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The brilliant Greenの2年ぶりのシングル。やっぱり涙か

24 2 月 2010 No Comment

ブリグリの歌詞についての僕の評価は、それがベトナム戦争以降のアメリカ現代文学の一つの流れ、「ダーティリアリズム」的センスと通底している事かもしれないと思った。
「ダーティリアリズム」とは私の浅い知識によると、村上春樹の翻訳で知られるレイモンドカーヴァとかのアメリカ人白人労働者階級の生の生活を描いた作品群の事で、アメリカが構造的にかかえる人種差別とか階級といった難問をそのままに描いている(といわれている)。
その彼らの一つの倫理的仕草が「黙り込む」という事で、その黙り込みかたがブリグリの歌詞と似ていると思った。

今から10年前の1月14日に、こんなエントリーを書いていた。
驚いたことに、基本的に僕のブリグリに対する感想は今も変わっていない。ブリグリは今でもダーティリアリストである。
上記の文章はおそらく、三浦雅士の「文学と階級」(「小説という植民地」に収録)からの影響で書いたものだ。
その論文の中で、三浦雅士はアラン・ロイド・スミスの「脳損傷」から引用している。以下、それを僕はまた引用してみる。

ダーティリアリズムとは...(中略)...しかしこの言葉は、労働者階級の生活、アメリカ人ならおそらく赤っ首と呼ぶだろう労働者の生活、つまり鉄砲打ちや釣りにでかけたり、失業したり離婚したり、そして黙り込んだりという生活の、その細部にむけられた確固として臆面もない凝視を暗示してはいる。そのなかでは、黙り込むという体験がもっとも重要だ。というのも、これらの作品は、労働者の日常をひたす声と沈黙の表現に焦点を定めているからである。

この「黙り込む」という仕草はブリグリの作品ではこんな感じで出てくる。
1999年1月27日に発売されたオリコン一位を記録した5枚目のシングル「そのスピードで」の一節だ。

することもなくて夜も昼もあくびしたり泣いたりして
それはもういくじなしで寒がりの悪魔が胸にすんでる

また、1999年3月10日に発売された6枚目のシングル「長いため息のように」ではこんな一節が出てくる。

夢は現実よりも 時には 残酷のようで
目覚めて少し 切なくて泣いた 悲しい夢だった

川瀬智子の無表情な顔と声、松井亮の乱暴で不器用なギター、ある意味、神経を逆なでするような違和感という「毒」こそブリグリの持ち味だ。
そして、この労働者の絶望感、1999年といえば、山一破綻等が起こり、いわゆる1998年問題(山田昌弘氏)が指摘しているように、自殺件数が3万の大台に乗るなどの社会崩壊現象が断層のように生じた次の年だ。世紀末だ。

しかし、日本の状況はその世紀末よりもさらに悲惨が共有化されているような時代にも感じられる。
今日、24日、ブリグリの2年ぶりのシングル「Like Yesterday」が発売される。
そして、ここには10年前とほとんど変わらない涙が歌われている。

はぐれた心を見つけて 伸ばしてくれた
その手に触れたら 涙が止まらなかった

10年前はほとんど一人でひざを抱えて泣いていた彼女も今では、彼との想いで涙する立場に変わっているようにも感じられるが、彼女の根源的な孤独感は変わらないように思えるのだ。

時代はどんどんタフになる。
考えれば考えるほど、僕らは黙りこまざるを得ない。
はっきりと善悪をいう言葉、空虚な行進曲、調子のいいキャッチフレーズ、よくわからないが、そんなものについていっていいのだろうか、そんなことを思うとき、後ろのほうからこの曲が聞こえてくるような気がする。

まさむね

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