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Articles Archive for 5 月 2010

社会問題 »

[23 5 月 2010 | 2 Comments | | ]

よしむねさんが、先日書かれた「ますます薄っぺらになったように見える経済という魔物」というエントリーのエンディングの一節、”お金なしでは生きられないが、いかにお金や経済の起伏と上手に別れていけるかも考えていきたい”というのは確かにそのとおりだと思う。
僕らは現代社会を生きていく上にどうしても、資本主義に最適に振舞わなくてはならない。
それは基本だ。
しかし、と同時にどこか現代の社会に嫌悪感を感じている。
つまり、僕らに求められているのは、何も考えずに社会人としてすべきことをするという行動力である一方で、僕らは、自分としてのかけがえへのなさに対するこだわりをどうしても捨てることが出来ない。
おそらく、これは古くからある問題意識だ。
四捨五入して言えばそれはマルクスの思想にも通低している考え方である。
マルクスは「経哲草稿」の中で労働から疎外されてしまう自分自身をとりもどすべきだと主張していたのではないかというのが僕の「読み」である。
実は、僕ら中高年のサラリーマンには一つの大きな課題がある。それはグローバルスタンダードを受け入れ、IT革命を経たた日本が、必然的に陥る労働価値の低下(終身雇用、年功序列といったいわゆる昭和的労働価値の崩壊)に対して、頭では理解しながら、しかし体では既得権益にしがみつかざるをえないという矛盾に対して、どうすべきかという点である。
おそらく、30歳代の多くのサラリーマンとは違って、ギリギリ逃げ切れそうな立場の僕たち。
もう一花咲かせるべく、勝負してみようと考えている人もいるかもしれないが、黙って、惰性に従ってズルズルあと10年を生きていこうと思っている人も多いのではないだろうか。
僕らはそんな人々の話をなるべく多く聞いてみたいと今思っている。
いずれにしても、今の時代、思想と行動を一致させることの困難さを感じざるを得ない。
僕らの使命としては、出来ることならば、次の世代に新しい生き方、考え方、そして日本のあり方を伝えていくべきなのだろう。
恥ずかしながら、6月中旬に発売する「家紋主義宣言」は、そういった問題意識のなかでもがく50歳の普通のサラリーマンの心の中の葛藤の物語になる予定である。
いかにお金や経済に上手に別れることが出来るか、そんなことの考えるヒントになっていればいいのだが。
まさむね

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[21 5 月 2010 | No Comment | | ]

最近、内田樹先生の本をよく読む。ていうか、内田先生の本しか読んでいないと言っていい。
「現代霊性論」「寝ながら学べる構造主義」に引き続いて「邪悪なものの鎮め方」。
これも名著だ。さすが、いい本は考えるヒントをくれる。
短いエッセイ集なのだが、すべて面白い。
その中から一つ、「そのうち役に立つかも」というエッセイがこれまた出色だ。
引用させていただこう。
しかし、知性のパフォーマンスが爆発的に向上するのは、「その有用性が理解できないものについて、これまで誰も気づかなかった、それが蔵している潜在的な有用性」見出そうと作動するときなのである。自分が何を探しているかわからないときに自分が要るものを探し当てる能力。それが知的パフォーマンスの最高の様態である。
そして、この知性の働きのことを内田先生は、レヴィストロースの「野生の思考」から援用した言葉でブリコルールという。
いきあたりばったりに見えて、実は物凄くいいブリコルール的感性を持っている人になりたいものである。
というと、僕がまず思い出すのが、坂本龍馬である。彼は幕末という激動の時代に、さまざまな人とめぐり合いながら大きく日本を動かした(ということになっている)。
おそらく、彼が、武市半平太に会い、勝海舟に会い、松平春獄に会い、桂小五郎に会い、西郷隆盛に会い、陸奥宗光に会いって、一見なんだか偶然そうなっているようにも見えるが、実は彼の超ブリコルール的感性がなせる業かもしれないのだ。
なにせ、その当時だって日本の人口は何百万人(あるいは一千万人以上)もいる。その中で、彼だけが一介の素浪人として偉業を成し遂げたのは、やはり彼には特別な才能があったと考えてもいいのではないだろうか。
それにしても、後にどんな人になるかわからない人と出会って、とりあえず友達になっておく、そしてその友達が後にみな大物になる、そんな人生があったら素敵だろうな。
逆にいえば、今考えると、僕は本当に多くの人を見逃してきたなぁとも思う。
さて、話は変わるが、僕がなんでこんなに内田先生を持ち上げるかというと、今日、はじめて、挨拶以外でTwitterで返事をいただいたのがなんと内田先生ご本人からだったのである。
先生が今日、お墓参りに行かれたとつぶやかれたので思わず家紋は何でしたか?ときわめて不躾にしかも何気なく尋ねたところ、下記のようなお答えをいただいたのであった。
levinassien @dearpludence うちの家紋は平凡な「丸に横木甲」です。
字が間違っているとはいえ、それはそれで先生の味と僕は解釈したい。
先生ありがとうございました。
まさむね
ちなみに僕のTwitterのアカウントは、以下です。ほとんど、本の告知と有名人の家紋の啓蒙活動で使っています。もしご興味がありましたら、フォローなどしてください。dearpludenceは、もちろん、ビートルズの楽曲から。また、pludence が prudence ではないのは、ただ先にどなたかにとられていたからです。
http://www.twitter.com/dearpludence

社会問題 »

[20 5 月 2010 | No Comment | | ]

最近、新聞紙上でけっこう経済が復調しつつあるような記事が目に付くようになった。前年比でやれ何%増益の企業が増加してきたとか街角景気の改善とか見通しの引き上げとか、等々。
たしかに実体経済レベルでは一時の最悪期(去年の春前後)を過ぎつつあることは事実かもしれない。ぼくが身を置いているハイテク関連業界でもかなり忙しい状況になっている。自動車業界、半導体や電子部品業界、精密機器業界、工作機械業界然りだろう。いわゆる実体経済といわれる部分については製造業という観点からみればかなり忙しくなってきていると思う。それもまるでジェット・コースターのようにダウンしたと思ったら急にアップし始めて、猫も杓子もという感じだ。ここに来て急にみんな一斉に、という感じかもしれない。
でも、果たして、と思ってしまう。これが実体というものだろうか? ある意味で実需に根ざしていると思われる実体経済がこんな風に急激に萎んだり膨らんだりするものだろうか。結局実体経済もきわめて虚の経済(レバレッジの効いたバブルチックな経済)に似てきているということなのだろうか。これがグローバルの正体なのかもしれない。悪くなるときはみんな一斉に悪くなり、良くなるときも一斉に良くなるように映って見え、世界での自動車やパソコンや携帯電話や液晶TVの売れ行きにすぐに左右され、みたいな・・・・。
結局グローバル化が進んだことで、経済というものがますます薄っぺらになり、何処も彼処も似たようなトレンドを受けざるを得なくなったということ。その意味で経済そのものに厚みがなく、奥行きや深みがなくなったのだろう。リーマンショック以後、ほんとうは従来の虚の経済から脱却しようという(それを考える)良い機会だったのかもしれないのだけど、やっぱりみんなは喉元すぎれば熱さを忘れるで、バブルチックなものが恋しいのである。というよりも裏返せば今の経済原理そのものがなにかのバブルなしには成立しにくくなっているということでもあるのだろう。麻薬なしでいられない患者たちが増えているのだ。
でも、果たしてとまた思ってしまう。リーマンショック以後の今の金融業界のみかけ上の復活って、ほんとうは証券業界が作ったジャンク債(ボロ屑と消える運命にある債券の群れ)の借金を国が肩代わりして、いっとき誤魔化しているだけじゃないだろうか。依然何も解決していないわけで、いずれこのかりそめのバブルも弾けるときが近いのでは?
今騒がれているギリシャに端を発したヨーロッパの経済危機にしても、誰かにババを引かせようとしているゲーム漬けの人たちの策略としか思えない。ギリシャだけが極端に悪いわけではない。借金漬けという意味では実体はアメリカも英国も似たようなものだ、もっと悪いだろう。だいいちユーロよりも米ドルが安全なわけがないじゃないか。
でも、まあこれくらいにしておこう。世の中が変わるときはたぶん一直線ではなく、蛇行しながら変化してゆくのだ。これは以前まさむねさんが小沢一郎について書いていた記事(1月28日)でも述べていたことと同じだけれど、ぼくもまったく同感だ。
人間はホモ・エコノミクスでもあるとおもうけど、でもやっぱり「パンのみに生くるにあらず」もほんとうだ。お金なしでは生きられないが、いかにお金や経済の起伏と上手に別れていけるかも考えていきたい、そう思う。
よしむね

書評 »

[19 5 月 2010 | No Comment | | ]

内田樹の「寝ながら学べる構造主義」(文春新書)を読んで、思わず自分が学生時代にこんな本があればいろいろと苦労しなかったのに、と思ってしまった。この本は、それほど、すんなりと構造主義がよくわかる本である。
僕が学生時代、「現代思想」という雑誌などでは構造主義はもてはやされていたが、大学の教室ではまだまだ、マルクス主義、実存主義が全盛だった。僕の指導教授も実存主義、マルクス主義の流れにある人だった。
僕らは真剣に、日本人に生まれたことはそれだけで、先の戦争に対する責任があるのだ、それがアンガージュマンというものだというようなことを話していた。また、他の学生はサルトルとかカミュとかが好きだったみたいでそういった作家を卒論のテーマとしていた。
ただ、僕は教室で、フーコー、レヴィストロースなどの名前を出してその教授に嫌な顔をされていた(多分)。
僕は本当に世間知らずだったのだ。
しかも、僕は構造主義もよく理解していなかった。だから、自分が考えていたことすらよく説明できなかった。
ただ、実存主義がなんだか変だということだけは直感でわかっていたのである。
しかし、あれから30年、僕は今、内田先生の本が平明に感じるようになった。
おそらく、現代という時代は、それほど、構造主義が常識になった時代なのである。
この本の中でレヴィストロースがサルトルに対してこう述べたという引用箇所がある。孫引きしてみよう。
サルトルの哲学のうちには野生の思考のこれらのあらゆる特徴が見出される。それゆえにサルトルには野生の思考を査定する資格はないと私たちには思われるのである。逆に、民族学者にとって、サルトルの哲学は第一級の民族誌的資料である。私たちの時代の神話がどのようなものかを知りたければ、これを研究することが不可欠であるだろう。
今読んでみると、当たり前にも感じるが凄い箇所だ。
時代の指導的立場にいたサルトルをいきなり博物館の標本みたいにしてしまったのだから。
こんな文章を、今から30年前の社会学のゼミで引用出来たらかっこよかったのにといまさら後悔するのでした。
まさむね

1989 »

[18 5 月 2010 | 2 Comments | | ]

1980年代最後に登場した画期的な映画、それが北野武の「その男凶暴につき」であった。
映画の歴史は、作品と制度との戦いの歴史でもある。
いい映画は、どれも”映画という制度”と戦っている。その意味で、この「その男凶暴につき」はいい映画だったと思う。
この映画が戦っていたのは、それまでの映画の中の暴力という制度である。
現実世界での暴力は常に唐突だ。しかし、この映画までの映画の中の暴力は、まるでプロレスの技のような「芸」に過ぎなかった。
この映画で、ヤクザの流れ弾に当たって死んだ女子高校生、この瞬間、映画は進化したのだと、僕はこの映画を観たときに思ったものだ。
しかし、この唐突の暴力は北野武の「芸」だったということを後で知った。
やはり彼は天才だ。
この映画のラスト近くのシーンで、アズマは気の狂った妹(川上麻衣子)を銃殺した。凄いシーンだった。
映画における兄と妹、僕はそのシーンで「寅さん」を思い出した。
「その男凶暴につき」は「寅さん」の陰画だというのがそのときの直感である...が、おそらく、それは正しくなかった。
僕の直感は大抵が間違える。
そして、この映画はその間違いの一つと一緒に僕の心の中に残った。
まさむね