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少女を醜悪に描く『イノセンス』は究極の反人間主義の物語か

23 8 月 2011 2 Comments

人間とは一体、何なんだろうか。
その本質とは、肉体なのだろうか、意識なのだろうか、愛情なのだろうか。
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の続編『イノセンス』は、前作に引き続き、そんな問いを僕らに突きつける。

前作で、「人形使い」と融合して、ネットの広大な世界に旅立った素子(少佐)へのほのかな想いを抱きながら、公安9課の任務をこなすバトー。ほとんど全身を義体化したサイボーグである。その心を癒してくれるのは、愛犬のガブリエルだ。
一方、彼のパートナーには、トグサが就いていた。トグサは9課の中でも最も生身の人間に近く(義体化した部分が少なく)、妻と娘がいる。

この二人が、突然、暴走殺人をするロクス・ソルス社製の同型ガイノイド(要はダッチワイフ)の謎を解明しながら、事件を解決するというのが『イノセンス』の大まかなストーリーである。

その過程で、人間と人形の狭間の存在である自分に葛藤を抱くバトーと、人間として、命や家庭を第一に考えるトグサとの心のすれ違いが描かれる。
例えば、ヤクザとの銃撃戦の後、「自分の妻や娘の顔が思い浮かんでしまった」とつぶやくと、バトーは、それはお前にとっては死神だなどというようなことを言う。二人は協力をしながら、しかし、根本的なところでの価値観が異なっているのである。

そして、ロクス・ソルス社の工場で、救済に現れた素子と一緒に、人形(ガイノイド達)を制圧し、ゴーストコピーされそうになっていた少女を救ったバトーだが、そこで、実は人間よりも人形にシンパサイズしてしまっている自分を見出す。
「自分が人形になりたくなかった」という人間の少女に対して、「犠牲者が出ることは考えなかったのか。人間のことじゃねぇ。魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか。」と怒鳴ってしまうのだ。
そして、少女は泣く。僕は今まで、これほど少女を醜悪に描いたアニメを見たことが無い。
そんなバトーに対して、おそらく唯一の理解者が、既にネットの広大な海に偏在する存在となっている素子だ。
彼女は、逆に人形の立場になり「人形達に声があれば、人間になりたくなかったと叫んだでしょうね。」と言う。
既に素子は、人間だったことを過去のものとしているのだ。
バトーは、素子に問う。

一つ聞かせてくれ。今の自分を幸福だと感じるか。

僕は、『イノセンス』の前作『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』を観た後、素子は少女となり、ネットの海に旅立つ時に、幸せを捨て、希望を手に入れたのではないかというようなことを述べたが、まさしく、彼女の答えはそれに沿ったものであった。

懐かしい価値観ね。少なくとも今の私に葛藤は存在しないわ。
・・・(中略)・・・
バトー忘れないで。あなたがネットにアクセスするとき、私は必ずあなたのそばにいる。
行くわ。

一方で、事件を解決し、無事に家庭に帰ることのできたトグサは、お土産にと人形を渡し、玄関口で娘を抱き上げる。このシーンは、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』『イノセンス』を通した唯一の幸せのシーンである。ある意味、人間=トグサが、それまで散々後塵を拝して来たバトーに対して優越感を抱く場面と言ってもいい。それは、バトーには決して味わうことの出来ないシーンだからだ。
しかし、犬を肩にかつぐバトーの視線は、娘やトグサではなく、娘が抱える人形に向けられる。しかも、それを補強するかのようにトグサの娘は、人形の輝きと真逆に醜悪に描かれている(ように見える)。
この人形の輝きと娘の醜悪は、おそらく、バトーが、トグサの人間的な幸せとは別な価値観を持っていることを表現しているのだ。
もしかしたら、バトーは、その人形に素子の面影を見たのかもしれないし、その人形に別の魂を感じたのかもしれないし、あるいは人形自体に愛情を抱いたのかもしれない。それはよくわからないが、その余韻の中で『イノセンス』はエンドロールになるのである。

古来、人間は人間に真似て人形を作り、それを神あるいは悪霊の依代としてきた。例えば、日本の風習でいうならば、田んぼの案山子とは、山の神を田の神として降臨させるための依代であり、一方、流し雛とは、本来だったら人間に憑くはずだった悪霊を人形に肩代わりさせる生贄だったとされる。

『イノセンス』では、そんな古来の観念が、電脳社会においてこそ「実現」している世界観を描いている。バトーが窮地に陥った時に、必ず現れる「守護天使」の素子は、まさに守護霊そのものだろう。一方、暴走して凶器と化したガイノイド達は、まるで悪霊が憑いたかのようにバトーに襲い掛かるのである。

しかし、人形自体は、無垢な(イノセントな)存在である。それは、善でも悪でもない。
「人形達に声があれば、人間になりたくなかったと叫んだでしょうね。」という素子の言葉は、人形という視点から、人間中心主義を反転させる。確かに、サイボーグのバトーの中では、人形→犬→人間という愛情的序列すら芽生えているようにも思える。
ネットが発展し、そこに記憶や情報を出すことにした人類が、その果てに人間性をも危うくさせるというのが『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』のテーマだとしたら、『イノセンス』のテーマは、その依代である人形にすら嫌悪される存在かもしれないというところにまで行き着く。

そうなったとしたら、人間は、その先、どこに行けばいいのだろうか。
素子のように、幸せなき旅を永遠に続けなければならないのだろうか。

まさむね

この作品以外のアニメ評論は、コチラからご覧下さい。

2 Comments »

  • 高澤 said:

    こんにちは。

    この作品は
    「生きている」と言い切るには何が必要なのか。
    またそれを持たざる者は生きていると言えるのか。
    匿名社会に埋没しているなら自他の境界はどこにあるのか。

    そんなことを茫漠と考えながら観た記憶があります。

    非凡な押井さんが書いた『凡人として生きるということ』という本を読むと、作品の底流にあるものが何となく感じることができますね。
    子供に対する姿勢も、自分と対極にある宮崎駿氏との比較でなるほどと思えます。
    押井さんは若者に対してその先に希望があるという欺瞞を描けないのでしょう。御自身は「本質に準じて映画を作る」と云っていますし、若さに価値などないとも云っていますし。

    私は押井的な部分も否定できないし、かといって宮崎的なものも無くてはならないと思っています。
    正直言えば自分一人で云えば押井さんの考えに共感できますが、自分が大切だと思う人たちに向けては、いつも「希望」というプレゼントをその前途に置いておきたいというのが本音です。そう云う自分を思えば押井的なものも宮崎的なものもどちらも極論でしかなく、その間に横たわるものが人間社会として普遍なるものと思います。私は割り切れない方程式程美しいと思ってしまうタチですので(^^;

    ですがその振幅を教えてくれるという意味で、この稀有な二人の監督は門柱のような存在ですね。

  • masamune (author) said:

    高澤先生へ

    こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    押井さんの作品には、無機質なもの(人形やアニメ)への愛着を感じます。
    それは、タナトスに通じますよね。
    押井さんの未来に対する絶望感は、そのあたりの彼の嗜好と深い繋がりがあるように思います。

    一方で、宮崎駿さんの作品には、子供に対する素朴な信頼感を感じます。
    それは、一般的には性的対象になる以前の少女に対する愛情に通底しています。。
    さらに、結果として希望を描くということに繋がっています。

    先生が出されている両極という意味と完全に一致するのかどうかわかりませんが、私は、今回、二人の作品を鑑賞して、上記の意味で、二人の巨人を捉えたらいいのではないかと思いました。

    また、二人の作品を見ると、押井さんの作品はとっつきにくいけど、実は論理的にすっきりしているのに対して、宮崎さんの作品は、間口は広いけど、奥深い印象を受けました。それぞれ個性でしょうね。

    まだまだ、未見のものも多いので、今後とも勉強していきたいと思います。

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