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「ほしのこえ」 宿命の悲しさを象徴する通り過ぎる列車

16 8 月 2011 2 Comments

新海誠監督の「ほしのこえ」を観た。

僕は新海監督の2004年の「雲のむこう、約束の場所」、2007年の「秒速5センチメートル」の両作品は、ここ数ヶ月間で次々と観たのだが、「ほしのこえ」は初見であった。
この「ほしのこえ」は新海監督が、監督・脚本・演出・作画・美術・編集などを殆ど、一人でこなした作品として、ゼロ年代初頭(2002年)におおいに注目された。全編25分のアニメーションであるが、彼の想いが濃縮に詰まった、極めて作品性の高い秀逸な作品である。
少女がロボットに乗って、宇宙で戦うようなシーンは、確かにスペクタクルであるが、おそらくその部分にはこの作品の本質はない。これはあくまでも恋愛のアニメである。しかも、お互いが決して結ばれることのない宿命を背負った悲恋のドラマなのである。

おそらく、新海監督にとって、より重要なメカは、ロボットや宇宙船ではなく、列車である。
冒頭、中学生の男の子(昇)と女の子(ミカ子)が学校から二人で帰るシーンがある。男の子は、火星で戦う国連軍の話を一生懸命にするのだが、女の子はどことなく上の空で聞いている。そして、踏み切りで立ち止まる二人の前を国連軍専用の貨物列車が轟音とともに通り過ぎ、会話を止めてしまうのだ。

実は列車という、圧倒的な(ある意味暴力的な)存在が二人の間を裂くというモチーフは、「雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」といった新海監督の後の作品にも出てくる。両方とも冒頭に近いシーンであるが、「雲のむこう、約束の場所」の方には、駅のホームの両側にいる男の子(浩紀)と女の子(さゆり)の視線をさえぎる列車が、「秒速5センチメートル」の方には、男の子(貴樹)と女の子(明里)を隔てる踏み切りの間を通過する列車が出てくる。

そして、この、人と人とを有無を言わさずに引き離してしまう列車こそ、彼のアニメにおいては、二人が永遠に結ばれないことの伏線となっている。
それは、新海監督が常に描き続ける悲しい宿命にとっては、なくてはならない象徴なのである。

おそらく、アニメ作家にとっての作家性というものはこういった、作家独自のこだわりのシーンに最も顕著に現れるのだと僕は思う。例えば、宮崎駿監督にとっての少女の床掃除は、少女大人になるための通過儀礼のようなものである。(「千と千尋の神隠し」の千尋、「魔女の宅急便」のキキ、「となりのトトロ」のさつきは、みな床掃除をする)

さて、「ほしのこえ」だが、先ほど、この作品にとって、ロボットや宇宙船はそれほど重要ではないというようなことを記した。
それらは、二人の間に横たわる距離と、二人が決して一緒になることが出来ないという状況を表現するための設定に必要な単なるギミックに過ぎない。それは、ただただスペクタクルでありさえすればいいのである。
そして、そのことを多くの視聴者が暗黙のうちに理解しているがゆえに、この作品には綿密な世界観の設定などは不要なのである。むしろ、少女がセーラー服のまま、ロボットに乗って戦ったり、宇宙から携帯メールを送信することのオカシさを指摘するほうが、野暮なのだ。

おそらく、この大胆な割り切りこそ、日本のオタク文化の本質の一つではないかと僕は最近、つくづく思う。

非日常の象徴であるロボットの操縦席と日常の象徴である制服が、何の説明もなく、強引に結び付けられているという自由さは、大胆な割り切りが許される日本独自のアニメ空間だから、こそ実現できるのではないだろうか。
さらに言えば、その割り切りのセンスは、僕がずっと興味を持ち続けている家紋の発想、デザインともどこかで通底しているのではないかと思っているのである。(今後、アニメ修行していくなかで考察していきたいと考えています)

以前、僕は「雲のむこう、約束の場所」について、それは物語ではなく詩歌である(「雲のむこう、約束の場所」は物語ではなく、詩歌である」)と書いたが、それはこの「ほしのこえ」にもいえることだと思う。
例えば、「宇宙のかなたで戦う君からのメールを待つ僕の携帯に散る桜」というような一編の詩をアニメにしたのがこの「ほしのこえ」なのだ。
        ★
さて、僕は数ヶ月前までは、アニメには全く興味のない中年であった。仕事では、TGSのコスプレイベントの運営の仕事などをさせてもらっていたのであるが、その対象に関しては、ほとんど興味を持っていなかったのである。今から考えるとまったく恥ずべき話であり、別な観点から言えば、大変もったいないことであった。

しかし、ある時、古谷経衡氏のアニオタ保守本流ニコニコアニメ夜話に触れておおいに感化を受け、さらに、Twitter上ですがりさんやがんまさんといった方々から、様々なご助言をいただくことでアニメにどんどん深入りするようになったのである。
そして、現在は、僕と同じ世代のより多くの方々に日本を代表する現代文化であるアニメに対する偏見を取り、ビジネス視点ではなく、直接、自分の目で鑑賞して欲しいと思い、このブログを書いている。

まだまだアニメという世界の入り口に立ったばかりではある。
これから、僕を待ち受けている作品を観るのは本当に楽しみだ。そして、大げさかもしれないが、これからの人生も本当に楽しみである。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2 Comments »

  • 高澤 said:

    『ほしのこえ』はまさに新海監督の原点と言える作品ですね。色々と制約もあったでしょうから、それを差し引くと驚くべきクオリティと感じました。
    アニメ界の技術も、また監督をする人的素養も成長してゆくので、できれば同じ監督の作品は制作された順番に観てゆくのが良いと思うのですが、本作は私も『雲のむこう、約束の場所』のあとに観た作品です。

    この作品は実を云えば内容的に未熟な部分が決して少なくないと思いますが、でも新海監督はファンが期待する成長をしていて、それは『ほしのこえ』で予見されていると感じます。
    まさむねさんも指摘するように新海監督は男女の間の距離にとても敏感で、電車、踏切、ケータイはその距離感を描くために常に使われるアイテムですね。
    日常の狭い世界で生活している姿を活写しながら、登場人物が空や宇宙へと、まるでホウセンカの種が飛び散るような無秩序さに身を任せてゆきます。そんな主人公達を見ると、新海監督はいつも自身の限界に直面しながら、それを疑似表現している人と思います。

    彼が実体を伴う本当の満足を手に入れた時にどんな作品を描くのかが楽しみです。我々は彼より年上ということもあるのでしょうが、やはり何か物足りないものを感じる部分があります。まぁ簡単に言えば、大人になった彼の作品を観たいなぁというところでしょうか。

  • masamune (author) said:

    高澤先生へ

    新海監督は、自分の中にある「切なさ」のような感覚をどのようにアニメで表現すればいいのかということを極限まで考えて制作しているように思います。

    すると、純度はどんどん上がっていきますが、極めてプライベートなフィルムになっていく危険もはらんでいます。それを、他者とも共有できるような作品に仕上げるという、もう一段上の課題を自分に課して頑張っている方ですね。まるで神業です。

    確かに、高澤先生がおっしゃる、「実体を伴う本当の満足を手に入れた時」に作る彼の作品は楽しみです。それは、別の言い方をするならば、彼が「切なさ」の次にある感覚を自分のテーマしえた時に、制作したものを見てみたいということでしょうか。
    おそらく、新海監督にとっては、その新しいテーマを見つけるというところはまた、自分の新たなる限界に直面するということなのでしょう。
    そういう制作スタイルを続けるというのは、想像を超えた大変なことのようにも思いますが、逆に言えば、彼の才能ゆえにたどり着けるのでしょうね。
    本当に楽しみです。

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