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Articles Archive for 6 月 2010

歴史・家紋 »

[30 6 月 2010 | 2 Comments | | ]

先日、スタジオハードデラックスの高橋信之氏とお会いした。
高橋氏は、世界で初めてコスプレ(cosplay)という名称を作られた方だ。現在でも東京国際アニメフェア実行委員など、精力的に活躍されている。
実は、今から15年前に僕が、ギャガという会社にいた頃、美少女フィギュアのCD-ROMを製作したことがあったのだが、その際に、高橋さんに相談させていただいたことがあった。
そのときは一回だけお会いしただけなので、おそらく高橋さんは覚えてらっしゃらないだろう。しかし、相変わらず人当たりがよく、ジョークもイケているナイスガイだ。
僕は自己紹介替わりに「家紋主義宣言」を贈呈させていただいた。そして、高橋さんの家紋についてお伺いした。
高橋さんの家の家紋は、隅立て釘抜き紋だそうだ。しかし、ただの釘抜きではなく、真ん中の四角のところに「,」(チョン)が入るらしい。ところが、そのパターンで墓の機械彫りが出来ず、仕方なく、通常の釘抜き紋を御墓に入れたという。しかし、おそらく、高橋さんの心の中ではその「,」(チョン)は生き続けているのである。
さて、釘抜き紋者といえば、博覧強記の南方熊楠氏、美術評論家の柳宗悦氏(右絵)
が思い浮かぶ。手付かずの自然(鎮守の森)を残すべきだとして神社合祀令に反対した熊楠、朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に対する朝鮮総督府の弾圧に対して公然と批判的論陣を張った宗悦、いずれにしても、自らのこだわりのためには、権威に屈することのない方々である。
しかも、今まで多くの人が見逃してきたものに新しい「価値」を見出した目利きの御仁である。今の言葉でいえば、熊楠は粘菌おたくである、宗悦は民芸品おたくである。
その類推でいけば、釘抜き紋を持つ高橋信之氏の、コスプレなどのオタク文化に対するシンパシィにも熊楠や宗悦と同じ紋魂(もんたま)が流れているのではないかと僕は想像している。
今後一緒にお仕事をさせていただくことになると思うのだが、楽しみだ。
まさむね

散歩, 歴史・家紋 »

[29 6 月 2010 | 2 Comments | | ]

一昨日、6月のTBC(東京墓石倶楽部)で品川に行った話の続きだ。
海晏寺を出た僕らは、そこから数分の天妙国寺に向かった。この寺院は、名前に「妙」の字があることでもわかるとおり、日蓮宗系である。当然、寺紋は橘系の三つ寄せ橘(黒田橘)である。
この寺院の墓所の入り口には、墓所全部の地図が張り出されている。ハカマイラーにとっては、全部の寺院がこうだったら楽なのにと思った。
ここでの目当ては、歌舞伎の「斬られ与三郎」の元素材となった長唄の師匠・芳村伊三郎の墓である。
特に、芳村伊三郎=斬られ与三といえば、春日八郎の「お富さん」の元ネタだ。
この歌には、祖母が「自分の歌だ」と言って歌ってくれた思い出がある。僕の祖母はトミエという名前だったのだ。
それゆえに、僕が生まれる前のヒット曲ではあるが、大好きな歌なのである。
さて、この与三郎の墓の家紋は何であろう。
江戸時代に作られた墓は、石が摩滅していてよくわからない墓が多い。先日、青山の長谷寺でみた伊沢蘭軒の墓の家紋(=梅鉢)もそうだった。
しかし、この紋を近くでよくよく見てみると、なんと、三つ盛り揚羽蝶ではないか(左絵、クリックで拡大)!!
しかも、左下の蝶は反対向きになっているではないか。
これをわかりやすく絵にしてみると右のようになる。僕ははじめてこんなおしゃれな蝶を見た。
さすが、歌舞伎の題材として大当たりしただけのことはある。イキだ!!
これは、僕の家紋主義的妄想なのだが、蝶紋を家紋した男達は、ダンディだがどこか弱みのある御仁が多い。(拙著「家紋主義宣言」)例えば、織田信長、芹沢鴨、トニー谷、萬屋錦之助、中村獅童...そして、この系列に「斬られ与三郎」を加えることが出来たのは大きな収穫であった。
ちなみに、この与三郎とお富さんを題材にした演目は「与話情浮名横櫛」、通称「源氏店」という。ウィキペディアには以下のように書かれていた。
〜(前略)〜復活するのは明治末年になってからのことだった。15代目市村羽左衛門の与三郎、6代目尾上梅幸のお富、4代目尾上松助の蝙蝠安で「源氏店」が上演されるとこれが大評判となる。15代目羽左衛門のニンも与三郎にぴったり合ったのである。以後「源氏店」は大正から昭和のはじめを通じて繰り返し上演されるようになり、歌舞伎を代表する演目の一つとして定着した...
ハカマイラーとしては、15代目市村羽左衛門と6代目尾上梅幸といえば、雑司が谷霊園にその二人の墓が並んでいることを思い出さざるを得ない。
僕も何度も訪れた二人の墓ではあるが、それまでは、歴史上の有名人という位の認識であったが、それが「与三郎」と「お富」という関係だと知り、さらに深くあの場所に愛着を感じてしまうのであった。
ちなみに、二人の家紋であるが、市村羽左衛門は根上り橘(左絵)、尾上梅幸は杏葉菊紋(右絵)である。
まさむね

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[28 6 月 2010 | No Comment | | ]

先週、よしむねさんから、誠にありがたい書評をいただいた。
僕とよしむねさんが共通しているのは、かなり大雑把に言ってしまえば、昭和といういい時代に、青春を迎え、現代という苦境の時代に中年を迎えたという、二つのまるで、違う時代を生きてきたということだ。
僕らが生まれた昭和後期は日本人にとって、未来を、そして社会を、信頼することが出来た時代である。そこでは、普通に生きて、普通に働いていれば、普通に幸せになれると素朴に信じることが出来た時代と言い換えてもいい。
その頃の僕らは、おそらくそんな安穏とした世界の中で一生を終えるはずだったのだ。
そしてその安穏さと引き換えに僕らは過去の歴史をどこかに置いてきた。僕らの学生時代には、戦前、戦中(つまり昭和前期以前)という時代は忌まわしいものとしてただ否定し、時に茶化していればよかったのである。そして、実際にそういった言説があふれていた。
例えば、僕が学生時代に作っていた「一本気新聞」というミニコミには、グループ交際特集という特集があったのだが、そこの「グループ交際宣言」というコーナーには、「グループ交際には核を持ち込まない」という一節がある。もちろん、ジョークだ。
しかし、当時の文脈ではジョークだったその一節は、今でもジョークとして成立しているのだろうか。
僕らはフッと立ち止まらざるを得ない。それが平成の現代である。
つまり、時代は変わったのだ。バブル崩壊、ビッグバン、構造改革、リーマンショック...いつの間にか、僕らは信頼できるものをどんどん破壊された(あるいは破壊し)、そして自分自身とは何なのかということを考えざるを得なくなったのだ。
今回の鳩山さんの普天間問題でのバタバタは実は僕らのバタバタでもあると僕は思っている。他人事ではないのだ。戦後、アメリカに無自覚に守られてきた僕らは、無自覚ゆえに、「そろそろ出て行ってもらえますか」といえば、「まぁいいか、いいですよ。」とでも言ってもらえると、どこかで思っていたのではないだろうか。それは鳩山さんと一歩も違うことがない。僕らは全員でファンタジーを見ていたのだ。
戦後、過去を忌まわしいものとして排除してきたゆえに、その意味すらよくわからなくなった日本とは何かという問題、それは、つまり靖国神社とは何かという問題である。
僕は靖国神社とは、日本人にとって死者は怨霊にならずに、御霊になって僕らを護ってほしいという素朴な心情を国家主義が曖昧に吸い上げたシステムだと思っている。だから、そこには厳格な契約があるわけでもない。「御霊は集まって炎のようになりひとつになる。だから分祀はできない」という観念は、僕らには、なんとなく腹に落ちてしまうものではある。
しかし、そんなこと誰が決めたわけでもなければ、どこに書いてあるわけではない。
だから、論理的に外国に指摘されたら勝てるはずがないのだ。日本人は、そのことをまともに考えてこなかったのだから。
唯一、日本人に論理があるとすれば、それが日本人のやり方だから、とやかく言われる筋合いはないということだけなのである。
だから、僕らが合理主義的に、靖国問題を考えようとすると、必ずデッドロックに陥ってしまう。
そして、分祀論というのを言い出す人も出てくる。しかし、その意見にしても自信なさげだ。合祀という定義が曖昧なのだから、分祀だって曖昧にならざるをえないのだ。
そうこうしているうちに、頭がこんがらがってくる。僕らの歴史は一体どこにあるのだろうか。
そして、いつの間にか僕らは日本の歴史といえば、まるで幕末と戦国しかないかのように考えさせられているのだ。
僕が「家紋主義宣言」で言いたかったのは、ある意味、靖国問題をどう相対化すればいいのかということだった。
そのために、最終章で柳田國男の「先祖の話」を出して、僕らはただ、普通にご先祖のことを忘れないようにすればいいのだと言ったのである。
そして、ご先祖を思い出すきっかけのひとつとして家紋というデザイン、そして物語に一人一人が目覚めようと言ったのである。
さらに言えば、靖国問題を右と左という対立ではなく、将門の怨霊と桔梗紋の戦いという全く別のファンタジーで示して見せようとしたのである。それがうまくいったのか、いかなかったのか、面白かったのか、くだらなかったのかは読者の皆様のご判断にお任せするしかないが、僕の家紋主義は、ある意味、まだ始まったばかり、そして僕らの「帰り道」をどうさがしたらいいのかというテーマもこれからだと思っているのである。
まさむね

散歩, 歴史・家紋 »

[27 6 月 2010 | No Comment | | ]

6月のTBC(東京墓石倶楽部)は品川近辺の寺々での家紋採取であった。
大井町駅で待ち合わせ、海晏寺(かいあんじ)に向かう。
ウィキペディアによれば、この寺は、鎌倉時代幕府5代執権北条時頼が開基となって宋から渡来した禅僧蘭渓道隆の開山により臨済宗の寺院として創建されたという。
墓地は麻布・善福寺と同様に、丘の斜面に作られていて、ここも昔は里山的な場所だったのではないかと想像させる。
僕のこの寺院での大きな目的は児島惟謙の墓である。松平春嶽や、由利公正、岩倉具視などの墓もあるらしいのだが、立ち入り禁止という。ここでの一般墓地の有名人というは彼くらいなのだ。
そして、ついに、児島惟謙の墓を発見。丘の中腹だ。(ちなみに発見したのは、やはり”神眼”を持つO君)
この児島惟謙は、明治時代の大審院長(今で言うところの最高裁判所長官)で、ロシアの皇太子が巡査・津田三蔵に斬りかかられた、いわゆる大津事件で、時の政府が国際関係上、大逆罪の適用を強く主張したのに対して、あくまでも司法の独立を守ったとして後世に名前を残すことになった人物である。
家紋は三つ鱗だ。これは、この寺院の創建者・北条家の紋。北条家と児島家のつながりを感じさせるではないか...と思ったら、児島の墓に(親類か?)緒方と名前が刻まれた墓を発見した。
以前、「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生に教えていただいたが、三つ鱗は、緒方家の代表紋だ。それをもとに、拙著「家紋主義宣言」でも、w-inds.の緒方龍一の紋も三つ鱗ではないかと推定している。
おそらく、児島惟謙の三つ鱗紋は、緒方氏からのつながりかもしれない。しかも、惟謙の「惟」の字は、緒方の通字である。たとえば、源平の合戦で活躍した緒方惟栄、緒方洪庵の子、緒方惟準と緒方惟孝などが名前に「惟」の字が使われている。
また、児島惟謙の実父は、宇和島藩士の金子惟彬。金子家と緒方家、そして児島家の関係にも興味あるところである。ちなみに、ウィキペディアにはこう書かれていた。
大津事件に際する直前の明治23年3月10日、惟謙は本籍を北宇和郡三間村から内海村大字内海(赤水)586番戸に移している。 尚、同村須ノ川には「児島」の姓が多い事、父惟彬が金子家に養子に入る前に一時赤水の豊島家の養子に入っていた事などが児島姓を名乗る事に繋がったのではないかと言う説もある。 (新訂・内海村誌より)
今後、余裕があったらさらに調べてみたい。
まさむね

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[24 6 月 2010 | No Comment | | ]

たしかフランスの詩人ポール・ヴァレリーだったと思うが、「後ろ向きに未来に入る」という詩句があるそうだ。まさむねさんの「家紋主義宣言」がこの度めでたく発刊となったが、送っていただいた御本を拝読して、まさに上記ヴァレリーの言をまず思い出した。
やっぱりぼくら人間はゴーギャンの絵のタイトルじゃないけど「われわれは何者か、どこから来て、どこへ行くのか」を知りたがる生き物だ。そしていま過剰なまでに日本人が未来へ向かっての視線(眼差し)に晒されて痛めつけられているのだと思う。それは日本の将来性や未来のなさへ通じるような喪失感の予感でもあるだろう。グラウンド・ゼロの時代。
だが、未来ばかりを想い描こうとしても、未来からの視点だけでは多分たいしたアイディアは出てこないだろう、それよりもわれわれはどういう性(サガ)の人たちだったのか、何をしてきたのか、その来歴(後ろ向きに)を知ることがいまこそ必要なのかもしれない。
龍馬ブームにしろ、墓マイラー、歴女の興隆、アシュラーのブームにせよ、いわゆる「日本」が冠につく本の出版ラッシュにせよ、未来へ!未来へ!という視線の投げかけに疲れ、むしろ足元へ至る過去の道からもう一度見つめなおそうというある種の先祖がえりとけっして無縁な風潮ではないと思う。
そして今回「家紋主義宣言」を読んで、あらためてわれわれ日本人とは何者だったのかを強く感じさせられる契機ともなった気がする。家紋に託されたさまざまな物語、その紡ぎの数々。そこに何よりもまさむねさんの個人史も投影されている。
そして改めて確認させてもらったことは、家紋にまつわる意外なおおらかさや自由さということ。家紋が持つ広がりとは、かならずしも厳密な物語の公証性に基づくような類によるのではなく、あくまでもそこに自由な個人の思いがいつも許容されるスペースのようなものとして広がっているのだという事実。
それから家紋の種類の多さ、そのアイコン(イコン)としての面白さと秀逸さ。この家紋をめぐる象形性のひとつをとっても、以前ぼくも「デザイン立国・日本の自叙伝」の架空談義として書かせていただいたこととも相通じると思うのだが、日本人のデザイン感覚力(構想力)のDNAはやはりすごい!と思うのだ。そうしたことも本書を読んで気づかされたことだ。
ぼくは家紋主義宣言を読む前に、以下のような勝手な予感メールをまさむねさんに送らせてもらったことがある。それを原文のままここに引用してみる。
「日本人がいま自分のルーツ探しをしようとする時にあるいは{われわれはどこから来たのか}を知ろうとするときに家紋というのは有力なツールのひとつになりえるように思われます。
何でもありの時代だからこそ何も手がかりのない時代でもあるわけでそこに物語性としての家紋の意義があるようにも思われます。おっしゃられるように見えない制度としての抑圧性については注意しないといけないと思いますが。」
「みんな物語がすでに死滅したことは了解していてもやっぱり想像力としての任意の物語性は求めているように思います。それとやはり身体性ということの関連でも妙に家紋の象形チックな紋様がマッチするようにも感じます。」
この思いは本書を読んだ後のいまも変わらない。というよりも21世紀を迎えて、あらためてますます家紋の潮流が新しい、と言えるように思うのだ。ぼくもまさむねさんとは古い付き合いで、途中の音信途絶の時期もいれてもうかれこれ20数年になる。
昨年から骨折を機縁に(?)一本気新聞にも合流させてもらってこうして書かせていただいているわけだけど、年齢の近しい同時代人として、このような書物が同世代のひとりの書き手によって出現したことを誇りに思うし、もっと多くの人の目に触れてほしいと思う。
本の帯にもあるようにこの本は21世紀に出版が予定されていたもっとも危険な書物の一冊かもしれない。読まれていない方があったら、ぼくが言うのもなんですが、ぜひ読んでいただきたいと思います。そしてまず自分と自分の家の歴史(先祖の人たちのことも)についてしばし想いを馳せてみてください。そこからはじめてみましょう。
因みにぼくの家紋は「細輪に中柏」の柏紋である。まさむねさん曰く、ぼくの先祖はアート感覚にあふれたおしゃれな方だったのかもしれませんね、とのご診断。それからぼくの家(先祖)の出は姓から推察しても京都あたりだったのでしょう、ということ。ただし、実際のお墓に彫られた家紋は間違っているのだが。この間実家に帰ってそれを確かめてきた。まあ、いずれにしてもこれも家紋にまつわるおおらかな物語のひとつかもしれない。
最後に、まさむねさんの「家紋主義宣言」の一節でぼくがもっとも好きな語句は次のことばだ。
「今ならば、まだ、僕らの「帰り道」はかろうじてそこに在るに違いないのである。」
文字通り、最終章、結びのことば。ひとの帰り道。それはそのままこれから行く道でもある。もう日が暮れて、道は遠くなってきていても(お家がだんだん遠くなる)、まだ帰り道があると信じたい。
まさむねさん、出版おめでとう!
よしむね