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「まどか☆マギカ」の素直な神と「フラクタル」のゆがんだ神の決着はそんなに簡単ではないのではないか

8 5 月 2011 No Comment

自分のアニメの導師であるすがりさん(現在はTwitterは離脱中)に教えていただいたニコ生PLANETS増刊号 ?徹底評論「魔法少女まどか☆マ?ギカ」 という対談で、評論家の宇野常寛氏が「魔法少女まどか☆マギカ」との対比で語っていた「フラクタル」に興味を持ち、思い切って全話11話を観てしまった。
魔法少女まどか☆マギカ」「マイマイ新子と千年の魔法」に続いて、僕のアニメ体験、第三弾である。

では、この作品は一体どんな作品なのだろうか。

宇野氏は、「魔法少女まどか☆マギカ」がゼロ年代アニメが提示したさまざまな要素(戦闘美少女、セカイ系、ループ系、空気系など)の総決算であり、そうすることによってその次の可能性を見せんとした作品であったのに対して、「フラクタル」は宮崎駿の劣化版と酷評しつつ、逆に、京アニ系アニメ(ハルビ、ケイオン等)に代表されるゼロ年代アニメをぶっ壊し、80年代に戻そうとした野心作という見方をしている。
残念ながら、ここで宇野氏が言っている80年代というのがどういう意味なのかに関しては、若干疑問は残るものの、80年代に20代だった僕には気になるフレーズだ。

また、冒頭でご紹介させていただいたすがりさんも、同様に「フラクタル」の作品としての弱さ(ドラマツルギーの不完全さ、次回へのフックの弱さ、物語の目的設定の不在など)を指摘されていて、作品としての批判を浴びることはいた仕方ないとしつつも、逆に、このグダグダなところが、結果として”現代の日本を取り巻くどうしようもなさ”を反映しているという点で評価されていた。

ようするに、狙いはいいがツメが甘いということだろうか、とりあえず、僕は観てみる事にした。

この作品が描いているのは、遠い未来(30世紀以降)の世界だ。その世界では、フラクタルシステムという擬似現実システムが人間を支配している。
人々は、このシステムのおかげで、労働から解放され、究極的な個人主義的快適生活を送っていた。
しかし、この肥大化したシステムは、長年の稼動でエントロピーが増大し、ところどころでボロが出ている。
物語は、一人の美少女・フリュネが、クレインという一人暮しの少年の家に紛れ込んでくるところから始まる。
そして、彼女は、綺麗なブローチを置いてどこかへ行ってしまう。そして、残されたブローチには、ネッサというドッペル(この時代に多くの人が持っている分身)の少女が隠されていた...
ここで、いわゆるボーイ・ミーツ・ガールスがこの話の背骨であることが冒頭で予想されるのだ。

そして、物語はこの少年が、この少女達と関わりながら、このフラクタルシステムを破壊しようとするロストミレニアムといわれる一族(グラニッツ一家)や、このシステムを守ろうとする組織=僧院というような組織の人々との争いの巻き込まれながら、この世界の真実に迫っていくという冒険譚である。実は、このフリュネとネッサという二人の少女は、そのフラクタルシステムを再起動するための秘密を握っていたのだ。つまり、二人は世界の謎と直結する存在なのであった。
これは、先ほど述べたボーイミーツガールの構造と並ぶ、この物語のもう一つの背骨である。

そして、この謎の少女達と、普通の男子の関係性の物語であるという意味で、「フラクタル」は典型的なセカイ系物語とも言えるのだろう...か。

そして、宇野氏が、この「フラクタル」を80年代回帰の物語だというのは、いわゆるこの物語が、二つの異なる価値観を持つ集団同士の戦いを描いているという意味であろうか。
つまり、物語を、80年代という資本主義と共産主義がこの世界の支配権を賭けて闘っていた時代の物語構造に回帰させるということなのだろうか。

しかし、最終回で、その闘争の物語だったはずの設定自体が強引に無化されてしまう。僕はこれほど、急展開を見せるドラマはそれほど経験したことはない。

ここまでずっと命を賭けて僧院と闘ってきたグラニッツ一家のリーダー・スンダは、闘いに勝ったとしてもその後の世界はどうなるのかに関して、「よくわからない」と、唐突に言うのだ。
そして、「自分の信じる道をすすんできた。」だけだというのである。
また、その後のシーンでは、一家の長老の大爺が、こうつぶやく。「ロストミレニアムはな。フラクタルシステムを破壊するために生まれたんじゃない。人間が自由で本当に人間だったときのその面影をこれから先の世界に受け継いでいくためだ。」
ということは、闘いの目的は、「相手を倒す」のではなく、「本当の人間になるため」だった、つまり一族の内的な動機だったということである。
これでは、僧院×ロストミレニアムの闘いが、終わりなき日常で、自分探しを続ける90年代以降のモチベーションに収斂されてしまうということのではないだろうか。

もしかしたら、この闘いの真のモチベーションのナイーブさをして、宇野氏は「フラクタル」を酷評したのだろうか。
あるいは、80年代・ジブリの名作「天空の城ラピュタ」の落下ファンタジーを継承しこそなった点を指して「フラクタル」が宮崎駿の劣化版と言ったのかもしれない。
(この点に関しては、Twitter上で、もう一人の導師・がんまさんから示唆をいただいた。実は、私は「ラピュタ」も観ていない。今後、僕の修行は続きます...)
そういえば、「まどか☆マギカ」でも最終回でHOMURAが落下していた。日本アニメにおける落下少女の系譜というのがあるのだろうか。

そして、次のシーンでフリュネの口から、この世界の秘密が暴かれるのである。これがさらに衝撃的だ。

それは、実は、このフラクタルシステムを再起動するための「鍵」のモデルとなったのは、おそらく現代(21世紀)に生きる一見、普通の女子高生であったということである。
ところが、その娘は、「愛」を知っていたというのである。それではこの「愛」とは一体何か。
その秘密が、ネッサの記憶の中に保存されていた映像で明かされる。その女子高校生が、自分の妄想の中で、ぬいぐるみをもう一人の自分として魂を投影するほど大事にしていたことが映像として、映し出されるのである。

そして、その映像はパパからの呼び出しで切れる。
おそらく、この突然の切断は、女子高生と父親との間におぞましい関係があったことが示唆されている。
彼女はこう言うのである。「パパに怒られちゃうし、お仕置きはいやだわ、ちょっと気持ち悪いんだもの。」
また、実は、それより前のシーンで、以前から訳ありの過去を想像させるかのようにフリュネに執拗にからむ、醜悪な父親がフリュネにナイフで刺されるというシーンもある。
しかも、その父親の妻は、成長した後のフリュネ(の一人)だという。ということは...
そして、その娘は、そんなおぞましい「愛」に対する拒絶反応から、そんな関係が始まる前の10歳の時の「無垢な魂」をぬいぐるみに託すことによって、無意識の自己防衛本能で自分の精神を守っていたのである。

そして、フリュネはその映像に映し出された女子高校生に対して「彼女は、こんなにゆがんだ世界を受け止めてあんなに笑っていられた。」と、肉体16歳でありながら、10歳の魂を持つ少女を悲しいまなざしで見つめるのである。

しかし、よく考えてみれば、そんな彼女だからこそ、「神」になれたのかもしれない。「魔法少女まどか☆マギカ」におけるまどかが自分の意思で、ある意味、ストレートに「神」になったことと比べると、逆に、より複雑で、「神」的とも言えるかもしれない。例えば、ギリシャ神話における神々の婚姻関係を、そして「古事記」においても、僕ら日本人のもととなるイザナミとイザナギや、アマテラスとスサノウの兄妹関係などを見てもわかるように、「神」になるためには、そうしたおぞましさを通過しなければならないのかもしれないのである。
その意味で、このアニメを最後まで見て感じるのは、そういえば、最初からフリュネやネッサは神出鬼没という意味で、神の要素を備えていたということ。そして、ネッサが飛行船の中でいなくなった時に、みんなが踊って、呼び出そうとするところなどの、天岩戸伝説をも彷彿させる演出にもそれなりの意味があったということか。

そして、場面は変わり、あれから一年後、グラニッツ一家は以前と変わらず、自給自足の生活を送っている。

それは、新たにフラクタルシステムが再起動した後の世界である。ここでは世界のシステムはさらに強固となり、おそらく、その中で暮らす人々は今まで通り、終わりなき日常を生き続ける。また、一方には、まるでアーミッシュのように、そのシステムの全く外で暮らす人々(ロストミレニアム)がいる。つまり、二つの世界は、住み分ける世界になっている。
勿論、システムの外で暮らす人々は、不便ではあるが、「人間が自由で本当に人間だったときのその面影をこれから先の世界に受け継いでいく」という使命のために、人類の別の文化的遺伝子を残すために、敢えて不便を享受しながら、外部で生きて行く道を選ぶのである。
これは、現代日本において、旧態依然としたシステムの中で生きていく人々、それに対して、そんなシステムに反抗するのではなく、そのシステムの隙間で、そのシステムに依存せずに生きていく別の新しい、生き方があるんだよ、と僕らに問いかけてくれているようにも思える。

そして、クレインはどうしたかと言うと、ドラマの最初に出てきた自分の家で、フリュネの肉体とネッサの魂が合体した新しい生命が起床するのを待ち続けて日々を過ごす。
そして、その日、ついにフリュネが目を覚ますのだ。そして、クレインに対して、「クレインのことが好き。出会ったときからずっと好きだった。」と抱きつく。
もっとも、これは、ここだけ取り出せば、ある種、感動的な台詞なのであるが、次のフリュネの台詞で僕らは再び凍りつかざるを得ない。
「まるで赤ちゃんみたいだなぁ。」
その瞬間、この世の鍵となった女子高校生と父親との関係が、クレインとフリュネの間に親子を逆にしてシンクロするからだ。
そして、今までほとんど唯一の感情移入対象であるクレインが、そうした神的な運命に立たされることが予感されるのである。
はたして、一体、僕らは、その気持ちをどこに向ければいいのであろうか。

「魔法少女 まどか☆マギカ」の気持ち良さに対して、この「フラクタル」の気持ちの悪さ。二つのアニメの決着は、世間的、マーケッティング的には明らかだとしても、僕の中ではそう簡単ではないというのが結論である。

まさむね

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