Articles Archive for 9 月 2010
時事ネタ »
日銀が金融緩和を行うことを決定した。国債を買い取って資金を供給するという仕組み。アメリカのFRBもすでに金融緩和を行っており、それに対する同調ということだろう。日銀はそうしたくなくても政府官僚筋(アメリカ追随派)の意向・圧力に押されたのだろう。過去この20年間、日本はどれだけの緩和策をやり続けてきたことか。その結果の借金体質とほとんど効果のなかった経済弱体化が続いているわけだ。
しかもほとんど0に近い金利施策を続け、貯金暮らしのお年寄りたちからどれだけのキャッシュを奪ってきたか。ぼくの父親もその影響を受けた世代だ。20年間もお金を預けていれば普通なら5%くらいのまともな金利がついていれば倍近い資産になっていてもよかったはず。これも所詮不労所得だけど。
緩和って言われるとなにかいいことのように受け取れて分かりにくいが、なんのことはない、あらたに輪転機等を回してお金を市場に流し込むことでしょう。リーマンショック以降、市場の危機を回避するという名目で、世界中でどれだけの金融緩和策がとられてきたことか。つまり流し込めるだけのお金が流し込まれたことになるだろう、世界中に。
これを続けていけば、当たり前の話だけど、お金の価値・ありがたみがなくなることは必至だろう。ヨーロッパはさすがにギリシャ等の財政危機を経てこれから金融引き締めに向かいつつあるようでもあるが、アメリカは引き締めに転じるかと思いきや、またも緩和と来た。
アメリカ・ドルは未だに世界の基軸通貨だからこんな野放図なドル大量印刷をやり続けていられるのかもしれないが、弱小国家ならもう国家破産のステージだろう。でもドルと米国債の余命もそんなに長くはないと思われる。奢れるもの久しからず。盛者必衰の理。いつまでも世界中からドルを買ってもらって実体よりも良い暮らしを続けることができるわけがない。
だから円高、ドル安になるのも長い観点で考えれば当然のことだ。ドルがこれだけあふれまわっていれば、ドルの価値が下がるのは当然。紙幣も所詮紙切れ。お金には魔的な商品としての側面もあるが、所詮信用関係(幻想)に基づいて価値が取引されている以上、無価値になることもありえる。それが進んでいけば超インフレになる。
それからいま問題なのは、これだけ大量に供給されたお金がいったい何に使われているのか、だろう。いまは誰もお金を大量に使うひとがいないのだ。まともな企業は手元資金が厚い状態だけど、新しい投資には積極的でない。というよりも誰もリスクをとってなにかをやろうというマインドではない。結局余ったお金の大半は再びの債権買い等に回っているだけというのが実情だろう。それから借金の返済に当てられているということ。
こういう異常な状態が続いているのに、あいかわらず日々の新聞を筆頭にマスコミ各社がこういう状態を少しも異常とは報道しないようだ。聞かれるのは日本企業が円高につぶされるから緩和しろ緩和しろという報道ばかり。でもそんなその都度の小手先で円高が一時的に収束するようにみえても持続的な効果は限定的だろう。
問題は長期的にドルの低下が明らかなことを認めて、ではどうやって為替に影響を受けにくい体質にしていくか、ドルからの自立(脱却)を模索してゆくかを考えるべきだろう。そのひとつの選択肢にドルに変わるアジアの域内だけで流通するような通貨とかがあってもいいし、商品をふくめたバケット取引とか等々があってもいい。もちろんそれには時間も手間暇もアイディアも必要だ。でもそうした根本的なデザインなしに、もはやその都度の対処療法ではもう限界に来ていると思われる。初期の鳩山首相には多少なりともそんな試みへの意気込みもあったように思う。
そしてそれはまさむねさんが前回の記事で以下に述べたようなことと同じ趣旨にもつながる。
「日本はおそらく黒船来航以来、150年の間に、それまでの共同体社会を徐々に失っていった。家や親族、地域社会は現在ではほぼズタズタとなってしまった。それはある意味しかたのないことであるが、その民族的喪失に替わる新しいシステムが僕らには創れていない、それどころかまだイメージすら見えてすらいない、それが問題なのだ。」
誰だって新しいシステムはたぶんこわい。それから弾かれる人にはなりたくないと考える。自立というとなにか居丈高な感じも強いが、ゆるやかな自立、少しずつの自立、助け合いながらの自立、相互的な自立、弱さをともなった静かな、漸進的な自立こそがこれから模索されるべきなのかもしれない。そうして最終的にはやはり自立した国になるべき。人もそうだろう。そのために何が起きているのか、正確に知ろうとする姿勢だけは開かれているべきだと思う。
よしむね
テレビドラマ »
僕はたまにしか見れないのだが「ゲゲゲの女房」の視聴率がいいらしい。
僕の大雑把な印象だと、ヒロインの布美枝(松下奈緒)は今までのヒロインとは違って、内気だ。茂(向井理)が結構、自分勝手な性格なのだが、彼がやることに対して、何も言えない。時々、思い余って、彼女の感じている不満を茂に話をすると茂は布美枝の気持ちがよくわからない。そして、最終的には布美枝は仕方ないと諦める、みたいな場面が多かったような気がする。
これは、断片によるあくまで印象だが...
でも、この布美枝の、その「しょうがないな」という顔がいいのだ。そして、多くの視聴者にとって自分に置き換えやすい表情なのだ。今まで、多くの朝ドラのヒロインは、「おしん」がその典型だが、自分の価値観を持って、前向きに生きようとしていた。
しかし、今回の「ゲゲゲの女房」の布美枝の「まあいいか」的な、状況に逆らわない身の処し方の方が、現代ではより共感を得たのかもしれない。
さて、このドラマを見ていて思うのは、当時の漫画家という職業の置かれた社会的地位の低さだ。今でこそ、大学にマンガ学部が出来る時代であり、漫画家といえば、うらやましがられる職業の一つだ。
しかし、当時は、一般の人から見ると真っ当な職業とは言えなかったのだろう。布美枝の悩みの何割かはその職業意識から来ているようにも思える。
あまり知られている話ではないが、例えば、マンガの神様、手塚治虫は学歴詐称をしていた。大阪大学医学部出身というのが通称だが、実は、大阪帝国大学附属医学専門部が実際の学歴なのだ。同様に、梶原一輝も、早稲田大学文学部を詐称していた。彼ら、60年代のマンガ関係者にとって、その社会的地位を上げるためにも詐称は必要だったのかもしれない。
ちょっと観点は違うが、力道山が身長詐称をし、野坂昭如が逆学歴詐称(早稲田大学卒業なのに中退と言い張っていた)のも当時の話である。僕は、それらを攻めるよりも、60年代を生き抜いた人々のたくましさを感じざるを得ない。
さて、ゲゲゲの話に戻そう。僕は12年ほど前に、水木しげる先生の妖怪を使った、CD-ROMソフトやロールプレイングゲームを作っていたことがあった。その時、その一枚一枚の絵の力に関心したものだった。人物は個性的なタッチでいわゆるマンガなのだが、その背景の野山や家屋などは本当にリアルなのである。その絵の奥は、日本の民俗社会の奥深さにそのまま通じているような独特の暗さ=恐さを持っている。そこには本当に妖怪が住んでいそうな雰囲気があるのである。
かつて、手塚治虫が、水木しげるに嫉妬して「僕にも妖怪漫画が描ける」と言い張り、「どろろ」を描いたというのは有名な話である。「どろろ」が百鬼丸の人間性回復のドラマと、戦争で両親を失ったどろろを通した反戦という、手塚的ヒューマニズムの枠内の作品であるのに対して、水木の漫画は、どこまでも暗く、それは現実社会と同じようにオチの無い世界であるように僕には思えたのである。
それにしても日本は水木しげるという漫画家がいたおかげで妖怪というものが可視化され、これからも日本人の中で、共通の財産として生き残っていくだろう。それはあまりにも大きな功績だと、僕は思う。
まさむね




