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漫画・アニメ »

[30 8 月 2011 | 4 Comments | | ]

昨年(2010年)のジブリ作品「借り暮らしのアリエッティ」を観た。
この作品において、宮崎駿さんは企画・脚本を担当、監督は米林宏昌さん。米林さんにとっては、この「借り暮らしのアリエッティ」が最初の長編アニメ監督である。
しかし、いわゆる「新人監督」と言っても、1973年生れ、既に30歳台後半だ。この業界で監督となるのにはやはり、このくらい年季をつまないとならないのだろうか。きびしい世界である。
さて、このアニメの内容について話を進める。
舞台は、東京の近郊。宮崎駿さんによると、小金井あたりの設定ということらしい、僕の家の近くだ。ご存知の通り、東京近郊には、意外にまだまだ緑が沢山ある。国木田独歩が「武蔵野」で描いたような小さな森が大きな屋敷の中にはまだ残っているのである。
歴史的に言えば、その昔、このあたり(三鷹、小金井、田無)は、徳川将軍家のお鷹狩りの土地であり、そのため、適度に森を残すことが人為的になされたという。また、江戸に近い天領ということもあってか、比較的徴税は厳しくなかったらしく、それゆえに、現在でも当時の名残の農家や明治以降に建てられた広い洋館が点在しているのだ。
このアニメは、そんな屋敷に住み着いている小人族の少女・アリエッティと、その屋敷に静養に来ている一人の少年・翔とのふれあいの物語である。
ただし、ふれあいと言っても、のんきな話ではない。二人には、それぞれが抱える残酷な宿命があったのだ。
実は、アリエッティには、人間に見られた時点で、もうその場所を離れなければならないという小人族の「掟」がある。
したがって、少年とふれあうということは、即、別れなければならないということを意味していた。しかも、この種族は、段々少なくなっている、いわゆる「滅びの種族」なのである。
一方、少年の方は、心臓が悪く、目前に手術を控えている。もしかしたら、余命も長くないのかもしれないのだ。しかも、この少年は両親が離婚、ひきとった母親は、仕事が忙しく、家を空けがちだという。彼は、病気の上に、両親からの愛を十分に受けたとは言いがたい環境に育つ。寂しい少年なのである。
滅び行く種族の少女と、余命いくばくもない少年の出会い。
少年はなんとかして、少女やその一家(両親)を守ろうとするのだが、彼の善意はことごとく、裏目に出てしまい、結局は二人の運命を引き裂いてしまう。
例えば、少年の曽祖父が、いつかこの家に住み着いている(と思われていた)小人のためにとイギリスから取り寄せたドールハウスを、床下の家にプレゼントしようとするのだが、その行為は、小人にとっては、残念ながら迷惑な暴力でしかなかったのだ。
異なった力や価値観を持った種族は、いかに共存していくべきか、そんな問いを投げかけてくれるのがこのアニメである。
一般的には、日本人が、日本列島に住む大和民族以外の人々(アイヌや朝鮮民族)に対して、どのように接してきたのか、あるいは接するべきなのかというような問いかけに読み替えることが出来るのだと思う。あるいは、人間とその近郊の自然との関わりの物語というように解釈することも出来るかもしれない。それは人それぞれだろう。
そして、もしそういった文脈で読むのであれば、それは、僕らが何をすべきか、ということではなく、何をしないべきなのかという倫理こそ、このアニメが僕らに提起していることである。
実は、僕は子供の頃、東京の中野の一軒家に住んでいた。家には、庭があって、沢山の小動物がいた。毎年、春頃になると床下から大きな蝦蟇蛙が這い出してきた。僕はその蝦蟇蛙を捕まえようとした。しかし、祖母にしかられた。
「あれは、この家の主だ。だから決して手を出してはいけない。」
毎年そのように言われ続けて僕は大きくなった。
家の近くには在日朝鮮人が何人も住んでいた。家の裏に路地があり、そこでは回覧板を回したいたのだが、その家にだけはその回覧板は行くことはなかった。
僕は子供ながらに不思議に思い、そのことを祖母に聞くと、「朝鮮人だからだ。」と言った。
そんなことを、このアニメを観ていて思い出した。
思い出すといえば、アリエッティ=小人=コロボックル伝説の話に関しても、僕は昔から気になっている。
水木しげる先生の「日本妖怪大全集」のコロボックルの項にはこのように書かれている。
妖怪と行っても小人であり、なんのいたずらも悪さもしない。おとなしいものである。「コロボックル」とはアイヌ語で”蕗(ふき)の下に住む人”という意味だ。
「コロボックル」はたいへん気だてのよい連中で、はだかで生活をしていたとか、アイヌの近くに集落をつくって、入れ墨をアイヌに教えたとかいわれているが、とにかく”小さい人”であったようである。
(中略)
アイヌの人々と仲よく暮していたが、あるとき、アイヌの中に悪ふざけをしたものがいて、怒って北の海に姿を消してしまったという。
(中略)
要するに、「コロボックル」はアイヌが北海道にくる以前に、北海道にすんでいた種族らしい。
また、村上健司氏の「妖怪事典」によると、コロボックルが土地を去るときの呪いの捨て台詞「トカップチ(水は枯れろ、魚は腐れ)」が十勝の地名の由来だという。
なるほど。
北海道から、さらに北の海に行ってしまったという小人族というのは、なんとも、ロマンチックな存在だ。樺太とか千島とかに行ってしまったのだろうか。
現在、マイナーとなってしまったアイヌ民族は、大和民族に押され、独自のアイデンティティも危うくなっていると聞くが、そのアイヌ民族も、さらに歴史をさかのぼれば、コロボックル達を追い出していたのかもしれない。歴史の因果というのは面白くも恐ろしいものである。
さて、話を「借り暮らしのアリエッティ」に戻す。
先ほど、僕は、この物語を普通に読めば、僕ら日本人が少数民族に対してどのように接するべきなのかを提起しているというようなことを話したが、実は、このアニメの面白いところは、それだけではない。
「気高い小人族の生き方こそ、ありうべき日本人の姿だったのではないのか」というもう一つのテーマを持っているということある。このアニメの「小人と人間、どちらが滅び行く種族なのだろうか」という衝撃的なキャッチコピーもそのテーマと関係しているのだ。
例えば、アリエッティの小人族は、「人間に見られたら、引越しをしなければならない」という掟がある。それは、アリエッティが、ここでどうこう言ったとしてもどうにでもなるものではない。だから、彼女は無言でその掟にしたがう。しかし、ここで、もし、アリエッティが、「いや、翔という少年はいい人だ。だから、これからの小人族は、人間に保護されて生きていくことの方が、楽な生存戦略としては有効ではないか」というような提案をし、両親を説得し、そうなったとしよう。
勿論、それはあくまでも、仮定の話だ。
というのも、この話には、スピラーという孤独な狩猟系小人が登場する。彼は顔に入れ墨を入れている。そして、人付き合いもそれほど得意ではないように見える。もしかしたら小人族というのは、もともとはこのように人間に関わらないように自然の中で狩猟をしていた民族ではなかったのか。
スピラーの存在は、そんな、小人族の起源をも、僕に想像させるのである。
そして、そんな種族の中で、進歩的な小人が、人間の近くに住み、人間の文化の「おこぼれ」をあずかって生きるという生き方を見出したのではないだろうか。
それに連れて、昔は人間に近寄るなという掟だったものが、そういったライフスタイルの変化に応じて、人間の近くに住んでもいいが、決して人間に姿を見られるなという掟に変ったのではないだろうか。
掟というのは永遠に普遍なものではなく、変りうるものだと思うのである。実際、僕ら日本人にしても、古代の掟、いや近世の掟すら、もう忘れてしまっているではないか。
そのように考えると、僕の想像もありうべき一つの仮定としては、アリなのではないだろうか。
そして、もしそうなったとしたら、アリエッティの家族は、翔と一緒に楽しい日々を過ごすようになっていたかもしれない。
翔の善意溢れる優しさの下で、安全安心、住居も食事も与えられ、何不自由の無い生活が始まるにちがいない。
勿論、その代わりに、移動の自由は失われ、それまで、代々培ってきたであろう自給自足や自衛のノウハウは段々不要となり忘れていくが、それでも、翔に依存していけば、何も考えなくて暮していけるにちがいないのだ。
このように想像してみると、どうだろうか、この姿、どこかで見たことがあるではないか。
実は、これこそ、現代の僕らの姿とどこか酷似してはいないだろうか、というのが僕の問題意識である。
近代以前の、日本人は、ほとんど自給自足の生活をしていた。村々の共同体は、自然と戦いながらも、自立した生活をしていた。
勿論、それは過酷な状況であることは確かであるが、人々は代々受け継いできた知恵や知識と共同体の絆で乗り越え、なんとか生き延びてきたのである。
しかし、明治維新以降、近代化以降、あるいは貨幣経済が農村に浸透してきて以降、人々は、徐々に大きなシステム(つまり国家)に取り込まれていく。
さらに、戦後の経済成長は、そういった動きを加速させた。僕らはいつの間にか、自給自足のノウハウを失い、国や地方自治体、流通システム、電力会社、医療機関等のシステムに依存しないと存続していけないようになってしまったのだ。
さらに、大局的に見て、日本という国で考えても、アメリカという大国に依存しないと存在すら危うい状況となってしまっているのは論を待たないところである。
勿論、それによって、僕らは、平均寿命が延び、平和で、便利な生活を享受できるようになった。それはそれで素晴らしいことである。
しかし、僕らはその対価として多くのものを失ってしまったのである。
そんな現代の僕らが自明としている社会生活のアンチテーゼとして、あるいは、有り得たかもしれないもう一つの姿として、アリエッティ一家を見直すことも可能なのではないだろうか。
しかし、アリエッティの話は、僕が仮定した方向には進まなかった。小人達は当然のように、掟を守り、新しい土地を求め、旅にでた。
それが、もしかしたら、滅びの道だったとしても、彼らは気高く生きる道を選んだのである。まるで、アイヌの元を去って、北の海に消えたコロボックルのように。
そして、翔は、アリエッティの旅立ちをただ見送ることしかできなかった。
決して、「僕がなんとかするから、行かないでくれ」とは言わなかったし、言えなかった。
それはおそらく、翔自身、余命いくばくもないことを自身で悟っていたからだろう。翔は自分が責任を持ってアリエッティを引き止めることが出来なかったのだ。
さて、物語の中盤で、翔がアリエッティに対して、唐突に、「これまでも多くの生き物が絶滅してきた。残酷だけど君たちは滅び行く種族なんだよ。」と言う場面があった。
しかし、彼の心の中では、その言葉は唐突ではなかったのだと僕は思う。何故ならば、彼自身、若いのに、常に自分は死ぬ存在(「滅び行く」存在)だということを考え続けているからである。
おそらく、それと同じ理由で、彼は去り行くアリエッティを引き止めることが出来なかったと思うのである。
現代日本社会に生きる僕らに出来ることは、せめて小人族の気高い自由の精神を心の中の観念として受け止めることだけなのだろうか。翔が別れ際に、アリエッティに言った「君のおかげで生きる勇気が湧いてきた」「君は僕の心臓の一部だ」という言葉を僕はそのように受け取らざるを得ない。
システムに依存してしか生きられない「大きな」現代日本人、それに対して、自分達の力で生きていこうとする「小さな」小人。どちらが生き延びることが出来るのか。その答えは決して、一筋縄ではいかない。
まさむね
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

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[29 8 月 2011 | 4 Comments | | ]

 人それぞれにその人に固有の年中行事がきっとあるだろうと思う。ぼくの場合、一年の終わりにはかならず観たいビデオがあって、たとえばそれは「ゴダールの映画史」になっている。多少の例外はあるけど、大体かならず年末になるとそのビデオ作品を引っ張り出してきて観て来た。あるいは夏になると一回は山下達郎の歌を聞きたくなるといったようなことだ。それは自分にとってのある種の儀式のようなもので、それをしないとどこか落ち着かないといったようなところがある。
 それはさておき、標題のアニメ「火垂るの墓」である。あえて夏アニメと限定すべきアニメでないことは重々承知しているが、特に蛍が出てくる季節性からそう言ったまで。ぼくの夏アニメと銘打った特版のこれが最後となります。
原作は野坂昭如氏の同名小説で、あまりにも有名な有名すぎるアニメといってもいいだろう。1988年、スタジオジブリの制作で監督は高畑勲さん。アニメ版以外にもテレビドラマ版、実写映画版もあるらしいが、いずれもぼくは観ていない。このアニメについては以前あるラジオ番組の女性パーソナリティーの方が自分にとってとにかくアニメの中でのベストであり、何度見てもかならず号泣してしまうと言っていたのを聞いたことがある。
かようにもおそらく多くの人たちがある場面ではきっと涙するだろうし、たとえば包帯姿の母親が出てくるシーンがあるのだが、そのリアルな描写の持つ衝撃度の深さや、物語がおのずから負ってしまっているような言い様のない切なさのようなものをふくめて、作者の意図がどうあれおそらく多くの方が静かに戦争への否を歌っているアニメの代表として取り上げていることにも異論は少ないだろうと思う。
夏になるとTVでも何度か放映されていたように記憶しているが、じつはぼくはちゃんと観てこなかった。今回あらためてビデオを借りてきて観なおした。その悲惨さや戦争の酷さや醜さとか、そういう視点での評価はたくさんなされて来ていると思うので、ここではそういう観点ではあまり触れるつもりはない。むしろ今回の3.11以後との絡みで気になったことを中心に少し書いてみたい。
ひとつ目は、本作品にも出てくる戦中戦後の焼け跡の景色が、あらためてまさについ先ごろの3.11後の被災地の風景と重なることだ。戦後生まれが多くを占めるにいたった現在、ぼくらの大方にとってどれだけ戦後の焼け跡の光景がリアルに感じ取られていたのか、多くの敗戦体験や言説が語られてはきたが、その実は極めてあいまいになっていたようにも思うのだ。それがこのたびの津波の後の根こそぎの無の光景は、まさにぼくたちに焼け跡の何もない光景がどういうものだったのかをまさにリアルに突き出してきた(だからみんな言葉を失った)のだと思う。
第二の、あるいは第三の、敗戦と形容される所以でもあろう。では今回、ぼくらは何に負けたのか? 自分たちの過信や驕りにか? 戦後築きあげてきたと思ってきた日本という堅固なシステム(幻想)のその実のいい加減さに負けたのか? いまそれに答え得る回答をぼくは持っていない。
だが、そこから更にいえば上記の焼け跡にないものがたぶん3.11以後にひとつあると思うのだ。それは放射能汚染後の避難区域の世界だ。たしかに原爆直後の広島や長崎の光景はある。だが、それらは原子爆弾投下というある意味で可視の爆発(閃光)後の焼け跡だった。
今回は原発事故という可視の出来事はあったが、どちらかというとむしろ放射能汚染事故という不可視の領域に近いようなアクシデントに起因していたように思われるのだ。つまり何が起きているのかいまだによく分からないという意味でも。それによってもたらされた避難区域の世界は地震等の被害はあるにせよ、家も道路もそれまでの日常となんら変わりないようでありながら、いわばそこに住む人だけがいなくなった(強制移住させられた)世界だ。見えない放射能が示す異常値によってだけ、かろうじて生命にとって危ないことが指摘されるような世界。
その収束がいったいいつになるのか、いまだまったく見通しが立っていないなかで、ぼくら日本人が長い責め苦を見守らなければならないというだけでも戦後まったく初めての経験。同じような焼け跡後の焦土のようにみえても、ぼくには「火垂るの墓」の焦土(主人公の清太が動き回る世界)のほうがまだ人間的だし将来に希望を託すことができたように思う。それは東京が空襲にあった後の焼け野原も同様だろう。人々には生活の大変さが依然残っていたとしても復興への希望もまたあったはずだから。だが、放射能汚染の避難区域で人はほんとうに希望を託すことができるのだろうか? ぼくはいま何も答えることはできない。
 ふたつめは、主人公の清太と妹の節子が母を失って、その最後にはふたりだけの生活(盗みも入れた自給自足)に入ってゆき、やがて節子が衰弱死してゆくことになるのだが、そこにいたるある種の違和感のようなものについてである。親戚のお世話になりながら、やがて居心地が悪くなり(邪険さもあり)、家出して二人だけの王国のような世界で自活してゆくのだが、次第に衰弱に見舞われてゆくシチュエーションのなかでそこに救いの手をさし伸ばす大人がひとりも現れてこなかったのはなぜなのだろうか?
 
戦中戦後とはいってもまだまだ前近代的な意識?(家とか大家族主義とか郷土意識とか云々)も色濃く残っていたはずであり、もう少し鷹揚な大人たちが登場してきてもよかったように思うのだが。たとえ他人の子供であっても一緒に育ててくれる大人たちがひとりくらい出てきてもよいようにも思う(黒澤明監督の「羅生門」の最後で志村喬演じる男がたしかそうしたように?)が、描かれるのはどこまでも無関心で利己的な大人たちの姿のほうが中心になっている。
 主人公の清太はそうした利己的な大人たちの世界を嫌って、ある意味純真無垢な自分たちだけの王国を樹立して生きることを選んだようにも思えるのだが、それは原作でもそうなのか、あるいはアニメがそこを強調しているのか、その辺は原作を読んでいないぼくにはよく分からないところだ。
だが、なぜ清太がそこまでかたくなに大人たちの世界に背をむけなければならなかったのか今ひとつ理解できないとも言える。本当に妹を助けたかったら、まずもって大人たちの世界に戻らなければならないことはある段階から明白となっていたはずなのに、どこまでもふたりだけの自活の王国に拘りとどまり続けた理由とは? たとえばあの親戚の家に絶対に戻ることはできなかったのだろうか?節子を最後に診察するお医者さんも冷たい(無関心な)キャラクターの設定になっている。
こうした一連の流れは本アニメの意図とも絡んでいるのかもしれないが、この辺については本作品をご覧になった皆さんのご意見をいろいろうかがってみたいところです。利己的・保身的な大人社会に対して、純粋無垢な子どもの世界をより対置してみたかったというのが、いまとりあえず感じられる作品(作者)の意図のように思えますが、ここはよく分からないところです。
そして三つめは、作品のいちばん最後でほとんど目立たないように挿入されているラストの一枚の絵のような映像のこと。そこに坐っているのが主人公の分身なのか、まったくの赤の他人なのか、じつは誰でもよいのだが、ひとりの男が、高層のビル群とそれが作り出す幻影のような街の灯を見下ろす丘の斜面に坐っていて、その傍でさかんに蛍が舞い、蛍のひかりが浮遊しているのだ。
その蛍の火だけはまわりの状況がどう変わろうと、それが焦土から高層ビル群へ戦後という大いなる影が歩んで移り変わってきたとしても(3.11以後も)、いまもどこかの草露に濡れて繋がっているただひとつのものかもしれない、とでも言うように。どんなに頑丈そうにみえてもビルはいつか壊れるが、蛍の火だけは弱弱しくも真実小さな火であり、もしかしたらだからこそこの地上を浮遊してやまず生き延びてきたのかもしれない。 
おそらくすべての変遷と虚構を見届けながら、そのかたわらで、毎夏の夜、蛍の火が舞ってきたのだ。それはそのまますぐれてメメント・モリ(死を想え、死を忘れるな)という鎮魂の声にも通じているかのようだ。「火垂るの墓」はまさにその地点でこそ終わる作品であり、ながく余韻を紡ぎ出してやまないように思える。
           
よしむね

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[28 8 月 2011 | No Comment | | ]

2009年春のクールに放映された「東のエデン」全11話を一気に観た。
ストーリーを簡単に説明する。
舞台は、現代日本。ある影の組織(アウトサイダー)から、100億円が電子マネーでチャージされたケータイ(ノブレス携帯と呼ばれる)を渡され、それを使って日本を救うことを義務付けられた12人(話の中ではセレソンと呼ばれる)の選抜者達。彼らは、それぞれの正義に従って、思い思いの行動を始める。ただし、これはゲームになっており、日本を救う前に100億円を使い切ってしまったり、何の成果も上げられなかったりすると、即、殺されるという。
ある者は、老人が安心して老後を暮せる相互介護病院を作る。またある者は、不公正な社会に絶望して、日本にミサイルを撃ち込んだ。そして、ある者は正義のために使わず、堕落していく者もいた。
主人公の滝沢朗もそんなセレソンの一人であったが、なんらかの事情により自らの記憶を消去していた。そのため、滝沢朗という名前も仮名だ。彼は、魅力的な、好青年であるが、一面女ったらしでもある。
そんな滝沢が、フとしたきっかけで咲という女子大生と出会い、そして、この物語が始まる...
上記だけを読んでいただくと、おそらく、壮大な社会派のアドベンチャーストーリーのようにも思われるかもしれない。確かに、その要素は十分だし、そうした話としても面白い。
しかし、この物語の背骨には、不幸な村にやってきたマレビト(異人、異形)が土地の娘と結ばれ、土地が豊かさを取り戻す話だと理解したほうがいいかもしれない。そうしたほうがわかりやすいと思われる。勿論、マレビトとは、滝沢朗であり、土地の娘とは咲である。
咲は、卒業を控えた春休み、サークルの友人達と一緒に卒業旅行にアメリカに来ていた。ニューヨークでは、自由の女神、セントラルパーク、グランドゼロなど、月並みの観光地を回るが、どこかに満たされない自分を感じ、一人でワシントンDCのホワイトハウス前に来ていた。
「みんな怒ってるかな」と彼女は一人つぶやくのだ。
彼女が所属してたサークル、「東のエデン」は起業を目的としたグループであるが、彼女は起業グループから離れ、義兄の推薦で内定をもらった会社に就職する予定でいる。
また、サークルの仲間の一人、大杉からアタックされている。
しかし、彼女にとって、そんな状況全てが、最悪ではないにしろ、どこか居心地が悪い。
と同時に、彼女は漠然と現在の日本にも、閉塞感を感じている。なんとかしなきゃと思いつつも、ただ状況に流される自分への自己嫌悪...
そんな時に、ホワイトハウスの前で出会うのが、滝沢朗である。
ホワイトハウスに向ってコインを投げているところを警察に見咎められたところを、その滝沢に救われるのだ。
おそらく、その瞬間に彼女は滝沢に恋をする(これは、僕の想像だけど、多分)。
そして、その後は、彼の世界にどんどん引きずり込まれていく。というか、彼女もそれを望んで、どんどん入っていく。
女性という生き物は、平凡で退屈な日常に突然、現れたマレビト(異人、異形)に弱い。これはおそらく、古今東西そうである。
日本の歴史を神話から紐解いていくと、例えばスサノウ、大国主命、ニニギノミコト、ヤマトタケル、源義経、小栗判官、坂本龍馬から、寅さん、裸の大将まで、旅人はみんな女性にモテる。
また、別角度から言えば、織田信長、遠山の金さん、新撰組から、GTOやルーキーズまで、日本人は伝統的に不良達も女性にモテる。
彼らは、平地の人には無い特別な魅力、容姿、情報、技術、明るい性格などといったパワーを持っているからだ。
そして、そのパワーによって、村は、トラブルを解決し、元気を取り戻す。しかし、平和が戻ると人々は、そのマレビトを疎んじるようになり、マレビトは追放されるのだ。
上記の例で言えば、ヤマトタケル、義経、龍馬は、殺され、寅さんは、いつも最終的には追放される(自ら再び旅に出る)のである。
この「東のエデン」も、こんなMCで始まる。
彼は仕方なく王子になった。
少なくとも私達の希望する明日は誰かが、王子という名の生贄になることでしかやって来ないと気づいていたから
だから、彼は不本意ながら王子であろうとした。この王様のいない国で...
僕ら、日本人の男子のほとんどが村人(定住民)のDNAをひいている。
だから、この「東のエデン」を、マレビト・滝沢にシンパサイズして観るよりも、村人・大杉の視点から観てしまう人も多いかもしれない。そうするとこの物語は最悪な物語になってしまうだろう。
圧倒的なパワーを持っている滝沢の前では、大杉はあまりにも惨めだからだ。
大杉は咲にメールや電話を頻繁に送る。優しい言葉をかける。しかし、そのほとんどが無視され、食事の誘いもあっさいブッチされる。しかし、咲は決して、大杉に謝罪することは無い。それはそうだ。彼女にとって、大杉からのメッセージは、現状の閉塞感の象徴だからだ。つまり、存在そのものが抑圧なのだ、勿論、悪い人じゃないんだけど...
それにしても、危機の時代、村人はいかに弱いことか。僕らは多かれ少なかれ、大杉に同情的にならざるを得ない。
何故か、もう一度、言うと僕らのほとんどが村人のDNAをひいているからだ。
一方、現状に不満を持っている女子達にとっては「東のエデン」は、シンデレラストーリーにも近い夢物語として消費されるだろう。
物語の冒頭では、全裸で片手に拳銃(モデルガン)、片手にノブレス携帯という姿で咲の前に登場する滝沢は、マレビトの資格十分だ。
彼は、謎の男だ。しかも、何故かとんでもなく裕福だ。そして、何よりも滝沢が魅力的なのは、彼はそういった世俗の価値観を超越しているからだ。
滝沢は、命をも惜しまず、他人助けに奔走する。つまり、セコくないのである。
この底知れない謎の裕福さ(≒胡散臭さ)と高貴な精神というのは、貴種流離譚における王子様の基本的パターンである。
それゆえに、咲にとって、滝沢は王子様になるのである。これでは逆立ちしても、大杉はかなわない。
そして、咲は、就職内定を取り消されるが、それは実は、彼女が無意識的に望んだことなのだ。
彼女は村に戻ってくる。村のために...というのは嘘で、滝沢とのかかわりを持ち続けたいからである。
さて、テレビシリーズでは、滝沢が、この国を他のセレソンが命じた60発のミサイル攻撃から救い、さらに「王子様」になることをジュイス(一人ひとりのセレソンにそれぞれつくコンセルジュ、実はAI)に依頼するところで、話は終わる。
だから、最終的に、滝沢が具体的に、どのように王子様となるのか、そして挙句の果ての生贄(スケープゴード)になるのか、といったところまでは描かれていない。
劇場版ⅠとⅡが結末だという。この続きは、それを観てから書いてみたいと思う。
まさむね
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[26 8 月 2011 | 2 Comments | | ]

2010年2月公開の劇場アニメ「涼宮ハルヒの消失」を観た。
この作品は、テレビシリーズ「涼宮ハルヒの憂鬱」の集大成的な位置付けとも言える作品である。
テレビシリーズにおいては涼宮ハルヒに光があてた展開で、全体的なトーンは「明」であったが、この作品は、脇役の長門有希とに焦点を当てた作りになっており、どちらかといえば、切ない話となっている。
簡単におさらいをしてみると、長門有希とは、宇宙人(情報統合思念体)が地球に送り込んだアンドロイドである。
その任務は、全宇宙をも改変する力を持つという涼宮ハルヒを観察すること。それゆえに、彼女は感情というものを装備していない。その意味で、一目、見ただけで誰にでもわかることであるが、「エヴァ」の綾波レイの系譜にある少女である。
ところが、この長門が、クリスマスを直前に控えた12月18日の朝に暴走し、それまでの世界を改変してしまうのである。
それによって、それまで北高に存在していたSOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)は無かったということに、そして、団員の涼宮ハルヒ、古泉一樹は別の高校に通う高校生だったということに、特に古泉が所属していた1年9組はその組ごと無かったことになっているのだ。
また、その他の団員であった朝比奈ミクルや長門有希をはじめ、主人公のキョン以外の人は全て、改変後の世界を生きてきたことになってしまうのである。
そして、一人取り残されたキョンが、なんとか世界を元に戻そうとするというのが話の展開である。
面白いのは、改変した長門有希自身も、改変された後の世界の住人として、それまでの能力や記憶を保持出来ていないこと。つまり、そこではアンドロイドではなく、普通の読書好きで内気な女子高生になってしまっているということである。
それでは、何故、こんなことになってしまったのだろうか。
以前、僕は、ジャック・ラカンの現実観と「涼宮ハルヒの憂鬱」の世界観というエントリーで、「涼宮ハルヒの憂鬱」の面白さは、「ハルヒと何か」ということの解釈が多様なところにあるというようなことを述べた。
例えば、超能力者の古泉一樹にとってのハルヒは、その潜在的願望が世界を作り変えることが出来る存在であり、長門有希にとっては「生命が自律進化を遂げるための手がかり」であり、しかし、普通の人間にとってはただの変人である。そして、その「ハルヒとは何か」という疑問は、結局、宙に浮いたまま、一つの正解に収斂することなく、エンディングを迎えてしまうのだ。
つまり、ここでは、世界の真実を究明することよりも、個別の解釈によって現実に対応することのほうが優先されている。
ここに「エヴァ」と「ハルヒ」の一番大きな違いがあり、そして、この世界に対する態度こそ、90年代後半とゼロ年代、それぞれに生きる人々の姿勢とパラレルではないのか、というのがそのエントリーで僕が言いたいことであった。
そして、今回の「涼宮ハルヒの消失」は、この「ハルヒとは何か」という問いを、「長門有希とは何か」という問いにずらした作品なのである。
それは、具体的には、何故、「長門は世界を改変してしまったのか」という問いとも重なるが、長門自身は、それについて、自らに内蔵されたプログラムが想定外にエラーを蓄積したことによる異常動作である、と解釈であるとする。
また、キョンは、そのエラーこそ、「感情」というものではないかと長門に説明する。つまり、アンドロイドも長い間、この世界に暮していると人間らしい感情が芽生えていくというのだ。これは、伝統的なSF的な解釈で、例えば、1980年代のSF映画・『ブレードランナー』におけるレプリカントが有名である。
さらに彼は、彼女の暴走は、ハルヒの横暴やキョン達による過度の依存によって、疲労が溜まったことが原因ではないかと解釈する。
しかし、僕ら、視聴者から観れば、それは明らかに、長門がキョンに対して、無自覚の恋愛感情を持ってしまったがゆえに、その潜在的な願望によって、ハルヒやミクルといったライバルがキョンから遠ざけられた世界、つまり、長門がキョンを独占できる世界を現出させてしまったということがわかるのだ。
しかし、その避けられない事態が生じることを早くから察知したアンドロイドとしての長門は、少なくともキョンだけには改変前の記憶を保持させ、そしてその改変を修正出来るようにと、ヒントを改変後の世界に残した。そして、世界を元に戻すチャンスをキョンにゆだねたのである。
それは、長門の主観としては、改変後の世界と改変前の世界のどちらかをキョンに選択させるということであるが、潜在的には、キョンにハルヒを選ぶのか、自分を選ぶのかという選択を迫る仕掛けとなっていた。しかし、キョンは迷うことなく、ハルヒの居た世界を選んでしまうのだ。つまり、長門はフラレてしまうのであった。
しかし、この「涼宮ハルヒの消失」がもう一ひねり恐ろしいのは、キョンが世界を元に修正しようとする瞬間に、朝倉という、長門の無意識のダークサイドを具現したような美少女が登場し、この行為は、長門が願っていたことだということを言いながら、ナイフでキョンを刺殺しようとするところである。これは、アンドロイドとしての長門はその心の奥の奥には、キョンに対する殺意すら抱いていたということを含意している。テレビシリーズをごらんになった方は勿論ご存知かと思うが、この朝倉はかつて、キョンを殺害しようとした、普段は性格もいい優等生なのである。
ちなみに、この無垢な少女が潜在的に抱く残酷さを表現したキャラとしては、「化物語」の神原駿河を思い出す。また、「ビューティフルドリーマー」においてラムちゃんの願望が実現した世界で次々と、不要なキャラが消されていくという設定も、同様の臭いがしなくもない。
さて、話を戻すが、先ほども述べたように、今回の一連の事件の根本原因に関しては、①長門自身によるシステムエラーという解釈、②疲れというキョンの解釈、そして、③観客から見える長門のキョンに対する恋愛感情という解釈、この三つの解釈が成り立つ。そして、②は①に対して、③は②に対して、それぞれ無意識レベルを指摘する解釈をほどこしているという点において、より真実に近いようにも思える。
しかし、そのどれが正しいのかという問いは、最終的には、宙吊りにされてしまうのだ。つまり、この「涼宮ハルヒの消失」は「涼宮ハルヒの憂鬱」でハルヒの謎は謎のまま終わるのと同様に、、長門有希というの存在の謎は、明確にされないままに終わっていくのである。そして、おそらくこの宙吊り感がハルヒシリーズをして、ダラダラとした日常系の物語と説明される所以ではないかと僕は考える。
そして、この宙吊り感は、ある意味、この話の切なさにも通じているのだ。
この世界が元の世界に戻った後、病院の屋上でのシーン。今回の事件は全て自分の責任であると、冷静に分析する長門に対して、自分の非を認めるキョンが、「ゆき」と呼ぶ。
それまで、「ながと」と読んでいたキョンが、長門に対して今までとは別な感情を持ちかけたことを暗示するシーンであるが、その瞬間に空から雪(ゆき)が降って来て、その「ゆき」が、有希なのか雪なのかが曖昧なまま、キョンは有希に対して、特別な女性に対する想いではなく、特別な仲間としての想いを打ち明ける。
勿論、自覚的には感情の無い長門はキョンの話をそのまま受け取るが、僕ら視聴者には、有希の無意識の恋愛感情を知っているだけに、それはとても切ないシーンに映るのである。
おそらく、このシーンはアニメ史にも残るような名シーンとして長く人々の心の中に残っていくのではないだろうか。それほど素晴らしいシーンである。
さて、最後に、このアニメにおけるプロダクトプレイスメントの好例として「FamilyMart」との協賛(協力?)を上げておきたい。
以前より、僕は「タイガー&バニー」(「タイガー&バニーの企業タイアップをどう楽しめばいいのか」)におけるソフトバンク、富士通、DMM、牛角などとの企業タイアップ、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」(「「あの花」に観られるプロダクトプレイスメントの自然化の流れ」)におけるCCレモン、サッポロ一番塩ラーメンの登場などに注目していたが、この「涼宮ハルヒの消失」では、上記2例以上に、「FamilyMart」が有効に使用されている。
登場シーンは、3回。まずは、冒頭の「それまでの世界」で、キョンがクリスマスの飾りつけを買うシーン、次は、「改変された後の世界」で、「FamilyMart」の前で長門がキョンに、部屋へ来ないかと誘うシーン、そして3つ目が、タイムワープした3年前の7月7日にその日がいつなのかをキョンが確認するシーン、その3シーンである。
これは、「どんな世界になっても、「FamilyMart」はあなたのソバにありますよ。」という便利さや安心感を伝えるメッセージになっている。つまり、「あなたと、コンビに、ファミリーマート」というキャッチフレーズを無言のうちに伝えているのである。
311震災の際に、評論家の森川嘉一郎氏が「24時間、日常品と蛍光灯の光に満ちたコンビニの空間は、いわば『永続する日常』の象徴だった。そのコンビニがいまや、むしろ『日常の脆さ』を露わにする空間へと変貌している。」ということをツイートして話題となったが、少なくとも「涼宮ハルヒの消失」公開時の2010年2月頃までは、まさに日常系の代表作と言われるハルヒシリーズの主題と重なる存在だったわけである。
ちなみに、2007年「エヴァ劇場版」には「ローソン」があったし、2009年「化物語」PC配信回では「ミスド」の看板が見られている。
まさむね
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[25 8 月 2011 | No Comment | | ]

先日、「夏のアニメ②「茄子 アンダルシアの夏」の甘く、切ないノスタルジア」というエントリーで、よしむねさんからご紹介があった「茄子 アンダルシアの夏」を観た。
そこによしむねさんが書かれている通り、「天変地異にかかわらずおそらく今後も変わらずにあるだろうとおもわれる人の故郷(土地)に対する愛憎混じった思いへの優れて詩的な描写」は素晴らしい。『攻殻機動隊』、『涼宮ハルヒの憂鬱』は、それぞれ別の意味で、100%の推薦はしづらいところであるが、このアニメは大丈夫。おそらく、中高年の方々にも抵抗なく見ていただけると思う。
内容に関しては、よしむねさんの評論を読んでいただければ、僕には足す言葉も引く言葉もない。このエントリーでは、少々、このアニメに対する雑感を述べさせていただければと思う。
舞台は、スペインのアンダルシア地方。ピレネー山脈より南はアフリカという言い方も出てくるが、そこはステップのような大地が広がる、不毛の地域である。アンダルシアと言えば、僕らの世代では、「アンダルシアの犬」というルイス・ブニュエルのシュールな映画を思い出される方も多いかと思うが、よく考えてみれば、あの映画は、あんまりアンダルシアには関係ない映画であった。ちなみに、途中に挿入されるアンダルシアを称える歌のシーンで一瞬、牧羊犬の絵が挿入される。
また、このアニメのタイトルにもついている茄子であるが、アニメを観る限り、茄子のアサディジョ漬けが、この地方の名物のようだ。そして、その漬物を食べる時には必ず、地ワインを飲まなければならない。ビールを飲むのは、この土地の法律違反wwなのだそうだ。
おそらく、この茄子と地ワインは、アンダルシアの象徴なのだ。それに対して、主人公のペペの所属チームのスポンサーでもあるビール会社の商品であるビールは他所を象徴している。流行の言い方をすれば、茄子と地ワインは、スローフードであり、ビールはグローバリズムの象徴なのである。

しかしペペはプロの自転車選手になって、この不毛の土地・アンダルシアから出てビッグになるためには、ビール会社に媚を売らなければならない立場である。しかし、そんな彼も祝勝会では、土地の名物として出された茄子のアサディジョ漬けを伝統的な食べ方で、美味しそうに食べるのだ。
先ほども、述べたが、「故郷(土地)に対する愛憎混じった思い」を、このアニメは本当によく表現している。おそらく、故郷に対する想いには全世界共通のものがあるのだろう。だから、僕らは、行ったこともないアンダルシアの物語でも心を打たれるのである。
かつては、どんな土地にも気のいい顔役がいた。このアニメではエルナンデスというおっさんがその役だ。彼は、アンダルシアを誰よりも愛している。そして、公道に、頑張れPEPEという文字を書いたり、ビールを飲みながら自動車を運転したりする。勿論、厳密に言えば、法律違反であるが、そんな法律よりも、エルナンデスの存在のほうがこの土地では偉大なのである。
また、この物語は、ある視点から見れば、兵役によって運命が変えられてしまう兄弟の話でもある。兄は兵役によって、自転車選手としての夢を絶たれ、弟は兵役に行っている間に、兄に彼女を取られる。その意味で言えば、このアニメはパトリオティズムのアニメではあるが、ナショナリズムのアニメではないとも言えるかもしれない。まぁ、物語というものは大抵の場合、そうではあるが...
ところで、このエルナンデスのようなおっさん、そして、そんなおっさんを許せるような「おおらかさ」は、現代日本にも、どこかに、まだ残っているのだろうか。
さて、僕がこのエルナンデスに親しみを覚えるのは、土地から出て行ったペペに対して、「あいつはこの土地を出て行った奴だ」と罵る一方で、その背中をそっと押してやるような優しさがあるからである。おそらく、心の中では、ペペのような若者が土地を去ってしまうことを本当に寂しく思っているのだろう。しかし、その寂しさを、歌でまぎらわせる。最後のほうで、車の運転席でビールを飲みながら彼が歌う「アンダルシアを称える歌」のなんとも切ないことか。
正直言うと、僕は、アニメ修行で、初めて涙が溢れてきた。
伝統的な共同体と若者との関わりという意味で言えば、先日観た「サマーウォーズ」とこの「茄子 アンダルシアの夏」とは一見近いように見える。しかし、「サマーウォーズ」における陣内家の強引な吸引力には居心地の悪さを感じた僕であるが、この「茄子 アンダルシアの夏」の地域共同体には心地よい温かみを感じた。そして、この共同体なら僕も入って行けそうな気がした。
この違いは何なのだろうか。少し気になる。
まさむね
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