Articles Archive for 10 月 2009
テレビドラマ »
「ロングバケーション」が再放送しているという。
なんと9年ぶりだそうだ。
日本のテレビドラマ史に燦然と輝く「ロンバケ」。
低視聴率にあえぐテレビ業界がついに切り札をだして来たという感じだろうか。木村拓哉と山口智子という当時の黄金コンビが織り成す微妙な恋の駆け引き。ジャパニーズメロドラマの王道である。
才能がありながらくすぶる若き一人暮らしのピアニストの瀬名(木村拓哉)のアパートメントに、ひょんなことから30歳過ぎの行き場を失った南(山口智子)が迷い込む。
今で言えば、草食系男子の典型である内気な青年と、強気でお節介焼きの年増女が、時に励ましあい、時に傷つけ合う、そして結ばれていく、その二人の微妙な距離感がこのドラマの生命線である。
昨年再放送した「29歳のクリスマス」でもそうだったが、南の溌剌とした色気はなんとも魅力的だ。あくまで自分の欲望に忠実(自分に正直)でありながら、しかし、そこはかとなく優しい。そして、最終的には瀬名にとって無くてはならないような存在になっていく。それはまるで、幸せを運びこむ座敷童子のようでもある。
柳田国男は「妹の力」という評論で、女性というものが持つ根源的な男に幸せをもたらす霊力について語っていたが、「ロンバケ」における南はまさに、そういった意味で、日本民俗学的にも典型的な女性像なのかもしれない。
このドラマが放映されたのが1996年で、この時、南が31歳だから、彼女は、逆算するとちょうど男女雇用機会均等法が成立した1985年に20歳(短大卒が社会人になる年)、時代の流れに乗ってキャリアウーマンとして社会に出るが、そこで様々な挫折を繰り返して、「これでいいのかと振り返ってみたら31歳、人生の節目にぽっかりあいたエアポケットのような時間、それをこのドラマでは「神様がくれた長い休み=ロングバケーション」と表現している。
しかし、あの時代の彼女達はまだ幸せのように思える。まだ、希望、そして何よりもファイトがあったからだ。最終的に瀬名と結婚してボストンに行く南だが、それまでの過程はまさに社会と、そして自分との闘いがある。
闘っている女性は美しい、だから彼女も輝いている。山口智子がこのドラマを最後にして女優としての一線を退いた、その潔さも含め、このドラマは永遠に「闘いにおける勝利のドラマ」として僕の記憶に残り続けるのだ。
一方、ピアニストとしての自分にどうしても自信を持てず、しかし、南の「霊力」を借りて世界に羽ばたいていく瀬名。彼もまたロングバケーションというエアポケットに迷い込んだ戦士である。
おそらく、今回の再放送は、現代、平日の夕方という時間帯に自分を見失った多くの若者が見ているにちがいない。しかし、瀬名が持っていたピアニストという漠然とした夢ですら、それらの若者は持っているのだろうか。余計なお世話を百も承知でそんなことを考えてしまった。
あの時代、瀬名はまだ、「今はロングバケーションだ」とその現状を人生の波の底辺として解釈する余裕があった。しかし、今の若者の多くは「もしかしたらこのまま沈んだままではないのだろうか」「負のスパイラルに迷い込んだのではないだろうか」との不安を持っているに違いない。
実は、この「ロンバケ」が再放送された今から11年前、僕はフリーという名前の失業者=自宅警備員だった。今で言えばニートだ、いや、既に35歳を超えていたからニートですらなかったのかもしれない。
しかし、それでも僕には漠然とした希望があった。今思えば、なんとも無謀で危うい希望ではあったが...
おそらく、「ロンバケ」が放送された15年前、そして僕が再放送をみた11年前に比べ、その「時代が持つ希望の有無」という点が一番大きく変わってしまった悲劇かもしれない。
これらの不安の観念の大部分が「幻想」なんだよ、だから大丈夫なんだよ。と僕は、今、夕方のこの時間に「ロンバケ」を見ている若者に言ってあげたい。
しかし、それも言えない現代という時代というのは一体何なのだろうか。
まさむね
J-POP »
「SNOOZER」の編集長・田中宗一郎氏はビートルズ特集で(おおよそ)こんなことを書いている。
ビートルズとは、何か。30年間ずっと考え続けて、最後に残った答えは、ソウル・シンガーとしてのレノンの声だった...
・・・そして、あのマッカートニーの超絶的なコーラスがあった時にこそ、レノンの声は最高に輝いた。
世界最高のロックバンド、ザ・ビートルズをして、様々な伝説や物語などのデコレーションをそぎ落としていくと、究極的に残る「ビートルズらしさ」がジョンの肉声だというのだ。
なるほどと思った。
実は僕は、同じようなことをw-inds.についても考えていたが、それを言葉に出来なくて、ずっとムズムズしていたからだ。
w-inds.は一般的にはアイドルグループかもしれない。
ダンスユニットという言い方をされるときもある。
しかし、僕にとって、w-inds.とは何か?という問いに対して、最後に残った答えは、橘慶太のハイトーンボイスと、それを見事に輝かせる緒方龍一と千葉涼平のコーラスなのだ。
「Everyday」という至高のラブバラードも、「キレイだ」のカラっとした少年の独り言も、「ブギウギ66」のちょっとクラシカルなダンスチューンも、「Rain is fallin’」の実験的で野心的なG-Dragonとのコラボも、すべての彼らのパフォーマンスの「核」に3人の肉声の存在感があるといえる。
それにしても、彼らの「声」が不当に扱われているテレビゴールデンタイムの音楽シーンは何とかならないものか。「うたばん」や「HEY!HEY!HEY!」がいつの間にか、懐メロ+おふざけトーク番組となり、「ミュージックステーション」の権威主義が鼻につく今日この頃、その(内)輪の中からははずされてはいるが、しかし、逆に言えば、ある意味、そんな退屈な場所には見事に収まりきらないw-inds.のパフォーマンスがもっと多くのリスナーに届く方法はないものだろうか。
文芸評論家・小林秀雄は、現実とは困難の代名詞であり、困難とは努力の代名詞であると言ったが、その言葉が頭をよぎるとき、僕はいつも、w-inds.のことも同時に思い出す。
現実は思うより甘くはなく辛いけど
今日の僕は 昨日よりも
少しだけ強いはず
No More Tears 強がりは いつだって
僕の背中 そっと 後押しする
これは彼らの「TRIAL」という曲の一節だ。
身をけずるようなパフォーマンスの代償として気管支炎をわずらってしまった慶太も見事、困難を乗り切り、「SweetFantasy」の国内ツアーを終えたw-inds.の3人。
12月9日発売の「New World」が今から楽しみである。
「ドクターハウス シーズン2」エンディングテーマとして一部分を聴く限り、ヴィジョンファクトリーの先輩・安室奈美恵の「Dr.」と似た感じのメロディだ。早く、フルコーラスを耳にしたい、とファンなら誰しもが思うだろう。
僕だってこの歳にしてそう思うのだから。
まさむね
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政治 »
ここ10年余り、日本の地域は急速に疲弊しつつあります。経済的な意味での疲弊や格差の拡大だけでなく、これまで日本の社会を支えてきた地域の「絆」が、今やずたずたに切り裂かれつつあるのです。しかし、昔を懐かしんでいるだけでは地域社会を再生することはできません。
かつての「誰もが誰もを知っている」という地縁・血縁型の地域共同体は、もはや失われつつあります。そこで、次に私たちが目指すべきは、単純に昔ながらの共同体に戻るのではない、新しい共同体のあり方です。スポーツや芸術文化活動、子育て、介護などのボランティア活動、環境保護運動、地域防災、そしてインターネットなどでのつながりなどを活用して、「誰かが誰かを知っている」という信頼の市民ネットワークを編みなおすことであります。
国民生活の現場において、実は政治の役割は、それほど大きくないのかもしれません。政治ができることは、市民の皆さんやNPOが活発な活動を始めたときに、それを邪魔するような余分な規制、役所の仕事と予算を増やすためだけの規制を取り払うことだけかもしれません。しかし、そうやって市民やNPOの活動を側面から支援していくことこそが、21世紀の政治の役割だと私は考えています。
新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではありません。政治や行政が予算を増やしさえすれば、すべての問題が解決するというものでもありません。国民一人ひとりが「自立と共生」の理念をはぐくみ発展させてこそ、社会の「絆」を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことができるのであります。
これは、鳩山総理大臣の施政方針演説からの抜粋である。
久しぶりに政治家から素晴らしい言葉が聞けたと、僕は正直思った。
明治維新以来、150年もの間に徐々に崩れてきた日本の地域社会(鳩山さんはここ10年余りと言っていたが、僕はそんな歴史の浅い話ではないと思っている。)を再生させるには、過去を振り返るのではなく、新しい「絆」を再生する以外方法が無い。
それは昨年末に天皇が述べられた「これまでさまざまな苦難を克服してきた国民の英知を結集し、また、互いに絆(きずな)を大切にして助け合うことにより、皆で、この度の困難を乗り越えることを切に願っています。」というお言葉に呼応した大事な宣言を鳩山首相がしてくれたのだと素直に評価したい。
そして、政府の役割として、その人と人との「絆」を邪魔しないこと、市民やNPOの活動を側面から支援していくことと明言し、さらに、予算を増やしさえすればすべてが解決するものではないとまで述べているのだ。
これぞ、「お任せください。幸せにしま~す」の政治から「邪魔しないから、みんなでやろうよ」の政治への大きな転換だ。
とりあえず、今エントリーでは、実際の政策とのギャップを云々する気は無い。
チクリと皮肉を言ったり、眉をひそめたりするのはマスメディアにまかせた!
僕らは、自分たちが実際に、何が出来るのか考えよう。
だけど、今日はもう寝よう。
まさむね
テレビドラマ »
テレビドラマを見ることの一つの大きな動機に、「実際の生活に役立つから」というのがある。
それは、おそらく、テレビドラマの歴史が始まってからずーっとそうなだと思う。
最近の例を上げれば、例えば、火曜日22:00~の「リアル・クローズ」では、毎回、年増のキャリアウーマンがそれっぽい台詞を吐く。前回の2回目では、美姫(黒木瞳)が主人公の絹恵(香里奈)に向かって言う。
「好きなものをたどっていくと、必ず、過去の自分が幸せだった記憶にたどりつく」と...
そして、今日の3回目の放送では、老舗ストッキングメーカー『ヴィオーラ』の水嶋専務(片平なぎさ)が言う。
「朝一番、最初の一歩を踏み出す足が履くストッキングは、その日一日を決める」と...
記憶で書いているので、正確ではないがだいたいそんな台詞だったように思う。
そして、彼女達がドラマの中で真剣にそう言うと、確かになんとなくそんな気がする。
多くの視聴者にとって、彼女達の言葉は「役に立つ一言」に聞こえるという仕組みである。
さらに、同時に主人公の絹恵(香里奈)が、もがきながら成長していく姿に、自分を重ね合わせてドラマを見ていく。
楽しみながら、いろいろと考えさせられる。
そうしたドラマと視聴者との幸福で健康な古典的関係が生きている(ように見える)ところが「リアル・クローズ」の良さだ。
少なくとも僕にとって、このドラマの自信溢れる古典性は心地よい。
しかし、その反面、このドラマは、リアルタイムに衣装をネットで販売するという「オンエアリンク」システムを初めて導入したドラマとしても注目なのだ。ある意味、時代の最先端を行っているのだ。僕は先日の『「リアルクローズ」で始まった「オンエアリンク」に注目だ』というエントリーで、「27歳位の女性達が立って話をし、時に回転して、ようするに服を見せつけるような長回しシーンが多用されるようなドラマばっかりにならないか微妙に心配である。」という懸念を表明していたのだが、まさしくそんなシーンが見られてしまった。
主人公の絹恵(香里奈)が優作(西島秀俊)の指示で一回転するシーンが出てきたのだ。でもまぁ、しかたないかという感いなのだが...★さて、一方で、日曜劇場「JIN -仁-」 の主人公・南方(大沢たかお)が持つ悩みは逆に、僕等の人生とはほとんど関係のない悩みで、それはそれで爽快である。
彼は、タイムスリップという荒唐無稽な状況で幕末の江戸に飛ばされる医師なのだが、真剣に、ここで医療活動をしてしまうと歴史を変えてしまうのではないかと悩む、さらに、いや、歴史の中では自分の力などほとんど無力なのではないかと涙を流しながら反問したりもする。しかも、その悩みのシーンがやけに長く、切実なのだ。
そういったところはいかにも丁寧に作られていてそれはそれで、好感が持てるのだが、あまりにも実生活には役に立たない悩みに、どうせSFなんだし、そこまで凝らなくてもとすら思わせる。
ただ、このドラマの丁寧さは、家紋ファンの僕の心を少しくすぐる。坂本龍馬の家紋が、「組合角に桔梗紋」だったり、勝海舟の家紋が、「丸に剣花菱紋」であるのは当然の事として、架空の人物である、150石の貧乏旗本の橘恭太郎(小出恵介)の家紋が、きっちり丸に橘なのだ。(おそらく、この旗本、苗字の通り橘姓にちがいないっ!)
こういう丁寧さの積み重ねが、荒唐無稽なストーリーにして、しかし、感動を与えるリアリティを保持しえているコツなのではないか、と、そして、スタッフの陰の力なのだ、と、改めて感じさせる。
とりあえず、今クールは、上記2本が僕の「はまドラ」だ。
まさむね
TV番組 マスメディア »
雑誌の休刊が相次いでいるようだ。
最近、休刊を耳にした雑誌をざっと上げてみるだけで「諸君!」「BRIO」「スタジオボイス」「ガテン」「ChouChou」「マリ・クレール」「フォーブス」「sabra」....軽く片手に余る。
各誌とも、それなりに個性があり、固定的な読者層をかかえていただけに、全く残念な話であるが、これも時代の流れなのであろうか。「広告収入が落ちこんで云々」という理由はよく聞くが、結局、読者からの購読料だけで運営が出来なくなっていたということ。今までのビジネスモデルがもう持たなくなったということである。
残念だが、キツイ言い方をすれば、それはある種の「虚構」の上に成立していたということなのであろう。
インターネットという広告出稿とその成果というのが数字として明示されてしまうメディアの登場で、今までのように、ざっくり掲載、成果があっても無くても、よくわからない世界の胡散臭さが露呈してしまったことが大きいのではないかと思う。
勿論、その種のいい加減さは、広告主、代理店、メディアのそれぞれの担当者にとっては、ある意味、楽で、美味しいシステムだったのだろう。成果がなくても、「しかたがないですなぁ」で済ますことが出来たからだ。
しかし、そんな時代はもう終わったということだ。
これから、どうなってしまうのだろうか。
社会のいたるところで、曖昧さが排除され、明確な結果が求められるようになると、さらにストレスフルな状況が加速するような気がする。
そうなると読者はさらに、自分の狭い趣味の世界だけの情報を欲するようになる。いたずらに、自分の心をかき乱すような「雑」なコンテンツを嫌悪するからだ。そうして、自分がほしい情報を得ようとするだけではなく、自分にとって嫌悪感を抱かせるコンテンツにたいして、ますます敏感に拒絶するようになる、許容力がなくなる、そういったヤバいスパイラルが始まっているような気がする。
いまや、雑誌もそうだが、WEBサイトでも、何を掲載するかではなく、何を掲載しないかが重要になっているのであろう。
そうなってくると広告という読者にとって不快なモノをさらに、巧妙に隠すかという技術が大事になってくると思われる。
そして、今後、さらに、広告業界は頭を使わなければならないようになるだろう。
本当にタフでツラい時代だ。
そんな中で、公共事業や第一次産業などといった産業だけが、補助金というシステムで生きながらえたり、公務員という安定した職業が特権的な位置を占めることの理不尽さが益々、社会を覆ってくるにちがいない。
話は飛躍するようだが、結局はまわりまわって、日本全体を、冒険心、好奇心、勇気をもって生きるような社会にしていくしかないんだと思う。
その意味で、来年の大河ドラマは坂本龍馬が主人公だそうだが、龍馬的生き方に惹かれる若者が多くなるというのは僕はいいことだと思う。
一方で破滅することがわかっていながら、自分の生き方にこだわり続ける近藤勇や、古いシステムの運命を一身に引き受け、なんと言われようとも敗北の道を選んだ徳川慶喜、新しい時代を切り開く役割と同時に、古い価値観と心中した西郷隆盛など、幕末の人々の生き方が、現代の多くの人々の心をつかんでいるというのも日本という歴史を持つ国ならではのこととして、誇りに思わなければならないのだろう。
こういうときこそ、その国の底力、つまり歴史の力が試されるのではないかと思う。
まさむね
J-POP »
YUIの「It’s all too much」が、前作「Again」そして、昨年発売された「SUMMER SONG」と連続3作、オリコン週間ランキングで1位になったという。
これは、女性シンガーソンライターとしては、松任谷由実(「真夏の夜の夢」1993年7月26日、「Hello, my friend」1994年7月27日、「春よ、来い」1994年10月24日)、宇多田ヒカル(「traveling」2001年11月28日、「光」2002年3月20日、「SAKURAドロップス/Letters」2002年5月9日)に続く、史上3人目の快挙らしい。
なんとなく意外だ。
そういえば、安室奈美恵や浜崎あゆみ、倖田來未といったエイベックス系のアーティストはシンガーソングライターではない。自分自身の言葉とメロディで表現を行い、それを売り続けるということは、難しいことなのかもしれないと思った。
それにしても、前回の「Again」にしても今回の「It’s all too much」にしても、YUIの怒りはどこに向いているのだろうか。
ねぇ 教えてよ あるがまま
生きていけるほど 純情なんかじゃない
争うことも 避けられないの
きっと 空回り 繰り返す教訓に 支配されてんだ
どうすればいいの?
ねぇ そうでしょ…
空想ばかり描いて進めない
愛想良くもなれない なぜだろう?
It’s all too much
前作の「Again」もそうだったが、彼女は何を憤っているのだろうか。
罪の最後は涙じゃないよ ずっと苦しく背負ってくんだ
出口見えない感情迷路に 誰を待ってるの
白いノートに綴ったように もっと素直に吐き出したいよ
何から逃れたいんだ 現実ってやつか
80年代の尾崎豊が、幻想としての「敵」に向かっていったのははるか昔の話、90年代のミスチルのような「自分探しの旅」すらにも希望を見出せない、どこにも行き場のない水溜りのように淀んだ自分が描かれている。
「It’s all too much」(もう、うんざりだ)というのは、ビートルズの後期、ジョージ・ハリスンの同名タイトル曲から付けられたと思われるが、僕の解釈だと、ジョージの「It’s all too much」は、その頃(60年代後半)、全世界的に覆っていた愛に満ち溢れたメッセージへのアンチテーゼ、直接的に言えば、ジョンの「All you need is love」(愛こそはすべて)への皮肉だったと思っている。
しかし、YUIの歌う「It’s all too much」は、そういった知的余裕とはかけ離れたもっと切実なもののように感じる。
それは、いつの間にか、負の遺産を担がされている世代の叫びだろうか。
そんなYUIのわけのわからない怪物とのタフな闘いは、あとどれくらい続けることが出来るのだろうか。
そういえば、昨年、突然の休業というもあった。
ちょっと心配である。
まさむね
テクノロジー・ビジネス »
いつの間にか、会社でもiphoneを使用する社員が増えてきた。
全社員の1/3に迫る勢いだ。
ものが広まる時というのはこういうものなのだろう。静かに、しかし確実にシェアが増えているのである。
僕はまだdocomo派だが、自分で言うのもなんだが、iphone派に転向するのも時間の問題のような気もする。
さて、そのiphoneの世界で、今、最も話題のソフトが「セカイカメラ」(無料)である。
このソフトを起動して街を撮影すると、街に沢山のタグ(これを「エアタグ」と呼ぶ)が浮いているのが見える。誰かが、その場所で、「セカイカメラ」を使ってタグを書き込んで場所の説明をしてくれているからだ。
ご存知の方も多いと思うが、このような機能のことをAR(Argument Reality=「拡張現実」)という。
wikiではこのように説明されている。
現実環境にコンピュータを用いて情報を付加提示する技術、および情報を付加提示された環境そのものを示す。
これは面白い。
この「セカイカメラ」を通して街を見ると、現実がSFチックに見えるのである。
本当の現実が、バーチャルリアリティのようにも見えるので、現実の「セカンドライフ」化ソフトともいえるかもしれない。
また、街角に人々の「つぶやき」が溢れていることが視覚化されて見えるので、「Twitter」の空間版ともいえるかもしれない。
いずれにしても、「世界を変える」ようなソフトは、僕たちの好奇心と創作意欲を掻き立てる。
このソフトは使い方によっては街を一変させ、そしてビジネスの世界に大きなインパクトを与える可能性すら秘めていると感じさせる。
しかし、このソフトが何故、日本で発明されたのであろうか。僕はそっちの方に関心が向いてしまった。そして、こんなことを考えた。
日本には「言霊」という考え方がある。それは、ある人が発言した言葉自体が、現実世界に影響を与えるという考え方だ。
ちょっと偽装科学的に言えばその言葉を発言した人の「想い」がある種の波動を起こし、現実を動かすということか?
おそらく、その延長線上に「地縛霊」という土着信仰がある。その場所でなんらかの不幸があった場合、その「怨念」がその場所に残って、人々に悪影響を与えるという考え方だ。
不気味ではあるが極めて日本的な発想である。
そして、ある意味、「セカイカメラ」はこの地縛霊の可視化とも言えるのではないだろうか。
その場所で、人々が考えたこと、感じたことがその場所に残り、他の人々に影響を与え続けるからだ。
また、この「エアタグ」は「エアポケット」という機能があって、家に持って帰ることも出来る。
それはちょうど、「座敷童子を連れて帰っちゃった」というような感覚に近いのかもしれない。
民族のフォークロアな発想が、現代技術の最先端に別の形で生まれ変わる、「セカイカメラ」とは日本だからこそ生まれたということも言えるかもしれないのである。
そう考えると次に考えるのは「背後霊」可視化ソフトだろう。それはちょうど、漫画のフキダシのような形にでもなるのだろうか。漫画というこれまた日本でこそ独自に進化した文化がそれを背景として、次世代にさらに発展するということもありうると思う。
しかし、この「セカイカメラ」がよりメジャーになっていくには、いくつかの課題がある。まずは電源の問題。これを起動ししながら歩くと、常に通信しっぱなしなので、結構バッテリーを食うらしいのだ。
そして、通信環境の問題。昨日も山の手線内で、友人の持っている「セカイカメラ」起動して各駅毎のエアタグを見る実験をしようとしたのだが、金曜日の夜ということもあって、なかなかつながらなかった。
また、このソフトを起動している時には、周りの人々からはすぐに何をやっているのかバレてしまうといういわゆる「テレビ電話」問題がある。この動作がちょっとまだ恥ずかしいのだ。そのせいか、docomoの必死の宣伝にもかかわらず、テレビ電話は全く広まらなかった。ちなみに、僕の記憶だと、テレビ電話を具体的に使っている人を見たのは、「恋空」でヒロが病室で死にそうな時にミカにその最期の姿を見せるシーンくらいだろうか。
さらに言えば、この「セカイカメラ」の想定される問題点として、これがイジメや業務妨害的なネガティブな使われ方がしないとも限らないということもあるのだろう。また、「セカイカメラ」中の交通事故とか...まぁ、懸念に終わればそれにこしたことはないが。
そういえば、「エアタグ」を探して歩いていると、店の看板というのは現実世界の「エアタグ」にも見えてくるという逆転感覚も面白い。ちょうど、ポッドキャストを聴いていて、これがもっと簡単に、しかもより多くの人が回線なしで聴けたらいいのにと思ったら、「それって普通のラジオじゃん」と思いつくような感覚だ。
先ほど言ったことを再度言おう。「世界を変える」ようなソフトは、僕たちの好奇心と創作意欲を掻き立て続ける。「セカイカメラ」はまだまだはじまったばかりだ。
まさむね
テクノロジー・ビジネス »
IPメッセンジャー(以下メッセと略す)というソフトがある。
オフィスでの簡易チャットソフトである。これを使えば、社内の人に用事があるとき、いちいち電話をかけたり、席に行って、用件を伝えたりする必要がない。
このソフトを立ち上げて、伝言するだけでいい。大変、便利なソフトである。
いまや、このメッセが無いと仕事も進まないというような会社も多いのではないだろうか。
しかし、一方、でこのメッセの弊害も多く指摘されている。
傍から見ていると、メッセで仕事をしているのか、遊んでいるのかがわからない、いわゆる私的使用問題だ。しかし、これはメッセに限ったことではない。
そもそもインターネットというもの、管理側から見たら、そういった私的使用リスクがあるのはしかたがない。
各個がどのサイトにアクセスしたのかなどを、厳格に管理して、私的使用を把握しようとしている会社ももちろんたくさんあるが、費用がかかるし、実際に管理しきれるものではない。
完璧に管理するという発想自体が、徐々に非現実的になりつつある。
そういったことに労力を費やすのならば、各個との信頼関係をどう作っていくかに頭と時間を割くほうが現実的かつ建設的だと僕は思う。
しかし、このメッセは別な意味で大きなリスクを抱えているのではないかと最近考えている。
それは、会社内にオンラインでのコミュニケーションのレベルと、対面でのコミュニケーションのレベルというようにコミュニケーションが二重化することによって、社員間に、ある主の不信感が生まれる可能性があるのだ。
表面的には仲良くしていても、裏ではメッセで何か自分のことが話題にされているのではないかというような大げさに言えば、「疑心暗鬼」が生まれ、人と人との結びつきを薄っぺらにしてしまいかねないのである。僕はむしろ、そういった人と人との関係の希薄化のほうが大きな問題に発展するのではないかと思っている。
では、メッセなどやめてしまえばいいという話なのだろうか。
そうとも思わない。
悪いのはテクノロジーではなく、それを使う人々がテクノロジーを悪くもよくもするのである。
おそらく、メッセを導入するのは便利になるからいいとして、それ以上に、お互いの人間関係を豊かにするような手当てをし続けることが別途必要になると思う。
そうした信頼関係を築いた上使って、はじめてメッセが生きてくるのだ。
つくづく、難しい世の中になったものだ。僕が新卒で社会人になったころは、コピー機もなくて、「青焼き」という機械を使っていた。
そのうちにファックスが出来て、ワープロが出来て、PCが当たり前になって、インターネットが普及して...
人間を便利にするために生み出された「はず」のテクノロジーが逆に人間にストレスを与える。
そして人間関係をも変えてしまう。SFではなくそれが現実なのである。
しかし、そのことを自覚しているのとしていないのとでは大きな違いがある。
メッセ導入を逆に人と人との絆を再構築するきっかけにしてはどうだろうか。
ただ、言うは易く、行なうは難し。わかっちゃいるけどやめられない。それだけはいつになっても変わらない人間の真理なのである。
まさむね
J-POP »
ヒルクライムの「春夏秋冬」は久々にロングヒットが期待できそうな雰囲気をもった曲だ。
ここには、日本独特の四季折々の風景を織り交ぜながら、男と女の二人だけの濃密な歴史が歌い入れ込まれているのである。
しかし、宮台真司先生ならば「関係の履歴がかたちづくる入れ替え不可能性」の復活願望とでもいうような歌詞は、逆に、現代の若者が置かれているさらなる不安が投影されているといってもいいのではないだろうか。
今年の春はどこへ行こうか?
今年の夏はどこに行こうか?
春の桜も夏の海も あなたと見たい あたなといたい
今年の秋はどこに行こうか?
今年の冬はどこに行こうか?
秋の紅葉も冬の雪も あなたと見たい あたなといたい
~中略~
買ったナビきっかけにどこでも行ったね 色んな所を知ったね
いつかもし子供が生まれたなら教えようこの場所だけは伝えなきゃな
これを高速道路無料化とガソリンの暫定税率廃止、さらに言えば内需拡大政策+子育て支援を後押しするような民主党応援歌じゃないの?などという野暮なことは言うまい。
これは、永遠の愛の歌として楽しむべきなのである。
しかし、この曲、ポジティブなわりにどこか静的である。それはおそらく、その視線が、遠い未来から、現在を見つめているようなおとなしさが感じられるからだと僕は思う。
それは、Greeeenの「愛唄」や湘南乃風の「純恋歌」における、現在の幸せが突然、老後の幸せ(手つなぎ)願望に直結するような感性とは正反対に、老後からの視線のようにも感じられるのである。
ある意味、外界を一切遮断したナイーブな歌ともいえるかもしれないのだ。上手く言えないけど...
それに対してYUIの新曲「It’s all too much」は、「春夏秋冬」とは逆に、ガイーブ(ナイーブの反対)であろうとすることによって、傷つく心の痛みと抵抗感がぶつけられていて、とにかく切ない。
純情なんかじゃない
争う事も
さけられないの
きっと空回り
繰り返す教訓に
支配されてんだ
どうすればいいの
ねぇウソでしょ?
僕等が20代の頃は、とりあえず、「こうすれば幸せになれる」みたいな線路はあった。今から30年位前の話だ。
そして、自分がその線路からズレようと、それは自分の選択だと言えた。
しかし、今の若者はおそらく、どの方向に行っても安心や正解といったものが見えないではないだろうか。だから、ある者は、内面に引きこもったり、ある者は、永遠の幸せをナイーブに空想したり、ある者は、いたずらに突っ張って傷ついたりするのだろう。
僕らはなぜ 答えを焦って 宛の無い暗がりに
自己(じぶん)を探すのだろう
誰かをただ 想う涙も
真っ直ぐな笑顔もここにあるのに
これは、いきものがかりの新曲「YELL」の一節だが、まさに、とりあえず、今、ここにある一瞬の幸福を捨てなければならない若者の旅立ち(卒業)への不安が描かれている。
いつの間に、日本は、これほどまでに若者に希望ではなく、不安を抱かせるような国になってしまったのだろうか。いや、そんなことを言うのは無責任かもしれない。
実は僕は今日で50歳になる。
こんな日本にしてしまったのだろうか、僕らは...という言うべきなのだろう。
まさむね
歴史・家紋 »
先日、八柱霊園の花田清輝の墓に行ってきた。
花田清輝は、戦後に活躍した評論家だ。彼が戦争中に書き、そして終戦直後に発表した『復興期の精神』というエッセイ集は、僕も大学の頃、好きだった本の一つだ。
今はもう、手元にない。いつの間にかどこかへ行ってしまった本だ。
何が書かれていたのか、詳細は、忘れてしまった。
ただ、そこには、ヨーロッパの復興期(ルネッサンス)に生きた芸術家達の「人間」という枠に収めきれないエネルギーのようなものが書かれていたことだけは覚えている。
そこには、フランソワ・ヴィヨンという詩人のことも書かれていた。ヴィヨンというは、とんでもない人だったらしい。Wikipediaからの引用する。
ギヨームの援助もあってパリ大学に入学して同学を卒業したものの、在学時より売春婦やならず者といった輩と行動を共にするようになった。1455年に乱闘騒ぎで司祭を殺してしまい、パリから逃亡してアンジュー近郊の窃盗団に加わる。その後再び罪を得て1461年にオルレアンのマン・シュール・ロワール(Meung-sur-Loire)の牢獄に投獄されたが、恩赦により出獄。
1462年、淫売宿で強盗・傷害事件を起こして投獄され、一時は絞首刑宣告を受けたが、10年間の追放刑に減刑されて1463年にパリを追放された。その後のヴィヨンの消息に関する記録は一切無い。
確かに、なんだかメチャクチャな人だったようだ。
ヴィジョンが現代の日本に生きていたらどうなっていたのだろう。
彼にとって、日本は住みやすい国だろうか。
そんなはずないよな。と思う。
現代でもいろんなことを考える人がいるが、あの時代(終戦直後)にもいろんなことを考える人がいた。そして、いろんな未来を思い描く人々がいた。花田清輝も、そんな果たせなかった「可能性としての未来」を思い描いた思想家の一人である。
彼は中国共産党を、そしてその共産党が行った文化大革命を賞賛したことでも知られている。そんな思想家を現代の僕たちが、その書かれた内容だけで、古いと談じるのはおそらくナンセンスだと思う。
花田清輝の精神に久々に触れてみたいと思った。★さて、花田清輝の家紋(左図)は、彼の思想同様、ユニークだ。
まずは、鹿の角を家紋にする人自体がユニークだ。
自分が知っている限り、有名人では、あの自殺したヒロくんこと、沖田浩之の紋(右図)だけだ。
さらに、この鹿の角が生え替わる前の袋角の家紋もユニークである。
そして、その袋角紋といえば、六つ袋角(左下図)が少し知られているが二本の「抱き」形というはユニークだ。
極めつけは、花田清輝の紋は、その「抱き袋角紋」が上下逆、敢えて言えば、「丸に下がり抱き袋角紋」になっている。つまり、角の先が下に向いているため、角の意味すら無化されているのである。
しかし、デザインとしては、すっきりしている。
さすが、戦後を代表する思想家だ、なんて関心するのも変だが、家紋というものはそういった想像をもかき立てる力を持っている。
まさむね



