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Articles Archive for 5 月 2011

歴史・家紋 »

[24 5 月 2011 | 4 Comments | | ]

つい最近まで僕は何故、新撰組に人気があるのかよくわからなかった。
勿論、表面的には、戦後の子母澤寛や司馬遼太郎などの大衆歴史小説ブーム、2004年の大河ドラマ「新撰組」による世間的な流行、そして「薄桜鬼」に代表されるような、隠し味としてのBLをはらんだ腐女子文化としての新撰組ブームという流れがあるのは確かだ。
しかし、それでも尚、僕は新撰組に「?」を付けざるを得なかったのである。
というのも、歴史を大きな流れとしてみた場合、残念ながら新撰組はその流れに乗った存在とはいえないからである。いや、むしろそうした流れに対する抵抗勢力だったからである。
そこが、織田信長や坂本龍馬、源義経といったその他の明るい人気者とは違うところだ。
思えば、庄内藩郷士の野心家・清河八郎が半ば幕府をだまして、作った浪士組が新撰組の元となる。(左は清河八郎の藤巴紋)
実は清河自身は尊皇攘夷を果たすための組織を作りたかったのである。しかし、歴史の流れは思わぬ方向に、浪士達を流していく。
公募によって集められた男達は、尊皇攘夷の嵐が吹きまくる京都の町で、逆に、尊皇攘夷の志士達を弾圧する側の組織として生まれ変わるのである。ようするに最初からある種の捻れをはらんでいたのだ。
まことに大雑把で恐縮だが、これが新撰組の誕生譚である。
そして、この新撰組はその後、いくつかの、残虐な内紛(粛清)を経て、結局は近藤勇、土方歳三といった現在でいうところの東京都多摩地区出身の農民達が実権を握っていく。(右は近藤勇の丸に三つ引両紋)
彼らは将軍のお膝元の多摩地区で、武士ではないが、逆にだからこそ、より武士的に振舞おうとした「純粋な魂」であった。
あの司馬遼太郎も、彼らについてはこう言っている。
近藤と土方、この二人は出身についての劣等感があっただけに必要以上に士道的な美意識を持っていた。そして、両人ともその最期はみごとだった。武士にあこがれたかれらは、事実、日本最後の武士として、武士らしく死んだ。男として、やはり幸福な生涯だったといえる。
たしかに、そうだ。いわゆる直参、旗本といった幕府の家来達が軒並み、時勢を読み、なし崩しに幕府に見切りをつけていった中で、新撰組の浪士達は、最後まで戦い抜いたのである。おそらく、多くの幕臣や江戸の庶民達は、新政府の手前、おおっぴらには新撰組を懐かしんだり、褒め称えたりはできなかったとはいえ、心のどこかにこの愚直な集団に対して敬意を持ち続けていた。
明治に入ってからも、芝居や講談などの上とは言え、新撰組は一定の人気を持ち続けていたのである。(左は土方歳三の左三つ巴紋)
しかし、僕はこの新撰組に対する江戸の人々のスタンスは、ただの人気だけではない、どこか、平将門に対する関東の農民達と共通の想いを感じるのである。
思えば、平将門の最期の決戦において、集まるはずだった農民義勇兵たちは、自らが朝敵となることを恐れ、将門の呼び方を無視し、集まることなく、結局は、彼を見殺しにしてしまったのだ。
僕は将門が関東一円の怨霊となった一番の原因は、そういった関東の民が抱いた集団的裏切りによる後ろめたさにあったのではないかと思っている。そして、その後ろめたさが、今でも尚、将門が関東の守護神(神田明神)として、そして人気者として生き続けることの背景にあると思っているのである。
そして、おそらく、新撰組に対する不思議な人気の心底にも、それと似た後ろめたさがあるのではないかと、僕は考えている。
おそらく、僕らは、いまだにどこかで新撰組の御霊を恐れているのかもしれないのである。
まさむね

書評 »

[23 5 月 2011 | 8 Comments | | ]

出版業界が危機だという話をよく耳にする。若者の活字離れとか、出版点数の増加が逆に出版社の首を絞めているとか。
しかも、出版業界の切り札的存在であったマンガからも段々読者が離れているという話もある。
1990年代の中ごろからマンガ雑誌の売上げが落ちているかと思えば、ゼロ年代には単行本の売上げも落ちている。
このままだと日本の数少ない輸出できるコンテンツが枯渇してしまうのではないかとの声もある。
そういえば、最近、電車の中でもマンガ雑誌を手にしている人が少なくなった。このまま日本のマンガ業界は本当に衰退してしまうのであろうか。
さて、そんな日本のマンガを産業として捉え、その歴史を探りながら、衰退の原因を探っていこうという一つの試みが「マンガ産業論」である。
しかし、僕はこの本を読んで、興味を抱いたのは、そんな客観的なマンガ史のところよりも、逆に何故、日本にだけマンガ文化が花開いたのかという、その日本独自の歴史に関してであった。
よくよく考えてみればそうである。この「マンガ産業論」の冒頭の「大人がマンガを読む不思議な国」にも書かれているが、何故、日本にだけマンガが全世代にわたって根付いているのかという点は、意外に解明されていない謎なのである。
勿論、この本にもそのあたりの分析はされている。時は1960年代の末頃の話だ。それまでは、日本も諸外国と同様に、マンガは子供が読む物だった。しかし、この時期から徐々にマンガは大人も読むものになっていったという。
その理由はこうだ。
60年代に、それまで親が買い与えていたマンガを子供が自ら購入するようになったこと、つまり、彼らが「読者」から「消費者」になったことだというのである。
それは、経済成長とともに、彼らの”懐”が豊かになっていったことが第一。そして第二に、その時期にちょうど家族関係が変質し、大人が子供のしつけや教育に直接手が回らなくなったということ。この2点によって、マンガが小学生から、中高生、そして大学生の娯楽として発展したというのだ。
こんな簡単に、子供と大人の壁はいとも簡単に崩れてしまったということなのだろうか。
それにしても、いとも簡単といえば、戦後日本はいとも簡単に大人が折れる国でもある。子供に甘いという言い方もあるかもしれないが逆に、子供のしつけに関して大人のイデオロギーが脆弱すぎるということもあるような気がする。先日、JUN LEMONさんが主催する「THE BEATLES PARTY」に参加させていただいたのだが、そこで、ビートルズ来日当時の頑固親父VSビートルズファンの若い女性達の討論のフィルムを見る機会をいただいた。
そこでは当時の頑固親父達(細川隆元?)は、ただ、「そんな音楽を聴いていると頭が変になる」的な理論とも言えないような偏見に満ちた言葉しか言えていなかった。これでは駄目だ。
いまとなっては、全く説得力が無い。これが当時のご意見番だとしたら、寒いの一言である。案の定、現在ではそんなことを言うような大人は絶滅した。
これは、戦後、日本人は大人の理論というのを持っていなかったことの一つの証拠ではないのか。
さて、話をマンガに戻す。
実は、僕は「マンガ産業論」で言われている日本人は大人もマンガ文化を受容している背景には、日本のオリジナルな歴史があるのではないかと考えている。それは子供に対して寛容な文化だったり、絵画に対するアニミスティックな感性だったり、理性的に物事を考えることを抑圧する共同体自体の同調圧力だったり、個人の一貫した個性よりも多様なキャラの個性を重視する文化だったり、真実に対する曖昧な対応だったり、そういったものが渾然一体となってマンガ文化の背景にあるような気もしているのである。
そして、昨今のグローバル化の流れの中で、苛烈な資本主義社会が全世界を覆う状況で、この未成熟さへの寛容が全世界の若者のある種、避難場所となっているという指摘もある。
これからが、日本のマンガ文化=オタク文化が世界に貢献できるかもしれないときなのに、一方でささやかれている日本マンガの衰退という話は大変、もったいない。
まさむね

芸能, J-POP »

[11 5 月 2011 | 10 Comments | | ]

最近ももいろクローバーのことばかり考えている(4月10日にももいろクローバーZに改名)。
残念ながらまだ生の現場は体験していないが、毎日Youtubeやニコニコ動画でももクロの動画を探したり、DVDを見直したりしている。
DVDとは『ももいろクリスマス in 日本青年館~脱皮:脱皮~』。2010年12月24日(クリスマスイブ!)に開催されたももいろクローバー初の単独ホール公演を収めたものだ。
以下、そのDVDの内容を紹介しながら、ももいろクローバーの魅力のほんの一部を語りたい。
1曲目は「走れ!」。2010年5月5日に発売された、ももいろクローバーの代表的なCD「行くぜっ!怪盗少女」のカップリング曲だ。

白い幕の向こう側で歌う6人の姿のシルエットが見える。
全員のユニゾンによるリフレインから始まる。
笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ! 走れ! 走れ!
軽快なテンポに急きたてられ、何かをしよう!という衝動が湧き起こってくる曲だ。
おかしい。音痴な声が混じっている。
白い幕が落ちる。6人が姿を現し、進み出る。
テンションの高いエレクトロニカなサウンドが響き渡り、観衆がリズムに乗って叫ぶ。
最初のソロは高城れにからだ。シンボルカラーは紫。最年長の高校2年生、17歳(以下年齢はすべて公演当時)。
れに、歌えてない。音がとれていない。音痴の犯人は彼女だった。
どうした!トラブルか!
れにの顔を見ると、なんと泣いている‥‥。
なぜいきなりオープニングから泣いてしまっているのか。歌えないほどとは、並大抵の泣き方ではない。
ボーナスDVDに開演直前の彼女たちの様子が収められている。実はすでに全員泣いてしまっていたのだ。もうこのままステージに向かうしかない。
「泣いてもいいんだよね?」「問題ないよ。」というやりとりがあった。
2008年に結成し、代々木公園でのストリートライブから活動を初め、全国の電気店やショッピングモールを回り、地道なライブを積み重ねて実力をつけ、ファンを増やしていったももいろクローバーは、この日にとうとう初の単独ホール公演にたどり着いた。ここに1300人もファンが集まってくれた。
感激と感謝と緊張が彼女たちの感情を揺さぶって、涙が止まらないのだ。そのままの状態で、全員あの白い幕の後ろで歌い出していたのだ。
最年長でありながら精神的には不安定さが垣間見える不思議少女高城れには、声に感情が現れやすい。
Youtubeに、2009年11月とある小さな会場でシングルCD「未来へススメ!」がオリコンデイリーランキングで初めてベストテンに入った知らせを受けた(6位)彼女たちの様子を収めた動画があった。感激のあまり高城れにが激しく泣きじゃくり、もはやちょっと普通でないような状態だ。
「走れ!」のソロパートでの高城れにの緊急事態に気づいたファンたちが、彼女を支えなければならない、といっせいに叫んだ。
「れにちゃーん!」
もうみんな泣いていた。それを知ったファンたちも、そして後日DVDで見ている僕たちも。
次のソロは佐々木彩夏(あやか)。あーりん。シンボルカラーはピンク。目から涙があふれている。でもしっかり笑顔だ。
ファンたちは声を合わせて繰り返し叫ぶ。
「あーりん!あーりん!あーりん!あーりん!」
あーりんは無事に歌えた。
あーりんはグループ最年少の中学2年生の14歳だ。「ももクロのアイドル」と自称している。
アイドルグループになぜ「アイドル」がいるのか。メタアイドルなのだ。
アイドルアイドルして、表情や口調に媚をたっぷり含ませる。計算している。
計算できるのは、大人びているから。
早見あかりを除けば、いちばん精神的に安定感があるように見受けられる。イベントやライブで暴走しがちなメンバーたちを冷静に観察してペースを保つ役割を自認しているようだ。次期クールビューティ候補?
3人目のソロは百田夏菜子(ももた かなこ)。シンボルカラーは赤。高校1年生。16歳。リーダーだ。もちろん目に涙はあふれている。だが、力強い歌声。
ファンたちも支える。
「かなこー↑↑かなこー↑↑」
「かな」のあと「こ」を低いところからずりあげて伸ばす。おなじみのコール。デビューからずっとファンたちが叫んでくれた、いつものコール。これはきつい。かなこはうれしさのあまり、号泣しそうになる。でも耐えてソロパートを歌い切った。
そしてリフレイン。
腕を強く振りながら歌う。
高城れにだけ、動きが激しすぎて同じ振り付けに見えない。「紫が激しい」。これもももいろクローバーの見所。
続いて間奏。
リーダーのかなこが叫ぶ。
「みんなー!ついに幕が開けたよ!」
そしてサブリーダーの早見あかりが叫ぶ。
「楽しんでいきますよー!」
喉から搾り出したような絶叫。激情のこもった泣き声まじり。
早見あかりは高校1年生の15歳。シンボルカラーは青。ステージやイベント出演ではしばしばMCも担当。「クールビューティ」を自称して、冷静に舞台を仕切る。彫りの深い端正な顔立ち。身長も高くてまるでモデルか女優さん。日本のアイドルグループの中ではちょっと浮いた存在かも。
彼女はこのコンサートの翌月にグループからの脱退を宣言する。そして、2011年4月10日のコンサートを最後に脱退した。クリスマスコンサートの時点では、まだだれもこの未来を知らない。メンバーもファンたちも。
早見あかり自身はクリスマスコンサートの時点でもう決意していたのだろうか。
僕は未来を知ってからDVDを見たことになる。
間奏でのあかりの絶叫に、悲壮な決意を感じてしまった。
間奏のあとは有安杏果(ありやす ももか)のソロ。高校1年生15歳。シンボルカラーは緑。「小さな巨人」を自称している。さすが素晴らしい安定感。豊かな声量の独特なハスキーボイスと力強いハイトーンをもっている。しばしばレパートリーの最大の難所を任される。
1980年代に活躍したアメリカの女性バンド、バングルスのスザンナ・ホフスを連想するような、個性的で魅力的な声だ。
バングルスではスザンナがリードボーカルをとり、ほかのメンバーがコーラスで支える。個性的な声をグループの武器にするなら当然この布陣を採用するはず。黒人女性グループ、ザ・スプリームスも個性的な声のダイアナ・ロスをメインにしてヒットを飛ばした。
ももかの声とテクニックを生かすなら、彼女をセンターにしたグループにすべきだろう。
だがそうしないのが、ももクロの凄さ。基本の布陣はかなこ(赤)のセンター。そして1曲の中で次々とポジションチェンジしてソロパートを受け渡す。ももかの順番を待って圧倒されるのが楽しみになる。
ちなみにバングルスもスプリームスも個性的な声のリードシンガーはその後ソロとして独立してしまった。
かなこの2回目のソロに続いて高城れにの2回目のソロ。彼女の持ち味であるやさしさのこもった美しい歌声を取り戻すことができた。
続くソロは玉井詩織(たまい しおり)。中学3年生、15歳。シンボルカラーは黄。「みんなの妹」を自称している。年齢はあーりんよりも上だが、泣き虫で怖がりだという証言がいろんな資料で見受けられる。今も明らかに涙をぼろぼろと流しながら歌っている。
風貌や口調に幼さが混じっているしおりんはアイドルの「かわいさ」を完全に体現している。あーりんのようなメタレベルではないしおりんの本物の「かわいさ」は、ももクロの武器だ。だが「妹」らしからぬ長い手足と高い身体能力も有する。アクロバットまがいの振り付けもこなせる。「しおりん!」という声援に助けられて歌いきった。
アクロバットまがいの振り付けがももクロを有名にした。
「行くぜっ!怪盗少女」の間奏で前転側転を繰り出し、きわめつけはかなこ(赤)のエビ反りジャンプ! ジャンプしながら腕と頭を後方に反り返し、同時に両足を後方に蹴り上げる。横からみるとCの字?いやαだ。頭よりも足が上に行っている! しかも異常に高く跳んでいる。
新体操経験のあるかなこを筆頭に全員類まれな身体能力を有している超アイドルグループなのだ、ももクロは。
もっともこの「走れ!」にはアクロバティックな振り付けは与えられていない。強い思いを全身で表現しようとするような振り付けだ。
この歌の一人称は「僕」。胸に秘めている「キミ」への思いを伝えようと決意している歌だ。
動き出して 僕の体 走れ!走れ!走れ!
自分を励まし、勇気を振り絞り、自分を行動へと駆り立てる瞬間の心の動きが歌われている。
くじけそうになったとき、僕はこの歌を口ずさむつもりだ、
リフレインのあと、別の展開に進む。
3人と3人、ふたつのグループに分かれる。
ももか(緑)、あーりん(ピンク)、しおりん(黄色)の3人。
あかり(青)、れに(紫)、かなこ(赤)の3人。
3人ずつ交互に客席に向かって歩み寄りながら、1フレーズずつ歌う。花いちもんめスタイル。
まるでラップのような畳みかける早口。
ももかグループの甲高い声に対して、あかりグループは1オクターブ低い声。
あかりの声域はとくにもともと低く、ももかのハイトーンと対照的。
多くのレパートリーでは、ラップパートでその声の魅力が生かされている。
この畳み掛け合戦で決意に揺らぎがあることが表現される。
一度きりの
人生だから
キミの前じゃ素直でいたいんだ
そのあとリズムが消え、静けさの中でかなこ(赤)が歌い上げる。
それでも答えは出せないよ 少しの言葉出せないよ
「君が好き」 それだけで世界を変える?変わる?
世界は変わるか? かなこ(赤)はこう問いかける。
目は真正面を力強く見つめている。この目は勝負を挑んでいるみたいだ。
ももクロは戦っている。アイドル戦国時代を。
今は、AKB48を筆頭に無数のアイドルグループたちが群雄割拠している時代なのだそうだ。
ももクロは「天下統一する」と宣言して、路上ライブからのし上がった。
2009年の夏は、ワゴン車で毎日全国を旅して、イベントをこなした。
車中泊もした。あのときは家に帰れなくて本当につらかったと述懐するほどだ。
K1グランプリの幕間にリングで歌とダンスを披露したり、ぜんぜん畑ちがいのロックバンドとの対バンイベントに出たこともある。
そんな試練も乗り越えた。
でも本当の敵はだれ?
それは試練を設定している所属事務所なのではないか。大人たちなのではないか? 彼らが「逆境」を用意して、それを乗り越え成長する姿を見たがっているのだ。
TBSラジオ「小島慶子のキラキラ」で吉田豪氏が分析していた。
彼によると、ももクロの所属事務所スターダストプロモーションのマネージャー川上氏は、アイドルのことは分からないがプロレスはわかる、とプロレスの興行の手法をアイドルのプロモーションに取り入れたのだそうだ。団体や選手間の抗争のようにアイドルグループ間の抗争を設定し、勝利していくストーリー。
その設定に翻弄されて辛い目にあっているのかもしれない。だが、ももクロはか弱き犠牲者ではない。だって「アイドル」は彼女たち自身が望んだ道なのだから。
「逆境こそがチャンスだぜ 雨も嵐も さあ来い さあ来い 体を張りまくり」とももクロは「ピンキージョーンズ」で歌っている。
どの曲にも全力を尽くし、体力の限界まで強く大きく跳ねて回って、時にはノンストップで何曲も踊り歌う。息が上がりながらも歌う。
でも笑う。ぜいぜいしながら笑う。泣きながらも笑う。
自分が望んだ道だ。試練ならすべて引き受けてやる。つらい? だからこそ楽しい。
「君が好き」 それだけで世界を変える?変わる?
そう世界は変わるのだ。
あらゆる問いに「YES」と答える。
それがももクロだ!
音楽が上に移調する。レベルアップ? 何度も繰り返されたあのリフレインが最後に全員で歌われる。
笑顔が止まらない! 踊るココロ止まらない!
動き出すよ 君の元へ 走れ!走れ!走れ!
今はまだ勇気が足りない! 少しのきっかけが足りない!
動き出して 僕の体 走れ!走れ!走れ!
じつに
関連エントリー:2011.12.13 ももいろクローバーZの使命

漫画・アニメ »

[10 5 月 2011 | No Comment | | ]

日本は、今まで何度か、大きな歴史的転換を経験してきている。
古代豪族による連合制から、律令国家へ...
律令国家から武家国家へ...
武家国家から、明治官僚制国家へ...
官僚制国家から、戦後民主主義国家へ...
まぁ、大雑把に言えばこれらが大きな節目なのであろう。
そして、現在も、また大きな歴史のうねりの時期にあるとも言われている。しかし、その渦中にいる僕らは残念なことに、日本はこれから一体どちらの方向に行くのかはわからない。
超越的な神の視点のみがその決着を知っているということなのだろうか。
おそらく、僕らに出来ることは日々の生活を、その人らしく生きることである。
さて、現在の僕の課題は、アニメ修行である。この歳になって何をやっているのかという自問自答はあるものの、今まで知らなかった世界を垣間見るというのは楽しい。
さすがに、アニメは日本が誇る文化だ。深入りすれば、するだけ奥が深いのである。
さて、その神の視点という話である。
僕が今まで観た作品の中には、たまたまなのかもしれないが、神になった少女というモチーフがいくつか登場していた。
一つは、「魔法少女まどか☆マギカ」における「まどか」であり、もう一つは「フラクタル」における「フリュネ+ネッサ」である。
この二人の神を比較すると、まどかは、別世界において嫉妬、憎しみなどの邪悪なものと闘い続けることを決意し、ある意味、人身御供となることによって神となる。
そして、「フリュネ+ネッサ」の元となった少女は、彼女と父親の「ゆがんだ関係」ゆえに世界の鍵(つまり神)となるのだ。
(実は、この「フラクタル」の世界の鍵というのが僕はいまひとつスッキリとは理解し切れていないのココ突っ込まれると少し辛い。ご容赦!)
僕は先ほどの日本の歴史的転換を改めて考えるとき、その転換点において、実は上記二つのアニメの神概念と似た神が生まれていたことに気づく。今日のエントリーはそんな僕の妄想に近い話である。
一人目の神は、平安時代末における公家社会→武家社会への転換点における皇室におけるゆがんだ関係によって生み出された崇徳上皇である。
この崇徳上皇は、鳥羽上皇の第一皇子であるが、実は、鳥羽上皇のお爺さんである白河上皇の隠し子であるといううわさがあったのだ。
鎌倉時代に公家によって記された「古事談」という書物にのみ、記録されているため、真偽のほどは確かではないと言われているが、鳥羽上皇は、自分の子供(崇徳上皇)のことを叔父子と呼んでいたという。
そして、鳥羽上皇は崇徳を何かと疎んじる。白河上皇が存命の時は、その威光によって、崇徳を天皇にすえるのであるが、白河上皇が亡くなるとすぐに崇徳を譲位させ、別腹の近衛を天皇にするのである。しかし、その近衛も夭折し、結局は崇徳と同腹の後白河に天皇の座は移動する。
さらに、崇徳と後白河の争いは保元の乱へと展開していき、敗れた崇徳は讃岐に流され、日本第一の祟り神となるのである。
そして、この祟り文句が、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」だったという。
皇室におけるゆがんだ関係が生み出した「神」が次の武家社会を生み出した鍵となっているというところに、僕は「フラクタル」におけるフリュネの親子関係とのアナロジーを見るのである。
次に二番目の神は、武家社会が、明治天皇官僚国家になるときに生み出されたもう一人の神である。
それこそ、言わずと知れた西郷隆盛である。西郷は、己の活躍によって、武家社会を幕を閉じ、明治維新を成し遂げる立役者の一人となるわけであるが、時代の要請に従ったとは言え、一介の下級武士が天下国家を動かすほどの活躍をするという奇跡を実現するのだ。
しかし、事はそれほど簡単ではない。それまではある意味、既得権益集団であった武士が、ある日、突然、その特権を無くし、それまで蔑んでいた庶民と同じ階級にされてしまったのである。
それは、例えば、現代における特権階級である官僚の天下り廃止とは比較にならないくらいに厳しく重い、歴史的転換だったはずである。
しかし、ここで立ち上がったのが、実は無難にやっていればその後も国家の中枢として重んじられていたであろう西郷隆盛であった。
彼は征韓論が棄却されると、下野し、故郷の薩摩へ戻る。そして西南戦争の首領に担ぎ上げられて、最後は自刃するのである。
僕は、この西郷の一連の行動は、残り火のようにくすぶる武士階級の未練、怨念、嫉妬などの感情を彼一人で引き受け、その終焉を、日本国全土の武士階級に納得させるための決死のパフォーマンスだったと考えている。
ちなみに、同じパフォーマンスと言っても、現在の首相における謝罪パフォーマンスなどとは一段も二段も三段も違うレベルのものだ。
さて、西郷はこうして、武士階級全体の人身御供となり、神になり、明治政府の礎となったである。実際、西郷隆盛は、鹿児島の南洲神社に神として祭られており、山形の酒田、宮崎の都城などにも分社分祀されている。
これは僕の想像であるが、もしかしたら、あの西南戦争の後も、西郷はあの世で、人々の邪悪な想念と戦い続けたのではないか。
そして、その姿は、僕をして、この世とは別次元での「まどか」の永遠の闘いを連想させるのである。
「フラクタル」と「魔法少女」のそれぞれの神とどこか似ている崇徳上皇と西郷隆盛が、次の世の礎となり、日本史を動かしてきたとすれば、現在の日本の混迷を抜け出すための新しい神はどんなタイプのものだろうか。
僕は、さらにアニメの想像力に期待してみたいと思うのである。
まさむね
魔法少女 まどか☆マギカ 関連エントリー
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この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

漫画・アニメ »

[8 5 月 2011 | No Comment | | ]

自分のアニメの導師であるすがりさん(現在はTwitterは離脱中)に教えていただいたニコ生PLANETS増刊号 ?徹底評論「魔法少女まどか☆マ?ギカ」 という対談で、評論家の宇野常寛氏が「魔法少女まどか☆マギカ」との対比で語っていた「フラクタル」に興味を持ち、思い切って全話11話を観てしまった。
「魔法少女まどか☆マギカ」「マイマイ新子と千年の魔法」に続いて、僕のアニメ体験、第三弾である。
では、この作品は一体どんな作品なのだろうか。
宇野氏は、「魔法少女まどか☆マギカ」がゼロ年代アニメが提示したさまざまな要素(戦闘美少女、セカイ系、ループ系、空気系など)の総決算であり、そうすることによってその次の可能性を見せんとした作品であったのに対して、「フラクタル」は宮崎駿の劣化版と酷評しつつ、逆に、京アニ系アニメ(ハルビ、ケイオン等)に代表されるゼロ年代アニメをぶっ壊し、80年代に戻そうとした野心作という見方をしている。
残念ながら、ここで宇野氏が言っている80年代というのがどういう意味なのかに関しては、若干疑問は残るものの、80年代に20代だった僕には気になるフレーズだ。
また、冒頭でご紹介させていただいたすがりさんも、同様に「フラクタル」の作品としての弱さ(ドラマツルギーの不完全さ、次回へのフックの弱さ、物語の目的設定の不在など)を指摘されていて、作品としての批判を浴びることはいた仕方ないとしつつも、逆に、このグダグダなところが、結果として”現代の日本を取り巻くどうしようもなさ”を反映しているという点で評価されていた。
ようするに、狙いはいいがツメが甘いということだろうか、とりあえず、僕は観てみる事にした。
この作品が描いているのは、遠い未来(30世紀以降)の世界だ。その世界では、フラクタルシステムという擬似現実システムが人間を支配している。
人々は、このシステムのおかげで、労働から解放され、究極的な個人主義的快適生活を送っていた。
しかし、この肥大化したシステムは、長年の稼動でエントロピーが増大し、ところどころでボロが出ている。
物語は、一人の美少女・フリュネが、クレインという一人暮しの少年の家に紛れ込んでくるところから始まる。
そして、彼女は、綺麗なブローチを置いてどこかへ行ってしまう。そして、残されたブローチには、ネッサというドッペル(この時代に多くの人が持っている分身)の少女が隠されていた...
ここで、いわゆるボーイ・ミーツ・ガールスがこの話の背骨であることが冒頭で予想されるのだ。
そして、物語はこの少年が、この少女達と関わりながら、このフラクタルシステムを破壊しようとするロストミレニアムといわれる一族(グラニッツ一家)や、このシステムを守ろうとする組織=僧院というような組織の人々との争いの巻き込まれながら、この世界の真実に迫っていくという冒険譚である。実は、このフリュネとネッサという二人の少女は、そのフラクタルシステムを再起動するための秘密を握っていたのだ。つまり、二人は世界の謎と直結する存在なのであった。
これは、先ほど述べたボーイミーツガールの構造と並ぶ、この物語のもう一つの背骨である。
そして、この謎の少女達と、普通の男子の関係性の物語であるという意味で、「フラクタル」は典型的なセカイ系物語とも言えるのだろう...か。
そして、宇野氏が、この「フラクタル」を80年代回帰の物語だというのは、いわゆるこの物語が、二つの異なる価値観を持つ集団同士の戦いを描いているという意味であろうか。
つまり、物語を、80年代という資本主義と共産主義がこの世界の支配権を賭けて闘っていた時代の物語構造に回帰させるということなのだろうか。
しかし、最終回で、その闘争の物語だったはずの設定自体が強引に無化されてしまう。僕はこれほど、急展開を見せるドラマはそれほど経験したことはない。
ここまでずっと命を賭けて僧院と闘ってきたグラニッツ一家のリーダー・スンダは、闘いに勝ったとしてもその後の世界はどうなるのかに関して、「よくわからない」と、唐突に言うのだ。
そして、「自分の信じる道をすすんできた。」だけだというのである。
また、その後のシーンでは、一家の長老の大爺が、こうつぶやく。「ロストミレニアムはな。フラクタルシステムを破壊するために生まれたんじゃない。人間が自由で本当に人間だったときのその面影をこれから先の世界に受け継いでいくためだ。」
ということは、闘いの目的は、「相手を倒す」のではなく、「本当の人間になるため」だった、つまり一族の内的な動機だったということである。
これでは、僧院×ロストミレニアムの闘いが、終わりなき日常で、自分探しを続ける90年代以降のモチベーションに収斂されてしまうということのではないだろうか。
もしかしたら、この闘いの真のモチベーションのナイーブさをして、宇野氏は「フラクタル」を酷評したのだろうか。
あるいは、80年代・ジブリの名作「天空の城ラピュタ」の落下ファンタジーを継承しこそなった点を指して「フラクタル」が宮崎駿の劣化版と言ったのかもしれない。
(この点に関しては、Twitter上で、もう一人の導師・がんまさんから示唆をいただいた。実は、私は「ラピュタ」も観ていない。今後、僕の修行は続きます...)
そういえば、「まどか☆マギカ」でも最終回でHOMURAが落下していた。日本アニメにおける落下少女の系譜というのがあるのだろうか。
そして、次のシーンでフリュネの口から、この世界の秘密が暴かれるのである。これがさらに衝撃的だ。
それは、実は、このフラクタルシステムを再起動するための「鍵」のモデルとなったのは、おそらく現代(21世紀)に生きる一見、普通の女子高生であったということである。
ところが、その娘は、「愛」を知っていたというのである。それではこの「愛」とは一体何か。
その秘密が、ネッサの記憶の中に保存されていた映像で明かされる。その女子高校生が、自分の妄想の中で、ぬいぐるみをもう一人の自分として魂を投影するほど大事にしていたことが映像として、映し出されるのである。
そして、その映像はパパからの呼び出しで切れる。
おそらく、この突然の切断は、女子高生と父親との間におぞましい関係があったことが示唆されている。
彼女はこう言うのである。「パパに怒られちゃうし、お仕置きはいやだわ、ちょっと気持ち悪いんだもの。」
また、実は、それより前のシーンで、以前から訳ありの過去を想像させるかのようにフリュネに執拗にからむ、醜悪な父親がフリュネにナイフで刺されるというシーンもある。
しかも、その父親の妻は、成長した後のフリュネ(の一人)だという。ということは...
そして、その娘は、そんなおぞましい「愛」に対する拒絶反応から、そんな関係が始まる前の10歳の時の「無垢な魂」をぬいぐるみに託すことによって、無意識の自己防衛本能で自分の精神を守っていたのである。
そして、フリュネはその映像に映し出された女子高校生に対して「彼女は、こんなにゆがんだ世界を受け止めてあんなに笑っていられた。」と、肉体16歳でありながら、10歳の魂を持つ少女を悲しいまなざしで見つめるのである。
しかし、よく考えてみれば、そんな彼女だからこそ、「神」になれたのかもしれない。「魔法少女まどか☆マギカ」におけるまどかが自分の意思で、ある意味、ストレートに「神」になったことと比べると、逆に、より複雑で、「神」的とも言えるかもしれない。例えば、ギリシャ神話における神々の婚姻関係を、そして「古事記」においても、僕ら日本人のもととなるイザナミとイザナギや、アマテラスとスサノウの兄妹関係などを見てもわかるように、「神」になるためには、そうしたおぞましさを通過しなければならないのかもしれないのである。
その意味で、このアニメを最後まで見て感じるのは、そういえば、最初からフリュネやネッサは神出鬼没という意味で、神の要素を備えていたということ。そして、ネッサが飛行船の中でいなくなった時に、みんなが踊って、呼び出そうとするところなどの、天岩戸伝説をも彷彿させる演出にもそれなりの意味があったということか。
そして、場面は変わり、あれから一年後、グラニッツ一家は以前と変わらず、自給自足の生活を送っている。
それは、新たにフラクタルシステムが再起動した後の世界である。ここでは世界のシステムはさらに強固となり、おそらく、その中で暮らす人々は今まで通り、終わりなき日常を生き続ける。また、一方には、まるでアーミッシュのように、そのシステムの全く外で暮らす人々(ロストミレニアム)がいる。つまり、二つの世界は、住み分ける世界になっている。
勿論、システムの外で暮らす人々は、不便ではあるが、「人間が自由で本当に人間だったときのその面影をこれから先の世界に受け継いでいく」という使命のために、人類の別の文化的遺伝子を残すために、敢えて不便を享受しながら、外部で生きて行く道を選ぶのである。
これは、現代日本において、旧態依然としたシステムの中で生きていく人々、それに対して、そんなシステムに反抗するのではなく、そのシステムの隙間で、そのシステムに依存せずに生きていく別の新しい、生き方があるんだよ、と僕らに問いかけてくれているようにも思える。
そして、クレインはどうしたかと言うと、ドラマの最初に出てきた自分の家で、フリュネの肉体とネッサの魂が合体した新しい生命が起床するのを待ち続けて日々を過ごす。
そして、その日、ついにフリュネが目を覚ますのだ。そして、クレインに対して、「クレインのことが好き。出会ったときからずっと好きだった。」と抱きつく。
もっとも、これは、ここだけ取り出せば、ある種、感動的な台詞なのであるが、次のフリュネの台詞で僕らは再び凍りつかざるを得ない。
「まるで赤ちゃんみたいだなぁ。」
その瞬間、この世の鍵となった女子高校生と父親との関係が、クレインとフリュネの間に親子を逆にしてシンクロするからだ。
そして、今までほとんど唯一の感情移入対象であるクレインが、そうした神的な運命に立たされることが予感されるのである。
はたして、一体、僕らは、その気持ちをどこに向ければいいのであろうか。
「魔法少女 まどか☆マギカ」の気持ち良さに対して、この「フラクタル」の気持ちの悪さ。二つのアニメの決着は、世間的、マーケッティング的には明らかだとしても、僕の中ではそう簡単ではないというのが結論である。
まさむね
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