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Articles Archive for 1 月 2010

芸能 »

[31 1 月 2010 | No Comment | | ]

ちょっと前の話になるが、EXILEが天皇陛下ご在位20周年記念の式典で歌を披露した。
僕は「御前歌披露したEXILEも正しい日本文化の継承者だ」というエントリーで、EXILEこそ、皇室の美意識の源泉である平安文学の「雅」を現代に伝えるボーカルグループだと勝手に評価していた。
先日、ある仕事の打ち合わせの時に、EXILEの話題になった。EXILEは今度、どこまで進化、あるいは成長するんでしょうねというような「業界」っぽい話題だ。
その時に、この天皇陛下ご在位20周年記念の式典の話題になったのだ。
「あのときのATSUSHIはどうみても琵琶法師みたいでしたよね。」と一言つぶやいた。
僕はベタにそう思っていたのだ。別にウケを狙ったわけでもなく。だって、あの時、ATSUSHIは、ピアスはもちろん、トレードマークのサングラスを外し、頭部のそり込みも消した姿で、陛下の前で熱唱したでしょ。その姿は、中世の日本で、安徳天皇の壇ノ浦での入水をはかなむ謡曲を歌って回った盲目の琵琶法師たちの容貌と僕の中で自然に一致したのであった。
でも、その時の周りにいた方々のウケがよかった。
さらに、家に帰って、妻にもその容貌的類似を指摘したら、またまたウケた。
自分では、普通の話だと思っていたものが、意外にウケるというのは気持ちいいものだ。
で、ここで一応、その類似を指摘しておきたい。
今日の話はそれだけのことでした。
まさむね

政治, 相撲/プロレス/格闘技 »

[30 1 月 2010 | No Comment | | ]

先日のエントリーで、小沢一郎は辞職して、ただの釣り好きの親父になるべきだということを書いたが、僕は一方で、彼にはしぶとく民主党幹事長、あるいは代議士を続けてもらいたいとも思っている。
勿論、それは僕が彼の無実を信じているなどということではない。それはいずれ明らかにされる、あるいは捏造される、舞台の向こう側の話だからだ。
最近、政治のニュースを見て、僕が不自然に感じるのはなぜ彼らはあんなにも毎日、闘っている、あるいは闘っている芝居をしているのだろうかということ。
そういえば、僕らの日常にはそういった戦いというものがない。ビジネスの世界でもライバル社と戦うのではなく、W-inW-inの関係を築くというのがブームなのかもしれない。微妙にこのW-inW-inという言い方が気持ち悪いのは気のせいか...
さて、おそらく、周囲の人に、「あなたは今、何と戦っていますか」とたずねてもほとんどの人は、何も答えられないだろう。あるいは、自分と戦っているといういうだろう。
ただ、自分と戦っているという人はおそらく、何も闘っていない人だ。
勿論、僕もそうだ。何とも自覚的に戦ってはいない。残念ながら。
話を戻す。僕が小沢一郎に辞職してもらいたくないのは、”権力にしがみつく老醜”というのも見世物として好きだから。それはちょうど、70年代にあった全日本プロレスのチャンピオンカーニバルでアブドーラ・ザ・ブッチャーが、優勝トロフィーを俺のものだとばかりに抱きかかえて舌なめずりをしたあのシーンを思い出す。
権力、名誉というものに固執する醜い男を表現することによって、逆に普通の庶民を精神的に安堵させるというのも、もしかしたら政治家の大事な役割かもしれない。
まさむね

日常雑事 雑感 »

[29 1 月 2010 | No Comment | | ]

この間、誕生日だった日に、たまたま新聞の記事の見出しが目に入った。
「CD生産額 09年16%減」
「マンション発売09年 17年ぶり4万戸割れ」
「VC投資 1000億円割れの公算 09年度、新規上場の減少で」
「百貨店閉鎖 最悪に迫る」
 
いずれも我が日本国でのこと。これは09年度の話とはいえ、世の中がどんどん衰退している、その縮み速度ばかりが目立つような記事。どれもこれも日本全体が明らかな減衰モードに入っているんだというような。まるで日本という大人がどんどん逆戻りして赤子の時代に戻っていくような錯覚、ちょうと昨年上映された映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」(原作はF・スコット・フィッツジェラルド)のようだ。
たしかに去年の落ち込み方はすごかった。特に一月とか二月とか。それでも新橋でお酒を飲む人たちは結構いたが。やけのやんぱちだったのかな。そういえば、あの頃あまりの受注額の少なさに、この世の終わりだと思ったと呟いていた人がいたっけ。
 ぼくもそれなりに年齢をくってきたので、お蔭様で悪かった時期はいろいろ経験させてもらった。90年、91年、97年、98年とか2001年とかたしか2003年とかもひどかったよなぁ、とか。
 それで、今年はどうなるか? 奈落はもうないか。まだ崖の残りがあるのか。喉元は過ぎたのだろうか。なにもたしかではないが。世の中は、ひとつのバブルを終えて、また別のバブルを探して動き始めているようにも見える。とにかくバブルがなければ経済は成り立たない。そして、これからはやれ中国だ、もうG20だ、ドルの崩落だ、商品市場だ・・・・等々。
 だが、覆水は返らないだろう。中途半端な期待や考えはいっさい止めること、か。
それをはっきり自覚すること。何かが始まるとしても、それは多分かつての姿のままではありえないだろう、おそらく今後、永遠に?
だから自分の誕生日にはせめて新しい水を、まず飲もう。
よしむね

政治 »

[28 1 月 2010 | No Comment | | ]

人間は自分自身の歴史を作るが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、あたえられた、持ち越されてきた環境のもとで作るのである。
死せるすべての世代の伝統が夢魔のように生ける者の頭脳をおさえつけている。またそれだから、人間が、一見、懸命になって自己を変革し、現状をくつがえし、いまだかつてあらざりしものを作りだそうとしているかにみえる時、まさにそういった革命の最高潮の時期に、人間は己の用をさせようとして、こわごわ過去の亡霊どもをよびだし、この亡霊どもから名前と戦闘標語と衣装をかり、この由緒ある扮装と借り物のせりふで世界史のあたらしい場面を演じようとするのである。
これは、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の中の一節である。
人間が世の中を変革しようとするとき、それは一直線にではない。それは必ず、蛇行するものだ。人間は意識しないがそれを行うのである。
小沢一郎という人物の歴史的役割は、選挙によって政権交代ができる、すなわち、日本を民意で政治を変えられるような国にすることだったのだと思う。
おそらく、数十年後から現在を見たとき、そんな人物として彼は評価(酷評も含めて)されると思う。
だから、彼の政策が「日本改造計画」時から、180度変化したことは当たり前のことなのだ。それは、常に反対側と逆のことをいうことによって、国民に選択肢をもたらすことを目的としているのだから。
90年代の彼は、小さな政府、自立した国民を政策の柱としたいわゆる新保守主義である。しかし、小泉政権によって、そのテーマが奪われると逆に、「国民の暮らしを守る政治」という大きな政府、国民に依存させる政策の道を進むようになった。それを指して、一貫性がないという人がいるが、確かに、そうだ。
しかし、いいのだ。彼の目的は政権交代が出来るような国にすることなのだから。
一方で小沢一郎は民主主義的ではないという。独裁者だという。しかし、僕ら一般の人から見れば、それはあんまり関係ないことだ。それでは、今までの自民党政治の時代は、僕らの意見は本当に政治に反映されていたのだろうか。僕らはその話しあいに一度だって参加などしたことがない。
いつも、官僚や政治家や財界、が談合して物事を決めてきただけだ。彼らの多くにとって、小沢一郎が独裁的に見えるだけであって、僕らからしてみれば、選挙で選んだ党が自分のやりたいことをやるという話にすぎないのだ。どこが悪いのだろうか。悪いとしたら小沢一郎ではなく、自分の意見を言わない人たちだろう。悪いとしたらね。
小沢一郎が独裁的だという人は、民主主義を談合主義だと思っているのだろう。それは日本的には民主的かもしれないが、はたしてどうなのだろうか。
しかし、僕は小沢一郎の歴史的役割はすでに終わったようにも思える。社会変革の第二段には彼の出る幕はないだろう。ここですっぱりと辞職すれば、それはそれで彼は男を上げると思うのだが、そうもいかないのだろうか。
モーニング娘。の名曲「ハッピーサマーウェディング」で中澤裕子が「だって、お父さんが『釣り好きの人には悪い人はいない』っていってたし」というせりふをいう箇所があるがあるが、小沢一郎は、ただの釣り好きの親父にもどればいいと思う。
まさむね

政治 »

[26 1 月 2010 | No Comment | | ]

民主党政権の施策について不満に思うことは、大きく以下の3点だ。たぶん一般的によく言われていることとかなり重なると思うのだけど。
①八方美人すぎて、結局なにをしたいのかよく分からないということ
②やや後ろ(下位、下から)目線が強すぎること
これは社会でわりと経済的には弱者に近いカテゴリーにあるような方々への配分を厚くしすぎているキライがあるように思えること。コンクリートから人へ、人に優しい施策ということかもしれないが、表現が悪いけど、貧乏人の子沢山の喩えではないが、子供手当てのような充実が今ほんとうに必要なのか。養育や教育費の問題は切実なのかもしれないが、長い目でみて本当はその人の始末と責任で育てているのに単に子供がいるというだけで上からお金をもらえるという安易さに居座ってしまうことにならないか。だいいちそんなに継続的に大判振る舞いできる余裕があるのだろうか。
やっぱり上への目線で、社会を引っ張っていく人たちや社会をうまく回転させる要因へのインセンティブをもっと効かせてゆく、その自律化をうながす施策の必要性があるのではないか。皆で並べば恐くないじゃないけど、でも本当に皆が下位に並んでしまったらどうしようもなくなるだろうと思うのだが。どうだろうか?
③やっていることがどうも一貫していないようにみえること
たとえばせっかく事業仕分けをしても、それがそのまま最終的に各省庁の予算削減で通ったわけではないらしいという事実。二重の結果。そうすると、われわれ第三者からみると、どこにほんとうの判断基準があったのか、最終の決定者が誰だったのか、事後まったく分からないことになってしまう。
閑話休題。それはそれとして、小沢一郎についてしつこいくらいの検察の捜査と報道が続いている。先週土曜日には小沢本人への事情聴取とその後の会見も行われている。結局その真偽は分からないし、小沢一郎に嘘がないといえるかも分からない。小沢一郎は正しくないかもしれない。しかし、この一連の捜査と報道のあり方は異常だと思う。
長く時の政権の中枢にあった自民党議員のほうが、政治献金の効果という視点からみても、たかが最近政権の座に着いた民主党議員よりもよほど多くを享受してきたのは普通に考えてもまったく当たり前のことではないかと思うのだ。この事件のかなめは標的として取り上げられるかどうかという恣意性以外の何ものでもないように思えてならない。小沢一郎よりも、だ。たとえば元首相の方々などもふくめて、大物はもっと沢山いるのではないか。そうした関連への捜査が行われている気配がなく報道もなされず、一方的に小沢捜査とそれをめぐる報道のみがあるという構図はどこか空恐ろしい。
現代日本では、けっきょく小沢一郎的なものが具現するものを、嫌いな人たちが大勢いるということなのだろう。彼らの思いとは何か。とにかく今までと変わらないこと、変わりたくない、ということ。既得権益にしがみついてきた人たちが、とにかく従来のやり方を変えようとしている小沢一郎に必死に抵抗しようとして追い討ちをかけているのかもしれない。そこには軍産一体化を背景にしたアメリカの意向などもあるかもしれない。
改革とか変革とかキレイごとをいっても、日本はやはり変わりたくない(=今のままでい)人たちが大勢いる社会だということなのだろうな。
よしむね

映画 »

[25 1 月 2010 | 4 Comments | | ]

土曜プレミアムで放送された「デトロイトメタルシティ」を観た。
最初は、いい加減にテレビをつけていただけだが、最後は、引きこまれてテレビの前に座ってしまった。
表面的には、ある意味、おバカムービーなのだが、そこには、「自己」というものは、「他者の役に立つこと」によって実現されるという、「自己実現」の背理に触れていた。
まぁ、感心するほどのことでもないか...
マツケンいいね。僕は渥美清の後を継げる人材が今の日本の映画界にいるとすれば、彼だと思っている。
まさむね

日常雑事 雑感 »

[24 1 月 2010 | 3 Comments | | ]

いままでいろんな人に話をしてきたが、全く賛同が得られなかった提言がある。
それは、通勤時になるべくカバンを持つのをやめようという提案だ。
たいていの人はカバンを家に持って帰っても、中も開けずにそのまま次の日に持ってきて、また持って帰って...の繰り返しではないのか。
実は、僕はある日、そのことに気づいて、カバンを持った通勤をやめた。
本は、文庫か新書にして、ipodと携帯と財布をポケットに入れれば、カバンなど不要だということに気づいたのだ。
しかし、逆に困ったことが起きた。自分がカバンが不要だということに気づいた途端に、他人のカバンが邪魔に思えて仕方なくなったのだ。
特に、23:00過ぎの山手線。ただでさえ、みんな着膨れしているのに、しかもカバンだ。おかげで、他人のカバンがぶつかるのが気になって、本も読めないときもある。
あげくに、リュックサックを背負っている人もいる。邪魔で仕方が無い。などということは昔はそれほど気にならなかったことが気になりだしてしまったのだ。
今日の帰りに、ためしに、どの位の人がカバンを持っているか、数えてみた。そうしたら、少なくとも、恵比寿のホームの人、山手線の中の人、高田馬場の駅の人、西武線の人、全員がカバンを持っていた。
なんでそんなにカバンが好きなのか。
もしかしたら、みんな、密かに、腕の筋力をつけようとしているのだろうか。
まさむね

テレビドラマ »

[23 1 月 2010 | No Comment | | ]

NHK大河ドラマ「龍馬伝」は今までの大河とは映像の異なる。いわゆるリアリティがある映像である。
例えば、光と陰の使い方が岩井俊二的。
勿論、これは史実に忠実でリアルだということとは全く違うことだが、今後の日本のテレビドラマの主流になっていくんだろうな。
でもそのリアリティがゆえに、肝心なところの省略が気になる。
例えば、前々回で龍馬が、人足(農民)に酒を持っていくシーン。その酒はどうやって手に入れたの?
あるいは、前回で、弥太郎が崖から龍馬に向かって叫ぶのだが、アレッ、関所で捕まって、打ち首にならなかったの?
などだ。
まぁ、以前の大河もこういった不可解なところ、あるいは一番大事なところをネグってたんだろうけど、それほど気にならならなかったのはその映像が古典的だったからかもしれない。
逆に、龍馬の博徒達との立ち回りはかっこよかった。さすが福山だ。
まさむね

社会問題 »

[22 1 月 2010 | No Comment | | ]

何かの本に書いてあったのだったか、誰が言っていたのかはわからないのだが、会社の寿命は大体30年くらいだと言われているのを聞いたことがある。会社30年ライフ・スパン説。ここでの30年とはいわゆる最盛期の時期という意味であろう。これは意外に正しい実像かなと思う。ある企業がほんとうにイキがいいのはどんなに長くてもせいぜい30年くらいがよいところだろうと思えるからだ。GMしかり、IBMしかり、マイクロソフト、アップルしかりではないか。
もちろん日本には100年企業は比較的たくさんあるし(たしか金剛組は飛鳥時代以前からだという。最近では経営破綻して高松建設に営業譲渡を行っているようだが)、絶頂期をすぎてもゾンビのようにダラダラと生き残っている企業も結構あることはあるけどね。ほんとうのしたたかな世界企業(ユダヤ金融財閥のような)はそれこそ東インド会社時代から連綿と続いていたりするわけだろうが、それは措くとして。
でもって、この30年の企業体で、これを支える年齢層といえば、理想的には、20代、30代、40代で構成されていることだろう。つまり働き盛りでフルに構成されていて、50代以上は取締役などの一部のマネジメントしかいないこと。上記3世代がフルに輪廻していき、30年一回りを回りきって会社の絶頂の寿命が尽きることが一応の理想形ではないか。こうであれば世代間格差も比較的少なく、その世代世代での良さを享受できてみんなそれなりにハッピーで終われるかもしれない。
ところが今の日本では、この年齢構成が、30代、40代、50代で限定構成されていて30年サイクルさえ回りきらずに終わっているのが実態ではないだろうか。従ってまずそこから年齢的に真っ先に弾き飛ばされているのが、いわゆる20代の若者たちだ。いつまでも彼らの多くがフリーターや派遣社員でいなければならない理由の一つと思われる。上の3世代もそれが分かっていても自分も苦しくてどこにも逃げ場がないので、そこから出ていこうとしない。この目詰まり・悪循環が続いているのが今の日本の硬直した労働市場ではないだろうか。
このあいだ年の初めということで、ある経済セミナーに参加したのだが、そこの大ホールにいた中堅以上の人たち(アラフィー世代?)、世にいう部長さん室長さん課長さんクラスのなんと多いこと! 結局新年早々こんな所に来ている彼らは暇人であり、ほんとうはやらなくても良い仕事に貼りついているだけで、彼らでなくてはできない仕事など実はもうなくなっているのかもしれない(かくいうぼくもその世代に属するのだが)。
でも仕方ないのだ。彼ら・ぼくらにはまだまだ住宅ローンも残っているし、学生の子供もいる、というわけで働かなければならない、まだ必死なのさ!ということになるのだろう。だから、しばしば言われるようにフリーターや派遣の問題とはいっぽうの若者にだけフォーカスした問題として取り上げてもあまり意味がないとぼくは思う。たしかに労働需要の広がり、長い目でみて就職の機会市場を作ることも大事であるが。
むしろ肝心なのは、若者の雇用と表裏一体となっている、いわゆる雇用の流動性を高めること、そのためには、具体的にいえば早く辞めるべき人(たとえば50代の人たち)が辞めやすい社会、早くリタイアしてもそれなりになんとか生きて行ける社会をいかにちゃんと作れるかにかかっていると思うし、その視点が抜け落ちては、いつまで立っても何も解決していかないかもしれない。特に人口も減少していく成熟社会になればなおさらのことだ。
大雑把に言えば、20代から働き始めたらほぼ30年経過して50代になった時点で、まずローン関連はほぼ誰でもが完遂できており多くのクビキから脱していること、後は中高年の多くがボランティアなどの社会参加などをしながらそれなりに自由に生きていけること、そういった多様な選択の下地ができている社会になっていることが理想だろう。
けれどそのためには日本は何よりもまだまだハウジング関連のコストが高すぎるし、ローンを返済したと思ったら、今度は中古マンションがただ同然の売却価値しかないと来ているわけだ(いつまでもフローだけの社会、ストックが効かない社会! その悪しきサイクルから抜け出せないのかな)。こうしたところから根本的にグランドデザインを書き直す必要があるだろうし、それを避けては通れないと思う。これからはいくら叫んでも有名無実の成長戦略に頼ることはできなくなるだろうから。
そういえば武家・貴族社会時代からの隠居という方法は後進に道を譲りやすくするという一面を持つ大人の知恵でもあったと思う。相撲社会では年寄りの制度もあったね。これらは畢竟広い意味でリタイアを含めての処世術だろう。やっぱり世の中を回していくという意味で社会システムをめぐる昔からの知恵は凄かったなと思う。先物取引にしても、今風のエコだってとうに江戸時代からやっていたわけだし。 
今の日本がほんとうに考えなければならないのはいかにリタイアしていくか、坂の上の雲ならぬ、いかに坂を下っていくかを上手に考えていくことに尽きるとも思うのだ。成長ではない、坂の転がり方だ。そう、もうそろそろ「頑張らなくてもいいんです」(吉田拓郎)を本当に考えていかないと。
よしむね

TV番組 マスメディア »

[21 1 月 2010 | 2 Comments | | ]

原口総務大臣が、検察リーク情報をもとにした報道に対して、以下のように批判したみたいだ。
http://www.videonews.com
「『関係者』という報道は、検察、被疑者どちらの関係者か分からない。少なくともそこを明確にしなければ、電波という公共のものを使ってやるにしては不適だ」
また、民主党は、「捜査情報の漏洩(ろうえい)問題対策チーム」というのを立ち上げたみたいだ。遅い。
(小沢幹事長も、すぐに検察の事情聴取に応じればいいのに。去年の党首辞任の遅れもそうだけど、本当に、先読めないよね、この人、あるいはこの人の周りの人。)
それに対して、例えば、産経新聞は、民主主義の根幹を揺るがしかねないと批判。
http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100120/stt1001200258000-n1.htm
(前略)検察の捜査や民主党に批判的な報道を牽制(けんせい)する狙いがあるようだが、本末転倒だ。言論・報道の自由を侵害し、検閲する意図すらあると指摘せざるを得ない。民主主義の根幹を揺るがしかねず、とうてい容認できない。(中略)検察側の強制捜査に対し、産経新聞社とFNNの合同世論調査では「適切」が75%に上っている。そうした世論に耳を貸さず、「政治とカネ」をめぐる重大な政治不信について、検察とマスコミの問題にすり替えようとすることは許されない。(後略)
マスコミは自分達でさんざんあおって、その結果の世論調査を根拠に正しさを主張。その神経、大丈夫?
とにかく、マスコミ&検察 VS 民主党 
面白い。
まさむね