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Articles Archive for 10 月 2009

テレビドラマ »

[18 10 月 2009 | No Comment | | ]

TBSの日曜劇場「JIN-仁」が面白い。
簡単に言えば、このドラマは、現代(20世紀末)の医者がタイムスリップで、幕末の江戸に行ってしまい、人々を救おうとするという歴史SFである。
元々、設定が荒唐無稽なため、少々の矛盾があっても仕方が無いが、それでも詳細部分で、その矛盾をなんとかしようとする努力が感じられ、それ自体、非常に好感が持てるのだ。
例えば、主人公の南方(大沢たかお)の髪型。当然のこと、江戸時代は身分によって髪型が決まっていた。武家の娘、町娘、浪人、旗本、医者、非人...はその髪型で職業、身分がわかったのである。
その中に一人、現代風の髪型の青年が現れる。当然、江戸の人々が彼の髪型を不自然に思い、あれこれ注意する。
そういったことが比較的丁寧に描かれているところにリアリティを感じるのである。
また、現代では、患者を救うことに対して尻込みしていた青年医師が、幕末の江戸に対して、医療技術を伝えるのと引き換えに、逆に医者にとって一番大事な、「医者とはどうあるべきか」を教えられるという構図が、大変わかりやすく表現されている。
それは、江戸の人々の純粋な表情、生きようとする意志、人間らしい朴訥さ、そういったものが上手く描かれているからにちがいない。いいドラマだ。
おそらく、役者達=登場人物の個性が十分生かされているからなのだろう。坂本龍馬(内野聖陽)、橘咲(綾瀬はるか)、咲の母(麻生祐未)、緒方洪庵(武田鉄矢)、勝海舟(小日向文世)、喜市(伊澤柾樹)といった江戸の人々がリアルにいとおしく感じてしまう。
特に、僕たちは、歴史的事件としての坂本龍馬の非業の死を知っているだけあって、彼の笑顔と目の輝きがなんとも切なく、胸を締め付けられるのだ。そして、その龍馬を見る切ない感覚を南方仁(大沢たかお)と僕たち視聴者が共感しているという不思議な構造が、この「JIN-仁」のユニークさだと思う。
脳に包帯を巻いて、病院に担ぎ込まれた謎の男が坂本龍馬なのか?、そして彼を現代にもどして最新医療を受けさせるために、南方は自分を犠牲にするのか?どうなるのか、僕は原作も知らないのでなんとも言えないが、そういった荒唐無稽さをも超えた感動が待っているような気がする、久しぶりに期待感を抱かせるテレビドラマである。
最近、広告の減収によるテレビ業界の構造不況が言われており、自分自身も数多くのエントリーでテレビ業界のことを批判してきたが、しかし、テレビがいまだにコンテンツビジネスのトップランナーであることは事実だし、その凋落によって、ドラマの質が落ちてしまうことはおそらく、誰も望んでいないことであろう。
いいものはいい、悪いものは悪いというのは当たり前の話だが、だからこそ、この「JIN-仁」について敢えてベタで褒めさせてもらう。
初回の視聴率が16.5%だったというが、よしよし!これからさらにうなぎ登りにより多くの人に見てもらいたいと、江戸の人々と同じように純朴な気持ちでそう思う。
まさむね

テクノロジー・ビジネス, テレビドラマ »

[17 10 月 2009 | No Comment | | ]

フジテレビ火曜日22:00~放送の「リアルクローズ」は、こんなドラマだ。
ファッション激戦区、銀座の老舗百貨店を舞台に、“ファッションを愛する”女たちの葛藤と成長―。内面の美しさは、その人のファッションにあふれ出すもの。着る人の人生にフィットする真の意味での“リアル・クローズ”とは、まず自分を知るところからはじめていくこと。まったく冴えなかった主人公が、ファッションの世界で悩み翻弄されながらも次第に輝きはじめていく日々を描く。
しかし、このドラマ、内容とは別に、ドラマと連動した「オンエアリンク」というECシステムが一つの話題となっている。
「オンエアリンク」というのは以下のようなシステムである。(以下、IPGニュースからの引用)
出演者が着用した衣装等のアイテムや商品がテレビ番組のストーリーに連動して、ECサイトにアップされ、オンタイムで同じ商品が購入できるシステム。
番組内で紹介されたり、出演者が着用している商品情報等と番組メタデータとをデータベース上で紐付け、タイムコードに合わせて配信・管理できるダブルスクリーン(テレビを見ながらパソコンや携帯電話でネットをすること)対応の番組連動システムであり、テレビ番組が「視聴者に放送だけでは届けられていない情報」をリアルタイムに提供できるテレビ番組の視聴率向上プロモーションの“キラー・システム”。
ようするに、ドラマを見ながら、「あっ、あれいいなぁ」と思った商品をその場で、パソコンのECサイトから購入が出来るということ。昨今、視聴率の低下、テレビ広告収入の落ち込み等、比較的暗い話題が多かったテレビ業界の新たな収入源となるか、注目が集まっているのである。
そこで、僕が注目したは、第1回放送後、ドラマに登場する女優別の売り切れ率(2009.10.16 22:00現在)であった。

女優名
役名
販売アイテム数
売切アイテム数
売切れ率

香里奈(25)
天野絹恵(26)
24
12
50%

黒木瞳(49)
神保美姫(47)
0
0

加藤夏希(24)
佐々木凌(23)
21
1
5%

能世あんな(30)
木村瑞穂(29)
7
0
0%

真野裕子(33)
林陽子(31)
7
0
0%

えれな(27)
多村アヤ(27)
8
5
63%

前原エリ(27)
坂野ゆかり(2?)
3
3
100%

福田萌(24)
矢野かおり(2?)
8
2
25%

理絵(35)
田原梨香(3?)
3
0
0%

これで見ると面白いことに、売り切れ率のピークは、27歳あたり、そこを上下にズレるに従って、売り切れ率が下がっていくということが読み取れるのである。
勿論、調査としてはかなりサンプル数が少ないし、商品自体の魅力といった要素が全く加味されていないため、結論を急ぐことに全く意味が無い。
しかし、それでも記念すべき「オンエアリンク」の第1回目の結果としては、それなりの傾向があったと言ってもいいのではないだろうか。
その結果とは、ようするに、売れる・売れないは、そのアイテムを着ている俳優の知名度、人気、ドラマにおける役どころとはあまり関係が無いのかもしれないということである。
前原エリという女優は、ドラマのほんの脇役で登場する。「格」は決して高くはない娘であるが、売上率は100%、完売だ。
また、今をときめくモデル兼女優の加藤夏希だが、商品がほとんど売れ残ってしまっている。
さらにいえば、リアル世界での香里奈三姉妹、上から、能世あんな、香里奈、えれなでは、おそらく、人気・知名度ではえれなが一番低いが、商品は一番売れているである。
ようするに、視聴者(顧客)がただ自分に合うかどうかを基準に購入している、そしてその年齢は27歳位という仮説が立てられるのではないだろうか。
今後、2回目以降、この数字を追っていくという、ドラマの新しい楽しみ方が誕生した。
もしかしたら、最終的には、ドラマの展開と売り切れ率の相関関係が出てくるかもしれないではないか。
また、初回は、エントリー(?)していなかった大物・黒木瞳が2回目以降、参戦してくるかもしれないというのも興味の的だ。
ただ、もしこのビジネスが大ヒットしたとき、次なる作品が例えば、27歳位の女性達が立って話をし、時に回転して、ようするに服を見せつけるような長回しシーンが多用されるようなドラマばっかりにならないか微妙に心配である。
まさむね

歴史・家紋, 相撲/プロレス/格闘技 »

[16 10 月 2009 | No Comment | | ]

「誰が一番強いのか。」
そんな素朴な疑問が僕たちをワクワクさせたそんな時代があった。
勿論、それはプロレスの話である。
「やっぱり、猪木は切れたたら何するかわからない、ああいうヤツが一番強い」
とか
「身体的な潜在能力だったら、鶴田だろう。2メートル近くある身長であのジャンプ力はやっぱり化け物だ」
とか
「ここ一番の集中力はやっぱり、長州だ。体は小さいけど馬力はある」
それぞれ勝手なことを言い合って酒場を盛り上げる。そんな牧歌的な時代、そう80年代である。
しかし、今思うとやっぱり一番強かったのは馬場さんだと敢えて言いたい。
司馬遼太郎の『手掘り日本史』の中にこんな一節をみつけたからだ。
信長に非常に感心することがあります。彼は桶狭間でいちかばちかのバクチをしますね。しかし彼は、その生涯のうちに、こんなバクチは二度と打とうとしない。こんなものは百に一つぐらいしか当たるものではない。そのことを彼はよく知っていたのでしょう。
その後の信長の戦いかたは、味方が敵の数倍になるまで待っています。それまで外交につぐ外交で、敵を弱らせておく。あるいは、ダマしておく。これなら確実に勝てるというときになってから行動をおこす。これは勝つのが当然でしょう。
ようするに信長が戦国の世を勝ち続けたのは、負ける勝負はしなかったからということだ。
この狡猾なまでの慎重さこそ、強さの秘訣だったのだと僕は解釈したい。そして、その慎重さこそ、馬場さんに通じるところなのである。
       ★
おそらく、馬場さんは日本プロレス時代にエースの座を射止めてから、日本人レスラーにはシングルで負けていない。30年間以上も負けていないのだ。
それは馬場さんが負ける可能性があると直感した闘いはしなかったからである。
ご存知の通り、プロレスというのは、シナリオがある。しかし、リングに上がったら、そこには相手と自分しかいない。そこで相手に裏切られたら、それは既成事実として「勝負」になってしまうという世界でもあるのだ。
その昔、木村政彦という柔道家が力道山と世紀の対決をした。よく知られた話であるが、ここで力道山はシナリオを裏切って木村をボコボコにしてしまった。そのせいで、木村は力道山より弱い、そして、柔道は相撲よりも弱いというレッテルを貼られることになり、彼は一生、力道山を恨み続けたという。そして力道山が刺殺されるとこういったという。「俺が呪い殺したのだ」と。
そんな万万が一の非常事態を知っているがゆえに、馬場さんは決して猪木とは試合をしなかったのである。
馬場さんは猪木を信用し切れなかったから、だと僕は思う。
実は、馬場さんにとっての桶狭間のような闘いが若手の頃、「力道山の御前道場マッチ」に存在したといううわさもある。
そこで、馬場さんは大木金太郎にボコボコにされた。しかし、そんな大木に対して、猪木は善戦していたというのである。そしてこれは僕の想像だが、この時の敗戦を心に刻んだ馬場さんは、それ以降、決して負ける可能性のある勝負はしなくなったのである。
       ★
ご存知の通り、信長は、最後に明智光秀に殺される。だから、最後に失敗したとも言える。
それゆえ、その信長は、「慎重さ」という意味で次点だ。そして、信長以上に慎重だったのが宮本武蔵だ。
宮本武蔵は、生涯六十余りの真剣試合をしたが、一度も不覚をとらなかったという。その極意も信長同様、相手が自分よりも弱いと思った相手としか試合をしなかったからである。
これは確かに、臆病とも言えるが、逆に言えば、それだけの知恵と観察眼を持っていたということでもある。そこが並の剣士と武蔵とが違うところだ。
       ★
話を馬場さんに戻す。実は、タッグマッチでは馬場さんは日本人に、2回負けている。一人は天龍、そしてもう一人が先ごろ亡くなった三沢だ。三沢が馬場さんをフォールした試合は今でも語り草になっている。三沢がトップロープからダイブしてのネックブリーカードロップで馬場さんにフォール勝ちしたのだ。
馬場さんはこの試合で、三沢こそ自分の跡目を継ぐ逸材であることを満天下に示したのである。
しかし、その馬場さんも三沢も、もうこの世にいない。
あの、「誰が一番強いのか。」というある意味、不毛で、しかし、ある意味、夢のある会話も今はどこにも無い。
まさむね

政治, 社会問題 »

[15 10 月 2009 | No Comment | | ]

羽田空港を国際ハブ空港にするという至極当然の前原国土交通大臣と、その発言に、怒りで夜も眠れなかったという森田健作千葉県知事の二人が、今日会談した。
結局、森田知事は前原大臣の顔を見て話をしたら、怒りはどこかへ行ってしまったということなのだろうか。
おそらく、最初から怒るような話ではなかったのだろう。多くの場合、人の怒りというものは
①「俺は聞いてない」
②「お前には言われたくない」
③「なんで俺だけなんだ」
という3つに集約されるが、今回の森田知事の怒りは、①だったという話だ。
しかし、先の八ツ場ダムの話もそうだったが、今まで根回しの積み上げで決めてきたものが政権交代によって、こうも簡単に引っくり返る、おそらくこれが政権交代の意義なのだろう。
そういう意味では、当然の事が当然のように行われているということなのである。
       ★
それこそ、古代から日本という国は、中央の政治権力が力で地方を押さえ込むような国柄ではなかった。ボトムアップというべきか、人々の意見を聞き、忖度し、誰もが少しづつ我慢しながら、結局はみんながほぼ納得した上で、全体が決まっていくようなシステムでやってきた。
中央の力が弱まると、地方の豪族、郡司、あるいは武士、国人、名主といった、時代によってそれぞれ名称は違うが、ようするに独立的な存在が地域を独自に治めて、上からの要求をはねつけ、あるいは、面従腹背で、適当に言うことを聞きながら独立性を保つ、またお上はお上で、必殺技「お目こぼし」を駆使しながら、よく言えば平和的、悪く言えば、なぁなぁでやってきたそれが日本の国柄だ。
日本は(移民国家アメリカ以外では)、世界で最も名字が多いということの秘密がそんな歴史には隠されているのである。
しかし、明治以降、地方の人材はどんどん中央に収奪され、それまであった地域共同体はどんどんと解体されていった。いわゆる過疎化問題だ。そして、それまでかろうじて、地域をまとめていた顔役(地主、農協、土建屋、村長、郵便局長、学校長等等)も、90年代の失われた10年に続く、今世紀にはいってからの構造改革で力を失ってしまった。もう、中央政府がこれらの顔役に再配分する原資(補助金)が無くなってしまったのである。
さらに、ここに来て、民主党の公約である子供手当て、農家への個別補償等の国家からの直接再配分制度によって、それこそ顔役は、完全にスルーされ、その「顔」をつぶされる寸前まで来ているのだ。
これからは、根回しの佃煮のようなボトムアップ政治から、トップダウンで物事が降りてくる全体の国益優先の政治になることも予想される。無意味で中途半端な空港や港湾やダムや道路がなし崩しに出来てしまうなどということは無くなるに違いない。ていうか、そんなことをやっている余裕がもうなくなったということなのだろう。
しかし、顔役の没落とともに、この長い間かけてなし崩しに出来てきた地域の自然共同体に代替される人と人との結びつきは、一体どういう形になっていくのであろうか。
       ★
僕は民主党のマニフェストの中で、実は、最も大事なのは、実は以下のところだと密かに思っているのだ。
34.市民が公益を担う社会を実現する
【政策目的】
○市民が公益を担う社会を実現する。
○特定非営利活動法人をはじめとする非営利セクター(NPOセクター)の活動を支援する。
【具体策】
○認定NPO法人制度を見直し、寄付税制を拡充するとともに、認定手続きの簡素化・審査期間の短縮などを行う。
○国際協力においてNGOの果たす積極的な役割を評価し、連携を強化する。
【所要額】
100億円程度
回りくどい方法かもしれないが、民主党の政策は、こういった市民社会を創造するために、旧来の共同体の最後の息の根を止めようとしているのだとしか思えない。
これらは保守主義的な人々にとってはある意味、耐えられない苦痛を伴う改革だと思うが、歴史の針を元に戻せない限り、こうやって市民が「意志的」に社会を作っていくしかないと思う。
今まで、自分は子供手当てや農家への個別補償、高速道路無料化について、いろいろと揶揄してきたが、民主党のやろうとしていることに対しては、大きな方向としては支持せざるを得ない。それしか、これからの日本社会が真っ当に進む道がないからだ。
今後、自分もどうやってこういった市民社会に参画していくべきか、50歳を直前にして、少しは真面目に考えていきたい...ってちょっとは思う。
まさむね

政治, 社会問題 »

[13 10 月 2009 | No Comment | | ]

民主党が政権を取って、今までの様々な公共事業の無駄が暴かれ始めている。
その代表的なものが八ツ場ダムや川辺川ダムであるが、こうしてみると、いかに自民党政権が地方の土建屋や既得権益者のための政権だったのかということが改めてわかる。
そして、マスコミはそういった公共事業の実態に関して、ほとんど報道してこなかった。その罪もあまりにも大きい。勿論、それらは法律違反というようなレベルの問題ではないが、僕等の知らない間に、僕等の税金がそれほど必要とも思われないところに多額に使われていたということのだ。そして、いつの間にか、国の借金は800兆円を超え、一人当たり600万円以上にも増えてしまっているのだ。どうしてくれるのか?とはまさにこのことである。
思えば、今回のリーマンショック以降の100年に一度の大不況、小泉政権の失政による地域格差の拡大、そういったフレーズに乗って組まれた15兆円の補正予算、こんなことをしても景気が上向かないことなど、90年代に散々経験したはずではなかったのか。
地域格差というのは、戦後、地方の農家の次男、三男が都会に出てきて、都会の人口が爆発的に増え、産業も発展する過程で徐々に広がってきたものだ。おそらく、そのようにして人口集中が起こらないと日本が世界に伍して経済大国になることもなったに違いない。だから、その意味で、人を都会に集めるという自民党の政策はある時期までは正しかったのだろう。先ごろ、放送されていた「官僚たちの夏」の時代まではだ。
しかし、その後、70年代の日本列島改造計画、80年代のバブル、そしてその崩壊の90年代まで、逆に地方はどんどん過疎化が進んでしまった。すなわち、地域格差の実体はどんどんと進んでいたのだ。
ただ、その格差は、国からの補助金というシステムによって、隠蔽されていただけだったのである。
おそらく、元々、地方と都会の生活を同じにしようとするのに無理があったのではないか。
地方は自然が豊かだが不便、一方、都会は便利でファッショナブルだがコンパクト、そういった環境の違いがあるのに、それらの差をなくそうとしてきたツケが今、補助金カットという現実によって、目に見える形で現れているのではないだろうか。
地方には地方の、都会には都会のそれぞれの価値観をはぐくんでこなかったのが問題なのである。
実は、都会にいても、たまに地方の様子をテレビで見ることが出来る。夕方になるとほとんど人通りが無くなった街を元スターが尋ね歩く「田舎に泊まろう」や、ヨネスケが晩御飯を食べ歩く「隣の晩御飯」などの番組だ。
しかし、そこで見る田舎の生活は都会に比べてあまりにも豊かだと僕はいつも感じていた。勿論、そういった番組写りのいいようなところしか放送しないのかもしれないし、事前に話がつけられているのかもしれないが、田舎の人々の生活は都会に比べてとても豊かである。勿論、それは人と人とのつながりがまだ存在しているという点もあるのだが、(自動車が一家に数台あるなど)同時に物質的にも豊かなように感じられるのである。
例えばある日(2008年9月4日)の「隣の晩御飯」では彼等(漁師さん一家)の夕食は以下のようなものだった。
1.アジのなめろう
2.瓜の漬物
3.エビチリ
4.ハンバーグ
5.巻き寿司
6.主食のカレーライス(何もなかったということで出前した:お母さん談)
都会民にしてみたらなんという贅沢か。
リーマンショック以来の地域格差拡大というのがどういったことなのか、僕は具体的にはよくわからない。しかし、敢えて憎まれ口を叩くのなら、自民党は今まで、このような生活をしている人々に補助金を出してきたのではないかと思わざる得ない。勿論、これは豊かな一例であり、実態としてはこうした地方の表の顔ではない別なところに皺寄せが行っているのだろうが、それが具体的にはわからない。
もしも、地域格差是正というのが、地方の生活、そして価値観を現状のままキープするための補助金漬けの政策であれば、それはもう、止めるべきだ。
それは地方が自分達の力で生きていけるような政策にならないと、長い目で見て意味がない。
しかし、それが道州制なのか、規制緩和なのか、高速道路無料化なのか、勿論、やってみなければわからないのは確かであるが、今までと同じような競争をする必要のない社会が続くという幻想だけは抱くべきでないと僕は思う。
まさむね

源氏物語 古典文学 »

[12 10 月 2009 | No Comment | | ]

三連休ということで、久しぶりに「古事記」を手に取った。
あの坂本龍一は「時間がある時は柳田国男の全集を読む」というようなことをどこかで言っていたが、僕の場合、「古事記」が、たまに帰ってくる「場所」のようなものだ。
特に神武天皇が生まれるまでの「上巻」(「古事記物語」現代教養文庫)が好きだ。というより、ほとんどいつも上巻しか読まないと言ったほうがいいかもしれない。特に理由があるわけではないが、だいたいこのあたりで飽きてしまうからである。「源氏物語」でも”須磨帰り”と言って、源氏が須磨に流されるあたりでいつも読むのを止めてしまう人がいるらしいが、だいたい似たようなものである。
今回、この「古事記」(上巻)を読んでみて気になったのが海幸彦と山幸彦の話だ。簡単に言えばこんな話だ。
ににぎの命と木花咲耶姫との間に、長男・海幸と次男と三男・山幸という三人兄弟がいた。長兄・海幸は海で漁を、末弟・山幸は山で猟をするのを生業としていたが、ある時、山幸が海幸に対して、道具を交換して、それぞれの猟(漁)をしてみようと誘う。兄・海幸はあまり気が進まなかったがとりあえず、言うことをきく。
しかし、結果は悲惨、山幸は海幸の釣り針を失くしてしまう。山幸は、なんとか別の針でもって償おうとするが、海幸はなんとしてでも返せと迫る。
困った山幸は、塩椎爺からの助言通り、海神のところへ行く。山幸は、そこで海神の娘・豊玉姫と結ばれる。そして、海神に自分が何故ここに来たのかを伝える。海神は、海中の魚を集めて、山幸の失くした釣り針を探すように言う。すると鯛の口にその釣り針が刺さっているのを見つけ、無事、山幸はその釣り針を手に入れる。
そして、海神は、山幸にその針を返す時に、「後ろ向きで『この釣り針は、ぼんやりする針、落ち着かない針、貧しくなる針、愚かになる針』といいながら、この針を渡せ」と言う。そして、針と一緒に、海の潮の満干を自由に操れる玉をに渡す。
山幸は、海神の言った通りにして海幸の元に帰って釣り針を返す。
その後、海幸はどんどん貧しくなり、遂には、山幸に攻めてくるが、山幸は海神にもらった玉を使って、海幸を溺れさせ、平伏させる。
後に、山幸は天皇家の先祖となり、海幸は隼人の先祖となるのだが、皇室の儀式の時の隼人の舞いは、海幸が溺れるときの仕草が取り入れられている。
全体を通して読めば、「他人には寛容であれ」という道徳譚として読める。確かに、子供の頃に読んだ絵本は、そういった文脈で書かれていたように記憶している。しかし、元々、嫌がる兄を無理やり説得して弓矢と釣り針を交換したのは弟・山幸のほうだ。そしてその針をなくしたのだから、それなりの咎を受けるのは当たり前だ。
それなのに、逆に兄を不幸に陥れる。元祖逆ギレ状態ではないのか。
それはともかく、古事記の登場人物たちは、周囲から助けられる存在として描かれることが多いということにも気づく。
大国主命は、兄達に殺されるが母親の祈りで生き返るし、ヤマトタケルは妻の力で海を渡ることが出来る。そして、この山幸も、義父に助けられるのだ。
敢えてこのように読んでみると、日本神話の大きな主題は「周囲に恵まれることが以下に大事なことか」なのかもしれない。
ただ今回、この山幸、海幸の部分を読んで気になったのは、いくつかのディテイルである。
例えば、海幸と山幸は実は三人兄弟だったということ。一体、二番目の兄はどこへいってしまったのだろうか。僕は逆にこういった、ある意味無駄な設定にリアリティを感じてしまうのだ。
古事記が、最初から物語として創作した話だとすれば、二番目の兄の存在を記す必要などなかったはずだからだ。
また、海神が山幸に対して、後ろ向きに呪文を唱えろというアドバイスをするところ。これは相手からの怨念を受けないための姿勢なのであろう。よく、ドラマなどで上司が部下に対して、「君はクビだ」的な辛い言葉を投げかける時に後ろ向きに伝える場面があるが、その神話学的な起源がここにあるような気がするのである。
そして、最後に、海幸の子孫の隼人が天皇家の前で披露する隼人舞い。被征服民が支配者の前で踊りを披露して、その忠誠を示すということなのだろう。それは、負け犬が勝ち犬に対して「腹を見せる」のと同様な服属儀式だ。
僕が何故か思い出すのが、小泉純一郎が、ブッシュ大統領の前でプレスリーの真似をして踊ったあのシーン。
今さらながら、神話学的にもっと糾弾されてしかるべき場面だったのかもしれないと思った。
まさむね

社会問題 »

[10 10 月 2009 | No Comment | | ]

政府による補正予算の見直しが進んでいる。
最終的には、執行停止額、三兆円を目指すそうだ。政権が新しくなったのだから、当たり前の話だが、予算を削らされそうになって、それによって、当然のように受益されると思っていた面々は戦々恐々だろう。
ところで、数ヶ月前に話題になった「アニメの殿堂」も当然のように建設中止のようだ。しかし、今考えてみれば、ちょっと残念な気もする。(画像は、アニメ好きと言われていた麻生元首相。全体的に残念な人だった)
観光資源として、「アニメの殿堂」はとりあえず、足を運ぶ価値があるものになる可能性があったはずだからだ。わざわざアメリカからやってきて、山奥のダムを見学する物好きはいないだろうが、「アニメの殿堂」には行ってみようと思う”外オタ”はいたかもしれない。
勿論、中身の議論はこれからなのだろうが、やりようによっては、田舎の農道工事のような、将来的には、あまり意味があるとは思えない補助金投入よりもよっぽど効果が期待できたと思うのである。
これからの日本の各産業の中で数少ない成長が見込める業界だったのに、その成長の芽の一つをつぶしてしまったのだ。まだまだ、アニメなど霞ヶ関から見たらマイナーな分野なのだろう。
勿論、そういった世間(体制)からの無視のされ方が逆にオタク心をくすぐるという面もあるので、一概に「アニメの殿堂」建設中止は悪とも言えないのだが、民主党による中止はそこまで考えた上での政策ではないのは確かなようだ。
しかし、その一方で、アニメ業界の労働条件の悲惨さという現実もあるのは事実だ。「好きなことしてるんだから」といういい訳はあるものの、給料は安い(月収手取り15万円程度)、家に帰れない(週3回は会社宿泊)、しかも世間に認められないという三重苦のアニメ業界、この業界は、確実にワーキングプアの一翼を担っている。
ちなみに、ここでいう「世間に認められない」というのは具体的に言えば、婚約者の母親の目を見て自分の職業が言えないという程度の意味である。
「アニメの殿堂」中止問題とは全く別に、こうした彼等の労働条件の改善問題は、民主党政権になって少しは改善されるのであろうか。川端文科相の「アニメ番組1本にスポンサーは数千万円払うが、現場の一番下で請け負う人たちには数百万円しか渡らない。生活できず、若い人材が辞めていく現状があることも承知している」という「セリフ」にとりあえず、期待したいが、実は、問題は経済的なことじゃないのかもしれない。
実は、彼等のことを考えると日本というのはまだまだ、不平等な社会だと思わざるを得ないのだ。減反政策とかで、休耕田を作ると補助金がもらえる人々がいる、つまり、仕事をしないことによってお金がもらえる業界がある一方で、どんなに働いても貧しいままの人々がいる。
行政は明らかに、アニメよりも農業の方が尊い職業だとみなしているということではないのか。
先日来、亀井静香金融大臣が、不況に苦しむ中小企業救済ということで「貸し渋り・貸しはがし対策法案(仮称)」を検討しているという。「かわいそう」な人々をなんとかするのが政治だとしたら、これはそれなりに正しい政策なのだろうが、問題は、どういった人が「かわいそう」なのかを判断する基準が曖昧という点だろう。
田舎、老人、町工場、母子家庭、介護者、被差別者...確かに彼等はかわいそうかもしれない。
しかし、おそらく、この「かわいそう」な人々にアニメ業界の若者は入っているようで、まだ入っていない。
まさむね

テクノロジー・ビジネス, 書評 »

[7 10 月 2009 | No Comment | | ]

他と同じようなサイトを他と違うように、しかも他よりあらゆる面で優れたサイトを作るというのは如何に難しいことか。
しかし、その難しいことを実現してしまったサイトがある。
それはクックパッド(携帯では「モバれぴ」)というサイトである。
ご存知の方も多いとは思うが、このクックパッドは、会員数680万人の巨大レシピサイトだ。
レシピサイトは他にもいくらでもあるのだが、このクックパッドは、あらゆる面で優れている。
おそらく、これは奇跡的なことだ。
その奇跡を具体的に、クックパッドの携帯版のモバれぴで見てゆこう。
まずは、レスポンスが速い。docomoの公式サイトのレシピメニューではこのモバれぴは堂々1位にランキングされているが、メニューからクリックしてから、トップページが表示し終わるまでの速さが他のレシピサイトに比べてダントツに速いのだ。しかも「600万人の女性に支持される『クックパッド』というビジネス」(上阪徹著)によると月間2.2億ページビューもあるのにだ。
具体的に僕が測ったところ、メニュー上位でのクリックから表示までの時間(5回の平均時間)はこうだ。
1位 モバれぴ 3秒
2位 味の素簡単レシピ 9秒
3位 キッコーマン速攻レシピ 7秒
4位 簡単キレイのレシピ 8秒
5位 プロの簡単レシピ 13秒
その理由の一つは簡単、実はトップページに画像が無いのである。「なんだ当たり前じゃないか」と思ってはいけない。これは技術の話ではない。サイトを作ったことのある人なら誰でもわかると思うが、トップページに画像を入れないということがどれほど、「難しい」決断か。これはジャニーズの携帯サイトにも言えることだが、やはり理念のしっかりしているところは、「何をやらないか」がはっきりしているのである。
繰り返すが、これはもの凄く難しいことだ。もしかしたら、多くの人はモバれぴのトップサイトを真似てトップページの画像を削除すればいいのかと勘違いしてしまうかもしれないが、重要なのは、現象ではない。そこに至るまでの彼らの熟慮と理想の高さ=理念の強さなのである。
そして、それだけではない。そこには理念に加えて、技術的な裏づけがあるのだ。上記の本によると、クックパッドは「Ruby」を使って自社でサーバーの運営からプログラミングまでしているという。だからこそ、日々、反応速度に関する研鑽に余念が無いのである。
また、このクックパッドでは、そこに掲載されている料理の量がこれまた半端ではない。例えば、「ナス」という文字を検索窓に入れた時に出てくる料理数を見てみよう。
1位 モバれぴ 20003件
2位 味の素簡単レシピ 164件
3位 キッコーマン速攻レシピ 0個(「なす」と入れて163件)
4位 簡単キレイのレシピ 30件
5位 プロの簡単レシピ 519件
とにかく圧倒的なのである。しかも、この検索窓に行くまでのクリック数を数えてみると別のこだわりがみえてくる。
1位 モバれぴ 0クリック
2位 味の素簡単レシピ 18クリック
3位 キッコーマン速攻レシピ 8クリック
4位 簡単キレイのレシピ 2クリック
5位 プロの簡単レシピ 3クリック
モバれぴはサイトに入るとすぐにユーザーが主体的に行う検索が出来るのである。他のサイトでは、~特集とか、会員登録、バナー、説明文などをパスしてようやく検索窓に行き着くのに、モバれぴでは一切そういったわずらわしい途中経緯がないのである。
おそらく、サイト運営者側が見せたいものよりも、ユーザーが見たいものを優先させた結果がこの位置の検索窓なのだと思う。
その他、画面の見やすさ、デザインの綺麗さ(写真の大きさ、位置などが統一されている)でも他を圧倒している。さらに、モバれぴでは、「つくれぽ」といって他のユーザーが実際にレシピを作ってみた写真を投稿することが出来るのであるが、その数が10個になると自然とトップページの上部に表示されるようにプログラミングされているため、更新頻度が、他のサイトに比べて圧倒的に高い(おそらく5分に1回程度!?)のである。
さらにさらに、他のサイトではレシピを見ようとすると有料になってしまうサイトもあるのに、モバれぴは、見るだけならば全部のレシピ(50万件)が無料、ただ、「つくれぽ」を投稿したり、表示されたレシピを人気順にソートして表示させるためには、有料会員になってもらうという設計なのである。
ということは、このサイトでは検索という技術と投稿というコミュニティ、すなわち「ユーザーが料理をより楽しめる仕組み」で金を取っているという事なのだ。
技術というととかく、派手な機能を想像しがちなのだが、ここでは、サイトを表示するとか、検索でユーザーがほしいものを上位に表示するといった極めて地味な、ある意味「普通」なところに人一倍力を入れているということなのである。その地道さが凄いではないか。
このサイトを運営しているクックパッドは、「料理を楽しくする」という一点のこだわりをもってサイトを創り、運営しているという。そのためには、過去に、わざわざ、Googleの検索エンジンにひっかからないように順位を下げるようなプログラミングをしてでも、ユーザビリティを上げたということもあるそうである。これまた凄い話ではないか。
「600万人の女性に支持される『クックパッド』というビジネス」を読んでいると最初から最後まで賞賛の嵐で一冊の新書が出来上がっている。普通、そういった本はどこか胡散臭かったり、ウソ臭いものである。
しかし、この本を読んだ後、若干の悪意を持ってサイトにアクセスした僕は、そのおろかさを知ることになってしまった。この本に書いてあることは全部、本当のことなのである...と少なくとも思わせるだけの説得力のあるサイトなのである、クックパッド(PC)、モバれぴ(携帯)は...おそらく、ここには僕のような老悪魔が住む場所がないと思わされた。
別に昨日のエントリーで東京オリンピック招致のことをこき下ろしたからということで、今日はクックパッドをベタ褒めしたわけではない。
再度言おう。クックパッドは極めて地味ではあるが、現代のささやかな奇跡なのである。
まさむね

時事ネタ »

[6 10 月 2009 | No Comment | | ]

2016年の夏のオリンピックがリオデジャネイロに決定、東京は落選でした。
日本人として一瞬はがっかりしたが基本的によかったと思う。実は、自分は昨年来、東京オリンピックには反対だったのである。ただ、10月18日の「若者世代の団塊世代以上に対する怨嗟は凄いのかも」というエントリーで、以下のように書いていたのだが、その後、関心がなくて正直忘れていただけなのだ。
先日、石原都知事がネットカフェ難民が1500円でネカフェに泊まるのはファッションの一種だ。山谷に行けば300円で泊まれるのに、って発言してネット上で大顰蹙を買ったけど、その彼は今、オリンピック誘致を推進しようとしている。
自分は決めて(手柄だけ取って)、作業は下の世代に押し付けとしているのだ。勘弁してほしい。僕は大反対だ。
石原軍団で、準備から警備まで勝手にやってくれというのが本音。
しかし、このたび、”めでたく”落選ということで思い出した次第。
後で聞いた話であるが、招致活動に150億円、都の職員も800人以上も動員したという。なんという無駄だろう。さっそく、そのあたりをどのように考えているのかを知りたくて招致委員会のサイトにアクセスするとブログが10月2日の最終プレゼン演説のところででプッツり途切れていた。
このまま、ある日、突然アクセス出来なくなる可能性大なので、一応何かの記念に、以下、最後のエントリーの文章だけを引用しておく。
コペンハーゲンで応援!東京応援ツアーの皆さんが無事、コペンハーゲンに到着!
朝は最終プレゼンテーションに向かう東京チームを盛大に見送った後、
市内中心部にある市庁舎前広場のパブリックビューイングで
さきほど終了した最終プレゼンテーションを固唾を飲んで見守りました。
プレゼンは大成功!
何度も「東京!東京!」と掛け声が沸き起こり、
コペンハーゲン現地の皆さんもこれに加わって、東京にエールを送ってくれました。
オリンピックって、こうして世界を一つに結んでくれるんですね。
さぁ、この後はIOC委員による運命の投票、そして開催都市の発表です。
投票開始は日本時間0時過ぎからです。
皆さん、日本からパワーを送ってください!
正確な世論調査の結果は知らないが、東京が落選したのは、「市民のバックアップが少なかったから」ということが大きな原因らしい。自分は東京在住だが、確かに、今回のオリンピックが話題になったことは少なくとも僕の周りでは皆無だった。それなのに、半ば、都知事の思いつきで強引に進めてこの結果だ。仕事の出来ない人の仕事の進め方の典型的なパターンを見るようだ。
さて、それではドブに捨てた150億円はどうしてくれるのだろうか。
まぁ済んでしまったことは仕方がないにしても、今の時代、ブログを突然辞めるのではなく、何が問題だったのかをちゃんと説明するのが行政の義務だろう。それに、東京オリンピックをするという前提で雇っていた都の職員も可哀相だが、当然、仕事が無くなったのだから不要、馘首に異存あるまい。民間企業がこれほど苦しい時代だもの、東京都だって、仕事もないのに雇っておくほどの財政的余裕はないはずだ。まさか、人が余っているからといって仕事をわざわざ作り出すことはないと思われるが...念を押しておくが当然のことながら、2020年のオリンピックに再度立候補っていうのは冗談だよね。
とにかく、その馘首の具体的なスケジュールをはやく発表して欲しいものである。
まさむね

書評, 歴史・家紋 »

[5 10 月 2009 | No Comment | | ]

日本人というのは、古来より一つの民族でありつづけたという漠然とした常識(日本の民族意識)に対して、常に疑いの目を持ち続けたのが網野善彦氏である。
「東と西の語る日本の歴史」において彼はこう語る。
それにしても、われわれはこれまで、あまりにも安易に、日本人、日本民族という観念にあまえかかりすぎていたのではなかろうか。ひとたび、この観念を突き放して検討してみると、じつはそれは、案外に底の浅い、ドグマにみちたものだったように私には思えるのである。
これは、日本という国がまだそれなりに自信に満ち溢れていた1982年の言葉である。網野氏は続ける。
・・・・スペイン・イタリア・フランス、あるいはオランダとドイツ、ノルウェーとスウェーデンなどの違いの幅と、東日本と西日本、西日本と朝鮮半島の違いの幅と、果たしてどのくらい違うのであろうか。その幅が、これまでなんとなく考えられてきたよりも、東日本と西日本との間では広く、西日本と朝鮮半島との間では狭いことだけは間違いないと私は思うのであるが・・・・
これらを今読むと、歴史学というのは、客観的な学問というようりも、学者の願望が反映しがちなイデオロギーであることがよくわかる。勿論、網野氏はそのことに関して、極めて自覚的ではあるが、今から30年近く前のこの書物を読むと、彼の言葉が、現在では説得力の弱いものになっていることに歴史の流れの残酷さを感じざるを得ないのも事実なのである。
しかし、それを踏まえても、網野氏がこの本で提示する説、日本の古層に東西の対立軸があること、もう一段細かく言えば、長い間、「東国-九州」VS「西国-東北」という政治力学あったという図式は、現在の僕たちにとってもそれなりに面白い。
例えば、家紋の全国分布を調べてみると、意外に、関東・中部地方と九州地方に共通点が見られたりするところに、網野説を裏付ける発見があったりするのだ。
具体的に言えば、鷹の羽紋。これは元々、九州熊本の阿蘇氏が発祥といわれているが、現在は、九州だけではなく、関東にも多く見られる。群馬県、千葉県、神奈川県、大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県の各県で1位なのである。
有名人で言えば、関東出身の鷹の羽紋を持つ人は、小泉純一郎(神奈川)、梶原一騎、エノケン(東京都)、野間清治(群馬県)であり、九州出身では、壇一雄(福岡県)、霧島一博、先代・朝潮太郎(鹿児島県)、中村汀女(熊本県)などがいる。(画像は、小泉家の墓所で撮影した「違い鷹の羽紋」)
また、長野が発祥の雁紋、梶の葉紋は、意外に鹿児島県に多い。NHKの大河ドラマ「篤姫」で瑛太が演じて有名になった肝付直五郎は雁紋、養子先の小松家は梶の葉紋である。
おそらく、網野氏は、僕のようなただの歴史(家紋)好きが、自分の趣味で歴史を推理するためのネタ本にするために、多くの著作をしたためたわけではないであろう。しかし、彼が「東と西の語る日本の歴史」を脱稿してからおよそ30年、日本人の意識はどんどん網野氏の夢想した方向から離れてしまっているようにも思える。
つい四十年前まで、「神風」が吹くことを期待するようなおろかさをもちつづけた日本人の「民族意識」が、いかに根の浅いものであるかを徹底的に考えない限り、われわれは、最近の中国をはじめとする東アジア・南アジアの人々からの批判のような、「恥知らずの民族」という汚名を、いつまでももちつづけなくてはならないことになろう。
我々の年代以上の人々はともかくとして、網野氏が書いたこれらの言葉に共感出来る若者は、ほとんどいなくなってしまったような気もするがいかがであろうか。日本の民族意識はいつの間にか、網野氏の想像を超えて根の深いものになってしまっているのかもしれない。
まさむね