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内田樹、福田和也、宮台真司。先生達に共通の問題意識

8 12 月 2009 No Comment

内田樹先生(以下敬称略)の『日本辺境論』(新潮新書)はそれこそ考えるヒントにあふれた良書である。
僕はこの本でいろんなことを考えさせられた。日本人というのは日本人論が好きな民族である、というのはよく言われることだが、内田樹はその日本人の属性を日本の地政学的特徴に求める。日本はユーラシア大陸の東の果てという辺境にあるがゆえに、常に、他者としての比較でしか己を見つけられないのだと。そもそも日本という国号自体、中国から見て太陽が昇る方向という意味でしかないという。
確かにそうだ。
おそらく偏狭な愛国主義者から見れば耐えられないようなその視点は同時に刺激的でもある。

あまたあるこの新書内の考えるヒントの中で、僕が一番、膨らませてみたいと思ったのは135ページの次の箇所だ。

武士道は「或るものに対して或るもの」という報酬の主義を排する。新渡戸はたしかにそう書いています。努力と報酬の間に相関があることが確実に予見せらるることは武士道に反する、そう言っているのです。これは日本文化の深層に届く洞見だと私は思います。

日本人は辺境にあるがゆえに、海の向こうから来る圧倒的な情報や制度に対して、己を無防備に開放して、それらを受け入れてきた。
そして、いつのまにかそれを日本的に変容して取り入れてきたのだ。
古代における仏教、近世における鉄砲、近代における文学、民主主義...そういった例は枚挙に遑がない。

仏教はいつの間にか、神道と混合してわけのわからないものになってしまった。
殺傷武器のはずの鉄砲は江戸時代を通して、工芸品になってしまった。
西洋の自然主義文学は、私小説へと変貌してしまった。
そして、民主主義は談合の変種と化してしまった。

この受け入れ方自体が日本的なのだと内田樹は言う。しかし、最近、この日本的受容方法に危機が訪れているのだとも言うのだ。
何かを「学ぶ」前に、それによってなにか『いいこと』があるから学ぶといういわゆる報酬の確証が無いと学べない人々が増えている、ようするに日本人の「学ぶ力」が劣化しているというのだ。そして、内田はこのように警鐘を鳴らす。

「学ぶ」力こそは日本の最大の国力でした。ほとんどそれだけが私たちの国を支えてきた。ですから、「学ぶ」力を失った日本人には未来が無いと私は思います。現代日本の国民的聞きは「学ぶ」力の喪失、つまり辺境の伝統の喪失あのだと私は考えています。

なるほど、そうだ。僕は、内田樹のこの言葉と通底する警鐘を最近、読んだ著書の中でいくつか思い出す。

まずは、福田和也先生(以下敬称略)の『日本の近代』(新潮新書)のあとがきでのこんな言葉だ。

今日、社会の中枢を占めているのは、「自分さがし」や「自分らしさ」、「個性」に執着した世代です。まったく無縁にみえて、「自分らしさ」という発想は、実は「国体」とたいしてかわらないのではないか・・・と、私は危惧しています。
それは、日本人が現実感覚を失っていく兆候に他ならないから。

この『日本の近代』は、明治維新から第二次世界大戦までの日本の近代を、福田和也文体でつづった名著であるが、そこには一貫して、正しい現実感覚を持った日本人の謙虚さを支持する姿勢が見られる。第一次世界大戦後=昭和の始めに、日本は世界の一等国にまで上り詰めるがその時点で、リアリズムを失い「国体」という観念に取り付かれていく、そんな日本の姿を福田はこの本で活写するのである。
そして筆を置く直前のこのあとがきの文章で、その後の敗戦までの破滅への流れとパラレルなものとして、現代人の観念的な自分本位の姿勢を指弾しているのだ。
福田の論点を内田の語彙で言い換えてみれば、「学ぶ力を喪失したセコい自分中心主義は、辺境としての謙虚さを失った日本中心主義と同類のものだ」という批判になるのではないだろうか。

また、この”セコい自分中心主義批判”は、宮台真司先生(以下敬称略)の『日本の難点』(幻冬舎新書)の「感染」論の動機にも通じるものである。

たとえば「本当にスゴイ奴」とそうでない奴の違いは、初期ギリシアの言葉(プラトンの言葉)で言えば、ミメーシス(感染的模倣)を生じさせるかどうかで分かるのです。ミメーシスというのは、真似しようと思って真似るのではなく、気がついたときには真似てしまうようなものです。・・・(中略)・・・ミメーシス、つまり「感染的模倣」こそ「衝動」それ自体です。何かの「手段」でもなければ、「目的」でさえもありません。

この新書の中で宮台真司は、人がなにかを学ぶときの動機のうち、最も重要なものとして「感染的模倣」を上げている。おそらく、この「感染的模倣」とは、内田の言うところの日本人の最大の利点=「学ぶ力」とはそれほど遠いものではない。内田が言うところの「学ぶ」力も、宮台が言うところの「ミメーシス」も、それは、小賢しい「手段」でも「目的」でもない衝動力とでもいうべきものだからである。
しかし、宮台真司は現代日本社会では、様々な環境変化によってこの感染的模倣が起こりにくくなっていることを懸念する。それは同時に日本の国力をも低下させかねないものだからだ。

いつの間に、日本は自己の損得を基準にした小賢しくもセコい人々ばかりの国になってしまったのだろうか。
僕は、内田樹、福田和也、宮台真司の三人の愛国者の新書に共通するそんな問題意識を読み取る。
そして、有史以来、辺境で生きてきた日本人が再びその謙虚で、しかも現実を直視的する勇気ある遺伝子をよみがえらせること、現代日本人にもとめられているのはそういうある種の奇跡だというメッセージをも、この三人のテキストから深読みするのである。

まさむね

2009.11.14 ただのノスタルジー本ではない福田和也の「日本の近代」
2009.06.13 名著「日本の難点」に見られる一瞬の愛しい取り乱し

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