Articles Archive for 3 月 2010
時事ネタ »
ちょうど「We ARE THE WORLD」から25年めの今年、ハイチ・バージョンが出た。本当はマイケル・ジャクソンの死もあり25周年記念のようなものを考えていたところ、ハイチ地震があって、ハイチ・バージョンに変わったらしいけど。
家内がiPhoneを使って350円でダウンロードしてくれた映像を見ながら、音楽を聞いた。25年前とは歌手の顔ぶれもすっかり変わった。変わらないのはライオネル・リッチーとクインシー・ジョーンズがリーダーシップをとったことか。最後はラップ・ミュージックを基調にした曲調でエンディング。そして「WE ARE THE WORLD」を歌う要所要所では、故マイケル・ジャクソンの映像が挿入されていた。妹のジャネット・ジャクソンとのデュオという形で。皆さんの多くもすでにご覧になっているでしょうが。
前回同様に収益金は救済金として使われるわけだが、前回と異なるのは、最後にハイチでおそらく被災にあった子供たちの映像がながれ、現地で音楽にあわせて踊ったり、笑ったりしている姿が映し出されていたこと。辛いなかにあっても笑顔を見せるそのしぐさが、嘘がない感じでかえっていい。人は泣いてばかりいられないだろうからだ。
こうした映像をみていてつくづく思うのは、なぜ日本ではこのようなボランタリーな試みがすぐに行われないのだろうかということ。詳しいことは分からないが、所属事務所の違いとかレコード会社の問題、レーベルの問題とかいろいろ障壁が大きいのだろうか。加えてたしかにアメリカやイギリスと違い、ミュージックシーンにおけるインパクトの大きさの違いもあると思うが。もちろんこうしたバンド・エイドによって世界が変わるわけではないとしても。
でもクール・ジャパンの今なら、たとえばコスプレやアニメ、JPOPとジャパン・ファッション等のコラボ組み合わせで、WE ARE THE WORLD に匹敵するものを日本からの発信として流せるようにも思うけど。とにかく最近に至るまで日本に一貫して欠けているのは、ノーブレス・オブリージュ(騎士道に基づく奉仕精神)のようなもの。税制の優遇がないことも一因かもしれないが、日本人は金持ちほど寄付したがらない国。そしてボランタリーの欠如ということ。
欧米などに旅行してつくづく感じるのは、たとえば公共の場で一般の人たちが障害者の人たちに示す配慮のようなものの根強さのことだ。これだけは未だに日本では決定的に遅れていると思う。アメリカ人は大義が好きで、売名行為的なものが大好きだからというようにあえて意地悪く見るとしても、金儲け以外に、セレブを中心にして日本からボランタリーなことが世界に向けて依然として発信されていかないのはちょっとさびしいね。
次の25年めまで待つしかないのかなぁ。そのときはUSAで「WE ARE THE WORLD」の何バージョンが出るのか。そこでまたマイケル・ジャクソンの歌っている姿が挿入されるのだろうか。マイケル・ジャクソンはゾンビ(永遠)だからね。今回のハイチ・バージョンもきっと天国でゾンビとなったマイケル・ジャクソンの精神が生かされているのだろう。
よしむね
散歩 »
今日はお彼岸連休の最終日であったが、敢えてTBC(東京墓石倶楽部)で小平霊園に行った。
人が多かったなぁ。初めて、霊園で車に轢かれそうになった。
小平霊園は他の霊園と比べて、有名人の墓に家紋がないケースが多い。
壺井栄 「二十四の瞳」
和歌森太郎 歴史民俗学
宮本百合子 作家
村上一郎 作家
斉田愛子 声楽家
富沢赤黄男 俳人
市岡忠雄 早稲田野球監督
大山郁夫 社会運動家
大江賢次 作家
梁田貞 「どんぐりころころ」
浜本浩 作家
青野季吉 文芸評論家
河合酔茗 詩人
田畑修一郎 作家
小川未明 「野薔薇」
児島善三郎 画家
有澤廣巳 経済学者
冨安風生 俳人
十返肇 文芸評論家
山本七平 「空気の研究」
これらの人々はみんな、墓はあるが、家紋が無い墓である。家紋収集家としては少し残念だ。
全体的に小平霊園には個性的な墓が多いようだ。
戦後の自由は雰囲気がそのまま霊園に現れている。それに、道が整理されていているのもいい。
これからはこんな感じの明るい霊園が増えるんだろうな。
悪いことではない。
まさむね
日常雑事 雑感 »
昨日の夜、ものすごく風が強かった。
遠野物語の「寒戸の婆」の話を思い出した。
黄昏に女や子供の家の外に出ているものはよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。
松崎村の寒戸と云ふ所の民家にて、若き娘梨の木の下に草履を脱ぎ置きたまゝ行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に集まりてありし処へ、極めて老いさらぼひて其女帰り来れり。
如何にして帰って来たかと問へば人々に逢ひたかりし故帰りしなり。
さらば又行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。其日は風の烈しく吹く日なりき。
されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰って来さうな日なりと云ふ。
30年前に家出した娘が風の強い日に、老婆となってフッと帰ってきた。
しかし、そこにはもう彼女を迎え入れる場所はなかった。という素朴な語り口。
共同体の冷たさが風の冷たさとシンクロして、なんとも胸を締め付けられる話である。
まさむね
政治 »
最近、鳩山政権の支持率低下が盛んに喧伝されるようになった。直近の世論調査ではたしか30%を割りこむところまで低下しているらしい。米国のオバマ大統領の陰りも然り。両者ともいわゆる蜜月期間をとうに過ぎて、マスコミによる容赦ない反撃のようなものをふくめて、支持率の下降局面に入ってきているというわけだ。
けれど翻って、では日本の自民党はどうかというと、自民党もトコトン冴えない。とてもかつて長く日本の政権の座にあった政党とは思えない。めぼしい発信もなく、この力のなさは何なのだろう。
民主党の施策に対して、それと対抗し封じ込めるような新しい戦略やビジョンがまったく出てこない。かといって新しい政党として出直してくるだけのポテンシャルがあるとも思えない。せいぜい小泉元首相の生意気な次男坊や、かわいすぎるといわれる女性の市議に出てもらって人気取りの街頭演説を行っているていたらくだ。
もともと自民党とはからっぽの政党だったのかもしれない。実はこの「からっぽさ」こそが長く政権の座にあった最大の理由だったのかもしれないとさえ思えてくる。つまり時の体制や長いものには巻かれろというようなイイトコドリ・日和見主義みたいな、言いなりになりやすいような優柔不断さこそが己の身を長く保つ最大の処世術だったということ。
今回民主党に変わったことで、あらためて自民党政権時代に日本がどれだけ既得権益で生きてきた人が多かったか、そのしがらみの多さが白日の下に垣間見える機会があっただけでも良かったのではないか、とぼくは思っている。それがなんとなく分かっただけでも民主党に政権が変わった意味がある、と。だから別に民主党の支持率が下がろうが別にいいじゃないか。
それよりも自民党というこんなポテンシャルの低い政党がながくゾンビのように時の政権の座にあったことが信じられない気がする。つくづくわれわれ国民の意識も低かったのだろう。また一方で、日本が劣化してきたことに相応して、政権与党である自民党自体もその内部において確実に劣化が進んでいたということなのだろう。自民党だってその初期には高邁なビジョンがあったはずだ。たとえば所得倍増計画を標榜した池田内閣あたりまでとか、は。
だが日本が経済と繁栄の軌道に乗ってからは、ただ惰性操舵のままに行けばよくなり次第に事なかれ主義になり、自らを変革する力を失い、ただただ劣化してもはや斬新な政策を打ち出す能力がほぼ皆無に等しい現在の状態になってしまったということなのかもしれない。でもそれでいいじゃないか。だって戦後60年以上もそうやって政権の座にあり続けたのだから。
だから自民党はいっそこのまま溶融して瓦解して粉々になってゆけばいいじゃないか。それがより望ましい姿というものだと思う。そしていつか人々がふりかえって、「20世紀の後半から21世紀前半にかけて、かつて、長く戦後の政権を担った、自民党という、政党が、あった」といわれる日が来れば、それで良しとすべきではないか。日々是好日。いい日旅立ち、自民党。良い意味でも悪い意味でも戦後の風潮が瓦解しつつあるように、自民党の役割もまた終わりつつあるのだ。
よしむね
TV番組 マスメディア »
日経新聞が3月23日から「日本経済新聞電子版」を創刊するらしい。価格は、月額4000円、紙の新聞との併読の場合はは月額1000円ということだ。
記者会見では、「パソコンや携帯に慣れ親しんだ人に良質のジャーナリズムを提供することが私たちの役割」と社長が述べたらしいが、そういうせりふは、「自分で考えることが出来ないいわゆる日本ビジネス村の住民に無難で共通の話題を提供するのが私たちの役割」と読み替えればいい。
残念ながら、日経の一番の資産は、その取材力でも分析力でもない、「みんなが読んでる」という事実だ。
僕が20代の頃、友だちの結婚式で、スピーチした来賓の方がこんな話をされていた。ようするに自慢話である。
「私が結婚した時、その結婚式のスピーチで上役の方に、奥さんを少なくとも1ヶ月に1回は映画に連れていくことと、毎日、日経新聞を読むことを約束させられた。妻への約束は全く(笑)果たせていないが、日経は毎日読んでいます。」
なるほど、日経というのは村の掟のような新聞なのだろうな、とその時、思った。
さて、日経新聞WEB版に話を戻す。
SNS機能などは脆弱なのはしかたがない。新聞記者と普通の人との間の一線はなんとしても死守しなければならない一線だろうからだ。そのあたり、僕は同情的です。
ただ、4000円は個人にとっては高いだろう。いまや、情報はタダの時代に、村の回覧板にこの価格帯は不遜としかいいようがない。
もっとも、僕はそれなりに普及すると思っている。すくなくとも法人契約とかして、会社まとめて、会員になるところが出てくるかもしれない。
今までは、オフィスで新聞を広げると、明らかに仕事をしていないということがバレてしまっていたが、パソコンに向かって、文字を追っていれば、少なくとも遠くからは仕事をしているようには見えるというメリットは大きい。
もう、10年近く前だが、ある財団法人にいた頃、ただ日経新聞を読んでいるだけの「島」があったが、例えば、そこの住人などにとっては、朗報かもしれない。
一方、会社としても、そういう住人による露骨なヒマヒマオーラが全体の士気を下げるよりは、まだ、パソコンを眺めていてほしいというのが本音かもしれない。
なんて、思ったが、もうそんな財団法人なんてないか。
まさむね




