「春夏秋冬」「It’s all too much」「YELL」にみる現代の不安
ヒルクライムの「春夏秋冬」は久々にロングヒットが期待できそうな雰囲気をもった曲だ。
ここには、日本独特の四季折々の風景を織り交ぜながら、男と女の二人だけの濃密な歴史が歌い入れ込まれているのである。
しかし、宮台真司先生ならば「関係の履歴がかたちづくる入れ替え不可能性」の復活願望とでもいうような歌詞は、逆に、現代の若者が置かれているさらなる不安が投影されているといってもいいのではないだろうか。
今年の春はどこへ行こうか?
今年の夏はどこに行こうか?
春の桜も夏の海も あなたと見たい あたなといたい
今年の秋はどこに行こうか?
今年の冬はどこに行こうか?
秋の紅葉も冬の雪も あなたと見たい あたなといたい
~中略~
買ったナビきっかけにどこでも行ったね 色んな所を知ったね
いつかもし子供が生まれたなら教えようこの場所だけは伝えなきゃな
これを高速道路無料化とガソリンの暫定税率廃止、さらに言えば内需拡大政策+子育て支援を後押しするような民主党応援歌じゃないの?などという野暮なことは言うまい。
これは、永遠の愛の歌として楽しむべきなのである。
しかし、この曲、ポジティブなわりにどこか静的である。それはおそらく、その視線が、遠い未来から、現在を見つめているようなおとなしさが感じられるからだと僕は思う。
それは、Greeeenの「愛唄」や湘南乃風の「純恋歌」における、現在の幸せが突然、老後の幸せ(手つなぎ)願望に直結するような感性とは正反対に、老後からの視線のようにも感じられるのである。
ある意味、外界を一切遮断したナイーブな歌ともいえるかもしれないのだ。上手く言えないけど...
それに対してYUIの新曲「It’s all too much」は、「春夏秋冬」とは逆に、ガイーブ(ナイーブの反対)であろうとすることによって、傷つく心の痛みと抵抗感がぶつけられていて、とにかく切ない。
純情なんかじゃない
争う事も
さけられないのきっと空回り
繰り返す教訓に
支配されてんだどうすればいいの
ねぇウソでしょ?
僕等が20代の頃は、とりあえず、「こうすれば幸せになれる」みたいな線路はあった。今から30年位前の話だ。
そして、自分がその線路からズレようと、それは自分の選択だと言えた。
しかし、今の若者はおそらく、どの方向に行っても安心や正解といったものが見えないではないだろうか。だから、ある者は、内面に引きこもったり、ある者は、永遠の幸せをナイーブに空想したり、ある者は、いたずらに突っ張って傷ついたりするのだろう。
僕らはなぜ 答えを焦って 宛の無い暗がりに
自己(じぶん)を探すのだろう
誰かをただ 想う涙も
真っ直ぐな笑顔もここにあるのに
これは、いきものがかりの新曲「YELL」の一節だが、まさに、とりあえず、今、ここにある一瞬の幸福を捨てなければならない若者の旅立ち(卒業)への不安が描かれている。
いつの間に、日本は、これほどまでに若者に希望ではなく、不安を抱かせるような国になってしまったのだろうか。いや、そんなことを言うのは無責任かもしれない。
実は僕は今日で50歳になる。
こんな日本にしてしまったのだろうか、僕らは...という言うべきなのだろう。
まさむね




Leave your response!