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Articles Archive for 6 月 2010

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[2 6 月 2010 | No Comment | | ]

「家紋主義」とは一体何であろうか。
まずそのことを書かなければならない。
簡単に言えば、現代人のもっとも重要なテーマは、自分とは何なのかということがわからなくなっている、ということだ。
自分は何のために生まれてきたのか、自分は何をすべきなのか。
自由、あるいは個性という思想は、多くの人を解放したが同時に、多くの人を不安にさせている。その究極が現代である。
しかし、時代の針を元に戻すことは出来ない。家族・親族が解体した後でそれを元に戻すというのは至難なことだ。
おそらく、夫婦別姓に反対している人々は、その至難さを熟知している人々だろう。僕は珍名が残る可能性が高まるという意味でこの制度には賛成だと表明しているのだが、それはあまりにも気楽、あるいはナイーブにすぎるだろうか...
さて、時間の針を戻せないとしたら、僕らは「自分とは何か」という課題を再構築しなければならない。
そして、一度、はがされてしまった歴史との結びつきを以前とは全然別の文脈で編み変えなければならないだろう。
しかし、それを強制的に行うことはおそらく不可能だ。
家紋というものはある文脈では家制度の象徴である。その家制度というものが人々を抑圧してきたという一面の歴史があったのも事実だろう。だから、無意識的にでも、家紋というものから目を逸らしてきた戦後の人々の心性はわからないくもない。
そこで僕は、今までとはまた違った自分という物語を編みかえるためにこの家紋というものを再活用出来ないかと考えた。
それが家紋主義のモチベーションである。
家紋というものは、本当に調べれば調べるほど面白い。それぞれがそれぞれの物語を持っている。あるいは、持っているような雰囲気を持っている。自分と同じ家紋を持っている今まで全く意識しなかった人物に、いきなり親近感を覚えたりする。
遠い先祖に思いをはせることは、荒唐無稽に天草四郎の生まれ換わりなどという荒唐無稽な自慢話をするようなレベルの話ではない。
そんなお話にもしご興味があれば、是非、「家紋主義宣言」を手にとっていただければと思います。
まさむね
PS.最近思ったこと
1:勝間和代さんのブログ。Friday Kohmi 〜広瀬香美さんのUst番組〜 第2回〜みんな忘れているかもしれませんが、私は普通にファンなんですだって。これってほめているつもりなのだろうか。天然に嫌味な人なのだろうか、彼女は。
2:口蹄疫で牛が沢山、殺された。それを全額、税金で補償するという。それはそれでしかたないのだろうか。しかし、なぜ、畜産家だけが、そういう不慮の事故に対して税金で補償されるのだろうか。サーバーが突然落ちた、IT業者にはそういった恩恵はないのだろうか。

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[1 6 月 2010 | No Comment | | ]

iPadの狂騒は凄い。
ネット上だけではなく、テレビでも話題はiPad一色という印象の週末だった。
確かに、画期的なツールである。多くの識者や書籍編集者もこれで紙の時代は終わったという印象を持ったのは当然かもしれない。
おそらく、確実に電子書籍の時代が来るのであろう。これはいい、悪いの話を超えた時代の流れと言わざるを得ない。
このツールが発表された当時、自分としては、マルチタスクではないこと、大きさが持ち運びに不便なことなどを理由にそれほど普及しないだろうと思ったこともあったが、多分、勘違いだった。
原理的、あるいは技術的になにか新しいものがそこにあったとも思えないが、この狂騒を見ているとiPadは確実に新しい時代を告げる象徴になったと言ってもいいと思う。
それにしても、海の向うから新しい文物がやってきて、それに対していち早く反応し、国内での文化的優位性を誇示しようと考えるメンタリティ(当然、自分自身も含めて)というのはなんと伝統的なことか。
たとえば、家紋の世界を見ても、いわゆる高貴な紋=菊、牡丹、桐などはみな海の向うの象徴のような植物だ。それらを身に着けた人々はシナの文化をいち早く取り入れることで己のステータスを誇示することが出来た層なのである。(このあたりの日本と大陸との関係の象徴としての家紋という話は6月発売予定の「家紋主義宣言」の一つのテーマです。よろ。)
おそらく、仏教伝来や遣隋使の時代、あるいはそれ以前から、日本人はこういう海の向うのものに弱い。歴史上のヒーロー、織田信長や坂本龍馬にしても、みんな海の向うへの憧れを自分の武器にしえた人物だ。こういう目をキラキラさせる人物は憎めない。
その意味で、今回の狂騒は批判的に見るというよりも、そこでみんなと一緒に日本古来のメンタリティを共有し、エネルギーを感じ、それをさらに活力に換えていくことを考えるべきだと思った。
しかし、当然のことではあるが何かを得るということは何かを失うということである。
内田樹先生もいろんなところで指摘されているが、人々がものを学ぶということで重要なことは、自分が何を知りたいのかわかっていることに関する知識を増やすことだけではなく、「そんなものがこの世に存在することさえ知らなかったような学術的知見やスキル」に不意に出くわすことという一面もある。
僕は、よしむねさんが前のエントリーのコメントで書かれているように、自分も、下記の感慨を共有する。
だけどやっぱり紙を実際に触ったり、破ったり、捨てたり、汚い字で書き込みしたり、ボロボロになるまで破片化したりしたいですよね。
確かに、それがどういう意味があるのかは明確には言えないが、体のどこかに電子書籍では味わえない「なにものかとの出会い」がそこに残っているような気がするからである。
まさむね