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iPad狂騒を見ていると日本人の古きよき伝統を感じる

1 6 月 2010 No Comment

iPadの狂騒は凄い。
ネット上だけではなく、テレビでも話題はiPad一色という印象の週末だった。
確かに、画期的なツールである。多くの識者や書籍編集者もこれで紙の時代は終わったという印象を持ったのは当然かもしれない。

おそらく、確実に電子書籍の時代が来るのであろう。これはいい、悪いの話を超えた時代の流れと言わざるを得ない。

このツールが発表された当時、自分としては、マルチタスクではないこと、大きさが持ち運びに不便なことなどを理由にそれほど普及しないだろうと思ったこともあったが、多分、勘違いだった。
原理的、あるいは技術的になにか新しいものがそこにあったとも思えないが、この狂騒を見ているとiPadは確実に新しい時代を告げる象徴になったと言ってもいいと思う。

それにしても、海の向うから新しい文物がやってきて、それに対していち早く反応し、国内での文化的優位性を誇示しようと考えるメンタリティ(当然、自分自身も含めて)というのはなんと伝統的なことか。

たとえば、家紋の世界を見ても、いわゆる高貴な紋=菊、牡丹、桐などはみな海の向うの象徴のような植物だ。それらを身に着けた人々はシナの文化をいち早く取り入れることで己のステータスを誇示することが出来た層なのである。(このあたりの日本と大陸との関係の象徴としての家紋という話は6月発売予定の「家紋主義宣言」の一つのテーマです。よろ。)

おそらく、仏教伝来や遣隋使の時代、あるいはそれ以前から、日本人はこういう海の向うのものに弱い。歴史上のヒーロー、織田信長や坂本龍馬にしても、みんな海の向うへの憧れを自分の武器にしえた人物だ。こういう目をキラキラさせる人物は憎めない。
その意味で、今回の狂騒は批判的に見るというよりも、そこでみんなと一緒に日本古来のメンタリティを共有し、エネルギーを感じ、それをさらに活力に換えていくことを考えるべきだと思った。

しかし、当然のことではあるが何かを得るということは何かを失うということである。
内田樹先生もいろんなところで指摘されているが、人々がものを学ぶということで重要なことは、自分が何を知りたいのかわかっていることに関する知識を増やすことだけではなく、「そんなものがこの世に存在することさえ知らなかったような学術的知見やスキル」に不意に出くわすことという一面もある。

僕は、よしむねさんが前のエントリーのコメントで書かれているように、自分も、下記の感慨を共有する。

だけどやっぱり紙を実際に触ったり、破ったり、捨てたり、汚い字で書き込みしたり、ボロボロになるまで破片化したりしたいですよね。

確かに、それがどういう意味があるのかは明確には言えないが、体のどこかに電子書籍では味わえない「なにものかとの出会い」がそこに残っているような気がするからである。

まさむね

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