フェリーニ「サテュリコン」に見られる若者群像はいまも生きている
80年代の映画ではないのだけど、久し振りにビデオでフェリーニの「サテュリコン」(イタリア映画、1969年公開)を見直した。やっぱり凄い。グロテスクだけどかつセンシブルな映像美といい、幻想的な物語構成といい、少しも古臭くない、というよりも古い新しいということが問題にならない。因みにぼくは「サテュリコン」はさすがにリアルタイムでは劇場で観ていない世代。
最近出版された松岡正剛氏の対談本「日本力」のなかで対談者のエバレット・ブラウンさんがイタリア人には古代ローマの感覚がいまも生きているみたいなことをおっしゃっている箇所があったと思うのだが、フェリーニの映画などを観ると、現代イタリア人の身体感覚にはいまだに古代ローマの感覚が連綿と生きているのだろうなあということがほんとうに納得される気がする。おそらく、ついそこに、まだ古代ローマの感覚があるのだ。
だからフェリーニが古代ローマの物語を題材にしていても、実はその群像はまさに現代ローマの若者たち(その当時のパンクな若者たち)を描いているのとなんら変わりないということが今回見直してみてあらためてわかった気がする。
主人公エンコルピオが彷徨を重ねても、どこへもたどり着かず、川岸の野原で空にむかって叫ぶシーンがある。「なんと目的地から離れてしまっていることか!」。因みにこの映像シーンのなんと切なく美しいこと! だが目的地などあったためしはないし、いつの時代もそうに違いない。行き着くことのない空虚感。これこそまさに「サテュリコン」をながれる通奏低音だと思う。
「恋々風塵」の切なさから「サテュリコン」の空虚さ、まで。これこそがいつの時代も変わらない若者のすべてだと思う。ぼくらはそのように生きてきたのではないだろうか。
そういえば映画のラストでエンコルピオはアフリカ行きの船に乗ろうとする。あえて強引なこじつけだが、これは今の若い人たちが湾岸地帯の工場夜景クルーズで船に乗り込むシーンと置き換えてもよいかもしれない、もちろん新大陸と廃墟や無機への憧れ・好奇という違いはあるけど。どういう時であれ若者は移動する船を目指すのだ。
よしむね





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