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「魔法少女 まどか☆マギカ」は史上最大級の災いがもたらされた現在だからこそ、残酷に心に突き刺さるのかもしれない。

30 4 月 2011 No Comment

人はそれぞれ、理由も無く、気になるものがあったりする。
例えば、僕にとっては家紋というものが気になる存在だ。現代の多くの日本人が忘れてしまっているあの家紋である。
そして、たまに、その家紋を見るために都内の霊園や寺に足を運ぶ。そうすると妙に落ち着くのだ。
霊園は僕にとってまるでテーマパークのようにいろんな隠された意味の宝庫のように感じられるのである。

さて、僕は最近、Twitter(@dearpludence)にハマってしまっていたせいで、このブログの更新も滞りがちであった。
Twitterでは、いろんな人が刻々といろんなことをつぶやいている。
改めて、個人個人が、一人一人生きているんだなぁということが実感できる。元々、Twitterの創設者は、消防車に乗っている消防員が話している話を聞いてみたかった、そんなシステムを作りたかったというようなことを述べていたが、そんなささやかな夢が世界を変えるほどのツールになってしまったことに僕らは、改めて驚きを禁じえない。

さて、僕が最近、Twitterでよく目にした言葉があった。それはアニメ作品の名前、「魔法少女 まどか☆マギカ」である。
僕はこの歳(51歳)になってそんなアニメの名前が気になるとは思わなかったが、どこかひっかかるところがあったのであろう。
勿論、一般的な知識として、このアニメが2chのスレで過去最高を記録したとか、3.11の震災によって放送が延期され、大きな物議をかもし出したなどということは知らなくもなかった。
しかし、「魔法少女 まどか☆マギカ」に対するひっかかりは、冒頭に書いたように、理由もなく気になった、としか言いようのないものであった。
僕はそっそく、AniTubeというフランス語字幕の日本アニメサイトでそのアニメを見はじめてしまったのである。

正直、衝撃を受けた。
なんだこれは。
一見、いわゆる萌えアニメのように見えたこのアニメは、そんな外見とは全く違う、ハードで、奥深く、衝撃的で、クールな作品であった。

実は、この文章の冒頭で書いた「人はそれぞれ、理由も無く、気になるものがあったりする。」という一節のはこのアニメを見たからこそ出てきた言葉である。
普通に生きているこの世界とパラレルな別世界で、壮絶な闘いが行われていて、その因果として僕らのちょっとした嗜好を持っていると考えたら、なんと豊潤でまばゆい世界観を僕らは持つことが出来るのであろうか。

このアニメの最終回で、女性と女子中学生が河原の土手に座って話をしている。
女性は、女子中学生に向って、そのリボンいいわね。という。そして、もし、自分に娘がいたら、こんなリボンを付けさせていたかもしれないという。(画像は、一人、まどかの記憶を保持するほむらと、まどかの母が、話をするシーン)

しかし、この嗜好の裏にはこんな物語があったのである。
実は、この女性には一人の娘がいた。そして、娘に対して、実際、この女性はリボンを付けさえていたのである。しかし、この娘は、嫉妬や怨念など、この世の邪悪な想念が具現化した「魔女」をこの世に出現させないために、身を賭して「神」となり、永遠に闘うという運命を受け入れていたのである。そして、それがゆえに、娘はこの世の人々の全ての記憶から消えることになってしまったのだ。

女性が赤いリボンが好きという無意識の嗜好は、本来であれば存在していた自分の娘への愛情の痕跡なのだ。

「魔法少女 まどか☆マギカ」が示唆する、この現実の裏に壮大な物語が存在するという世界観は、僕が家紋の裏に壮大なドラマ感じてしまうセンスと、見事にシンクロしてしまった!

さて、僕は日本に、そして日本民族の心の底に流れている壮大な物語は怨念と鎮魂のドラマだと思っている。
日本人は無意識に、怨霊を発生させないように、立ち振る舞う(和の精神)。そして、万が一、発生してしまった怨霊に対しては、人々は、心清らかにして善行を積み、手厚くケアすることによって、その怨霊を御霊にコンバートし、逆に、自分達を守ってもらおうと考える(神道)民族なのである。しかし、御霊もまた逆に怒らせてしまえば、それは負のパワーとなって僕らに災いをもたらす。僕らはそうして想念の力を、あるときは恵みを与える神として、そしてあるときは、災いをもたらす鬼神として扱ってきたのである。
だから、日本の代表的な怨霊、例えば、平将門、菅原道真、崇徳上皇等は、一時は災いをもらたしたが、人々の信仰によって、現在は、神田明神、天神様、そして金毘羅様というような御霊となっていると考えるのである。さらに言えば、靖国の英霊を顕彰しなければならないと考えるのは、それらが怨霊化しないようにするためだと僕は思っている。

僕がこの「魔法少女 まどか☆マギカ」に感じたのは、そういった古来の日本の宗教観と同質なものである。それは、闘い敗れた者たちを理解したり、その想いを汲み取ろうとするというのではなく、どちらかと言えば一方的に鎮魂してしまおうとする残された人々のエゴ、つまり、神化することによって一方的に思いを封殺してしまうという残酷物語がそこに見え隠れするのである。
「まどか☆マドカ」の文脈で言うならば、この世界の僕らはけっしてまどかの気持ち、そして存在すらも分らないで勝手に神として祭るだけということなのである。

もともと、この世を救おうと「魔女」と闘う魔法少女達は、世のためにと思い、闘えば闘うほど、一方で、より大きな恨みを残して死に、別の「魔女」となってしまうという不条理を生きる存在であった。しかも、彼女達の闘いは決して他者からは評価されないという絶望も抱えてしまうのだ。
その運命を知った彼女達は、希望を持てば持つほど、絶望も深くなってしまうという因果。
そして、その絶望の深さをエネルギー転化させることを使命とするインキュベーターのきゅうべぇは憎らしいほど、常に冷静だ。
それは、まるで、現在(2011年4月末日)を生きる日本人全てが、現実として心のどこかで持たざるをえない絶望と希望、そしてその連鎖を「食べる」ことによって肥大していく冷徹な最新の資本主義の残酷物語ともシンクロしているように思われる。

他者からの承認欲求(コミュニケーション欲求)は決して満たされることがないにも関わらず持たざるを得ない僕ら、そして、その弱みに付け込んでくる最新のテクノロジーと資本主義の残酷物語...

この因果を全て受け入れ、許し、癒すことによって「魔女」を鎮魂しようとした少女・まどかと、それを取り巻く、魔法少女達の物語「魔法少女 まどか☆マギカ」は、僕らに史上最大級の災いがもたらされ、本当の絆が希求されている現在でもまだ、いやそんな現在だからこそ、残酷に心に突き刺さるのかもしれない。(画像は魔女の呪いによって瓦礫と化した街にたたずみ、一人、闘いを決意するまどか)

まさむね

尚、アニメを見ている間、Twitter上で僕のしつこいほどの質問に答え続け、アニメに関する知識を教えてくれた、がんまさんすがりさんにはこの場を借りてお礼をいいたいと思います。ありがとうございました。

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