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『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』における希望と幸せ

21 8 月 2011 2 Comments

『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を観た。
この作品は、1995年に公開されたアニメ映画である。実は、僕はリアルタイムで劇場で観ているのであるが、その時は、何がなんだかわからないままに始まり、終わってしまった。理解出来たのは、それが科学技術が進んだ近未来の話で、そこは人々が何故か闘う殺伐とした世界、ということくらいだろうか。

今、考えてみると、全く、情けない話ではあるが、まぁしかたがない。「攻殻機動隊」は何の予備知識や理解意欲の無い人間が観るにはちょっと難解なアニメだからだ。

しかし、16年の時間を経て、今回改めて観ると、それなりに理解することが出来た。
いや、むしろ面白かった。とにかく映像の迫力が凄い。
もしかしたら、最近、アニメ漬けの生活をしているがゆえに、このアニメについて行けたということが言えるのかも知れない。
アニメを観るにもそれなりのリテラシーが必要ということだろうか。

さて、このあたりで、内容についての話を始めたいと思う。
時は、2029年。それは「企業のネットが星を被い電子や光が駆け巡っても国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来」の話である。そこには、人間、サイボーグ、アンドロイド等、様々な種類の「人種」が存在する世界。
そこでは、インターネットを直接、脳に接続出来るような電脳システムが出来上がっている。そして、情報だけでなく、快楽、感情、自我といったものも、ネットワークにおおいに依存している状態ということか。おそらく、その世界では、どこからが自分で、どこからが他者であるという境界も曖昧となっているのかもしれない。
公安9課(サイバーテロ担当)という特務機関に勤める草薙素子(ニックネーム:少佐)は、そんなアイデンティティの危うさに悩みながらも、日々の業務をこなしているサイボーグである。
ある時、「人形使い」という他人の電脳に侵入して、その記憶を書き換え、その人の行動や感情を支配するゴーストハックとよばれる犯罪行為を行うハッカーが現れる。物語は、そのハッカーの正体を突き止め、逮捕しようとする9課と、独自にそのハッカーを捕獲しようとする(外務省と裏で繋がっている)6課との間の戦いとなってゆく。
そして、しだいに、このハッカーは、実は、ネット上で暴走したプログラムが自意識を持つようになった存在であることが判明、そして、ついには、逆にずっと追い求めていた素子と融合し、その合体した存在(ゴースト)が、新しい体(少女)を得て、電脳世界に旅立って行くという話である。

まず、僕が、このアニメを観て感じたのは、ここで描かれている世界の殺伐さである。確かに、第三次(四次)世界大戦後の世界を描くというのは、SFの常套ではあり、そこは大なり小なり、殺伐とした世界ではある。例えば、「AKIRA」においてもネオ東京は、暴力やドラッグ、新興宗教、デモといった混沌とした世界が描かれている。しかし、少なくともそこには若者達の情熱や活気というものがあった。また、「エヴァ」においても、学校の生徒達は明るいし、ネルフの人々も人間味溢れた存在として描かれていた。しかし、この「攻殻機動隊」ではどうだろうか。
第6課の人々の人間味のある表情、例えば、笑顔などはほとんど描かれていない。しかも、彼らは、何のために働き、何のために闘っているのか、という「大義」という観念すらないように思える。そして、日本という国家、政府は、システムとしては存在していても、権益争いが自己目的化してしまっているような組織となっているかのようだ。
しかも、その日本の街は既に、中華街化しており、そこには、「日本」の風土というものが無くなってしまっているのである。
僕らは、それがいくらSFであったとしても、この風景には、震撼せざるをえない。そして、この話には、ゴーストハックされた清掃員が登場するのであるが、彼は、自分の過去を書き換えられており、「自分には妻と子供とがいたが、現在は別居中であり、かわいい子供には、会いたくても会えない」というように思い込まされている。
このアニメの中で唯一くつろがせるのが、この清掃員が、居もしない幻想の子供を同僚に話すシーンであり、また、このアニメの唯一の笑顔は、その清掃員のアパートの誰も見ていないテレビから流れるCMの映像(幻想上の娘か?)ということは、象徴的なことだ。

「攻殻機動隊」が描く世界においては、リアルなくつろぎや笑顔は既に存在しないのだろうか。
人々はバラバラに電脳化されてネットワークに接続し、そこで喜怒哀楽を感じさせられるだけの存在なのであろうか。
そして、それが僕らに待っている未来なのであろうか。
そんな未来は、本当に幸せなのであろうか。
あるいは、幸せとは一体何なのであろうか。

おそらく、「攻殻機動隊」のテーマは、そうした問いかけの中にある。
最後のほうで「人間使い」は、素子にこんな話をして、お互いが融合することをもちかける。

私は自分を生命体だと言ったが、現状ではそれはまだ不完全なものに過ぎない。
なぜなら、私のシステムには子孫を残して死を得るという生命としての基本プロセスが存在しないからだ。

コピーを残せるじゃない!

コピーは所詮、コピーにすぎない。たった一種のウィルスによって、全滅する可能性は否定できないし、
なにより、コピーでは個性や多様性が生じないのだ。
より存在するために、複雑多様化しつつ時にはそれを捨てる。
細胞が代謝を繰り返して生まれ変わりつつ老化し、そして死ぬときに、
大量の経験情報を消し去って、遺伝子と模倣子だけを残すのも破局に対する防御機能だ。

その破局を回避するために、多様性やゆらぎを持ちたいわけね。でも、どうやって?

君と融合したい。完全な統一だ。君も私も総体は多少変化するだろうが、何も失うものは無い。
融合後に互いを認識するのは不可能なはずだ。

ここには、生命体、そして人間というものが、遺伝子(模倣子)の乗り物であるという利己的遺伝子論に沿った考え方が見られる。すると、例えば、人間が異性を愛する事、そして、セックスをすることなどは、主観的には「幸せ」であろうが、客観的には、それは機能に過ぎない、あるいは、幻想に過ぎないのではないかという考えに通じる。

そして、このアニメは、近未来の電脳社会においては、サイバー空間におけるプログラム自体(ゴースト)が最高の確率で存在しつづけるために、つまり、コピーという名の単体生殖の脆弱さを克服するために、逆に、人間を利用するという主客逆転が生じるかもしれないということについて示唆している。

ちなみに、一つの生命体から新しい生命体に遺伝子が乗り、古い生命体が(遺伝子にとって)不要となり、消滅する(死ぬ)時に、全ての記憶情報を消し去ること、「人間使い」と素子が融合する時に、それまでの記憶(自意識)を失うということ、つまり、古い状態から新しい状態になるときに、どのようにしてそうなったのかを忘れ去るという発想には、この「攻殻機動隊」より約10年前に、押井監督によって作られた「ビューティフルドリーマー」において、アタルが夢の世界から「現実」の世界に戻る(落ちる)時に、どうやって現実に戻ったのかを忘れてしまうという発想との共通性があることを感じさせた。
それは、「人形使い」と素子とが融合した後に、「誕生」した少女が言う以下の意味深なセリフにも感じられる。

童のときは語ることも童のごとく
思うことも童のごとく
論ずることも童のごとくなりしが
人となりては童のことを捨てたり

さらに言えば、誰かの夢の中の安穏とした平和の世界、つまり、単一の願望によって作成された閉じられた世界よりも、様々な問題があったとしても、他者や他者の願望が混在する「現実」を選ぶべきだ、という「ビューティフルドリーマー」の価値観と、「攻殻機動隊」において、新しい生命体「人間使い」との融合という冒険への誘いを受ける素子の「希望」と一致するようにも思えた。

さて、その「人形使い」と素子との融合の直後に、空から羽が舞い落ちてきて、そらに上空のヘリコプターが一瞬、天使のようにも見えるのは、おそらく、新たなる人類の誕生に対する天使の祝福を意味しているのであろうか。

さて、その融合によって生まれた新人類である少女は、素子の同僚のガトーの「一緒に暮らそう」的な誘いを断り、広いネット世界へと旅立つ。

それは、あらゆる神話において、”最初の人間”は冒険の旅に出るのと同様に、全く持って自然な振る舞いである。

そして、おそらくそれは、平和な停滞よりも、新たなる困難な旅立ちの中にこそ、「希望」があるということを示しているのである。しかし、それは少女にとっての「希望」ではなく、融合体(新しい模倣子)にとっての「希望」にすぎない。

しかも、それは決して彼女の「幸せ」を予感させないところが、このアニメの残酷なところである。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2 Comments »

  • 高澤 said:

    こんにちは。

    公安9課というのはパトレイバー2で云うところの「独立愚連隊」ってところですね。
    そこに配属されたトグサは唯一義体化の度合いが少なく、妻子を持つ人物で、なぜ、そのような人間が公安9課に引き抜かれたのだ?という疑問の言葉もあります。それだけでもトグサという存在は本作の中では語られませんが重要な役割を持ったキャラクターであるのが分かります。
    笑顔は描かれないのですが、わずかにトグサの向こう側には笑顔があるという「仕掛け」を感じます。
    また、テレビシリーズでは警察の機動隊員の「攻機、初めて見たよ。実在したんだな」というセリフがあるので、公安9課というのは都市伝説的に語られる存在であって社会から隔絶した組織なのでしょう。

    このあとの26話のテレビシリーズでは押井監督が端折ってしまった公安9課のメンバーの性格を、神山監督が少しずつ描いてゆきますし、その続編『2nd GIG』では各メンバーが一話ずつ主役を張る回が挿入されてます。
    またDVDでは各巻末に監督や声優などの制作秘話的な話しも聞けるので、これはとても面白いですね。

    押井監督と神山監督の作品は並行して進んでいくので分けて考えなければならないところもあるし、また「攻殻機動隊」として繋げて考えなければ見えない部分もあってもどかしいのですが、劇場版とTV版が上手く相乗しているように思います。

    そしてこの作品の前段階として押井氏としてはパトレーバーの2作が大きなステップになっていると感じます。陽炎のような街を描いたその後にたどりついた本作を、私は不確実なものがより不確実な世界に拡散してゆくような、不安な開放感を感じながら観ました。
    素子の目を通して押井氏なりにタンホイザー・ゲートをくぐろうとしているのかとも思います。

    今我らは鏡をもて見る如く、見るところ朧なり…

  • masamune (author) said:

    高澤先生へ

    「攻殻機動隊」は全体で見ると奥深いコンテンツですね。
    GHOST IN THE SHELL を見た限りでは、9課の課員のそれぞれのキャラを明確に認識するまでには行きませんでした。
    先ほど、「イノセンス」を見たのですが、こちらを見ると、先生が仰るようなトグサの意味というがだいぶ、了解されました。

    押井守が描く電脳とリンクしたネット世界は、荒涼としたイメージがありますね。まさに、「不確実なものがより不確実な世界に拡散してゆくような」世界ですね。
    その世界の扉を開けてしまった人間は、たとえ、そこには、幸せが無いことがわかっていたとしても、必然的にその中で泳いでいくしかないという運命のように感じます。
    ただ、押井アニメは本当に難解ですね。近々、パト2も観たいと思いますが、ちょっと他の気楽な作品をいくつか見た後になるかもしれません。

    「イノセンス」の感想も近々書いてみたいと思います。

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