Articles Archive for 3 月 2010
書評, 社会問題 »
「近頃の若者はなぜダメなのか 携帯世代と「新村社会」」(原田曜平著)を読んだ。実際に数多くの若者のインタビューに裏づけされたレポートはそれなりに説得力を持っているようにも思えた。
ここには、今の若者(多分、中学生〜20代前半くらい)はケータイネイティブと呼ばれている世代であるが、そういった世代の若者がいかに、それ以上の世代と考え方、行動パターンが違ってきているのかということが書かれている。
著者はこう述べる。
戦後、核家族化や都市圏への人口の流入、地域共同体の衰退、個人化・多様化が進行しましたが、ケータイが若者達をつないだことで、こうした戦後の日本人の動きとはまったく逆行するように、噂話や陰口が多く、出る杭は打たれ、他人の顔色をうかがい、空気を読むことが掟とされる、かつて日本にあった村社会が若者の間で復活したのです。
そんな新しい、村社会を原田氏は、新村社会と名づけるのだが、その新村社会に関して、こうも述べている。
つまるところ、この新村社会は、複雑な人間関係のしがらみに息苦しさを感じ、既視感によって視野や行動範囲を狭めてちぢこまる村人と、地域や偏差値や年代を超えて活動の幅を広げる村人との「ネットワーク格差」を生み出したのです。
ネットワークに脅える若者と、ネットワークを駆使する若者の、「人間力」の格差とも言えるでしょう。
若い彼らが社会の主役になる近未来、地域や偏差値や所得に関係なく、ネットワーク力のあるものが幸せを感じ、ない者がおちこぼれる社会が到来しているかもしれません。
たしかにネットワークが広ければ、イベントなどの動員は出来るのであろう。知り合いが多ければ、なにかと便利なことも多いのだろう。しかし、僕にはそんなにネットワークが広いことを素朴に善とする価値観、ネットワーク=幸せ、そうでない=おちこぼれ、という単純な図式はどうかと思う。
それで、本当に一人ひとりが安定した心持で生きられるのだろうか。あるいは、そうした懸念こそ、古臭いものなのだろうか。
おそらく、様々なビジネスを前提とすれば、そういった広いネットワークは資産になり、そういった人は有利に働くことは間違いない。確か、就職ジャーナリストの常見陽平氏も、「他人を巻き込む力が就活」にとって重要な力だと言っていたが、これからは人を巻き込む人と、人に巻き込まれる人、そして、人に巻き込んでもらえない人という3つの格差が広がっていくといくに違いない。その3つは別の角度から見れば、人の噂によく出てくる人、普通に人の噂をする人、誰からも噂もされなくなる人の3つのタイプに分かれるということなのだろう。
これからは、人に噂されながらも、鈍感力で乗り切り、ネットワーク構築を前向きに出来る人、そんな人が結果的に勝ち組になれるということなのである。
時代はますますタフになっていくということか。
しかし、本音を言えば、僕はネットワークが広い人よりも、一つのことに深く興味を持って、ユニークな見解を持っている人のほうが貴重だし、魅力的に感じる。流行に敏感になるよりも、一つのことにずっと関心を持って突き詰めていった末にあるときに、他の追随を許さないようになっている、そういった生き方のほうが、毎日、マメに何十人ものよく知りもしない人にメールを送って、つながりを維持していくよりも、結果として有意義なのではないかと思っている。あるいは思いたい。
この「近頃の若者はなぜだめなのか」にはもう一つ面白いエピソードが書かれていた。ある大学でレポートが出されたのだが、クラスの全員がほとんど同じ内容のレポートを書いてきたというのだ。それは、そのテーマについて全員がGoogleで検索をして上位5位くらいまでの検索結果の記事をコピペしてきたため、そういった結果が出てきたというのである。それを受けて、原田氏は、こう書いている。
大人たちが「若者はネットばかり見ている!」と眉をしかめたところで、彼らの内実は、いろいろな情報をネットから摂取している子は一部にすぎず、いくつかの検索結果や、せいぜいSNSニュースにある恋愛ネタや芸能ネタを見ている程度なのです。
大人が若者たちに言うべき言葉は、「もっとちゃんとネットを見ろ!」ということなのかもしれません。
そうなのだ。クラス全員が同じレポートを書く時代だからこそ、逆にチャンスがあるのだ、と僕も思う。
まさむね
散歩 »
この間の週末、奈良・京都の小旅行の際、京都の吉田神社にも行ってきた。もともと私の姓と同じであり、家紋の話(これについてはまさむねさんが専門家)などからもこの辺り一帯が祖先のルーツ(出)かもしれないという興味もあって訪ねてみた。吉田神社そのものは有名かつ立派な神社なので特にここで紹介めいたことは書くつもりはない。
今回行ってみて改めて思ったのは、以下のような二つのこと。
神社や寺に限らず、良い空間というのは、かならず「奥の院」のような配置、いわゆる奥行きを持っているということ。それが本当の奥でなくてもいいし、周りに散らされていてもいいのだが、そうした適度な散らばりや広がりがあること(庭園もこれに加えていいと思う)がとても気持ちが良いということ。歩き回る楽しさがある。
それから、関連したことだけれど、日本には何もない空間をいわゆる「やしろ」として崇める慣習があったと言われているようだが、同じように良い空間にはかならずそうした意味のない空間を寿ぐような場所があるということ。ゆとりともいえるだろうし、遊びの空間とも、赤瀬川原平さんならそれこそまさに「トマソン」だとおっしゃるかもしれないような場所。添付写真は吉田神社で見られた「やしろ」のような空間の数々。これについては神聖化している理由はちゃんとあるのかもしれないが。
いずれにしても吉田神社には上記のような空間がたしかにあった。それから、君が代で歌われている「さざれ石」の原形(?)を祭っていることを知ることができたのも僥倖だった。
神社の空間というのは、まさむねさんも以前言っていたのだけれど本来誰にでも開かれた空間なわけで、その何もないといえば言える空間だからこそ面白い。現代の都市開発も先祖がえりじゃないけど、効率性ばかりを追求してきた反転として一見無意味とみえる空間(無駄な遊びの空間)をいかに上手に設けるかに回帰しつつあるようにも思える。
因みに「トマソン」とは、赤瀬川さんによって、当時読売ジャイアンツに高額の契約金で雇われたゲーリー・トマソン選手が役に立たなかったことにちなみ、「超芸術トマソン」と命名されたことに起因する造語。いわゆる役に立たないもの、無意味なもの、不思議なものから来る妙なおかしさ、翻って貴重さ等々の広い意味に捉えることができると筆者は勝手に拡大理解しています。
よしむね
日常雑事 雑感 »
チリで起きた大地震の影響で、日本各地で津波の被害が出ているようだ。
自然災害とはいえ、被害にあわれた方は本当に気の毒に思う。
しかし、その一方で、不謹慎を承知で言わせてもらえば、テレビで常に流されている津波情報を見ていると、日本に大きな波がだんだん近づいてくるというそのイメージに、微妙にロマンチックな感覚を持ってしまった。というのも正直なところだ。
1990年にサザンの桑田圭祐が監督をした「稲村ジェーン」を思い出した。この映画、いつか来るかもしれない波をひたすら待っている3人の若者の話であるが、それが青春の甘酸っぱい記憶と重なり、桑田さんの音楽の美しさもあって、良質の映画に仕上がっていた...と思う。
確かに、映画監督して処女作だったということもあって、各場面のリアリティ深度にムラがあり、トータルでは微妙なところも無かったわけではないが、僕の中では、好きな映画の部類に入る。
リアリティ深度のムラというのは、今、ここで僕が勝手に作った造語であるが、例えば、ヤクザ映画と怪獣映画と小津の映画と、ハリウッド映画では、それらが異なる。
しかし、「稲村ジェーン」ではそれらがごっちゃになっている感がしたということである。
たしか、その作品を北野武が批判して、「あの夏一番、静かな海」というサーフィン映画をつくったのである。
あれはバブルの頃、サーファーというのはカッコいい男の代名詞みたいな時代があったな。だから、カッコだけサーファーのようにしている人のことを丘サーファーとも言ったっけ。
でも最近、恵比寿あたりでは丘サーファーを見かけなくなったな。それに対して、最近耳にするのが、使いこなせていないのに、アイフォンを片手に持って歩く、丘アイフォン。飲みに行った時、なにげなく、机の上にアイフォンをおき、それをファッション化しようとするのだが、微妙に「着こなせて」いない人々のことだ。
最近、営業をはじめたけど、なんだか浮いている僕はさしずめ、丘営業か。
といっても、ここまでくると、「丘」っていうのがもともとなんだったのかわからなくなるか(笑)。
まさむね




