バブル絶頂期に公開された「トトロ」と「AKIRA」のサヨク思想
「となりのトトロ」と同じ年(1988年)に公開され、現在でも尚、その新鮮さを失わない作品に大友克洋の「AKIRA」がある。
元々、同名の原作漫画があり、その独特のアメコミ風の装丁は、当時、サブカルファンを自称する若者の部屋には必ず、転がっていたものである。
勿論、僕も漫画の「AKIRA」は好きで、友達とよく電話で、その漫画の話をした。
「AKIRA」ってカッコいいよなぁ。
ある日、そんな話を電話でしている時、傍にいた父親が、急に振り返ったことがあった。実は僕の父親も章(アキラ)という名前だったのである。
まぁそれはさておき、この「AKIRA」のアニメの話である。僕は今日、初めて観た。
アニメ全体が躍動しているようなもの凄い迫力、リアルなアニメーションは本物だ。
当時、あの漫画の神様・手塚治虫をして、かなわないといわしめた大友の画は、単に、その画力が優れているというだけではなく、いわゆる手塚的漫画文法を過去のものにしてしまう程、斬新で、エポックメイキングなものだったのである。





さらに、僕がこの「AKIRA」を観て感じたのは、あの80年代の熱気そのものである。舞台は2019年のネオ東京(旧市街地は、第三次世界大戦によって滅亡しており、東京湾に人工的に作られた都市)。高層ビルが乱立する経済発展の一方で、人々の心はすさみ、ドラッグや暴力が横行している。その中で一部の若者は暴走族となり、抗争を繰り返している。また、別の若者は、過激派としてデモや反政府運動を画策、さらに、カルト宗教にはまり、暴徒化する人々も描かれている。
そんな混沌とした状態。それが大友が80年代に夢想した2019年の東京の姿である。
今から25年位前に、一人の漫画家によって、生み出された、こんなにもエネルギッシュで混沌とした想像世界があったということ、現在、僕らが生きている閉塞した時代から見ると隔世の感がある作品だ。しかし、この混沌こそ、日本の80年代=バブルの時代が生み出した一つの想像力だったというのはまぎれもない事実である。
そんなことを考えながら、現時点で振り返ってみるだけでもこのアニメには観る価値があるに違いない。
とにかく、現在の日本人が忘れてしまったエネルギー満載のアニメなのである。
また、これは、311以降の原発事故を経験した現在だから感じることかもしれないが、AKIRAという人間が自分達の力で制御出来ない暴走する超能力は、ちょうど僕らにとっての原子力のメタファーにも見えてくる。その力を制御して役に立つように飼いならすことが科学の進歩と希望だ、という言い方も出来るが、制御出来ないものを制御出来ると考えてしまうことこそ、驕りであり、その力を封印することこそ知恵である、とも言えるのではないだろうか。そんな問いかけをこのアニメに読み取ることも可能である。しかし、その結論、「AKIRA」の時代には極めてポジティブのように思える。最後に超能力者の一人は言う。AKIRAの力をいつかは僕達は制御出来る、その進歩は、その力が、たとえ街を破壊した直後でも、既に「もう始まっている」のだと。
さて、この「AKIRA」には、ドラッグやデモ隊といった、いわゆる60年代の政治の季節の尻尾を持ったカウンターカルチャー的混沌と、暴走族や、超能力、エスニックミュージックといった70年代のサブカルチャー的混沌といった反体制的、反社会的なアイテムが数多く登場する。
おそらく、それらの異質な混沌は、この「AKIRA」より前に発表された大友の初期の「ショートピース」「ハイウェイスター」等の作品にも描かれているが、70年代から80年代にかけて、大友自身が、吸っていた中央線沿線的ヒッピー文化の空気の中から出てきたものかもしれない。
現在のアニメクリエーターの多くが、その素養を、オタク周辺のコンテンツ(美少女ゲーム、ライトノベル、アニメ等)という狭い範囲に偏っているのに対して、大友に限らず、年長のアニメ作家の多くは、そういった異質なカルチャーとの接触の中から個性を磨いていったのである。
おそらく、今後の日本アニメ界に必要なのは、技術やマーケッティングではなく、そういったオタクカルチャーの外部にある多様な文化を取り入れていくことではないだろうか。
さて、話は変わるが、1988年というバブル絶頂期にこの「AKIRA」と「となりのトトロ」が公開されたという事実は、ある意味、面白い。
この二つの名作を続けて観た時に見えてきたのであるが、「AKIRA」で描かれているものが、当時の日本の経済的躍動感と、それを、ぶっ壊してやろうとする若者のエネルギーの相克、つまり直接的な反体制的心情の発露だとすると、「となりのトトロ」で描かれているのは、日本が経済発展する以前の、土着の共同体が持っていた否近代国家の心情の素朴な表現ともいえるからである。
例えば、「となりのトトロ」において、メイがいなくなり、村人が総出で、メイのものと思われるサンダルが浮かんでいた池を捜索した後に、誰かが「しょうがないから駐在さんを呼ぼうか」と言うのだ。つまり、村人にとって、村落共同体は、警察という国家権力にはなるべく介入してもらいたくない独立した世界なのである。
あるいは、さつきが学校に行ってしまい、メイがあまりにも泣くものだから、メイをあずかっていた隣のおばあさんがメイを連れて学校へ来てしまうというシーン。これも、学校という「近代の国民養成工場」を、ある意味、軽んじている行為と受け取れなくもない。つまり、「となりのトトロ」の隠れた主題には、「戦後とは、そういった国家に依存しない人々の暮らしというものを根こそぎ、奪ってしまった時代である」という恨みのようなものがあるのではないだろうか。
つまり、「AKIRA」における直接的な反権力志向と、「となりのトトロ」におけるノスタルジックな否国家主義。
日本が最も繁栄していた、あの時代には、二つの全くベクトルの異なるサヨク思想が、多様な可能性として生きていたということ、そしてそれらの想像は逆に言えば、当時の日本の経済力が可能にしていたものかもしれないということ。
あるいは、敢えて極言するならば、80年代の荒魂(破壊の神)の象徴がAKIRAであり、和魂(守る神)の象徴がトトロなのではないだろうか。
僕は、この二つの作品を続けてみることによって、そんなことが頭をよぎった。
まさむね
この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。





こんにちは。
すでに宮崎アニメが高評価を獲得していた時代に登場した『AKIRA』はやはり衝撃的でしたね。でもきっと大友ファンには予測されたクオリティだったかもしれません。
『となりのトトロ』はアニメ史の中で、はじめて自然に直面してあるがままに克明に描いたアニメであり、また宮崎駿が唯一現実的な自然を克明に描いたアニメでもありますね。
一方の『AKIRA』には自然らしい自然は全く描かれません。少し気になるのは『AKIRA』に描かれる時代に、郊外や山村にはどのような風景と人が存在するのだろうということです。本当なら人々は郊外にこそ生活の場を求めたのではないかとも思うのですが、世界大戦でネオ東京以外は完全に滅んでしまったのでしょうか。まぁそれは重箱の隅の話しですけど…(^^;
人は自然に負荷を与えずに生きてゆくことは現状不可能だし、未来もそれは変わることがないと思います。そしてその未来にあるものは『AKIRA』で描かれる「畏れ」と「穢れ」なのでしょう。
全く相反するベクトルを示しながらも、実は同じ直線状にある過去と未来ですね。それは「失ったものと手にしたもの」と同義でもあります。しかも我々は間違いなくここで立ち止まらず、さらに多くのものを失いながら、また多くのものを手に入れてゆくでしょう。
畏れが新たな穢れを生み出すとしても、きっと人は畏れから遠ざかるための努力を止めるべきでもないかなぁと漠然と思っています。
制作進行中という実写版『AKIRA』にはあまり期待はしていないのですが、できれば3.11を経験したスタッフによってもう一度アニメ化して欲しいですね。
それにしても一方通行の時間軸の中でメイの眼差しは何を見出してゆくのでしょうか。
高澤先生へ
「AKIRA」は現代から見ると、いろんな意味で興味深い作品ですね。例えば、女の子が全然、かわいくない。リアルという以上にかわいくなく描いているようにも思えます。これは萌えが大前提の現代のアニメではおそらく、ありえない作画です。
また、演出としても、個々の登場人物の行動の動機よりも、全体の迫力に比重が置かれているように思いました。実は、僕には、何故、金田が哲雄を殺そうとしたのかもよくわからなかったんですね。まぁ、暴走族的な落とし前という話なのかもしれないですが、現代の若者のメンタリティとはかけ離れているようにも感じました。
あるいは、大友さんは感情移入型作品を周到に避けたのかなぁとも思いましたが、どうなんでしょうか。
ただ、哲雄との闘いの中で孤児院のフラッシュバックがありましたが、ああいうところを肥大化させたところに「エヴァ」があるんだろうと思いました。
宮崎監督が描くトトロの世界は、本当に彼が体験した農村というよりも、かなり理想化された世界のようにも、私は受け取れました。ただ、それゆえに引き込まれます。これは、宮崎さんが、共産党へのシンパシーから、資本主義が入ってくる以前のコミューン的村落を描きたかったのではないかという説もあるみたいですね。
「AKIRA」の世界は確かに農村(食物供給地)の描写が全くありませんでした。大友さんは宮崎さんとは逆にご自身が育ったのが農村ですが、その交差した志向(都会育ちが農村を描き、農村育ちが都会を描くという)は面白いですね。
私は、大友さんが「AKIRA」で描いた世界観の底には、何度破壊されても、人間は新しいものを生み出していくものだという進歩に対する無条件の信頼を感じました。だから、いくら作品の中で爆発シーンとかがあっても、それは絶望には繋がらない。そんな作品を生み出したのが80年代だったという気がします。
そして、逆に現代日本人は進歩というものに対して、懐疑的になりすぎているようにも思います。というか、明日を見たくないという感じでしょうか。
「AKIRA」が描く「未来人」に比べると僕らは、大人しくなってしまっています。勿論、それはいい面もある(秩序、礼儀という面)のですが、極論するならば、現実の「AKIRA」の舞台は東京よりも上海のほうが似合うかもしれません。
「実写版AKIRA」はニューヨークが舞台になるらしいですね。カネダという名前はそのまま使用されるらしいですが、それは、白人が演じると言われています。まぁ、第三次世界大戦後の退廃と混沌の中で、カネダ(この名前自体微妙なニュアンス含み)という白人が存在するというのもぎりぎりアリかなと思っています。まずはお手並み拝見です。
メイちゃんは、真っ直ぐで利発な子ですが、この子が本当にいいところが伸ばせるような日本になっているのかというのは微妙ですね。
千尋のママのようにはなって欲しくはないですし、多分、なっていないと思いますが。
長々とすみません。
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