Articles Archive for 10 月 2010
テレビドラマ »
僕は昔から、何故か学園ドラマが好きだ。特に学園祭を舞台にしたドラマが好きだ。
富田靖子主演の「BU・SU」、大林宣彦監督の「青春デンデケデケデケ」、みんな学園祭を舞台に挫折し、そして成長していく。
土曜ドラマの「Q10」、今回はその学園祭の話である。
そして、テーマは「同じ風は二度と吹かない、その中で俺達は生きている...」
クライマックスは、自分に自信の無い女の子がミスコンのクラス代表に選ばれて、ステージの上で歌う「風」をBGMに、登場人物達が内面に抱えている問題を乗り越えようと、それぞれが葛藤するシーンである。
家が貧しくて授業料が払えず、先生から名前を呼んでもらえなかった少年。
その少年を「ヤバイ仕事」に引きもうとしたが、学生時代に活躍した陸上部での思い出に葛藤する先輩。
学生時代に自分のミスで甲子園にいけなかった過去を乗り越えようとする先生。
その他、ルービックキューブをしつづける引きこもりの女の子、ミスコンに出た女の子を好きな男の子、入院している男の子、先生の母親、そしてロボットのQ10に、佐藤健扮する平太...
このドラマが面白いのは、それぞれの人がそれぞれの内面を持って、それぞれに生きているという当たり前のことを描いているからだ。おそらく、観る人によっては、散漫とか詰め込みすぎなどというだろうが、僕はそうは思わない。
よく考えたら、この世界には主人公などいない。それぞれがそれぞれに生きているだけだ。
主人公という発想自体を相対化するテレビドラマ...これはあまりにも個性的だ。
しかし一方で、例えば、さきほど先輩が持ちかけた「ヤバイ仕事」とは何だったのか、とか、結局、ミスコンの結果はどうなったのか、あるいは先生が甲子園に行けなかったミスのシーンなど、ドラマの「正しい」作法に従うのであれば描かれていたであろう場面が小気味よく省略されている。
この詰め込みと省略の作法においても、この「Q10」は決定的に個性的なのである。
個性的なモノには、好き嫌いがつきものだ。
ミスコンに出た自信の無い女の子が兄に、「お前はブスだ」と言われるのを聞いていた同級生の赤い髪のロック少女は言う。
「お兄さんの言うことを信じるの?それとも自分を信じるの?」
そうだ。まさに、これはテレビ業界そのものが抱えるテーマなのかもしれない。つまりこんな風に置き換えることもできるのだ。
「視聴率を信じるの?それとも自分が面白いと思うことを信じるの?」
しかし、テレビ業界だけではない。これは、結局は現代日本という資本主義社会に生きる僕らの問題でもあるのだ。
このドラマの脚本を担当している木皿泉(二人組み)は、50歳代だという。
だからかもしれないが、「Q10」の視線はどこかノスタルジックである。初回には「戦争を知らない子供達」が流れ、今回ははしだのりひことシューベルトの「風」が流された。
おそらく青春という時間は、個々人が、子供から大人になるための時間として、近代以降の世界に生まれたものである。近代以前、子供は共同体における儀式を通して大人になった。しかし、共同体が崩壊した現代、成長の苦悩は、個々人が引き受けなくてはならないものになった。
それこそが青春というものである。
「風」は、その青春というものがいかに、寂しく、しかしかけがいのないものであることを歌った今から40年前の名曲だ。
「同じ風は二度と吹かない、その中で俺達は生きている...」
その曲とドラマの今回のテーマは見事にシンクロする。
それゆえに、僕らの年代には、心に訴えかけてくるドラマである「Q10」だが、現役の高校生にはどのように伝わっているのだろうか。
ちょっと、そんなことを知りたくなるようなドラマである。
まさむね
書評 »
神谷さんの「ゴールドマン・サックス研究」を読んで、前回に続いての感想。神谷さんの指摘にぼくもまったく同感なのだが、たとえば以下のような結論。
① ゼロ金利を続けても意味がない。そこで余ったお金はただ国債やその他債権などの買いに使われているだけで、資金を必要としている民間に回っているのではない(これはいまの世界の金融市場でも同様)
② 長い間のゼロ金利施策によって民間からの収奪(民間貯蓄からの所得移転)が起こっただけ。そのお金の使い道の大半は上記の通りで、あとは銀行等の不良債権処理に使われただけ
③ その結果といえばこの20年間で日本のGDPは470兆円でほとんど変わらず、ただ借金が増えただけ、GDPの2倍の借金になり、元との比較では3倍になった、等々。
じゃどうするかといえば、まず当たり前のところに戻すしかないと思う。適正な金利に戻すこと。その過程でいろんな取捨選択が起こり、振り落としが起こるかもしれない。でもそれは仕方がないと思う。
いま問題なのは一億総助け合い・相互互助的になって共倒れしそうで誰も先頭に行きたがらずリスクもとりたがらず、無責任にみんなで負債の先送りをし続けているとしか思えないことだ。多少リスクをとってでも投資をしたい人はそれを行い、利率を上回るリターンを目指すように頑張る風土にすることは必要だろう。それが健全だと思う。だから例えばただ利息が低いからというような理由で家を買うというのは本来間違っているはず。買える人が買えばいいのだ。そこに冷たいルールがあるとしてもそれは自己責任だから仕方ないだろう。
民主党に多少なりとも期待したことがあったとしたら、そういう当たり前のことに転換する道筋をつけてくれるかもしれない、との思いがぼくなりにあったからだ。でもどうやらそれは徒な期待に終わりそうだ。民主党も所詮は人気取り優先でかつて来た道の按分(富もないのに再配分をやろうということ)をただひた走ろうとしているようだ。
いまがどういう時代で、これからどうなるのかは分からないが、まさむねさんがエントリー記事で言っているように各個人がリア充を図ってゆく時代になるのかもしれない。以下その抜粋。
「例えば、今の若者の間には、「リア充」という言葉がある。それはリアル社会で充実している人々という意味らしいのだが、その充実の要素には決して、出世や物欲などは含まれてはいないという。それよりも、友達と楽しく時を過ごすセンスの方が大事だというのだ。もしそれが、次の時代の日本社会の価値観だとするならば、それはそれで、決して住みにくい世の中ではないのではないか。」
ぼくもそう思う。だが、そういう若者たちが当たり前に暮らせるようにするためにも、せめて負債(借金)の世代間押し付けだけは止めておかないといけないだろう。自分たちが使いたいだけ使って贅沢して、後の借金は君たちが払えというのはあまりにも虫が良すぎると思うからだ。これはわれわれみんなへの自戒。当たり前に貧しくなっていく(お金を切り詰めてゆく)ことに慣れてゆくことも大事だろう、楽しいことは楽しみながら、だ。
よしむね
書評 »
神谷秀樹さんの「ゴールドマン・サックス研究」(文春新書)を読んだ。著者は元ゴールドマン・サックス証券の社員でその後独立して会社経営を行っている方で、その他の著書では「強欲資本主義 ウォール街の自爆」(文春新書)、「強欲資本主義を超えて 17歳からのルネサンス」(ディスカバー携書)などの本もある。いずれも底流で共通している認識は、いわゆるリーマン・ショックに至る一連の金融危機は実業が必要とする以上にお金が溢れてしまった状況(過剰流動性)のなかで、やがてお金がお金のための増殖に向かった結果起こるべくして起こった事件=危機であり、その後なんら本質的な解決がなされないまま次の崩壊に向かっているという苦い認識だと思う。
これは比較的つい最近まで金融に身を置いていたぼく(今はそういう意味では実業に移ったが)も同じくする考え方だ。いわば金融業界が壮大な詐欺まがいのことを行っていたのだが、胴元の張本人たちはその責任をとらず(小粒のリーマンが潰れたりはしたが)、国がいまなお膨大な借金の肩代わりを行い、さらに言えばそのツケを各国の国民が負わされてしまっているという構図。広い意味でギリシャ危機もそうした連鎖の一つだと思う。
そのような結果としてたとえば神谷さんの目に映るアメリカの現状は次のようなものだ。以下本文から抜粋する。
「自動車産業の中心だったデトロイト市では人口が200万人から80万人に激減した。・・一軒家の平均価格が1万5000ドル。それでも買い手が現れない。カリフォルニア州の市には、自前の警察を維持できなくなり、これを廃止し、手数料を支払って隣の市の警察に警察業を請け負ってもらうところも出てきた。ハワイ州ではとうとう学校を週4日制にしなければならないという(最近ぼくは夏休みで行ってきたばかりだ!)。私が住むニュージャージー州でも、校長と教頭と二人居るところは一人にするという発表があった。ごみの収集日も減った。・・・」
これは神谷さんの目に映っている日常茶飯のアメリカの実情だろう。だがこうした実情をめぐる報道は今の日本のメインのニュース番組ではおそらく決して流されることはない。一時住む家を追われてテント暮らしをしているアメリカ人たちの様子をTVで流していた時期もあったが、今はまったく報道されなくなったといっていいだろう。何も終わったわけではないのだが。
ここにはアメリカからの報道当局への無言?の圧力規制やスポンサーの意向などもあるかもしれない。あまりネガティブ報道をしてくれるなといったような・・・。それよりも、喉元を過ぎれば熱さを忘れるで、もう次の成長ネタを探すことに新聞もテレビも興味の主力が移っているように見える。
やれ中国や新興国の需要を取り込め、次の市場と成長に遅れるな、日本が遅れつつあって取り残されてきている、それもこれも構造改革をしないからだ、なんだかんだ、etc.・・・・。特に日経新聞の論調などによると資本市場は一貫して正しく、それに乗り遅れているのは日本がいわゆる古い体質を払拭できず、構造改革を行っていないからだということになるのだろう。
だが、はたしてそうなのだろうか。それよりも論調以前の対応として、上記のような金融に翻弄された結果として当たり前の辛く厳しい生活の実態や事実をまず継続的に報道することからすべては始まるのではないか。そうした事実の提供を受けてそのあとどう考えるかは各自の自由だ。
そのような先ずもって手つかずの報道を行わないとしたら、どこに時事を担うマスコミの本分があるのだろう。いまのマスコミはなにか非常に見えにくい形で上手に統制がとれているようだ。まるで戦時中の大政翼賛会のよう。報道しないということにかけてはどの新聞社もテレビ局も同じように見える。あるいはその逆もある。小沢一郎を叩く時の姿勢などはどれも一様だ。
ぼくが高校生の時にベトナム戦争が収束したのだけど、あの当時のマスコミにはもっと各社各様の報道姿勢の違いがあったように記憶している。政府寄りであろうとなかろうと、いろんな見方の提示があったと思うのだ。なによりも直接現場に行って見て報道しようという姿勢がまだ強く残っていたと思う。
だけど特に湾岸戦争からいわゆる9.11以後、イラク、アフガニスタン紛争にしても肝心のことはまったく報道されなくなったように思う。ニュースソースがCNNやブルームバーグやロイターなどのお抱え通信社?に限られて、どこも独自ルートでの聴取がなくなり、結果「同じ報道」になっているように見えて仕方がない。少なくとも日本が劣化しているというなら、同じようにいやそれ以上に報道とマスコミが劣化しているのだと思う。
TVの番組といえば吉本の芸人を使ったお笑い番組が席巻するかあまり予算のかからない旅番組や料理番組ばかり。新聞記事もいつも同じ市場と成長と構造改革のテーマのくりかえしだ。しかも自由でなければならないマスコミのはずが、まさむねさんも以前指摘していたことだけど、既得権益に守られている自分たちのことはその歪みや問題点としては決して取り上げることはない。だいいちTV局と新聞社が未だに同じ資本系列でつながっているなんてマスコミ本来の役割である中立の視点からいってもあってはならないことだろう。
加えてマスコミの姿勢は起こったことについては過去のこととしてそれ以上考えさせまいとし、たえず目先のこれからばかりに話題をすり替えてゆくだけのように見える。鮮度が大事。それと一斉に同じテーマでの報道という意味では、最近では地球温暖化であり生物多様性ということになる。これも不思議でしょうがない。みんな実際に見て事実の検証をしたわけでもないだろうになぜ同じ報道のテーマになるのだろう。陰謀論は好きではないが、なにか陰でそれを煽りたがる一つの意思が働いているとしか思えない。
現代がますます差別化しにくく金太郎飴的になっているのだとしたら、マスコミもその例外ではない。もっと加速しているとも言える。少なくとも今のマスコミ(TV局や新聞社)はオピニオンを形づくるだけの品位も知性もすでに喪失しているのだと思う。
さらに言えばまさむねさんも以前のエントリー記事で書いていたことだけど、その国の政治とはけっきょく民度以上のものにはならないということにも通じるのかもしれない。けっきょくそういうマスコミになってしまっているのはぼくらの民度がそうさせてしまっているということでもあるのだろうか。とても残念なことだと思う。
よしむね
書評 »
様々なジャンルで達人というのはいるものだ。
高階秀爾氏は今更言うまでもなく、西洋近代絵画に対する造詣の深さに関しては右に出るものがいない達人である。以前にも「キース・ジャレットとブリジット・フォンテーヌ。そして姉貴」というエントリーで書いたことがあるのだが、僕の姉は芸術系の大学院に行っていたのだが、僕が学生の頃に、姉の口から飛び出す高階秀爾や若桑みどりといった名前は、それこそ憧れの的であった。おそらく、当時(70年代後半)から、高階秀爾氏は、そのキリッとした容姿と明快な論理、上品な物言いによって、日本の知的階級の象徴のような存在だったのである。
『誰も知らない「名画の見方」』 (小学館101ビジュアル新書)は、その達人の芸を、僕ら素人に分りやすく解説してくれている絵画鑑賞の入門書である。ただ、それだけの本ではない。
その高階氏はこの本の「はじめに」でこう語る。
多くの作品に接し、互いに比較し、また歴史や背景を探っていくうちに、まるで山道を突然、眺望が開けるように、今まで気づかなかった新しい視点が浮かび上がってくる。それは思いがけない細部の特質であったり、歴史とのつながりや、あるいは画家の仕掛けた密かな企みなど、さまざまだが、そのことに気づいて改めて絵を見直してみると、そこに新たな発見があり、理解が深まり、喜びと感動は倍加する。「絵の見方」というようなものがもしあるとすれば、そのような視点を見出すことに他ならないだろう。
おそらく、このように語る高階氏は、まぎれもなく”おたく(≒オタク)”である。その視線の先に西洋絵画があるか、アニメや漫画があるのかの違いはあるかもしれないが、この本は、僕らの世代の”おたく”にとっても、現代の”オタク”にとっても、こぞって「対象物をいかに深読みすべきか」ということを学ぶための技術論になっているのだ。
これがこの本の凄いところである。
例えば、一番目の『「もっともらしさ」の秘訣』では、フェルメールやベラスケスの絵をとりあげ、彼らにとって、写実というものは、「見たままを描く」のではなく、「写実的に見えるように描く」のだということを解き明かしてゆく。具体的に言えば、フェルメールの「真珠の耳飾の少女」の少女の左の瞳に描かれた「不自然で人為的な」白い点が例にとられている。
高階氏は語る。
そのことによって、瞳はたんに外光に反応する肉体の一器官としての「目」ではなく、内部に精神を宿した「まなざし」となる。そのとき画家は、自分が見た対象としてではなく、画家を見ている「人間」を描くことに成功したのである。
また、こうも語る。
絵を前にしたとき、それが一見、写実的な作品であるならば、その画面にはどこかに画家の工夫が隠されていると思って間違いないだろう。ある画家がどのような工夫を凝らしたのか、そのポイントを見つけるのが、写実絵画を鑑賞する際の醍醐味といえるだろう。
僕は高階氏のこうったロマンチックかつ、冷徹な言い切りが好きだ。
「リアル」に感動するというよりも「リアリティ」の文法を解き明かそうとする高階氏の姿勢は、例えば、プロレスを見るときに、レスラー達の実際の「痛み」に共感する見方ではなく、痛さを伝えるレスラーの技術に納得するという「目利き」の基本姿勢に通じるからだ。
繰り返しになるが、この、ものを見る姿勢(そして技術)こそが、本のテーマであり、それは、極めて優れたおたく(≒オタク)のための”深読み基礎講座”でもあるのだ。
まさむね
歴史・家紋 »
先日の谷中・家紋撮影ツアーで、映画評論家・荻昌弘さんの家紋をはじめて見た。
実は僕は『図説 東京お墓散歩 (ふくろうの本) 工藤 寛正 』という本で荻さんの墓の写真を見て、それがてっきり抱き沢瀉紋だと、ずっと思い込んでしまったのであった。
そして、実際に自分の足で本行寺に行き、実際の目で見たのが、ようやく先日のことなのである。
すると、抱き沢瀉紋だとおもっていた荻さんの家紋は、左のような紋だったのだ。
アチャー!!思い込みというのは恐いもので、誠に恥ずかしながら、『一本気新聞』上では荻さんの家紋をずっと沢瀉紋として紹介してしまっていた。これは明らかに間違いだ。本当に反省しています;;;
それにしても、これは何の家紋だろう。左右にいる十字は鳥のようにも見える。
六枚笹に向い雀か?
取り敢えず、一本気新聞内の「有名人の家紋」では、沢瀉紋のページから暫定的に、一番近そうな竹笹紋のページにデータを移したのだが、なんだかすわりが悪かった。
そこで「家紋の真実」を主宰、日本家紋研究会副会長の高澤等先生に確認したところ、これは、「抱き荻に対い雀」という新紋ではないかとのご指摘をいただいた。
たしかに、荻姓が「荻」を紋にするというは自然である。
それゆえ、”その他紋のページ“に新たに「荻紋」を加えた次第。
それにしても、東京では最近は、「荻」どころかススキもあまり目にしなくなった。
日本の固有の草花もいつのまにか、外来種に押されているという話も聞く。
(「天声人語」風にいえば、)たまには道端の草花に目をやれるような余裕を持ちたいものでもある。
まさむね




