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日本は本気でダウンサイズのプロセスを考えるべきだ

9 8 月 2010 No Comment

先日、よしむねさんの「夏の家紋主義者」というエントリーの僕のコメントに対するお返しコメントに以下のような表現があり、僕は少し気になった。

人間は本来異質なもの(分かり合えるようで分かり合えず、分かり合えないようで分かりあったりする、違和なものたちの)同士のはずです。ここに来て、ぼくらはもう一度その断層的なもの、食い違いみたいなものに目を向けて、そこから始めていくことが必要な気がします。

実は、僕は大学生の頃、つまり1980年代の前半、社会学のゼミにいたのだが、その時に教授が「最近の若者は人と人とをもともと異質なものとして捉えるようになった」というようなことを話されていたのを思い出したのだ。
その教授は、マルクス社会学に影響を受けるとともに、柳田國男や有賀喜左衛門の農村社会学の直系ともいえる研究をされていた方で、当時の僕は、おそらく、教授の言うことの十分の一も理解できていなかったのではないかと思う。
それでも、先ほどの一節もそうだが、いくつかの印象深い言葉が、今だに僕の中に残っていて、頭をもたげてくる。

さて、その「最近の若者は人と人とをもともと異質なものとして捉えるようになった」という一節だが、逆に言えば、おそらく70年代までは、「でも結局、みんな同じだよな」というオチが、80年代になって通用しなくなってきたということではないのだろうか。今、振り返ってみるとそんな感じがする。
そして、その頃にマジョリティとなった人間は本来異質だという「当たり前」は、おそらく現代までずっと力を持ち続けているのだ。これは消費社会、ポストモダンなど、いろんな言い方で説明できることなのだろうが、これは今後も当分、続きそうだ。
しかし、一人一人の意識が変ってきたが、日本人は、その社会をなかなか変えられなかった。最近でこそ、年功序列や終身雇用の弊害がマジに言われ、成果主義などが言われてきているが、僕らはその成果主義にも完全に移行できていない。
どこかで「結局、みんな同じだよな」を引きずっているし、これからもしばらく引きずり続けるのであろう。
        ★
僕は最近、日本は本気でダウンサイズのプロセスを考えるべきだと思うようになってきた。
少しの収入で、それぞれが小さな幸せを大事に、ボチボチ生きていく社会、世界中から忘れられてもいい、オリジナルな感性を大事に、ゆるやかな鎖国時代に入る。もちろん、生活水準は落ちるだろう。活気もなくなるかもしれない。そして年をとれば、自然に死んでゆく...
しかし、それでいいではないか。という気分が僕のなかのどこかにあるような気がする。
逆にいえば、競争も、移民受け入れも、社会構造改革もNGであれば、そうなるしかないであろう。

そういえば、鎌倉時代、藤原定家という貴族はこんな歌を詠んでいる。

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
(見渡してみると、花も咲いていないし、紅葉だってない、そこにはただ、漁民のオンボロ小屋がある。そんな秋の夕暮れだ)

藤原北家の出で、最終官位は正二位権中納言。つまり、トップクラスの人が、こんなわびしい歌を詠んでいるのだ。
おそらく、日本人はこうした貧しさ、わびしさを一つの芸術的であると解釈するような感性をずっと持って生きてきた。
世阿弥、利休、芭蕉等の感性もその延長上にあるのは言うまでもない。

こうした歴史を持つこの国だからこそ、独自の道を進む可能性を持っていると僕は思う。

まさむね

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