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[4 9 月 2010 | 2 Comments | | ]

アニメ映画「借りぐらしのアリエッティ」を観た。それほど期待していたわけじゃなかったのだが、実際に観て小粒だけど佳品、そういって良い作品だと思った。監督は米林宏昌。宮崎駿監督ご指名の期待の新人(一番弟子)監督だという。
軒下で暮らす小人と人間の出会いの物語で、とにかく小人の性格(人物?)描写もふくめて、細かい部分が丁寧に描かれている。物語としてのリアルさ(浮ついた感じのなさ)もしっかり根付いていたと思う。ここでは粗筋の説明はこれくらいにしておくが、そのファンタジー的なお話はさておき、舞台となっている場所が妙に懐かしくていいのだ。
その場所とは、家の庭先であり、縁側であり、住まいとしての軒下であり、窓辺であり、小人たちからみての巨大な空間としての家の内部の部屋の様子や道具や置物であるのだが、それらがことごとく懐かしい輝きを帯びていてとてもいい。時代がかならずしも特定されていないように思われるのだけれど、どこか昭和半ば頃の日本の中流(上流)家屋のようであり、それがまたトトロに通じるような、いわゆるまわりの雰囲気の懐かしさと静かさと穏やかさを醸し出している。
そして考えてみれば、ぼくらがちっちゃい子供のころ庭は巨大で、いつまでも飽かずに虫探しをしたりしたものだ。その時家の軒下はどこか秘密めいた感じで、なにか不思議な物語に通じてゆくような闇としてあった。それは家のなかでも同じで、たとえば押入れの中とか、天井の上とか、いわゆる家のなかでの闇の部分について子供心に空想を煽られたものだ。いったいそこには何が潜んでいるのだろう、ひょっとして鬼や妖怪でもいるのじゃないか、みたいな。
アリエッティではまさにその闇(軒下)が影の主人公だといってもいいと思う。その空間描写の見事さ。洗濯物を干したりしているシーンがあるのだが、それが小さな小さな生活を思わせてまた可愛い。アリエッティを威嚇しようとした猫もどこか隣のトトロの猫バスの表情を想像させるキャラクターだ。こんな風に細部をあげてゆくと霧がないので、これくらいにしておくが。いずれにしても物語は細部に宿るということ、神は細部に宿るとはよく言ったものだ。
閑話休題。でもここまで書いてきて、上記の家の描写が懐かしいと感じたりするのは、昭和の頃に子供時代を過ごしたぼくたちだからで、果たしていまの都会の子供たちがこの映画を見たらどう感じるのだろうかとふと思った。彼ら、マンションでしか暮らしたことがない子供たちにとって、たとえば軒下とか縁側とか、庭先とか、天井裏への感触がどれくらい実感できるのだろうか? いまはたぶんすべてがクリアーで清潔で明るい。無駄がない空間も多い。コンビニの中の照度といったら一日中昼の明るさだ。かようにも住まいの近くから闇が消去されつつある。
でも田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの家に行けばまだ庭先や縁側は残っているか。あるいは都会だって探せばそういう闇のワンダーランドはまだまだたくさん残っているか。ひとつ言えるのは、子供にとってはよく分からない闇があると感じることがとても大事だと思うことだ。この世には分からないことがあり、どちらとも決めることのできないものがある。グレーなもの。空間で喩えれば縁側がそういうものだ。縁側は外でもあり内でもある。限りなく中間に近いもの。昔のひとはそこで談笑しあったわけだ。
そういうものやことへ滞留できる感性が実はとても大事な気がする。日本家屋がなくなってマンションに切り替わってゆくとき、一番大きな消失物は案外そういうものなのかもしれない。軒下のあまりにも懐かしい想像の感触に、ついついそんなことを思ったのでした。
そういえばこの間、江戸東京博物館に行ったのだが、そこで昭和初期だったかの日本家屋の平屋(模造?)が展示されていたっけ。ゲゲゲの女房のヒットもあるし、日本家屋と妖怪への先祖帰りもまたいいか。
よしむね