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[30 7 月 2011 | No Comment | | ]

「新世紀エヴァンゲリオン」は様々な問題を内包した優れて豊潤な作品であるが、ここでは、とりあえず、碇シンジの「悩み」に、2011年の僕らは共感できるのだろかという点に関して、再度語ってみたいと思う。
僕がこの「エヴァ」を観て、感じた違和感は、主人公・碇シンジがエヴァ初号機に乗る動機である。彼は何故、あれほど嫌がっていたエヴァに乗り続けるのであろうかという疑問と言い換えてもいいかもしれない。
一体、彼の行動を支えている原理=倫理観は何なのだろうか。その動機は何なのであろうか。
彼は、子供の頃に、父親・碇ゲンドウに捨てられる。いわゆるネグレクトを受けた少年である。そのため、性格は内向的で、人付き合いが苦手である。そんな彼が、突然、国連の特務機関・NERVに召集され、エヴァのパイロットとして、「彼にしか出来ない」任務を任されるところからエヴァは始まるのである。
一方、彼を捨てた父・ゲンドウは、このNERVの総司令という立場で、冷徹な人間である。彼はシンジにエヴァに乗るように命令するが、決して押し付けようとはしない、嫌であれば去れ!という態度である。
それに対して、シンジは、自分自身に「逃げちゃダメだ」と言い聞かせて、エヴァの操縦桿を握る。おそらく、シンジは、父親から承認してもらいたい一心で、エヴァに乗り続けるのである。その姿は、ある意味では痛々しい。
しかし、彼は自問自答を繰り返していく中で、本当の自分とは何なのか、自分は本来何をすべきなのかというようなアイデンティティに関わるような悩みに行き着く。TVシリーズの25話、26話はほとんど、そんなシンジの心象風景が描かれる。
エヴァが特異な作品であるのは、ロボットアニメが内面描写の私小説になってしまうその変容の異常さからである。
1996年~1997年、エヴァは、、一大ブームとなる。夕方の子供向けアニメとしては極めて異例な状況である。例えば、地上波の番組の中でもしばしばタレント達によってエヴァという名前が口にされた。例えば、同年の大ヒットしたトレンディドラマ「ラブジェネレーション」にはエヴァ大ファンの青年が登場するし、翌年1998年にデビューし、その後、一大ブレイクを果たしたモーニング娘。はASAYANというオーディション番組から登場したが、メンバーの中でも最も人気のあった安部なつみ(右画)は、初めてのスタジオ登場時に、ナイナイの岡村隆史、つんく、永作博美達に、綾波にそっくりだとイジられている。極論するならば、モーニング娘。大ブレイクの隠し味としてエヴァの残像があったということが言えるのかもしれない。
それはともかく、エヴァブームとは、作品の異常さ以上に、作品が置かれた状況と作品の中身の乖離の異常さにあったというのは確かであろう。前のエントリーにも書いたが、1996年は、アダルトチルドレンという言葉がマスコミを賑わし、流行語となった年である。
幼少期に両親との関係になんらかの心的外傷を負った子供達の行動が注目され、社会問題となったのがこの頃。
15歳だった少年が起こした神戸連続児童殺傷事件が起きたのが1997年である。
当時、多くの人々が、実際に起きた少年事件と「エヴァ」のシンジをリンクさせて語っていたのを覚えている。
そして、その後、拓銀が破綻、山一ショックが起き、日本経済の綻びが誰の目にも明らかになる。今までのように、普通に勉強して普通にいい学校、いい会社に就職すれば幸せになれるという王道パターンにかげりが見えたのがこの頃である。つまり、親が子供に対して、勉強しなさいという言葉の説得力を失い始めたのがこの頃ということである。
一方、学校教育界でも、いわゆる「ゆとり教育」が本格的に始動。1996年に学習指導要領に記載された、学習内容及び授業時数の削減、完全学校週5日制の実施、「絶対評価」などの項目は、2002年から本格的に導入される。
大雑把に言ってしまうならば、子供を取り巻く、環境がどんどんゆるくなっていったのが世紀末からゼロ年代にかけてということは言えるのだろうと思う。
「ゆとり教育」というのは、追い詰められて、逃げ場を失う少年を社会的に救済しようとする政策なのである。つまり、それ以前であれば、「逃げちゃダメ」と自分に言い聞かせることによって苦悩する子供達に、「逃げてもいいんだよ」という価値観を与えたのが「ゆとり教育」であるという言い方も出来るかもしれないのだ。
一方で、携帯電話やネットが普及するのもこの時期である。子供達はそれまでに比べると格段の情報を瞬時に得られるような環境が出来てくるわけだ。
それは勿論、素晴らしいことであるが、逆に言えば、自分の限界を知らされるということでもある。正規社員と非正規社員の格差問題、地方と都会の格差問題、親の年収による格差などが現実問題として、子供達に対して、徐々に諦観を植えつけるようになっていったのである。
例えば、政治の世界では、小泉、安倍、福田、麻生、鳩山と続き、二世三世議員しかトップになれないというような状況が人々に見せ付けられてきたのだ。
長引く不況とあいまって、子供達の中には、将来は「何者かになれる」という希望が、段々しぼんでいったのも当然のことであろう。
そんな状況の変化の中で、おそらくエヴァにおける碇シンジの悩みは、徐々に人々に共感を得られにくくなってきたのではないだろうかというのが僕の仮説である。
よく考えてみれば、シンジが置かれた位置はあまりにも特権的だ。確かに、幼少期のトラウマは、不幸には違いないが、その代償として、世界でたった一人、世界を救うことが出来る能力を持つ少年としての場所が約束されているのだ。
多くの若者が、「ゆとり教育」の中で、漠然とした夢(世界でたった一人だけの君)だけを与えられながら、実際は、「何にもなれない自分」を突きつけられる現実の中で、自分しか世界を救えないなどという最高の場所が天分によって与えられているにも関わらず、満たされない少年というシンジの設定はいかにも、贅沢なのではないのだろうか。
「何ににもなれないその他大勢」から見たら、シンジの立場はなんとうらやましいなことか。「僕って何?」という言葉のなんと特権的なことか...ということである。
これが、僕が15年遅れで「エヴァ」におけるシンジの悩みに感じた違和感である。
まさむね
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[27 7 月 2011 | 3 Comments | | ]

僕が自分の中で勝手に、アニメ修行の一つの山場と位置づけていた「新世紀エヴァンゲリオン」TVシリーズを昨日から今日にかけて完観した。
多くの方に、観るべきアニメの筆頭格として、推薦いただいた、この作品ではあったが、26話という長い作品であること、いろんな意味で「深い」作品であることという噂話に若干、及び腰であったことは確かだ。しかし、いつかは観ないことには、始まらないということで、失業中の今しかないと思い、観る決心をしたのであった。
しかし、実のところ、僕は1997年に劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(通称:春エヴァ)は、吉祥寺で観ているのだ。しかも贅沢なことに、あの竹熊健太郎さんに連れて行ってもらってというオマケ付でである。当時、竹熊さんは既に、エヴァ語りの第一人者として著名であったが、その竹熊さんから、是非、観たほうがいいとのオススメがあって、劇場に足を運んだのだ。
しかし、残念ながら、その劇場版は、TVシリーズを観ていなかった僕にとっては、何がなんだか全く理解不能のものであった。
ただ、映像の途中で映画の観客席を挿入するなど、おそらく今までのエンタテイメントアニメとは一線を画すメタ的(観客への挑発的)な視線は面白いなぁと思ったのも事実だ。
ちなみに、この映画、最後のシーンで、「気持ち悪い」というアスカの声で唐突に終わるわけであるが、幕が下りて劇場の電気がついた瞬間に、「どうでした西村さん」と言って、僕の顔を覗いた竹熊さんの恐い顔のほうが印象に残っている。
さて、それはともかく、今観たばかりの「エヴァンゲリオン」についての感想を書いてみたいと思う。
先ほども述べたが、それは、15年遅れの感想である。
しかし、逆に、15年遅れたがゆえに、僕には、この間の日本の変化が見えてきたようにも思うのだ。
PCや携帯電話といった通信機器のどうしようもない古さ、ミサトや加持のバブルの尾を引きづったファッションやライフスタイル、オープニング曲「残酷な天使のテーゼ」の90年代風味など、個別の時代的制約については別途語るとして、ここでは、「エヴァ」によって描かれていた、あの時代の未来に対する希望と絶望が、現在の目に一体、どのように写るのだろうかということに関して語ってみたいと思う。それがこのエントリーのテーマである。

おそらく、世紀末のあの時代、僕らは心のどこかに、ハルマゲドン願望(不安)というものを持っていた。
当時は、「終わらない日常」が、突然、ある種のカタストロフで崩壊した後の再生物語こそ、SFの重大なテーマとなる、そんな時代だったのである。
そして、「エヴァ」もそういったテーマ線上の作品である。セカンドインパクトと呼ばれた南極地域の大爆発によって、その氷が解け、地球上の多くの街は水没し、人口は激減した後の世界。使徒と呼ばれる謎の敵が襲来してくる、それに対して国連はNERV(ネルフ)という秘密組織においてエヴァンゲリオンというロボットを作り、その敵の襲来に備えている。そして、そのロボットのパイロットとして、特別な少年や少女が選ばれている...それが「エヴァ」の設定である。
主人公の碇シンジという少年もその選ばれたパイロットの一人だ。
そして、実は、彼は、このNERVの総司令である父親によってネグレクトされた子供であった。しかし、彼がパイロットに選ばれたのは、このエヴァンゲリオンというロボットは、波長(シンクロ率)が高い少年少女でないと操縦できないシステムになっているからである。
しかし、シンジは、自分がロボットに乗って戦わなければならないという運命を受け入れることがなかなか出来ない。何度も逃げようとするのだ。そして、彼はどうしても、自分の幼少期のトラウマ(母親の死と父親からのネグレクト)から逃れることが出来ず、自分とは一体何なのか、何をすべきなのか、という根源的な自我の問題に悩み続けるのである。
おそらく、15年前にこの「エヴァ」が大ブームとなった背景には、こういったシンジのような心に傷を持つ人々のアイデンティティの揺らぎが表面化してきた時代があった。いわゆるアダルトチルドレンが問題となった時期。1996年といえば、ちょうどこの言葉が流行語となった年なのである。
しかし、あれから、15年。結局、ハルマゲドンは来ることはなく、それゆえに、そこからの再生物語も無く、日本は徐々に衰退という坂道をダラダラ下るというサイテーのシナリオを歩んでいる。そして、経済的にもデフレ不況が続き、子供達の多くはアダルトチルドレンから、引きこもりへと更に衰弱しているようにも思える。
シンジは作品の中で何度も「逃げちゃダメだ」と言いながら、自分を奮い立たせ、そして、自分しかエヴァを操縦出来ないという、ある意味、特権的なシチュエーションによって自我の崩壊を食い止めている。
しかし、現代の若者に、こういったシンジ的闘争心や、特権的な場所への希望は残っているのだろうか。
いや、おそらく、いい悪いは別にして、あの時代よりも、学校をはじめとする社会は、「逃げる」ということに対してより寛容な、そして「傷つく」リスクに対して、より優しい社会になっているのではないだろうか。例えば、象徴的に言えば、それは「エヴァ」における碇ゲンドウの冷徹さと、「あの日見た花の名前は誰も知らない」におけるジンタンの父親の気楽さとの落差である。
そして、これからどんどん収縮していくことが予想される社会の中で、せめても自分が生きていく場所を確保するのに汲々とする社会というのが、若者達の未来像になってしまっているのではないだろうか。現代からの視点からすれば、エヴァ的アイデンティティ問題というのは、ある意味、裕福だった時代の贅沢な悩みとも言えるのかもしれない。
極論するならば、現代とは、生きていかなければならないという切実な問題の前に、シンジ的な悩みは後退してしまっている時代なのである。(勿論、その悩みは解決したわけではないが。)
しかも、一方で、誰もエヴァに乗り、世界を救うなどという、ある意味、特権的な場所に対する希望も、使命も持てなくなっているのが現状である。はたして、シンジの特権に対して現代の僕らは、共感を、そして共有意識を持てるだろうか。
更に言えば、シンジの特権は、NERVという国連の特務機関という大きなシステムに保障されている特権である。
おそらく、あの時代、日本の一般の人々は、まだそういった大きなシステムに対して信頼感を持ち、そのシステムには優秀な人々が勤務しており、使命感を持って一般人を守ってくれているハズという共通認識があってこそ、NERVという架空の組織はリアリティを持ちえたのではないだろうか。
良し悪しは別にしてシンジの父親・碇ゲンドウの冷徹な指導力、ミサトやリツコ、その他、スタッフの優秀さ、そして科学技術への信頼感のリアリティがあの時代にはあった。しかし、1996年以降の多くの企業の倒産、失墜、そしてダメ押しとしての3.11の地震の後の政府や東電の醜態を見てしまった僕らにとっては、もうそういうある意味、幸せな幻想は持ち得ない過去のものになってしまったような気がする。
僕らが漠然と信頼していた日本の科学技術力、組織力、システム力が、いかに脆弱だったのか。震災の後遺症は、ただ、津波によって街が破壊されたことや、原発事故が起きてしまった事以上に、僕らが依存していたシステムがいかにダメなシステムだったのかがわかってしまったという精神的ダメージのほうが大きいのではないだろうか。
話は逸れるが、おそらく、今後、特権的な場所があるとすれば、それは大きな組織の中のある場所というよりも、インターネット上で、個々が別々に見つけ出すニッチな場所でのささやかな特権になるだろう。無数のジャンルが生息する場所(SNS)で、自分のユニークで居心地のよい場所を見つけるような生き方が今後の成功モデルだとすれば、そんな現実の反映としてのSFアニメにこそ、今後生まれてきそうな気もする。
さて、最後にさらに身も蓋もない話であるが、エヴァの時代に、僕ら一般国民はそれほどの逼迫した問題として捉えていなかった経済が、この15年間に大きく後退してしまったということが、僕のこの15年遅れの感想にも大きく影響を与えているということを付け加えなければならない。
勿論、あの時代において、既にバブルは崩壊しており、経済は下降線をたどっていたのは事実だろう。しかし、日本はそれまでの余力によって、体感的にはなんとか、現状維持を続けていた。不良債権問題は傷みとしては表面化せず、財政赤字も国債によって隠蔽されていた。つまり、どこかに経済成長神話が生きていたのがあの時代なのである。
それゆえに、「エヴァの世界」は、人口が半減した世界であっても経済は依然として成長し続けているという、現在の感覚であれば荒唐無稽な前提が素朴に生きている世界のようにも見えるのだ。現在の経済感覚からすると、例えば、NERVの贅沢で放漫な財政感覚にはとうていリアリティを感じることが出来ない。大きな要塞、地下都市、巨大ロボット、巨大コンピュータ、どれをとっても、おそらく「2011年の想像力」からは紡ぎ出せないような規模のものなのである。
勿論、これはSFだからといういい方は出来るのだが、ある時代のSFは当然、その時代の空気を反映しているのものだ。1949年に書かれたジョージオーエルの「1984年」はスターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家のイメージが下敷きになっているし、1984年に書かれたウィリアムギブスンの「ニューロマンサー」には当時、勢いがあった日本への恐怖心が垣間見られる。
その意味で、原発事故に象徴されるような科学や組織、システム、経済に対する信頼が失われた日本からは、今後しばらく、エヴァのような壮大な科学SFは生れないのではないだろうか。
逆に「魔法少女まどか☆マギカ」のような地球外生命体の圧倒的な力と魔法少女の個人的奮戦、「あの日見た花の名前は誰も知らない」のようなジモピー的共同体の再生の物語は、現代だからこそ生まれる「2011年の想像力」の産物としてリアリティを持っているのである。
まさむね
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[25 7 月 2011 | 5 Comments | | ]

先日、「『雲のむこう、約束の場所』は物語ではなく、詩歌である」というエントリーで、感想を書かせていただいたアニメのクリエイター・新海誠監督の次作「秒速5センチメートル」を観た。
高澤先生、よしむねさんがともに書かれていたが、まさしく、この「秒速5センチメートル」は、「雲のむこう、約束の場所」の詩歌要素を、より、尖鋭化したアニメであった。ここまで映像で表現された作品は、まさに芸術というのにふさわしい。

そのアニメ画のクォリティの高さと同時に、おそらく、敢えて物語を避けた展開にこそ、作者が、この作品をドラマではなく、詩歌にしようとした意欲が伝わるといったら勝手すぎるだろうか。そこには物語であれば必要であろう意思や行動や、あるいは偶然の出会いといったものが無い。
話は、主人公・貴樹(たかき)の内面(モノローグ)を柱に淡々と進む。そして、それは「物語」とはならずに、なすすべのなく閉じてゆく。
しかし、おそらく、青春の一時期、誰もが経験するようなそういった切なさの記憶を見事にアニメ化したこの作品は、今後も日本のアニメの表現力の高さ、そしてその幅を証明する一本になることは確実であろう。特に、最終話の山崎まさよしの『One more time, One more chance』をBGMに流されるイメージのラッシュは出色である。
冒頭のシーンで、小学生の貴樹と明里(あかり)を分けた無邪気な踏み切り、そして最終話でも、明里と出会ったかと思った瞬間、貴樹のほのかな期待を裏切った残酷な踏み切り。結局、二つの踏み切りシーンが象徴するように、二人は結ばれることは無かった。
つまり、奇跡=物語は起きなかったである。前作の『雲のむこう、約束の場所』に引っ掛けて言うのであれば、「来年も一緒に桜見れるといいね」という明里との約束の場所=踏み切りにおいて、もう二人は会うことができなかったということである。
でも、それでいいのだ、この作品は「物語」ではなく、記憶=絵=詩歌なのだから。
さて、ここで、僕が敢えて語ってみたいのは、内省的な人間の内面と世界とのアンビナレントな関係をこのアニメが非常によく捉えていたということである。もともと、体が弱く読書好きだった少年の貴樹は、明里との最後の雪の夜の思い出以降、人生のメインイベントが終わってしまったということを本能的に悟り、さらに、どんどん内閉的になってゆく。
それゆえに、中学ではサッカー部だった彼は、高校の部活では弓道部を選ぶのである。そして、彼は、他者=世界とのかかわりを避けるようにして、今ここではないどこかにある自分自身でもわからないよう何かを求め続ける。
その象徴が、宇宙探索機なのである。
そして、彼が誰にでも優しいのは、逆に言えば、誰に対しても関心が無いことの裏返しなのである。
おそらく、彼にとって、あの雪の夜以降、世界の美しさなどは、全く無意味なものになってしまったのだ。
春の桜も、夏の太陽も、秋の夕日も、冬の雪も、彼にとっては、物理現象に過ぎない。
桜の落ちる速度が「秒速5センチメートル」という、そのいわば物理的観点は、情緒や美や文化を無視している、そんな彼の無味乾燥な内面を表しているのだと僕は思う。
また、このアニメでは、雑踏の人の声が異常にクリアに聞こえてくるが、これは、彼が世界との正常な距離感を喪失していることを表しているのだとも思う。
そして、彼は何も無い真っ暗な宇宙を、その先にあるかどうかもわからない星めがけて飛んでゆく探索機に密かに想いを託すのであるが、その一方で、部屋(リアルな世界)を散らかしっぱなしにし、3年間付き合った恋人にフラれても、それは大した話ではないのだ。
世界に関心の無い彼にとって、そんなことはどうでもいいことなのである。
僕はこのアニメにおける風景のあまりの美しさは、貴樹の世界に対する興味の無さの、逆の意味での表現のような気がする。
この作品においては、新海監督が描く風景が美しければ美しいほど、それは、貴樹が持つ闇の暗さを表現しているからだ。

ラストシーンに、踏み切りで舞う桜は、ただの桜ではなく、貴樹の心には響かない桜なのである。
だからこそ、この桜は、観る者にとっては、他のアニメのどんな桜よりも、狂ったように美しく観えるのである。
まさむね
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[23 7 月 2011 | No Comment | | ]

「化物語」を一気に観た。
新房昭之監督の代表作であり、洋風の「魔法少女まどか☆マギカ」(以下「まどマギ」)に対して、和風と聞いていた本作を観ておきたかったからである。
確かに、本作には神道、怨霊、言霊、祟りなど日本古来の宗教観念を彷彿させる箇所はちりばめられていた。
しかし、それらはあくまでギミックとして使用されており、その一方で、吸血鬼や狼男的ないわゆる西洋的なアイテムも混ざっているため、全体としては、洋の東西問わず、神亡き後の混沌としたオカルト世界に翻弄される現代人といったテーマがそこにあるように思われた。

深夜アニメの必須アイテムとしての「萌え」要素を、俳句における季語、能における亡霊、あるいは狂歌における元歌のように配置せざるを得ない事情があるため、登場する少女達は、それぞれが見事にキャラ立ちしている。
それらは、美人のツンデレだったり、恥ずかしがりの妹キャラだったり、ボーイッシュな百合だったり、メガネの優等生(その裏の性格として淫乱猫)だったり、生意気な小学生だったりと、完璧に典型を揃えており、しかも、彼女達は勿論、みんなバージン性を持ち、何故か都合よく、主人公の男子が頼られるようなシチュエーションになっていくのだ。その意味で、この「化物語」は、正確にオタク文化(特にギャルゲー)の伝統を踏まえた作品ということが出来るのだろう。
しかも、この作品は、自らを”踏まえた作品”(パロディ作品)であることを隠そうとしない。いや、それどころか、本来だったら恥かしい作品であることを、まずは、冒頭の落下少女のシーンを持ってくることによって、メタメッセージとして宣言するところからこの作品は始まるのである。
僕は現在、アニメ修行中の身なので、全ての例を上げるなどという事は勿論、出来ないのであるが、話の冒頭で少女が空から落ちてくるというのは、すでに「落ち物」というジャンルにすらなっているという。古くは、「天空のラピュタ」であり、最近では「フラクタル」がそうである。

しかし、この「化物語」が、特に僕のようなアニメに無知な中年にとっても楽しめたのは、この作品が80年代後半以降のアニメ文化の要素を取り入れているだけではなく、ぼくらの青春時代、60年代~80年代前半のマンガのデータベースをも参照しているからであった。
例えば、この作品を通して登場する怪異現象の専門家・忍野メメの名前のメメは、明らかにつげ義春の「ねじ式」に登場するメメクラゲからの引用だろうし、最初の話で、ヒロイン・戦場ヶ原ひたぎが、自身に取憑いた蟹に攻撃されて、壁にぶつけられるシーンは、大友克洋の「童夢」のあまりにも有名なシーンと酷似している。てゆーか、最もわかりやすいところで、主人公の阿良々木暦(あららぎこよみ)の片目隠し+毛立ちの姿はゲゲゲの鬼太郎そのものなのである。また、これはマンガからの引用ではないのだが、最終回における流血シーンは、全盛時代の黒澤映画「椿三十郎」のあまりにも有名な流血シーンを彷彿させるということも記しておきたい。

さらに、たびたび挿入される挿入画には、それこそ60年代~80年代の代表的なマンガ家のパロディ画なのである。僕はそれを観ているだけで、ある種のノスタルディーと新房監督(1961年生れ)に対する年代的親近感を抱かざるを得ない。こういう親近感はおそらく、20歳代のオタクの皆様にはわからない、中年のひそかな優越感を呼び覚ましてくれるのである。

さて、上記のような表面的な「萌え要素」「パロディ要素」は顧客サービスとして、それはそれでいいとして、しかし、それらを殺いだところに残るこの物語の本質部分の奥深さが、この作品の意義を決定付けているように思える。
実は、この物語に何度も登場する怪異とは、それ自体は善悪のあるようなものではなく、現象としてただ存在するものである。それらにある種の人格を与え、世界に災害をもたらす根源は、少女達が無自覚に抱く怨念であり、抑圧された欲望だということなのである。
それは、普段の可愛い少女の姿からは想像も出来ないおぞましい悪意であり、もっと言えば他人に対する殺意でなのである。
例えば、子供の頃に足が遅くてみんなに馬鹿にされていた少女・神原駿河(かんばるするが)は、運動会の徒競走で一番になりたいがあまりに、猿の手という悪魔に「願」をかける。すると、それは徒競走で一緒に走る別の子達を徒競走に出場させないという形で実現してしまう。
そして成長した彼女は、ある女子の先輩(戦場ヶ原ひたぎ)に憧れ、そして恋愛感情を抱くようになる。そして、それを実現するために彼女は無意識に戦場ヶ原ひたぎの彼氏である阿良々木を殺そうとするのだ。
その現象に対して、神原自身は、猿の手が暴走して、勝手にした事という「無難な解釈」をしていたのであるが、相手を抹殺しようとする猿の手の行動とは、忍野メメによる怪異鑑定を通して見ると、それは、実は、神原自身が無意識的に持っていた殺意が表出したものだったのである。
この可憐な少女達が持つコンプレックスや暗い過去や家庭環境の反映としての無意識の残虐的なパワーこそ、この「化物語」が持つ本質的なテーマなのではないのだろうか。というのも、「化物語」では、ヒロインの戦場ヶ原ひたぎ、そして、特に清楚で上品なサブヒロインの羽川翼というメインキャラにまで、そういった暗さを持たされているからだ。
そして、この作品の本質は、「まどマギ」のサブキャラであるSAYAKAやKYOKOにも流れている。しかし、逆に言えば、メインキャラであるMADOKAやHOMURAは、そういった無意識の残虐性からは逃れている。ということは、「化物語」の毒をほどよく薄めて、砂糖をまぶしたのが「まどマギ」であるとも言えるのかもしれない。
勿論、このあたりに関しては、今後も他の作品を観ながら考えていきたいところである。
最後に、全く話は変わるが、この「化物語」は1話~12話はテレビ放送であったが、13話~15話はWEBでの配信となった。すると12話までは企業名などやロゴなどは隠蔽されていたのであるが、13話から、そのあたりが散見されるようになる。以下はその中のいくつかの例である。このプロダクトプレイスメントにはどの程度、広告料が動いているのか、あるいはどのような契約になっているのかは不明であるが、画面に登場したということだけは記録しておきたいと思う。

まさむね
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[21 7 月 2011 | 2 Comments | | ]

以前、高澤先生にいただいたコメントの中に書かれていた「蟲師」のことがずっと気になっていたのだが、最近、ようやく観ることができた。
このアニメの中で言われている「蟲」というのは、昆虫のことではない。それは生命そのものというか、生命と不生命の間の存在というべきか、実は、よくわからない存在なのである。
その形状は様々であり、多くの場合、そのイメージは蟯虫(ギョウチュウ)や回虫(かいちゅう)のようなものである。それが、あるときは人に、そしてあるときは、自然に取り憑き、不思議な現象を引き起こすのだ。
主人公のギンコはそんな蟲を求め、その研究をしながら、蟲にとりつかれて困っている人々を助けながら放浪する、つまり蟲師なのである。
それぞれの回は一応、完結する形で話が進むので、とりあえず第一話だけを観ても、話は理解できるようになっている。
しかし、理解できるといっても、僕は、毎回、微妙な謎を残してしまう。それは、僕の理解力が不足しているためなのか、それとも、蟲自体の不思議さがゆえに、常に謎を残すような設定になっているのか、それすらもよくわからないのであるが、毎回、見終わると、爽快感とは無縁の寂しさ、そして息苦しさを感じてしまうのである。
それはこの「蟲師」が描いている世界の寂しさ、そして息苦しさが直接伝わってくるからというのが僕の推理である。
おそらくここに描かれているのは、ありえたかもしれないもう一つの日本の姿である。それは、もしかしたら鎖国を続けていた世界であり、一方で近代文明に取り残された日本の話とも言えるのかもしれない。(ご覧になっていない方にとってはわかりにくい説明で申し訳ありません。)
その世界では、土地にへばりつくように生きている人々がいて、その土地の宿命とも言うべき、病気や災害や様々な怪奇現象がある。
そして、話の中では、それらの宿命はすべて「蟲」のせいで起こされた現象であることを蟲師のギンコは探っていくのであるが、それぞれの土地には必ずと言っていいほど、不条理な掟があり、それによって差別や偏見、生贄などの不幸が存在しているのだ。
このアニメの主題は「蟲」と、それを退治する蟲師の闘いである以上に、そういった日本という土地が持つ宿命的な貧しさ、暗さを見せつつ、しかし、それでも必死に生きている人々が抱くささやかな幸せとは何か、ということだと思う。
そして、このアニメで描かれている幸福感こそ、長らく日本人が共通で抱いていた幸福感であるに違いない。
おそらく、それは、ほんの50年位前には確実に存在していたモノのようにも思える。
この「蟲師」を観終わって思い出す一編の詩があった。
それは伊藤静雄の「帰郷者」という詩である。
その詩はこんな一行で始まる。有名な一行なのでどこかで目にしたことのある方も多いかと思う。
自然は限りなく美しく永久に住民は貧窮してゐた
この詩は、そんな自然を賛美すると同時に、土地に縛り付けれてきた日本人の長年の営みに対するなんとも言えない感情で締めくくられる。
(全編は、コチラをご覧下さい。)
僕にとってのアニメ「蟲師」は、蟲の話でも、蟲師の話でもない。
それは日本の原風景を描いたアニメである。
まさむね
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