Articles Archive for 5 月 2010
相撲/プロレス/格闘技 »
把瑠都が敗れて、全勝は白鵬ひとりとなった。
今日の向う正面の解説は、人間国宝・能の太鼓の亀井忠雄さんだった。いつもの解説とは違って、呼吸の話、間の話など興味深かった。さすが人間国宝だけあっていうことに説得力があるのだ。僕はいつの間にか、この亀井さんの相撲の見方に同調していた。
そういえば、今日の把瑠都は蹲踞(そんきょ)の時からバランスが悪かった。
最後の仕切りの時に、一瞬、後ろに倒れそうになったのを僕は見逃さなかった。
僕の中に不安がよぎった。
案の定、鶴竜との一番、突っ張りに行った手を手繰られてバランスを崩してそのまま土俵下に転がり落ちた。
相撲は難しい。力だけでは勝てない。奥が深い。
把瑠都は、土俵に落ちた後、足を痛めたようにも見えたが大丈夫だっただろうか。
まさむね
日常雑事 雑感 »
実は、昨年の末から、ずっと本を書いていました。
それが来月の中旬に発売されることが決まりました。
「家紋主義宣言」という全部で350ページ位ある本です。
内容は家紋について書かれた僕自身の本です。あるいは、僕について書かれた家紋の本です。
というか、この一本気新聞で以前書かせてもらった内容をリライトした部分も多く含まれています。
w-inds.のこと、木更津キャッツアイのこと、ジャイアント馬場のこと...
そんなことが書かれた家紋の本です。
この半年、仕事と執筆の両立は結構、大変でした。
土日の休日、仕事から帰った夜、早朝、通勤電車の中はほとんど執筆に追われました。
でも、とりあえず脱稿できてよかったです。
今後、発売日まで、徐々に本の内容を紹介していきたいと思います。
皆様、今後ともよろしくお願いいたします。
まさむね(西村昌巳)
散歩 »
自宅のすぐそばに芝久保墓地という公営墓地がある。
小さな霊園なのだが、なかなか落ち着けるいい墓地だ。
そこに、並木胤繁の墓がある。
並木胤繁は、幕末の剣豪で北辰一刀流の使い手だったという。
千葉周作の弟子だったので、あの山岡鉄舟と手合わせをした可能性は近い。
それどころか、周作の弟・定吉の弟子であった坂本龍馬とも面識があった可能性もある。
墓に建っている解説には、幕府はお触書を出して、百姓が武道をすることを禁止しようとしたが、地域の百姓たちは自衛のために、剣術をすることを止めなかったというようなことが書いてある。
その自立心は尊敬に値する。今の僕らにはないものである。
一般的には、多摩地域は、近藤勇の天然理心流の本拠地と言われることが多いが、この田無村の流行は北辰一刀流だったのである。そのあたりも、田無村のオリジナリティを感じないでもない。
本当に地元の人しか訪れないような場所ではあるが、それなりの歴史がみえてくる。
こんなことも墓巡りの楽しみの一つである。
まさむね
政治 »
政治の普天間基地移設問題で揺れているらしい。
民主党政権になって今まで、知らない間に決まっていたことの過程が見えるようになった。
それは唯一、いいところかもしれない。
今回の件で、意外に政府あるいは官邸というのは、ダメな人たちがやっているんだということがわかった。
誰が考えても、沖縄の基地を本土に持ってくることは困難だ。あれだけの反対運動が起きてから、現地入りする首相というのも間抜けそのものだ。
五月中に決着をつけろという人もいるようだが、それは無理というものだ。
首相は米軍が沖縄にいることが「抑止力」になっていることを最近、勉強してわかったと言った。
「そんな当たり前のことを知らなかったのか」という人こそ、本当に「抑止力」というものがわかっているのだろうか。
少なくとも僕にはよくわからない。「抑止力」というものの実態がわからないのだ。
そういったものがあるといえばあるような気もするし、無いような気もする。
正直なところ、東京に住んでいる人のどれだけが、沖縄と徳之島の正確な位置関係がわかっているのだろうか。残念ながら、僕らにとって、基地が沖縄にあろうが徳之島にあろうが、実生活上あんまり関係ないのだ。
しかし、これでいいのだろうか。
少なくとも今回の件で、日本に米軍が存在することの是非、そして、米軍基地の7割が沖縄にあるということの不条理、そういったことが本土に住む僕らの意識にあがっただけでもよかったのかもしれない。
民主党が政権を取った時代、ネット社会が到来した時代でもある。それにしも、マスコミの欺瞞が目に余る。
原口大臣が記者会見でクロスオーナーシップ問題(新聞社がテレビ局の株を持つこと)の禁止を言ったとたんに、民主党を攻撃しだしたマスコミを誰が信用できるのか。
当然、大臣の記者会見はほとんど報道されていない。
記者クラブ問題、NHKの1万人訴訟問題にしてもそうだ。マスコミは自分の都合の悪いことは報道しない。
特に民放をたまに見るとそれはひどい。ただ、インパクトを与えればそれでいいといった感じのCM、くだらないバラエティ、僕はおととし、C型肝炎で自宅療養していたが、その時は毎日、テレビを見ていたがそれほど嫌悪感はなかった。
しかし、もうだめだ。ただつまらないだけならまだしも、不快だ。
小沢幹事長の問題についてもひどい。先日、検察審査会は、市民団体から政治資金規正法違反(虚偽記載)罪で告発され、嫌疑不十分で不起訴処分となった小沢幹事長について、起訴相当と議決したそうだ。(この市民団体というのはどこの誰だろう。)
新しい証拠が出てきたわけではないのに、再度、事情聴取、2回目の検審で不起訴相当となったら、強制起訴されるという。
これはどう考えても疑問だ。
これなら、「悪い」というイメージのある人は誰だって起訴されてしまう。
「ようするに逮捕されたのだ。」というのは確か、カフカの「審判」の一節だが、それと同じようなことが起ころうとしているのではないだろうか。
しかし、それでも経済や社会は回っている。しかし、確実に国民の依存体質は増しながら、そして、国力は確実に下降線をたどりながらだが。多分。
まさむね
1986 »
人生をなんとかしなければというようなことは誰でも考えたことはあるだろう。
おそらくその観念こそが”若さ”ということなのだ、とすら思う。
「汚れた血」のアレックス(ドニ・ラヴァン)はこの映画全編で、そんな自分自身からの脱出を試みようとする。
今で言うところの”自分探し”の極限バージョンである。
この映画は、彼の顔、そして存在感を見るだけで十分な映画だ。
「アバター」真っ青な彼の素顔は、逃れようもない運命すら感じさせる。
確か、この映画の中盤でデヴィッドボウイの歌にあわせて彼が疾走するシーンがある。
彼は彼自身から、逃れようともがくが、しかし、当然のこと、彼の肉体、そして彼の血は、彼そのものという当たり前のことから逃れられない...
彼の内的時間が映画の中でゆがむそのシーンは、ちょうど、北野武の「ソナチネ」の沖縄のシーンで時間が止まるシーンの対極だ。その意味で、「汚れた血」は、僕の中で北野映画と結びつく。優れた映画監督は時間を制御できるのだ。
ついでに言えば、この映画のアレックスは、一連の北野映画における武の存在感と似ている。
いずれにしても、多分、北野武は、カラックスの子供だ。
この映画(そして、「ボーイミーツガール」)は、後に公開された「ポンヌフの恋人」の封切り時になにかの特別上映で観たような気がする。だから、80年代映画といいながら、僕にとっては90年代映画なのかもしれない。
映画館を出たとき、この映画で数度繰り返されるジュリエットビノシュが下唇をちょっと突き出して前髪に息を吹き上げる癖の真似をしたっけ。
ちなみに、「存在の耐えられない軽さ」の中の1シーンでも、彼女はその前髪息吹き上げをする。
まさむね




