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「セックス・アンド・ザ・シティ」と「タクシードライバー」の間で悩む家紋主義者

6 6 月 2010 No Comment

昨晩、フジテレビの土曜プレミアムで「セックス・アンド・ザ・シティ」を観た。
今更という感じもなくはないが、面白かった。

僕は、「家紋主義宣言」で青山霊園から六本木を眺める視線を提唱したのだが、六本木の先に世界最強の都市、ニューヨークがあるということを思い知らされた。
そこは、物質主義(消費至上主義)の究極の世界だ。
しかし、俗物主義という一言で片付けるには「セックス・アンド・ザ・シティ」の吸引力はあまりにも強い。そして魅力的だ。

シニカルでありながら繊細で(面長というより馬面の)キャリー
自分第一主義のセックスアニマルで(太り気味の)サマンサ
お嬢様で内向的な面もあり、(目が大きい)シャーロット
知的でプライドが高く(首が長い)ミランダ

彼女達の意地と友情と欲望、つまり颯爽としたエネルギーは凄い。自由になりたい世界中の女性が彼女達にあこがれるのはよくわかる。
特に、閉塞感のある日本社会の女性が「セックス・アンド・ザ・シティ」に夢中になるのは自然だし、むしろ健康的かもしれない。

僕は、マーチンスコセッシの「タクシードライバー」にあこがれて、80年代後半に何度かニューヨークに行ったことがあるが、その頃のニューヨークは汚くて怖なかった。ジュリアーニが市長になる前、タイムズスクエアには大きなSONYの看板が出ていた時代だ。

しかし、あれからもう20年も経っているが、「セックス・アンド・ザ・シティ」の画面の端々を見ていると、例えば、ゴージャスなパーティが開かれている会場から一歩外に出るとストリートに何をするでもなくただ佇む貧困層の目の暗さ、というようなものは、「タクシードライバー」の時代から変わっていないようにも思われた。
おそらく、「セックス・アンド・ザ・シティ」と「タクシードライバー」の落差から生じるダイナミズムこそ、今でもニューヨークの活力源なのだ。そしてそれは、夢と現実の落差と言い換えてもいいかもしれない。(ちなみに、シリーズ5のオープニングでは、街を歩くキャリーが、自分の写真が大きく側面に描かれている公営バスに泥水をかけられるというシーンが流されるが、それまさしく、現実の彼女が、幻想として一人歩きした彼女に冷や水を浴びせかけられるという暗喩になっている。)

頭ではグローバルスタンダードを受け入れなければならないと考えていながら、心のどこかで「鎖国」をしたいと願っている。その一方で「セックス・アンド・ザ・シティ」に惹かれながらも、日本人として、先祖からの繋がりを物語化しなければいけないと考えている。世界中の多くの貧困にあえぐ人々に同情の気持ちを持つと同時に、一度はニューヨークでゴージャスな生活も経験してみたいと思っている。

「セックス・アンド・ザ・シティ」など観なければよかったと思いながら、今日はGYAOでシリーズ5のテレビシリーズを続けて観てしまった僕は明らかに迷っている。

しかし、この迷いは、けっして僕だけのものではないような気もしているのだがいかがだろうか。

まさむね

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