Articles Archive for 3 12 月 2009
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内藤大助VS亀田興毅のWBC世界フライ級は瞬間視聴率が50%超えたらしい。
日本人の二人に一人が見たということだ。
勿論、僕もチャンネルを合わせた。「坂の上の雲」をあきらめたのだ。
結果として12ラウンド亀田の判定勝ち。順当な結果だったと思う。
二人が入場して、リングに上がった瞬間、若干入れ込み気味な内藤に対して、亀田はあくまで冷静だ。今までの亀田とは違う。肉体も以前より締まっている。明らかに、この試合、亀田は勝つことだけを目指して調整してきたことがわかった。
プロボクシングというスポーツは、他のどんなスポーツよりも、冷静さが重要なスポーツである。ただ、相手を倒すという目的のため、純粋に機械的な体を作る。
そして、より冷静に己の動きを制御しえたものだけが勝利を得ることが出来るのである。
しかし、一方で、彼らはプロであるがゆえに、物語を身に纏う必要があるのだ。
多くの場合それは「成り上がりのストーリー」である。
ところが、周りが物語を彼らに纏わせれば纏わせるほど、機械としての肉体の動きは正確さを欠いてしまう。だから、そういったガチガチのストーリーファイトは得てして名勝負にはならない。物語に感情を入れ込むことは、機械の性能を、確実に鈍らせるからである。
例は悪いかもしれないが、昨年のオリンピックの野球で、無様な敗退を喫した星野JAPAN。僕は、星野の物語体質が日本を勝利から遠ざけたと思っている(「星野監督のドラマ体質と残酷な五輪」)。「ミスをしても使い続ける義理堅い男の中の男」という、星野的物語が「真剣勝負」の場では、いかに邪魔なものだったのかは、その半年後、原が反物語的=機能的な采配で、WBCでの優勝をもたらしたことによって証明されたのであった。
プロボクサーはだから、いかに観客が喜ぶような物語を演じるかというテーマを持つ一方で、いかに機械になりきるかという、ある意味、相反するパフォーマンスを同時になしえなければならない過酷な存在なのである。
さて、話を戻そう。亀田VS内藤といえば、誰もが認識している大きな背景としての物語は、単純に言えば、亀田は大阪・西成の貧しい父子が裸一貫から立ち上がる話だし、内藤は北海道の田舎町で母子家庭として育ったいじめられっ子の逆転劇だ。
しかし、今回のタイトルマッチ。物語は次の次元に進んでいる。そして、その新たな次元での物語は明らかに亀田に有利に進んだのだと、僕は思う。
おそらく、今回の亀田の勝因は、この世界戦における彼の物語が、父離れという逆に脱物語的な物語であったことである。
リングに上がった瞬間から彼が見せた、今までとは違った冷静な「亀田興毅」。試合が始まっても、欲望のおもむくままに攻めるのではなく、相手の隙を見てはカウンターを狙うという、最大限の効率を狙った機械的なムーブを続けたのであった。
それは亀田父直伝の野性的な雰囲気とは違うストイックな姿である。おそらく、もともと聡明な亀田興毅だからこそ、父離れ=成長という物語と、禁欲的な機械という最高のパフォーマンスを意識下で一致させることが出来たのだ。
一方、内藤大助もよく頑張った。35歳という年齢を考えると、おそらく精一杯の試合だったのではないか。しかし、彼が持ってリングに上がった物語は、残念ながら、「この年齢で、力の限り闘うがけっぷちの男」という一歩間違えれば、敗北を呼び込んでしまいかねないような危うい物語であったことも事実だ。
試合前の切羽詰ったような表情、そして、試合中に、リスクの高いアッパーカットなどを見せるたびに、僕はそれでも最後まで内藤の「奇跡」を信じ続けようと思った。時に、物語を、圧倒的に超える瞬間を持つのもボクシングというスポーツだからだ。
しかし、試合は終わった。
残念ながら、最後までその瞬間は訪れなかった。
勝者と敗者は明らかだった。
亀田はリングにうつぶせになって泣き、内藤は、花道で頭を下げた。
試合の緊張感があまりにも高かっただけに、二人の素が出たのだ...というのは本当だろうか。
もしかしたら、亀田はやんちゃな少年を、内藤は内気なおじさんを再び演じ始めたのかもしれないと僕は思った。
まさむね




