく、自分にとって嫌悪感を抱かせるコンテンツにたいして、ますます敏感に拒絶するようになる、許容力がなくなる、そういったヤバいスパイラルが始まっているような気がする。
いまや、雑誌もそうだが、WEBサイトでも、何を掲載するかではなく、何を掲載しないかが重要になっているのであろう。
そうなってくると広告という読者にとって不快なモノをさらに、巧妙に隠すかという技術が大事になってくると思われる。
そして、今後、さらに、広告業界は頭を使わなければならないようになるだろう。
本当にタフでツラい時代だ。
そんな中で、公共事業や第一次産業などといった産業だけが、補助金というシステムで生きながらえたり、公務員という安定した職業が特権的な位置を占めることの理不尽さが益々、社会を覆ってくるにちがいない。
話は飛躍するようだが、結局はまわりまわって、日本全体を、冒険心、好奇心、勇気をもって生きるような社会にしていくしかないんだと思う。
その意味で、来年の大河ドラマは坂本龍馬が主人公だそうだが、龍馬的生き方に惹かれる若者が多くなるというのは僕はいいことだと思う。
一方で破滅することがわかっていながら、自分の生き方にこだわり続ける近藤勇や、古いシステムの運命を一身に引き受け、なんと言われようとも敗北の道を選んだ徳川慶喜、新しい時代を切り開く役割と同時に、古い価値観と心中した西郷隆盛など、幕末の人々の生き方が、現代の多くの人々の心をつかんでいるというのも日本という歴史を持つ国ならではのこととして、誇りに思わなければならないのだろう。
こういうときこそ、その国の底力、つまり歴史の力が試されるのではないかと思う。
まさむね