Articles Archive for 10 月 2009
J-POP »
YUIの「It’s all too much」が、前作「Again」そして、昨年発売された「SUMMER SONG」と連続3作、オリコン週間ランキングで1位になったという。
これは、女性シンガーソンライターとしては、松任谷由実(「真夏の夜の夢」1993年7月26日、「Hello, my friend」1994年7月27日、「春よ、来い」1994年10月24日)、宇多田ヒカル(「traveling」2001年11月28日、「光」2002年3月20日、「SAKURAドロップス/Letters」2002年5月9日)に続く、史上3人目の快挙らしい。
なんとなく意外だ。
そういえば、安室奈美恵や浜崎あゆみ、倖田來未といったエイベックス系のアーティストはシンガーソングライターではない。自分自身の言葉とメロディで表現を行い、それを売り続けるということは、難しいことなのかもしれないと思った。
それにしても、前回の「Again」にしても今回の「It’s all too much」にしても、YUIの怒りはどこに向いているのだろうか。
ねぇ 教えてよ あるがまま
生きていけるほど 純情なんかじゃない
争うことも 避けられないの
きっと 空回り 繰り返す教訓に 支配されてんだ
どうすればいいの?
ねぇ そうでしょ…
空想ばかり描いて進めない
愛想良くもなれない なぜだろう?
It’s all too much
前作の「Again」もそうだったが、彼女は何を憤っているのだろうか。
罪の最後は涙じゃないよ ずっと苦しく背負ってくんだ
出口見えない感情迷路に 誰を待ってるの
白いノートに綴ったように もっと素直に吐き出したいよ
何から逃れたいんだ 現実ってやつか
80年代の尾崎豊が、幻想としての「敵」に向かっていったのははるか昔の話、90年代のミスチルのような「自分探しの旅」すらにも希望を見出せない、どこにも行き場のない水溜りのように淀んだ自分が描かれている。
「It’s all too much」(もう、うんざりだ)というのは、ビートルズの後期、ジョージ・ハリスンの同名タイトル曲から付けられたと思われるが、僕の解釈だと、ジョージの「It’s all too much」は、その頃(60年代後半)、全世界的に覆っていた愛に満ち溢れたメッセージへのアンチテーゼ、直接的に言えば、ジョンの「All you need is love」(愛こそはすべて)への皮肉だったと思っている。
しかし、YUIの歌う「It’s all too much」は、そういった知的余裕とはかけ離れたもっと切実なもののように感じる。
それは、いつの間にか、負の遺産を担がされている世代の叫びだろうか。
そんなYUIのわけのわからない怪物とのタフな闘いは、あとどれくらい続けることが出来るのだろうか。
そういえば、昨年、突然の休業というもあった。
ちょっと心配である。
まさむね
テクノロジー・ビジネス »
いつの間にか、会社でもiphoneを使用する社員が増えてきた。
全社員の1/3に迫る勢いだ。
ものが広まる時というのはこういうものなのだろう。静かに、しかし確実にシェアが増えているのである。
僕はまだdocomo派だが、自分で言うのもなんだが、iphone派に転向するのも時間の問題のような気もする。
さて、そのiphoneの世界で、今、最も話題のソフトが「セカイカメラ」(無料)である。
このソフトを起動して街を撮影すると、街に沢山のタグ(これを「エアタグ」と呼ぶ)が浮いているのが見える。誰かが、その場所で、「セカイカメラ」を使ってタグを書き込んで場所の説明をしてくれているからだ。
ご存知の方も多いと思うが、このような機能のことをAR(Argument Reality=「拡張現実」)という。
wikiではこのように説明されている。
現実環境にコンピュータを用いて情報を付加提示する技術、および情報を付加提示された環境そのものを示す。
これは面白い。
この「セカイカメラ」を通して街を見ると、現実がSFチックに見えるのである。
本当の現実が、バーチャルリアリティのようにも見えるので、現実の「セカンドライフ」化ソフトともいえるかもしれない。
また、街角に人々の「つぶやき」が溢れていることが視覚化されて見えるので、「Twitter」の空間版ともいえるかもしれない。
いずれにしても、「世界を変える」ようなソフトは、僕たちの好奇心と創作意欲を掻き立てる。
このソフトは使い方によっては街を一変させ、そしてビジネスの世界に大きなインパクトを与える可能性すら秘めていると感じさせる。
しかし、このソフトが何故、日本で発明されたのであろうか。僕はそっちの方に関心が向いてしまった。そして、こんなことを考えた。
日本には「言霊」という考え方がある。それは、ある人が発言した言葉自体が、現実世界に影響を与えるという考え方だ。
ちょっと偽装科学的に言えばその言葉を発言した人の「想い」がある種の波動を起こし、現実を動かすということか?
おそらく、その延長線上に「地縛霊」という土着信仰がある。その場所でなんらかの不幸があった場合、その「怨念」がその場所に残って、人々に悪影響を与えるという考え方だ。
不気味ではあるが極めて日本的な発想である。
そして、ある意味、「セカイカメラ」はこの地縛霊の可視化とも言えるのではないだろうか。
その場所で、人々が考えたこと、感じたことがその場所に残り、他の人々に影響を与え続けるからだ。
また、この「エアタグ」は「エアポケット」という機能があって、家に持って帰ることも出来る。
それはちょうど、「座敷童子を連れて帰っちゃった」というような感覚に近いのかもしれない。
民族のフォークロアな発想が、現代技術の最先端に別の形で生まれ変わる、「セカイカメラ」とは日本だからこそ生まれたということも言えるかもしれないのである。
そう考えると次に考えるのは「背後霊」可視化ソフトだろう。それはちょうど、漫画のフキダシのような形にでもなるのだろうか。漫画というこれまた日本でこそ独自に進化した文化がそれを背景として、次世代にさらに発展するということもありうると思う。
しかし、この「セカイカメラ」がよりメジャーになっていくには、いくつかの課題がある。まずは電源の問題。これを起動ししながら歩くと、常に通信しっぱなしなので、結構バッテリーを食うらしいのだ。
そして、通信環境の問題。昨日も山の手線内で、友人の持っている「セカイカメラ」起動して各駅毎のエアタグを見る実験をしようとしたのだが、金曜日の夜ということもあって、なかなかつながらなかった。
また、このソフトを起動している時には、周りの人々からはすぐに何をやっているのかバレてしまうといういわゆる「テレビ電話」問題がある。この動作がちょっとまだ恥ずかしいのだ。そのせいか、docomoの必死の宣伝にもかかわらず、テレビ電話は全く広まらなかった。ちなみに、僕の記憶だと、テレビ電話を具体的に使っている人を見たのは、「恋空」でヒロが病室で死にそうな時にミカにその最期の姿を見せるシーンくらいだろうか。
さらに言えば、この「セカイカメラ」の想定される問題点として、これがイジメや業務妨害的なネガティブな使われ方がしないとも限らないということもあるのだろう。また、「セカイカメラ」中の交通事故とか...まぁ、懸念に終わればそれにこしたことはないが。
そういえば、「エアタグ」を探して歩いていると、店の看板というのは現実世界の「エアタグ」にも見えてくるという逆転感覚も面白い。ちょうど、ポッドキャストを聴いていて、これがもっと簡単に、しかもより多くの人が回線なしで聴けたらいいのにと思ったら、「それって普通のラジオじゃん」と思いつくような感覚だ。
先ほど言ったことを再度言おう。「世界を変える」ようなソフトは、僕たちの好奇心と創作意欲を掻き立て続ける。「セカイカメラ」はまだまだはじまったばかりだ。
まさむね
テクノロジー・ビジネス »
IPメッセンジャー(以下メッセと略す)というソフトがある。
オフィスでの簡易チャットソフトである。これを使えば、社内の人に用事があるとき、いちいち電話をかけたり、席に行って、用件を伝えたりする必要がない。
このソフトを立ち上げて、伝言するだけでいい。大変、便利なソフトである。
いまや、このメッセが無いと仕事も進まないというような会社も多いのではないだろうか。
しかし、一方、でこのメッセの弊害も多く指摘されている。
傍から見ていると、メッセで仕事をしているのか、遊んでいるのかがわからない、いわゆる私的使用問題だ。しかし、これはメッセに限ったことではない。
そもそもインターネットというもの、管理側から見たら、そういった私的使用リスクがあるのはしかたがない。
各個がどのサイトにアクセスしたのかなどを、厳格に管理して、私的使用を把握しようとしている会社ももちろんたくさんあるが、費用がかかるし、実際に管理しきれるものではない。
完璧に管理するという発想自体が、徐々に非現実的になりつつある。
そういったことに労力を費やすのならば、各個との信頼関係をどう作っていくかに頭と時間を割くほうが現実的かつ建設的だと僕は思う。
しかし、このメッセは別な意味で大きなリスクを抱えているのではないかと最近考えている。
それは、会社内にオンラインでのコミュニケーションのレベルと、対面でのコミュニケーションのレベルというようにコミュニケーションが二重化することによって、社員間に、ある主の不信感が生まれる可能性があるのだ。
表面的には仲良くしていても、裏ではメッセで何か自分のことが話題にされているのではないかというような大げさに言えば、「疑心暗鬼」が生まれ、人と人との結びつきを薄っぺらにしてしまいかねないのである。僕はむしろ、そういった人と人との関係の希薄化のほうが大きな問題に発展するのではないかと思っている。
では、メッセなどやめてしまえばいいという話なのだろうか。
そうとも思わない。
悪いのはテクノロジーではなく、それを使う人々がテクノロジーを悪くもよくもするのである。
おそらく、メッセを導入するのは便利になるからいいとして、それ以上に、お互いの人間関係を豊かにするような手当てをし続けることが別途必要になると思う。
そうした信頼関係を築いた上使って、はじめてメッセが生きてくるのだ。
つくづく、難しい世の中になったものだ。僕が新卒で社会人になったころは、コピー機もなくて、「青焼き」という機械を使っていた。
そのうちにファックスが出来て、ワープロが出来て、PCが当たり前になって、インターネットが普及して...
人間を便利にするために生み出された「はず」のテクノロジーが逆に人間にストレスを与える。
そして人間関係をも変えてしまう。SFではなくそれが現実なのである。
しかし、そのことを自覚しているのとしていないのとでは大きな違いがある。
メッセ導入を逆に人と人との絆を再構築するきっかけにしてはどうだろうか。
ただ、言うは易く、行なうは難し。わかっちゃいるけどやめられない。それだけはいつになっても変わらない人間の真理なのである。
まさむね
J-POP »
ヒルクライムの「春夏秋冬」は久々にロングヒットが期待できそうな雰囲気をもった曲だ。
ここには、日本独特の四季折々の風景を織り交ぜながら、男と女の二人だけの濃密な歴史が歌い入れ込まれているのである。
しかし、宮台真司先生ならば「関係の履歴がかたちづくる入れ替え不可能性」の復活願望とでもいうような歌詞は、逆に、現代の若者が置かれているさらなる不安が投影されているといってもいいのではないだろうか。
今年の春はどこへ行こうか?
今年の夏はどこに行こうか?
春の桜も夏の海も あなたと見たい あたなといたい
今年の秋はどこに行こうか?
今年の冬はどこに行こうか?
秋の紅葉も冬の雪も あなたと見たい あたなといたい
~中略~
買ったナビきっかけにどこでも行ったね 色んな所を知ったね
いつかもし子供が生まれたなら教えようこの場所だけは伝えなきゃな
これを高速道路無料化とガソリンの暫定税率廃止、さらに言えば内需拡大政策+子育て支援を後押しするような民主党応援歌じゃないの?などという野暮なことは言うまい。
これは、永遠の愛の歌として楽しむべきなのである。
しかし、この曲、ポジティブなわりにどこか静的である。それはおそらく、その視線が、遠い未来から、現在を見つめているようなおとなしさが感じられるからだと僕は思う。
それは、Greeeenの「愛唄」や湘南乃風の「純恋歌」における、現在の幸せが突然、老後の幸せ(手つなぎ)願望に直結するような感性とは正反対に、老後からの視線のようにも感じられるのである。
ある意味、外界を一切遮断したナイーブな歌ともいえるかもしれないのだ。上手く言えないけど...
それに対してYUIの新曲「It’s all too much」は、「春夏秋冬」とは逆に、ガイーブ(ナイーブの反対)であろうとすることによって、傷つく心の痛みと抵抗感がぶつけられていて、とにかく切ない。
純情なんかじゃない
争う事も
さけられないの
きっと空回り
繰り返す教訓に
支配されてんだ
どうすればいいの
ねぇウソでしょ?
僕等が20代の頃は、とりあえず、「こうすれば幸せになれる」みたいな線路はあった。今から30年位前の話だ。
そして、自分がその線路からズレようと、それは自分の選択だと言えた。
しかし、今の若者はおそらく、どの方向に行っても安心や正解といったものが見えないではないだろうか。だから、ある者は、内面に引きこもったり、ある者は、永遠の幸せをナイーブに空想したり、ある者は、いたずらに突っ張って傷ついたりするのだろう。
僕らはなぜ 答えを焦って 宛の無い暗がりに
自己(じぶん)を探すのだろう
誰かをただ 想う涙も
真っ直ぐな笑顔もここにあるのに
これは、いきものがかりの新曲「YELL」の一節だが、まさに、とりあえず、今、ここにある一瞬の幸福を捨てなければならない若者の旅立ち(卒業)への不安が描かれている。
いつの間に、日本は、これほどまでに若者に希望ではなく、不安を抱かせるような国になってしまったのだろうか。いや、そんなことを言うのは無責任かもしれない。
実は僕は今日で50歳になる。
こんな日本にしてしまったのだろうか、僕らは...という言うべきなのだろう。
まさむね
歴史・家紋 »
先日、八柱霊園の花田清輝の墓に行ってきた。
花田清輝は、戦後に活躍した評論家だ。彼が戦争中に書き、そして終戦直後に発表した『復興期の精神』というエッセイ集は、僕も大学の頃、好きだった本の一つだ。
今はもう、手元にない。いつの間にかどこかへ行ってしまった本だ。
何が書かれていたのか、詳細は、忘れてしまった。
ただ、そこには、ヨーロッパの復興期(ルネッサンス)に生きた芸術家達の「人間」という枠に収めきれないエネルギーのようなものが書かれていたことだけは覚えている。
そこには、フランソワ・ヴィヨンという詩人のことも書かれていた。ヴィヨンというは、とんでもない人だったらしい。Wikipediaからの引用する。
ギヨームの援助もあってパリ大学に入学して同学を卒業したものの、在学時より売春婦やならず者といった輩と行動を共にするようになった。1455年に乱闘騒ぎで司祭を殺してしまい、パリから逃亡してアンジュー近郊の窃盗団に加わる。その後再び罪を得て1461年にオルレアンのマン・シュール・ロワール(Meung-sur-Loire)の牢獄に投獄されたが、恩赦により出獄。
1462年、淫売宿で強盗・傷害事件を起こして投獄され、一時は絞首刑宣告を受けたが、10年間の追放刑に減刑されて1463年にパリを追放された。その後のヴィヨンの消息に関する記録は一切無い。
確かに、なんだかメチャクチャな人だったようだ。
ヴィジョンが現代の日本に生きていたらどうなっていたのだろう。
彼にとって、日本は住みやすい国だろうか。
そんなはずないよな。と思う。
現代でもいろんなことを考える人がいるが、あの時代(終戦直後)にもいろんなことを考える人がいた。そして、いろんな未来を思い描く人々がいた。花田清輝も、そんな果たせなかった「可能性としての未来」を思い描いた思想家の一人である。
彼は中国共産党を、そしてその共産党が行った文化大革命を賞賛したことでも知られている。そんな思想家を現代の僕たちが、その書かれた内容だけで、古いと談じるのはおそらくナンセンスだと思う。
花田清輝の精神に久々に触れてみたいと思った。★さて、花田清輝の家紋(左図)は、彼の思想同様、ユニークだ。
まずは、鹿の角を家紋にする人自体がユニークだ。
自分が知っている限り、有名人では、あの自殺したヒロくんこと、沖田浩之の紋(右図)だけだ。
さらに、この鹿の角が生え替わる前の袋角の家紋もユニークである。
そして、その袋角紋といえば、六つ袋角(左下図)が少し知られているが二本の「抱き」形というはユニークだ。
極めつけは、花田清輝の紋は、その「抱き袋角紋」が上下逆、敢えて言えば、「丸に下がり抱き袋角紋」になっている。つまり、角の先が下に向いているため、角の意味すら無化されているのである。
しかし、デザインとしては、すっきりしている。
さすが、戦後を代表する思想家だ、なんて関心するのも変だが、家紋というものはそういった想像をもかき立てる力を持っている。
まさむね




