幼児死体遺棄事件と柳田國男と「下校拒否」
人生にはいくつもの「落とし穴」が開いている。
一人一人の人間は弱い。だからいつ、その「落とし穴」に落ちるのかは誰もわからない。
大阪の幼児死体遺棄事件はそんなことを僕に考えさせた。
彼女が悪いのは当たり前の話だ。ただ、僕にはそれだけで済ますことが出来ない。
柳田國男は『妹の力』の中でこう記したのは昭和15年だ。
(最近は)人が全体的にやさしくなったような感じがする。ことに目につくのは子供を大切にする風習である。以前は野放図にしておいて、自然に育つものだけが育つというありさまであったのが、もうそんな気楽な親は少なくなった。
これはあくまでも柳田國男の感想にすぎないが、昭和15年といえば、日独伊三国同盟が出来た年、この前年にはすでに第二次世界大戦は始まっており、翌年には太平洋戦争が勃発している。平成からの視点で言えば、この時代は子供に対するしつけも厳しかったような印象もあるが、実際にはどうだったのであろうか。
僕が気になったのは、さらにそれ以前は、子供は野放図にしていても育ったという何気ないところだ。おそらく、この時代、多くの家庭は大家族だ。三世代は当たり前で、しかも親戚なんかも一緒に住んでいたのだろう。だから、その中には暇な人もいて、子供達に対して何かと面倒を見ていたのかもしれない。あるいは、隣近所にもそんな人がいて、そういう人たちが子供達に目を配っていたのか。
いずれにしても、家族、地域社会が生きていた時代、子供はある意味、「自然」に育ったのである。しかし、戦後、こういった共同体がどんどんと解体されていった。
大雑把に言えば、日本人は「絆」よりも「自由」を選んだのである。それが時代の必然というものだったのだ。
そして、「自由」の思想は、「ここにいる私とは別の私」がどこかにいるに違いないという幻想を必然的に呼び寄せる。
さらに言えば、その幻想は同時に、「別の自分」を妨害しているのは「外部にいる何者か」であるという無責任につながっているようにも思える。
おそらく、そんな「自由の囚人」こそ最も「落し穴」に落ちやすいのではないだろうか。自由とリスクはいつだって隣り合わせだ。これは確かだと思う。
一方で、柳田国男が回想したような、野放図にしていても子供が育つような環境は、遥か昔にもう存在しない。
これは僕らにとってはノスタルジーだ。そしてこの状況は政治でなんとかなるような問題なのだろうか。
「下校拒否」が魅力的なのは、このノスタルジーと「自由」とが若干のペーソスを挟みながら強引につなぎあわせるようなパワーがあるからかもしれない。結局、今、僕らに必要なのはパワーなのか。
まさむね





まさむねさんへ
「別の自分」を妨害しているのは「外部にいる何者か」であるという無責任につながっている、というご指摘はとても重要な視点だという気がします。ぼくらは社会や会社、家のすべてにおいて、知らず知らずのうちにそんな心の傾き(心性)に馴染んでしまってきているように思えますね。最近の民主党の弱者救済的な施策も、こうした風潮(他責主義)を煽っているようにも思います。いま必要なのは、リスクはリスクとして、それを引き受けるパワーなのかもしれませんね。みんな神頼み、神経質、慎重になりすぎているようにも思いますね。昨今の国債買いの風潮などまさに誰もリスクをとりたがらない時代風潮を反映しているように思えます。結果みんなが実はとんでもないリスクを一斉に抱えてしまう(集中してしまう)ことになってしまう。国家破産みたいな。恐ろしい時代ですね。
よしむねさんへ
実は、この部分は内田樹先生の請け売りでした。「街場の現代思想」からです。そこで先生は、さらに、他責的なやからを「子供」と呼んでいます。また、酒井順子であったなら、そのような存在は「犬」というだろうと言っています。
努力して成長しようとするよりも、うまくやろうとばかり考えている、そして、いまくいっているように見える人の足を如何に引っ張るかに腐心するセコい人々。
怖いのはそんな姿が鏡の中の自分だった瞬間です。
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